Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
ぴあ 総合TOP > 2010年代のアイドルシーン Vol.1 “アイドル戦国時代”幕開けの瞬間(前編)

2010年代のアイドルシーン Vol.1 “アイドル戦国時代”幕開けの瞬間(前編)

音楽

ニュース

ナタリー

「アイドルユニットサマーフェスティバル2010」記者会見の様子。

“アイドル戦国時代”という言葉が生まれてから約10年が経った。2010年代、アイドルシーンでは運営規模の小さなライブアイドルや地域密着型のローカルアイドルを含め、数多くのグループが誕生。アイドルを名乗るタレントの数が日本の芸能史上最大になったと言われている。ビジュアル、楽曲、パフォーマンスなどあらゆる面でアイドルの定義を広げたこのブームは、それまでアイドルカルチャーに興味がなかった層をも巻き込み、その市場規模を拡大させた。

音楽ナタリーではこの10年間のアイドルシーンを多角的に掘り下げる連載企画をスタートさせる。第1回となる今回はSKE48、スマイレージ、ももいろクローバー、bump.yが出演した2010年のイベント「アイドルユニットサマーフェスティバル2010」にフォーカスを当てた。当時、異なる事務所のグループが共演することは珍しく、このイベントはアイドル戦国時代の発端となったと言われている。本稿ではアイドル文化に造詣が深いプロインタビュアーの吉田豪、ももいろクローバーZの川上アキラプロデューサー、スマイレージ(現アンジュルム)の元マネージャーであるYU-M エンターテインメントの山田昌治社長、イベントの主催者であるニッポン放送の増田佳子氏の証言をまとめていく。

取材・文 / 小野田衛 インタビューカット撮影 / 沼田学

2010年が一番面白かった

2010年、エンタテインメントの世界で地殻変動が勃発した──アイドル戦国時代の幕開けである。この2010年を機に数多くのグループが世に出て、国民はアイドルの動きを注視するようになり、結果として業界地図は塗り替えられることになる。とはいっても、すべての音楽的ムーブメントがそうであるように、このアイドル戦国時代も突然変異的に始まったものではない。そこには一定の必然性があったのも事実である。

日本の女性アイドルを振り返ってみると、1970年代にキャンディーズやピンク・レディー、そして山口百恵が一世を風靡。80年代に入ると松田聖子と中森明菜の2大巨頭を筆頭に、河合奈保子、小泉今日子、松本伊代、早見優、堀ちえみらが才能を開花させ、アイドル黄金時代へと突入する。グループでは80年代半ばのおニャン子クラブ旋風、そして2000年前後のモーニング娘。フィーバーが大きなうねりとなって時代の空気を支配した。

しかし、浮き沈みが激しいのが芸能界の常だ。上記のスターたちも多くは全盛期が短命に終わり、モーニング娘。が所属するハロー!プロジェクトが大規模な組織改編を行った2002年あたりから徐々にアイドル全般の人気が陰りを見せ始める。その間、AKB48が2005年に結成されるものの、国民的な存在となるのはもう少しあとの話。また歌手活動ではなく写真集や雑誌を主戦場とするグラビアアイドルが台頭してきたのもこの頃の特徴だが、本稿のテーマとは外れるため割愛させていただく。

アイドル文化に造詣が深く、これまで多くの取材を重ねてきたプロインタビュアーの吉田豪は「この20年くらいのアイドルシーンを振り返ってみて、一番面白かったのは確実に2010年」と断言する。この年、アイドル界では3つの大きな動きが同時多発的に起こった。ニッポン放送が主催するアイドルフェス「アイドルユニットサマーフェスティバル2010」、NHKの人気番組「MUSIC JAPAN」のアイドル特集回、そして記念すべき1回目の「TOKYO IDOL FESTIVAL」(TIF)である。一体、これらの舞台裏で何が起こっていたのか? 吉田は関係者から話を聞きつつ、当事者にぶつけて言質を取るという作業をライフワークとして続けているのだという。

「それまで絡みがなかった人たちが同じ土俵に立つ……この構図が面白かったんですよね。あとは明らかにプロレス心を持った人たちが運営側にそろっていた。そこで“事故”が起こったというわけです。事故とはどういうことかというと、交流戦をやっているつもりなのに、交流戦だと考えていない人たちが混じった状態。つまり『仕掛けろ!』という発想を持った一派がいたんです。ももいろクローバー(のちのももいろクローバーZ)の川上アキラさんしかり、スマイレージ(のちのアンジュルム)の山田昌治さんしかり……もちろん、そういった過激な考え方じゃない人もその場にいましたけど」(吉田)

