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『家族を想うとき』と『わたしは、ダニエル・ブレイク』は“希望の灯り”に ケン・ローチの熱い想い

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リアルサウンド

 社会のなかの弱い立場の人間を描き続けてきたイギリスの映画監督、ケン・ローチ。高齢になり数年前から引退を表明していたが、そこからさらなる傑作2本を撮りあげることで、現在の映画界に驚きをもたらした巨匠である。

参考:ケン・ローチが描き続ける人間の生き様 『家族を想うとき』まで半世紀に及ぶキャリアを振り返る

 ここではそんな2作品、カンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した『わたしは、ダニエル・ブレイク』、そして来る6月17日にBlu-ray&DVDの発売が決定した『家族を想うとき』を振り返り、そこで何が描かれていたのか、ケン・ローチ監督がなぜ巨匠と呼ばれる映画監督なのかを考えていきたい。

 ケン・ローチ監督が引退を撤回した理由は、イギリスをはじめ世界で格差問題が深刻化しているという状況があるからだ。先頃アカデミー賞を席巻した『パラサイト 半地下の家族』をはじめ、世界中で格差を題材にした映画が撮られ、注目を浴びている。だがこれまでその問題を考え続けてきたケン・ローチ監督の作品は、その中でも問題のとらえ方が圧倒的に優れているといえる。

 『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、ニューカッスルで大工として働く、妻に先立たれた59歳の男性ダニエル・ブレイクを主人公とした物語だ。彼はある日、心臓の病気によって、職場で倒れてしまう。一命を取りとめたものの、医者に職場復帰は無理だと伝えられることになる。それにも関わらず、ダニエルは国に認定されたカウンセラーによって「就業可能」と判断され、日本でいうと生活保護にあたる、国からの金銭的な補助を受けられない状況に陥ってしまう。

 問題なのは、実際に働けるかどうかは個々の事情によって複雑に異なるはずなのに、医療の専門家でない人物の、あらかじめ定められた事務的な質問だけでそれが判断されてしまう点だ。ダニエルの場合は、いつ心臓にトラブルが発生するかも分からない危険な状況に置かれながら、身体を動かせるということで、就労可能ということになったのだ。

 ケン・ローチ監督は、このような矛盾した国の制度や、不十分なケアがあるという現実を、実際に困窮している人々の話を聞きながら、作品の内容に反映させていく。つまりダニエル・ブレイクという人物は、国に見放される人々を象徴する存在として、かたちづくられているのである。

 収入の道が断たれたダニエルは、求職者給付を受けざるを得なくなってしまう。これを利用するためには、就業のための活動を絶えず続けていることを証明し続けなければならず、さらには多くの過程でインターネットも活用しなければならないのだという。パソコンを使ったこともないダニエルにとっては酷な作業である。

 だが、劇中でダニエルが役所の職員に怒りを見せるように、これは茶番のような行為に他ならない。そうやって求職して、仕事を得ることができたとしても、ダニエルは実際には働けないのだ。受け入れようとする職場の申し出を拒否することで非難され、人格を否定されるダニエル。真面目に求職活動を続けながら、雇おうとしてくれる人の好意を踏みにじることを余儀なくされるのも、精神的な重圧である。しまいには、役所によって求職活動の事実すら疑われ、数ヶ月援助を打ち切られることになってしまう。そのため家財道具を売り払い、寒い時期に電気などのライフラインも断たれてしまうのだ。

 ダニエルを演じているのは、映画初出演となる、コメディアンのデイヴ・ジョーンズだ。役所をたらい回しにされ、理不尽な対応に翻弄され続けるダニエルの状況は、見ようによっては喜劇にも感じられる。それは、現実の社会が喜劇のような不条理なものになっていることを示しているともいえよう。

 なぜダニエル・ブレイクはこのような仕打ちを受けなければならないのだろうか。彼は40年もの間、大工として真面目に働き、国に税金を治め続けてきた人物である。その膨大な金額は社会保障のために使われるはずではなかったのか。実際に国の制度を必要とする立場になったら受け取れないというのは、詐欺同然ではないのか。ダニエルは絶望のなか、ほんのささやかな抵抗を行い、警察に連行されてしまうことになる。だが、ずさんな制度と不誠実な対応で、払うべきものを払おうとしない国や役所を取り締まってくれる者は誰もいないのだ。

 『わたしは、ダニエル・ブレイク』では、ダニエルの他、2人の幼い子を持つ若いシングルマザーであるケイティの事情も描かれる。ダニエルは自身が困窮しながらも、同じように役所で冷淡に扱われて困っている彼女や子どもたちに手をさしのべ、できる限り助けようと奮闘することになる。このように、行政が機能不全に陥っているのであれば、頼みの綱は市民同士の助け合いしかなくなってくるのである。劇中で彼女たちに食料を配給してくれるフードバンクという事業も、基本的に民間の寄付によって成り立っているサービスなのだ。

 日本にも、困窮する家庭や児童のためにフードバンクや、子ども食堂など、寄付やボランティアなどによって賄われる民間の取り組みが見られる。しかし本来、貧しい人々を率先して救わなければならないのは、国や自治体でなければならないはず。そのために市民は高い税金を払っているのだ。多くの市民が、病気や事故、複雑な事情によって、いつダニエルやケイティのように困窮することになるか分からない。いま生活が成り立っているイギリスの市民も、日本に住むわれわれも、全く人ごとではないのが、この映画の内容なのである。

