『スカーレット』は“幸せの探し方”を教えてくれた 苦しみの中に光るひとすじの灯火
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「たとえ明日世界が滅びるとしても、 私は今日りんごの木を植えるだろう」
喜美子(戸田恵梨香)の最愛の息子・武志(伊藤健太郎)の闘病と旅立ちを描いた『スカーレット』(NHK総合)最終週を観ながら、この格言がずっと胸をよぎっていた。ヒロイン・川原喜美子の生き様を通じて「芸術とは何か」「人間とは何か」を問い続けてきたこの物語は、いよいよ「幸福論」へと帰結した。
参考:視聴者はなぜ『スカーレット』を“私のドラマ”と感じたのか? 作品全体を通して描いた「不可逆性」
「骨髄移植を受けなければ余命3年から5年」と宣告された武志の行く末がどうなるのか。視聴者は固唾を飲んで見守ったが、奇跡は起きなかった。遅かれ早かれ、人間にとって「死」は絶対に避けられない定めだ。そのタイムリミットが告げられたとき、運命を呪い泣き喚いても、一縷の望みであれそれを信じて「今」を精一杯生きても、時間は等しく過ぎていく。ならば、あなたはどちらを選びますか? そう問いかけられているようだった。
武志は「いつもと変わらない1日」を慈しみ、日々土に向かい、命を吹き込んだ作品に未来を託す、つまり、「りんごの木」を植え続けると決めた。ともすれば綺麗事に聞こえるかもしれない。しかし、繰り返し描かれてきた、どんな苦境のなかにあっても灯火を見出す喜美子の「信じる力」を源として、息子の武志がそういう生き方を選ぶことに十分な説得力があった。
フィクションという、いわば「作り事」であり「嘘」のなかにどれだけ説得力をもたせることができるか。そこにおいて『スカーレット』は新たな領域に達したのではないだろうか。撮影期間1年弱のあいだヒロイン・喜美子を演じきった戸田恵梨香は、クランクアップの際「目一杯、喜美子を生きました」と語った。そう、このドラマの登場人物たちは実に「生きて」いた。
朝ドラは毎日、そして半年間という長いスパンで観るものであり、視聴者にとってその時間は人生の一部だ。それだけに、全話観終えたあとの「私」のなかには、「彼ら」と共に長い人生を駆け抜けたような感情が沸き起こるものだ。『スカーレット』という作品がもつリアリティは、この「併走感」をより濃密なものにしてくれた。
また、これほど人物の内面にフォーカスした朝ドラも珍しい。このドラマでは劇的な出来事はほとんど起こらない。それが一部で「地味」と揶揄されたりもしたが、この腰強な日常の積み重ねがあったからこそ、喜美子の内面の葛藤が観る者の胸に迫ってきた。イベントそのものが劇的なのではなく、出来事をきっかけに起こる喜美子の「内面の変革」が劇的であった。
喜美子の「内面の変革」はいつも周囲の人たちとの関係性をきっかけに起こり、それが作陶において新たな局面をもたらすのも面白かった。八郎(松下洸平)との恋愛がはじまると同時に喜美子の陶芸人生はスタートした。父・常治(北村一輝)の死を経て本格的な「創作」がはじまった。「芸術」と「食い扶持稼ぎ」の役割分担を夫婦交代し、喜美子は穴窯に向かった。八郎との別離と引き換えに喜美子だけの作陶を手に入れた。孤独に作陶を続けていたころ、小池アンリ(烏丸せつこ)にもらったヒントから「作品」は送り手と受け手の相互作用であることを悟る。そして最愛の息子・武志の肉体の死を静かに受け入れ「揺るぎない強さ」を手に入れた喜美子は、武志の魂を抱いてまた土に向き合い炎と向き合う。喜美子の陶芸とは、喜びも悲しみも、人生のすべてが注ぎ込まれたものだった。
こうしてふりかえってみると、『スカーレット』は喜美子が内面における「真の自立」を果たすまでの物語という見方もできる。これまで朝ドラではヒロインが何かを志し経済的自立・社会的自立を成し遂げていく姿が描かれてきたが、ここまで主人公の「精神的自立」に踏み込んだ作品は他に類を見ないのではないか。真の幸せは精神的自立の先にこそある。喜美子はこうして最終的に本当の「自由」を手に入れた。
この物語は「幸せとは相対的にあらず絶対的なものである」という示唆に満ちていた。穴窯を続ける決意とともに八郎の手を離すとき、苦しみの真っ只中にありながら喜美子は、陶芸という一生の仕事に出会えて「幸せです」と言った。武志が初めて自分の作品を世に出すとき「誰からも評価されなかったら」と不安を漏らすと、喜美子は「自分だけは味方や」と教えた。武志は余命宣告を受けてもなお、病気は自分のほんの一部であり「俺は俺」「幸せや」と言った。私の幸せは私が決めるのだ。
喜美子のように道を極める者だけでなく、普通に生活する普通の人々の人生にも光があてられた。家業の跡取り娘としての役割を全うし、子供や孫に囲まれ家庭菜園に勤しむ照子(大島優子)。地元に根をおろし信楽の町おこしに奔走し続ける信作(林遣都)。「子供らの世話して、お義父さん・お義母さんとサニーやって、お母さんコーラスをやる」ことが幸せだと言い切った百合子(福田麻由子)。その手を離してから気づいた大事な存在・鮫島(正門良規)を探しにいった直子(桜庭ななみ)。それぞれに「私の幸せは私が決める」姿があった。そして八郎は、自分だけの新たな陶芸を求めて長崎へと旅立つ。穏やかな日差しのなか、縁側でみかんを食べながら語り合う八郎と喜美子のあいだには「依存」ではなく、互いに精神的に自立しながら「共存」する姿があった。
多かれ少なかれ、人生は苦難の連続である。そのなかでどう生きるか。何があっても「うちが自分で決めた道」とし、「楽しいこと考えよな」を信条としてきた喜美子の生き様から学べることは、苦しみを耐え忍んだり押し殺すのではなく、「発想を変える」ということではないだろうか。喜美子の芸術の羅針盤となったジョージ富士川(西川貴教)による絵本『TODAY is』の白い片ページに武志が書き込んだ言葉には、自分の人生も幸せも自分でデザインできるというメッセージがあった。画面の向こう側から「だからあなたも大事なものを大事にせえ。ほんで、あなたの幸せはあなたが決めぇ」と言われた気がした。
そんな幸せの探し方を教えてくれた『スカーレット』は、喜美子を生ききった戸田恵梨香が最後に願ったとおり、間違いなく「10年後も20年後も」私たちの心に残っていることだろう。そして今日も、この先もずっと、信楽の彼らは物語のなかで生き続けている。
■佐野華英
ライター/編集者/タンブリング・ダイス代表。エンタメ全般。『ぼくらが愛した「カーネーション」』(高文研)、『連続テレビ小説読本』(洋泉社)など、朝ドラ関連の本も多く手がける。