アイドルブームへの“疑い”が“確信”に

今も語り継がれる伝説のイベント「アイドルユニットサマーフェスティバル2010」は、8月30、31日の2日間にわたって開催された(参照:最後にサプライズも!アイドル4組が渋谷で夏フェス)。出演者はSKE48、スマイレージ、ももいろクローバー、bump.yという気鋭のグループ4組。しかし、開催されるまでにはさまざまな思惑が交錯していたようだ。まずは吉田の解説に耳を傾けてみよう。

「『アイドルユニットサマーフェス』はニッポン放送が主催で、吉田尚記アナが司会をやったりもしてたんですけど、かなり絶妙なチョイスだったと思うんですよね。ハロー!プロジェクトと48グループという当時は禁断だった絡みに、若手ながらもやたらギラギラしていた6人時代のももクロを加えて、それだけだと殺伐としすぎちゃうから、そこにbump.yも混ぜる。あれはなんのためのブッキングかというと、ステージで平和に朗読とかやり始めるbump.yはなんの対立構図もない、永世中立国のスイスみたいな存在。bump.yを混ぜることで“三つ巴の闘い”という構図が露骨にならないで済むというわけです。そして実はこのイベントには重要なキーパーソンが深く絡んでいた。それは当時『B.L.T.』の編集長だった井上朝夫さん(現HUSTLE PRESS社長)です」(吉田)

唐突に登場したようにも感じられる井上の名前だが、奇しくもニッポン放送側の担当者・増田佳子からも同じように上がってきた。どうやら「B.L.T.」の井上がアイドル戦国時代の黎明期において重要な役割を果たしたことは間違いなさそうである。以下の証言はニッポン放送の増田が音楽ナタリーのメール取材に応じてくれたもの。10年当時の増田が置かれていた状況を整理すると、前年の09年秋に制作ディレクターからエンターテインメント開発部に社内異動があった。そこで上司から「夏休み最後の2日間に渋谷公会堂が取れたから、何か企画して」と言われたのだという。

「何を企画するか悩んでいるときに、『来年の夏はアイドルが熱くなる』という情報があちこちから入ってきました。当時はまだ『アイドルブームがくる!』という感じでもなかったのですが、誰もやったことがないアイドルフェスというものにチャレンジしてみたくなって企画しました。

企画に際してはアイドル情報にもっとも詳しい『B.L.T.』井上編集長(当時)に勢いのあるアイドルを推薦していただきました。そこで『ハロー!プロジェクトはほかの事務所とライブをしたことがない』という情報もいただき、4組に絞って実施することになったのです」

新しい環境で右も左もわからず困惑する中、井上のサジェスチョンに救われた様子が文面からも伝わってくる。と同時に前代未聞のことに挑戦する以上、「アイドルユニットサマーフェス」は増田にとっても一種の賭けだった。克明なレポートは続く。

「アイドルフェスを企画してからは、社内外で『本当にアイドルブームなんて来るの?』と疑いの目をかけられていました。しかしチケット発売を開始すると即完売し、周りの人たちのアイドルブームへの“疑い”が“確信”に変わったことを感じました。特にハロー!プロジェクトのライブにしか出演したことがないスマイレージが参戦したのは、大きな話題となりました。それからSKE48も地元・名古屋での人気が爆発する中での東京進出でしたから、期待感はすごいものがありました。

チケットが即完売したことは業界内でも話題となり、あちらこちらからアイドルフェスの企画書が出回るようになりました。実際に開催日当日を迎えて印象に残っているのは本番前の囲み取材。マスコミの数の多さが話題の高さを物語っていました。翌日の取材露出の数も多く、まさに“アイドル戦国時代の幕開け”を肌で実感しました」

あからさまに明暗が分かれた

こうしてイベントは大盛況に終わる。複数の事務所が関わるような大規模アイドル系イベントは、まさにファンが待ち望んでいたものだったのだ。すでにAKB48はスターダムの階段を駆け上っており、その勢いに乗じる形で各プロダクションからは雨後の筍のようにグループが誕生。アイドル冬の時代が終わりを告げ、新たな季節に入ろうとしていたのは誰の目にも明らかだった。しかし一方、実際に会場まで足を運んだ吉田は「あからさまに明暗が分かれた興行でもあった」と振り返る。