 集大成的な傑作の完成と、2度目となるカンヌ国際映画祭最高賞獲得によって、ケン・ローチ監督は今度こそ有終の美を飾るはずだった。しかし、問題が噴出し続ける社会状況は、監督にそれを許さなかった。経済格差が広がり、困窮する人々への理不尽な仕打ちは、激化する一方なのだ。ケン・ローチ監督は、引退作であるはずの『わたしは、ダニエル・ブレイク』でフードバンクをリサーチするなかで、新たに描かなければならないと強く感じるエピソードに出会ったのだという。

 それは、国でなく民間企業による弱者への非情な扱いだ。次作となった『家族を想うとき』は、個人事業主という立場で会社の仕事を行う「個人事業主契約」の闇が題材となった。

 主人公は、ダニエルと同じようにニューカッスルの賃貸住居に住み、介護士の妻とふたりの子どもを持っている中年男性のリッキーだ。彼は宅配ドライバーとして数年働き、家族のためにマイホーム資金を手に入れる計画を立てていた。

 ある配送業を営む会社で働こうとすると、そこで仕事をするためには、「個人事業主契約」をする必要があると言われる。法的には従業員でなく、独立した自営業者として会社の仕事を請け負うのだ。この契約のかたちは、日本でも多様な職種で見られるので、日本人にとってもそこで描かれる問題は全く他人ごとではないだろう。

 そして、次第に契約内容の欺瞞が明らかになっていく。毎日決まった時間に会社に行って、手配される仕事を受ける。これはその会社の従業員そのものではないのか。しかも、ノルマをこなさないとならないため、残業代も出ない。さらには保障も経費も出ないのである。

 リッキーは、会社専用の配送車を自費で購入しなければならなくなってしまう。そして、その車には会社以外の人間や、リッキーの家族を乗せることも禁止されているのだという。リッキーの持ち物なのにも関わらず、その会社の業務にしか使えないというのである。これは会社が負うべき負担が、働き手に押しつけられているといえよう。さらにリッキーはGPSのついた端末を持たされ、本部から常に監視される。配達中にバンを数分離れただけでサボっているとみなされ、時間を分単位で管理されてしまう。配送業界は、ネットショッピングの需要拡大から、安価で迅速な配送サービスを実現するために、その負担を労働者に負わせる状況が続いているという背景があるのだ。

 そんな過酷な状況に立たされるリッキーを演じているのは、配管工として20年間働いてきた経験を持ち、40代で演技の仕事を始めた俳優クリス・ヒッチェンだ。イギリスには、ベネディクト・カンバーバッチやトム・ヒドルストン、エディ・レッドメインなど、学歴の高いエリート俳優がひしめいているが、果たして彼らが、この役においてクリス・ヒッチェンの説得力を上回ることができるだろうか。その意味で、イギリスの労働者階級社会で生きてきた俳優こそが、本作の主演に相応しいと思えるのである。

 連日の過酷な勤務に、リッキーは家庭に帰ってもただ寝るだけ。仲の良かった家族とも満足に話すことはできず、パートタイムで介護の仕事をしている妻とともに、悩みを持つ息子や、家族の心が離れていくことき心を痛める娘の相手をしている暇もなくなってしまう。生活困窮者は、もはや家族を十分にケアすることも難しくなってきているのだ。

 家庭を立て直すため、リッキーはまとまった休みをとることを会社に要求するが、その望みは却下。「休むのなら配送スケジュールに穴を空けたぶんの損害を請求する」とまで言われてしまう。これが対等な「個人事業主契約」などではないのは明らかだ。

 怪我をしても何の保障もなく、会社が逆に損害を請求してくる事態に、ついに妻の怒りが爆発する。ダニエル・ブレイクのように、過酷な仕打ちへの不満をぶつけるささやかな抵抗は、見る者の心を揺さぶるはずだ。なぜなら本作もまた、イギリスを含めた、現代社会の多くの労働者に共通している、実際に存在する問題を描いているからである。しかし、一瞬吠えたとしても、状況はさして変わるわけではない。このような保障のない低賃金労働は、経済格差をさらに拡大させ続けていくのだ。

 ケン・ローチ監督が、『家族を想うとき』や、『わたしは、ダニエル・ブレイク』で、現代の問題を通して真に描いているのは、過酷な状況で生きている人々がいるという現実はもちろん、何よりもそこで人間の尊厳がないがしろにされているという事実である。人間は、どんなに厳しい状況に立たされたとしても、最低限の尊厳を持って生きる権利がある。だが、現在の格差社会は、その最後の砦すら破壊し、困窮者を人間以下の存在にまで貶めようとしているように感じられる。

 ケン・ローチ監督の素晴らしいのは、それをただ情によって訴えるだけではなく、このような人間性を破壊しようとする社会システムの問題点をしっかりと整理して、改善の道筋を示しているところだ。格差問題を扱う映画は数あれど、ここまで丁寧に、そして戦略的に一つの映画作品としてまとめ上げる手腕は、さすがと言わざるを得ない。その意味で、ケン・ローチ監督は現代に最も必要とされるクリエイターの一人であるといえよう。

 『家族を想うとき』と『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、いまを生きる人々にとって、闇に包まれつつある社会を照らす希望の灯りになり得る作品だ。引退を撤回してまで、この作品を撮りあげたケン・ローチ監督の熱い想いと、いま横たわっている最も深刻な現実の姿が、多くの人々に伝わってほしい。そして、現状を打開する糸口となってくれればと願っている。(小野寺系)