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宮崎駿監督は『もののけ姫』で何を描こうとしたのか 公開当時よりも響く、作品に込められたメッセージ

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リアルサウンド

 新型コロナウイルスによって映画興行にも多大な影響が出るなか、全国の300以上の映画館が、スタジオジブリの過去作『風の谷のナウシカ』(1984年)、『もののけ姫』(1997年)、『千と千尋の神隠し』(2001年)、『ゲド戦記』(2006年)を再上映中だ。地上波放送で何度も放映されおなじみのスタジオジブリ作品が、「一生に一度は映画館でジブリを」というキャッチフレーズとともに、多くの観客を呼んでいる。

参考:ジブリ名作のリバイバル上映はなぜ成功した? コロナ影響下の映画館で再確認できたコンテンツの魅力

 宮崎駿監督の『もののけ姫』は、『千と千尋の神隠し』とともに、社会現象と呼べる空前のブームを巻き起こしたジブリ映画。いまとなっては、いろいろな意味で考えられないことだが、真夏の映画館の階段や屋外にまで、次の回の上映、次の次の回の上映を観ようと長い行列ができ、上映中も座席の横の通路にまで観客が座って、ひしめき合いながら映画を観るといった状況まで起きたことを、よく覚えている。

 しかし、時間が経つことで新たに見えてくる部分もある。世界的巨匠である黒澤明監督の映画もまた、かつて日本では絶対的な影響力を持ったことから、神格化されたり、逆に反感を持たれるなど、作品外の部分が評価を左右する要素になることも多かった。同じように、宮崎駿監督が巨匠となってからの『もののけ姫』もまた、いま新たな目で見ることで、より純粋に一つの作品として鑑賞できるのではないだろうか。ここでは、『もののけ姫』とは何だったのかを、もう一度評価し、考察してみたいと思う。

 『もののけ姫』製作時は、ちょうどアニメーションの製作がアナログからデジタルへと本格的に移行し始めていた時期にあたり、本作では一部でCG技術を導入しつつ、透明なシートを使ってセル画に直接色をペイントしていくというセルアニメーションの技法を使用した最後のジブリアニメとなった。

 このセルを使った手法は、長らく世界のアニメ製作の主流であり、日本でもこの製作環境のもとで様々な演出技法が発明された歴史の積み重ねがある。『もののけ姫』では、アナログ的な手法では表現し得ないような複雑な構成のシーンを、複数のスタッフによって描かれた絵をレイヤーとして重ね、個別に緻密なスピード計算をしながら、監督の意図通りに実際にカメラで撮影していくという、各部署の連携が完璧にとれていなければ達成できない職人芸で支えられている。いまとなっては神業といえる作業の積み重ねは、セルによるアニメーション表現の歴史における、ある意味集大成といえるものになっている。

 また、宮崎監督にとっても、映画『風と谷のナウシカ』では神話的な解決によって最後まで表現できなかった自然と人間の関係を描くことにふたたび挑戦した意欲作であり、アニメーション作家としてのこれまでの集大成と見定めていた映画でもある。そして新たに、張り詰めた鬼気迫る内容をくわえている。それが端的に表されているのが、序盤の野盗との戦闘シーンである。宮崎監督の過去作である絵物語『シュナの旅』にも登場する架空の動物ヤックルを駆るアシタカは、里に降りると、矢で武装した者たちによって遠方から弓で狙われることになる。彼は垂直に落ちてくる矢をかわしつつ、民衆に暴力を振るう者たちを、反対に弓の中距離射撃によって圧倒する。そこでは、呪いの力によって人間の限界を超えたアシタカの膂力(りょりょく)も加味される。

 ここでは、ある空間のなかで目標に向かって放たれた矢が、遠距離と中距離でどのような軌跡を描くのかを、強調しながらフェティッシュに描写している。この物理運動への偏執的なこだわりというのは、宮崎監督のアニメーターとしての突出した作家性といえよう。そして、それらの動きを監督自ら描くことを厭わず、スタッフたちに身振りで指導すらする。まさに先頭に立つ“闘将”と呼べる製作スタイルだ。そして監督がアニメーターとして誰よりも優れているのである。さらにここでは、そのアクションの結果として人間の腕が飛ぶというショッキングな場面へと繋がっていく。作品の後半では首が飛び、獣は血みどろになるなど、物騒な場面が描かれていく。

 そんな凶暴な要素とり入れてまで、宮崎監督が描こうとしたのは、果たして何だったのだろうか。『風と谷のナウシカ』では、自然の脅威や人間同士の対立によってすぐさま命が奪われていくような無常の世界を、『もののけ姫』では日本の室町時代を舞台にしながら描き直している。つまり、古い時代の日本もまた、腐海に飲み込まれ、複数の国の軍が進攻し合うナウシカの世界のように、民衆たちにとって生きづらいものだったということである。