「ここでSKE48はいつも通りのライブを展開したんです。ダラダラ長尺なメンバー紹介をしたりして、会場がゆるい空気になったことを鮮明に覚えています。熱心なファン相手だったらそれでいいかもしれないけれど、対外試合、ましてや対抗戦向けの戦い方ではなかった。『今日は私たちのことを覚えて帰ってください』ということだったにせよ、明確にこれは裏目に回った。一番手でギラギラしたライブをやったももクロが爪痕を残し、bump.yが平和なライブをやったあとで、SKEには期待していたから、正直言って肩透かしだったんですよね。

一方でスマイレージはMCなんかすっ飛ばして、容赦ない戦闘モードで潰しにかかってきた。とにかく勢いがすごかったんですよ。スマイレージには山田さんというプロレス心を熟知している鬼軍曹がいるから、『負けたら最後。あとはない』という覚悟で出陣してくるわけです。このときのスマイレージを観て、ももクロの川上さんは目が覚めたらしいんです。『俺たちもこれじゃダメだ』と。そこでステージに演出家を入れたりするようになるんですね。つまり『プロとしてのライブはこうあるべき』というものをスマイレージに教えられたってことみたいです」(吉田)

ここで重要なのは“勝ち”“負け”という概念が挟み込まれていることである。いつの間にか単なる共演コンサートではなく、4組は勝負論にのっとり俎上に載せられていた。この視点は吉田のみならず多くのアイドルファンが共有しており、それどころか当のアイドルの中にすら「負けるわけにはいかない」と闘志を隠そうとしない者が現れた。

「当時、ボクの周りでは『BUBKA』の編集長以下、編集スタッフ全員がSKE48幻想に狂っていて、SKE特有の体育会系的なシステムに心酔していたんです。『いかにSKEが戦闘集団なのか』ということを誌面上でも煽り続けていましたし、その主張を支持する読者も多かった。しかし結果としては、その煽りが振りとして効いたわけです。SKEは観光気分で出演し、見事に撃沈しちゃったわけで。イベントが終わったあと、『まさかここまで何もできないとは……』と『BUBKA』関係者がうなだれていたのが印象的でした。高田延彦がヒクソン・グレイシーに何もできずに負けたときぐらいの落ち込み方で(笑)」(吉田)

返り血を浴びたももクロ

しかし、この下克上的なイベント評はあくまでも吉田の主観によるものだ。実際、ここで名前が挙がったももクロの川上やスマイレージの山田はまったく別の見方をしている。川上は「うちは一番後輩でしたから。失うものなんてなかった」と述懐する。

「ハロプロのスマイレージもいるし、48グループのSKE48もいる。イベント自体はニッポン放送の増田さんに『B.L.T.』の井上さんがアドバイスする流れで進んでいたと思うけど、『うちがそういうのに出ることできるんだ』という感覚でしたね。気持ちとしては爪痕を残したかったし、ももクロもライブが注目されていた時期だったから『ここで食ってやろう』くらいの勢いでいったつもりなんですけど……結果は『スマイレージやSKE48ってすげえな』と反省して帰りました」(川上)

なんと川上はSKE48に対して、“下克上”どころか“返り血を浴びた”という感覚でいたようだ。「このままじゃダメだ」と考えた川上が、現在もももクロのライブ演出を担当する佐々木敦規を頼るようになったのは吉田の説明通り。しかし、そこにはさまざまな葛藤もあったようである。

「その年のクリスマスに日本青年館で『ももクリ』(ももいろクリスマス)をやったんですけど、そこから体制を入れ替えたんです。やっぱり『アイドルユニットサマーフェス』での危機感がありましたから。当時も今も僕が考えていることって、根底的な部分は変わっていないんですよ。プロレスの興行から学ぶことが変わらずに多いし、それがエンタテインメントの根底にあると思っている。逆にアイドルの縛りとかルールはよくわかっていないから、いまだにほかのグループに失礼なことをしてしまう。そういう好戦的な部分、メンバーは嫌がってやらないんですけどね(笑)」(川上)

ここで川上が言う「プロレスから学んだこと」とは何を指すのか? アイドルとプロレスの親和性についてはすでに多くの人たちが語り尽くしており、食傷気味に感じるかもしれないが、改めて見つめ直すと次のような要素が考えられる。すなわちそれは“対立の構造をはっきりさせること”“バチバチした演者の感情を剥き出しの状態で興行の中に組み込むこと”“大向こう受けするパフォーマンスと煽動的アピール”といったものだ。

