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『千と千尋の神隠し』はなぜ多くの人に受け入れられたのか 作品に反映された宮崎駿監督の哲学

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 全国の300以上の映画館が、スタジオジブリの過去作『風の谷のナウシカ』(1984年)、『もののけ姫』(1997年)、『千と千尋の神隠し』(2001年)、『ゲド戦記』(2006年)を再上映中だ。地上波放送で何度も放映されおなじみのスタジオジブリ作品が、「一生に一度は映画館でジブリを」というキャッチフレーズとともに、多くの観客を呼んでいる。

参考:宮崎駿監督は『もののけ姫』で何を描こうとしたのか 公開当時よりも響く、作品に込められたメッセージ

 『もののけ姫』は多くの観客を集めて社会現象とまで呼ばれたが、ここで振り返る、その次作となった宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』は、さらにそれ以上の大きな反響を呼んで、日本映画歴代興業収入1位という記録にくわえ、ベルリン国際映画祭最高賞、アカデミー賞長編アニメーション賞受賞など数々の権威ある賞を獲得。世界的な名作として、日本映画最大の成功作となった。

 なぜ本作『千と千尋の神隠し』は、ここまで多くの人に受け入れられ、高い評価を得たのだろうか。ここでは、その疑問の答えに迫りながら、ミステリアスな要素もある本作が何を描いていたのかを改めて考え直していきたい。

 宮崎駿監督の前作『もののけ姫』は、数々の勢力が対立する複雑な一大巨編だったが、本作は基本的に一人の少女の目線で、彼女が経験する不思議な世界でのアドベンチャーが描かれ、一見するとシンプルな物語が展開していく。だが、最後まで観ていくことで、むしろこちらの方が難解に感じられてくるのではないだろうか。なぜなら本作は、ところどころに謎めいた要素があり、お決まりの展開へと物語が転がっていかないからだ。それは新鮮でもあるし、どこか不気味でおそろしくもある。そんな深い闇のようなものが、本作には存在する。

 主人公の千尋は、友達と別れ引っ越しをしなければならない境遇に、不機嫌な態度でぶんむくれている。のっぺりとした個性的な顔立ちも特徴だ。10歳という幼さから、『となりのトトロ』のサツキとメイの中間的な雰囲気が感じられ、宮崎監督の理想を投影した美少女ではなく、見続けることで観客が愛着を持つような、絶妙なデザインとなっている。

 物語は、千尋が両親とともに引っ越し先の途中で立ち寄った、荒れ果てて廃墟になったテーマパークのような場所で動き出す。夕闇が迫り灯が点ると、そこは八百万(やおよろず)の神々や、もののけの類が集う異様な空間になり、両親は豚の姿に変えられ、千尋は元の世界に帰れなくなる“神隠し”に遭ってしまう。だが、謎の美少年ハクの導きにより、千尋はその地を支配する魔女・湯婆婆(ゆばーば)が経営する湯治場「油屋」に住み込みで働くことで、なんとかこの世界で生きることができ、次第にたくましく成長していく。

 千尋が働くことになった油屋(ゆや)は、いままでTVシリーズ『未来少年コナン』や、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)でも登場してきたような、縦に積み上げられた、閉鎖的な構造である。これは、フリッツ・ラング監督『メトロポリス』(1927年)や『やぶにらみの暴君』(1952年)で描かれた、貧富の格差が著しい資本主義社会や、絶対王政による階級社会の上下の構造を分かりやすく象徴した舞台でもある。その意味では、本作『千と千尋の神隠し』もまた、一種の搾取構造が描かれた作品だということがいえよう。

 まず描かれるのは、『ハウルの動く城』(2004年)でも扱われている、魔法契約のおそろしさである。ハクも千尋も契約によって、湯婆婆から一定の庇護を受ける代わりに危険な仕事や汚い仕事に従事させられ、油屋の利益に貢献させられることになる。

 この物語には、じつはヒントになったりベースになっている既存の作品がある。それが、チェコの児童文学作家オトフリート・プロイスラーが、ドイツの伝承を基に執筆した『クラバート』である。これは同じくチェコの、代表的なアニメーション作家の一人であるカレル・ゼマンが映像化を遂げた物語でもある。それは、こんな話だ。

 少年クラバートが、導かれるように水車小屋にたどり着くと、そこでは鬼のような親方のもと11人の若い粉挽き職人が働いていた。クラバートもそこで働くことになり、つらい仕事をこなしていくなかで、彼を助けてくれる兄弟子とも出会う。だが、そこは普通の水車小屋ではなかった。親方の正体は魔法使いであり、魔法で弟子たちをカラスに変身させ、倫理に反した“ヤバい仕事”をやらせていたのだった。12人の弟子は、毎年一人ずつ親方に始末され、新しい子どもが見習いとして一人追加される。そんな絶望的な生活のなかでクラバートは、ある少女に恋をする。そしてその少女が、カラスに変身した弟子たちのなかからクラバートを見つけ出すことで、魔法の呪いを解こうとするのだ。