 そんな複雑な要素が有機的に絡み合う立体的な世界観は、たかだか2時間14分の尺に押し込めるには限界といえる大きさに膨れ上がっている。かつて、アニメーション映画がこれほどまでに複雑な設定を描き得ただろうか。『もののけ姫』は、その意味で驚きに満ちた作品となっているのである。

 そんなストーリーの製作の裏では、さらに驚くべき状況が展開していたようだ。当時のメイキング映像によると、スタジオがいままさに『もののけ姫』のアニメーション製作を行っている最中に、宮崎監督はまだ物語の結末部分を思案していたというのである。しかも、作品世界の複数の対立する勢力の図を描きながら、設定レベルの地点に立ち戻りつつ考え直しているのだ。まるで個人作家による連載漫画のようである。これは巨額の製作費と時間が投じられた劇場アニメーション製作のスケジュール管理として、そして製作の手順として、通常あってはならない事態であろう。

 だが、ここまで追い込まれてもまだ物語に執着する監督の姿勢から、商品としてのアニメでなく、妥協なく作家としての表現を行うという、監督の気合いが垣間見えることも確かだ。そして、このような無理を押し通すことができるまでに、宮崎監督は大きな存在になっていたということもいえよう。

 そんな燃えるような意志というのは、反逆的にも感じられるユニークな設定からもうかがえる。アニメーション作品の舞台として、日本の室町時代を選んだというのも珍しいが、さらに興味深いのは、学校の歴史教科書に載っているような、歴史上の有名な人物が出てこないということだ。もともと宮崎監督は本作を「アシタカせっ記」というタイトルにしようとしていた。せっ記とは、監督の言によると、耳から耳へと語り継がれた物語なのだという。つまり、世の中には歴史書や教科書に載らないような無数の物語が存在していたはずだという主張である。

 国が正統な歴史書と定めたものを“正史”と呼ぶ。そして日本に伝わる最古の正史は『日本書紀』であり、その内容は天皇の命により皇族によって編纂されたものである。そこでは、権力者の側からとらえた歴史とともに、天皇の当時の地位を権威づける、国づくりの神話の数々が記されている。このように、ある意味歴史とは、一部の者たちの力によって定められてきたものだといえよう。そもそも、民衆には教育が与えられてこなかったため、長い間文字によって歴史を残すことができなかったのだ。だからこそ宮崎監督は、民衆のための耳伝えの物語こそが語られなければならないと考えたのだろう。それはもちろん、権力者が『日本書記』で行ったように、神話の構築も含む。そしてそれは、アウトサイダーの神話といえるものだった。

 本作の主人公は、大和朝廷が迫害していた蝦夷(えみし)の一族の村に住む青年アシタカである。アシタカは、タタリ神と呼ばれる怨霊と化した大猪を退治すると、片腕に強い呪いを受けてしまう。その怨念は強く、祈祷で払いきれるものではなかった。呪いを解くためとはいえ、半ば厄介払いされるようなかたちで村を出ることになったアシタカは、タタリ神がやってきた方角である、西へ西へと、果てなき旅に出発することになる。たどり着いたのは、神の棲む原始の森林と、“タタラ場”と呼ばれる、製鉄を生業とするコミュニティだった。

 室町時代は、ちょうど数々の反乱が起きた“一揆”の時代でもあった。百姓が起こす土一揆のほか、山城国一揆のように地侍と農民らで守護大名の権勢を退け、8年にも渡って朝廷から切り離された自治組織を運営した例もある。ミリタリー好きな宮崎監督は、そのあたりの史実を基に、武器製造工場である製鉄施設の運営者たちの反乱による、ある意味で理想郷といえる小さな国家を創造したのだろう。

 タタラ場は、朝廷とも地侍とも異なる独立した団体で、女性の統率者であるエボシ御前がトップに立っていることから、男女の差別がなく、女性が働くことを禁じられていた当時の製鉄づくりにおいて、女たちが前に出るという改革を成し遂げている。日本の伝承では、実際に賊の首領を女が務めていた例が複数見られるように、民衆のレベルでは、じつは朝廷などよりも女性の地位が高い場合があったのではないのか。さらにタタラ場では、大きな病気を患った者たちが見捨てられず治療を受ける福祉的なサービスがあり、そこで生きる一般の労働者は天朝(天皇)の存在すら知らない。知らなくても問題もなく生きていけるのである。これは、あり得たかもしれない日本の一つの歴史であり、あり得たかもしれない日本社会のかたちであるように見える。

 製鉄業を営むために必要になってくるのが、燃料となる大量の木材だ。エボシたちは森の木を切り進み、自然を破壊していく。それは、古来から日本で信じられてきた、自然の様々なものに精霊や神々が宿るというアニミズム的な信仰への冒涜でもあった。