「でも、当時だってグループ同士は仲よかったですよ。マネージャー同士がバチバチしていただけだと思います。結局、大人たちばかり気合が入っていた(笑)。ただ逆に業界自体がそんなに大きくもないし、知っているマネージャーばかりだったという面もあるんです。ぱすぽ☆(のちのPASSPO☆)を始めた福田幹大は、もともとうちにいてユニバーサルにA&Rとして入った人間。だから同時期のグループとして戦友的な気持ちがありましたね。東京女子流ちゃんも似たような感じです」(川上)

桜庭和志になりたかったスマイレージ

では“仕掛けた側”と吉田から名指しされたスマイレージの山田はどんな絵を描こうとしていたのか? 現在、山田はハロプロを離れ、アップアップガールズ(仮)や和田彩花などが所属するYU-Mエンターテインメントの社長として辣腕をふるっている。

「一番大きかったのは『スマイレージを通じて、ハロー!プロジェクトの素晴らしさを改めて伝えよう』という気持ちだったんですよね。何しろ今とはハロー!を取り巻く環境が全然違いましたから。会社を離れた立場の僕が言うことではありませんが、今ではハロー!プロジェクトという存在はアイドルの世界でしっかり確立されていて、アイドルファン以外の方からもきちんと認識していただけるようになっている。たくさんの新たなファンを獲得して、音楽メディアから『実はハロプロがすごい』みたいな切り口で取り上げられることも多くなりました。でも、10年前は全然そんなことなくて……」(山田)

当時はAKB48が飛ぶ鳥を落とす勢い。そのことは別にいい。だが“AKB以外はアイドルにあらず”といった時代の空気にメディアも侵されており、山田は辛酸を舐め続けていたという。テレビ局を営業で回っていると、「ハロプロさんは玄人受けしますよねえ」と皮肉交じりに嘲笑されることすらあったのだ。

「僕らはずっと真剣にやってきたんです。どこに出しても恥ずかしくないような素晴らしいエンタテインメントを追求していたつもりだった。つんく♂さんのもとで一生懸命がんばっていましたからね。実際、つんく♂さんほど音楽にこだわっている人間はいないと思っていましたし、キラキラ輝くメンバーもたくさんいました。だけど、メディアや対世間というところではハロプロと言えば、(当時、すでにハロー!プロジェクトから卒業していた)モーニング娘。OGの矢口真里や辻希美、里田まいでした。『新ユニットができました! スマイレージっていいます』とアピールしても、相手にしてもらえないことも多くて」(山田)

山田は吉田の言う「『BUBKA』スタッフが『アイドルユニットサマーフェス』のSKE48を観て肩を落とした」というエピソードを引き合いに出しながら、「逆に言うと、それくらいマスコミの人にもハロプロが届いていなかったという証拠」と指摘する。もちろん10年前だってハロヲタと呼ばれる熱心なファンは変わらずに現場で応援していた。しかし“対世間”という意味で大きく出遅れていたことは否めない。こうした状況に対して社内で危機感はなかったのか?

「そりゃありましたよ。いくら『ハロプロ鎖国』とか言われていても、世間に届いていないことは中にいてもわかるでしょう。その鎖国と呼ばれるところが初めて外部のフェスに出るわけだから、本当に下手は打てなかった。ハロー!やスマイレージに損させるわけには絶対いかなかったんです」(山田)

ここで山田に尋ねてみた。“損させる”とはいったいどういうことか? 逆に何をもってして“得”とするのか? 山田はしばらく考え込んでから「最終的には、お客様の評価が勝ち負けということになるでしょうね」と言葉を続けた。

「じゃんけんは勝敗のつけ方を全員が知っているわけですよ。グーはチョキより強く、パーはグーより強い。そのルールをみんな共有できている。だけど2010年の時点では、複数アイドルが出演するフェスに出たことがないわけだから、何が勝ちで何が負けだかわかっていなかった。どういう状態が勝ちなのかもわかっていなかったけど、それでも損させるわけにはいかなかった。『山田、お前、なんでこんなものに出たの?』と社内で言われたとき、ぐうの音も出ないような結果にはできなかったんです。要はプロレスラーが総合格闘技の舞台に出ていって真剣勝負したら本当に強かった……それを実践したかったんですよね。僕らは桜庭和志になりたかった」(山田)

こうしてアイドル戦国時代の火ぶたは切って落とされた。こうなってしまった以上、もはや後戻りができないのはどのグループも同じである。後編では高城れに(ももいろクローバーZ)や福田花音(ex. スマイレージ)といった当事者たちの証言を交えつつ、舞台裏の深層に迫っていきたい。

(文中敬称略)

※記事初出時、本文に誤字がありました。お詫びして訂正します。