 “国崩し”という異名をとる大陸伝来の石火矢を改造した武器を持ったエボシや、彼女に一時的に協力する、ジコ坊率いる怪しげな“石火矢衆”など、科学の知恵を得た人間たちにとって、自然の力はもはや脅威ではなくなってきている。やがて山の動物たちや木々はその多くが人間に利用されることになるだろう。そして、新たな木材を手に入れるための計画的な植林が行われるようになっていくはずだ。そのとき、森や山々はかつてのような信仰の対象というより、その大部分が単なる経済活動の場となってしまう。これが作中で描かれる“神殺し”の全貌である。タタラ場を統率するエボシは、まさにその宿命を背負わなければならない、呪われた人間だといえよう。

 さらには公方や地侍なども目を光らせ、いつでも利権を得ようと企んでいる複雑な対立構造が存在する地にやってきたアシタカは、やがてその身を喰らい尽くす呪いを背負いながら、森で巨大な山犬たちとともに生きている少女サンと出会い、山とタタラ場の価値観の間で心揺れることになる。

 宮崎監督がここで描くのは、このように人間という存在が宿命的に背負っている原罪であり、その子孫たちが知らないうちに引き受けてしまう業(ごう)である。人間は、自分たちが生き延び、社会や科学技術を発展させていくことで、多くの生命や環境を犠牲にしてきた。われわれ観客も、たとえ自分自身が積極的に手を下していなくとも、文化的な生活をすることで、知らず知らずそのシステムに加担しているはずだ。

 何も悪さをしていないはずの主人公アシタカが西方の人間たちの悪さによって呪いを受けるという設定は、一見すると理不尽に思えるが、彼が人間である限り、それは背負わなければならないものだったのだ。そして、アシタカが正しくあろうとする者だからこそ、その怨念を引き受けることになったともいえる。作中の砂金の描写や、ジコ坊らがそうであるように、多くの人間は、自分の享受する利益だけを追い求め、罪や責任については無頓着である。そのように自然を破壊し続ける呪われた存在である人間は、どう生きるべきなのだろうか。

 ここで示された、全人類、全生命にまで共通する、自然と人間存在にかかわる深刻なテーマは、すでに映像作品で解決できるような範疇を超えたものではないだろうか。この難問を前にして、『もののけ姫』のラストは、正しい心を持った者が犠牲の精神を発揮する、感動的なクライマックスへと繋がっていく。しかし、それは自然と人間の間に立とうとしたアシタカの敗北をも意味していた。

 もともと主人公のアシタカは、「曇りなき眼(まなこ)で見定め、決める」というセリフを吐くように、決断をするまでは実質的には傍観者の立場であった。対立の被害を受けた者ではありながら、部外者であることには変わりない。そしてそれは、初めて両陣営の状況を見ることになる観客の立場にも近い。そんなアシタカは、人間の果てなき蛮行を止めることができず、せめて自然の神に謝罪することが、唯一の誠実な態度だったのだ。

 この後味が悪く、不完全燃焼な結末というのは、宮崎監督が必死に考え抜いた末の、観客に対する誠実な態度であったという解釈ができるだろう。実際、この自然破壊の問題は、現代ではさらに深刻化していて、人間自体を滅ぼしかねないところまでいってしまっているのである。それを考えると、問題を先送りし、いつまでもこの対立構造を観客に考えさせる必要があるというのは理解できる。だからアシタカは、「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。ともに生きよう。会いにいくよ」と述べるのである。われわれ現代人にとって、自然とはそういう付き合いをして、できるだけ迷惑をかけないように生産活動をコントロールしていくしかないのだ。

 とはいえ、そのような結論は、『もののけ姫』が発表される以前より、多くの人が分かっていたのも確かだ。宮崎監督は、この問題に解決を与えるべく考えに考えた結果、一周して戻ってきただけのように思えてしまう。だがそれは、問題から目を逸らしたり無視し続けるよりは、はるかにいい。経済活動を第一ととらえ、子孫のことをまったく考えずに公害を垂れ流し続けることを、何の罪とも、恥とも思っていないような企業や政治家、それを正当化するようなモラルのない市民よりは、はるかに誠実である。打算やあきらめ、無関心、迷妄などがはびこる社会において、まず大事なのは、曇りなき眼を持つことなのだ。

 神を殺し、許されぬ呪いを受けたエボシは、われわれの姿でもある。彼女は、「ここを、いい村にしよう」と述べる。それもまた、われわれがたどり着かなければならない当たり前の結論である。しかし、実際の世界はそうなってはいない。いまだに一部の者による利権の争いによって自然は壊され、犠牲になる人々が絶えない。そんな狂気が蔓延するなかで、『もののけ姫』のたどり着いた、ある意味で凡庸なメッセージは、公開時よりもいま、最も理性的で重要なものして輝くはずなのではないか。(小野寺系)