 この話が下敷きにあると考えれば、『千と千尋の神隠し』の内容は、かなりの部分まで理解できるだろう。だが、本作はそれだけではない。宮崎監督は、これを新しいファンタジーにするべく、様々な要素や展開をくわえている。例えば、千尋が迷い込んだ、ノスタルジックな雰囲気の街には、精力回復を意味する「回春」という文字が見られる。これは同時に、性風俗のサービスを意味する言葉でもある。ジブリ作品で、このような言葉が出現するという事実には、ぎょっとさせられるところがある。

 油屋とは“湯屋”を暗示する名前であり、お金を払って入浴できる銭湯を示す言葉だ。そして、この“銭・湯”を暗示するのが、おそらくは本作に登場する湯婆婆と銭婆(ぜにーば)という、双子の魔女姉妹の名称であろう。

 江戸時代、地方の温泉宿では湯女(ゆな)と呼ばれる、客の身体を洗う商売をする女たちがいた。温泉宿は、やがて客の求めに応じて彼女たちに性的なサービスをさせるようになる。油屋にいる少女や女たちは、そのような湯女をモデルにしているように見える。千尋は「千(せん)」となり、名前を取り返すまでは、油屋からは出られない。これは、日本の風俗産業において古くから使われてきた、女性が仕事場で別の名を名乗るという“源氏名”にも酷似している。

 子どもたちの観客を中心に作品を提供していくスタジオジブリ作品が、このような性風俗産業を暗示するような要素を扱うというのは、あまりに常軌を逸していると感じるかもしれない。とはいえ、現在の日本社会を振り返ったとき、果たしてこの表現が本当に突拍子もないものなのかということが問われなければならないのではないだろうか。

 日本に限らず、女性は社会のなかで、見た目の美しさを他人からジャッジされたり、過度に性的な目で見られたりすることが少なくない。一定の年齢になると、少女たちは途端にそんな価値観で評価されるような現実のなかに放り込まれてしまう場合がある。性的な搾取のモチーフが暗示された油屋という場所は、現実の少女たちが置かれることになる過酷な環境を、ファンタジーというフィルターを通して、きわめて辛辣なかたちで象徴的に表現したものなのではないだろうか。だからこそ、そこで奮闘し、抜け出そうとする千尋の姿に、現実につながる普遍的な切迫感と強い説得力を感じるのではないか。

 この搾取構造からの脱出という要素と、『クラバート』の物語を組み合わせることで、本作は日本の歴史や風土からくる問題をさらにくわえた、深みのある作品となっている。だが本作の真価は、まだその先にある。この物語がさらに深い領域を垣間見せるのは、そんな物語が転換する部分にあるのだ。そして、この瞬間から宮崎監督は、優れた娯楽作の名匠から、世界を代表する芸術家であり作家になったように感じるのである。

 それが、ハクを助けるために千尋たちが銭婆の住処へと赴くエピソードだ。まず衝撃的なのは、千尋の進む方向である。『未来少年コナン』や、『ルパン三世 カリオストロの城』のように、縦の構造を使った舞台では、上に住んでいる者を、下から登ってきた者が打ち倒すという革命の構図が描かれた。そのセオリーでいうと、千尋が上層の湯婆婆を打ち倒し、契約を無効にすることで問題を解決すればいいように感じられる。しかし千尋は上ではなく、横に移動していく。

 千尋は、あくまで契約を破らずに、ルールに則ったうえでの解決を目指そうとする。それは、アニメーション作品らしくはないが、より現実的で実現可能な判断といえよう。そうなると次の目的は、銭婆を打ち倒すということになるはずだ。ここでの千尋の行動は、児童文学『オズの魔法使い』において、西の魔女をお供と一緒に倒しにいく構図を連想させるところがある。

 しかし、本作はそういう展開にもならない。銭婆は、見た目は湯婆婆にそっくりだが、じつはより理性的な魔女であり、千尋をあたたかく迎え助けてくれるのである。そして、迎えにきたハクと千尋が出会うシーンが、本作のクライマックスとなる。この展開を拍子抜けだと思う観客もいるかもしれない。だが、ここで悪者をやっつけることで問題を解決するという物語の定型が、壊されているということに注目すべきである。もともとの縦構造の世界に巣食う問題をゴリ押しで解決するのでなく、全く別の場所で、しかも予想もしなかった意外な解決法を見出すのである。

 ところ変われば考え方も変わる。湯婆婆のように、利益を追い求めて日々忙しく稼ごうとする者もいれば、銭婆のように、慎ましい生活をしながら、ゆったりとした時間を過ごすことこそが豊かさだと考える者もいる。この価値観の違いが、千尋に新たな人生経験と、広い視野を与えるのである。考えてみれば、湯婆婆のところで働き、“他人のために何かをする”ことの尊さを、すでに千尋は理解している。それにくわえ、銭婆の生き方を目にすることによって、千尋はさらにものごとを客観的に深い目で見られるようになっている。

 本作は、この成長を描くことが、分かりやすい悪役を打ち倒すことよりも大事であり、意義深いことだと主張しているように感じられる。最終試験によって千尋の鋭い洞察が光るのも当然である。そして千尋は油屋の外の世界を、自分の意志で選びとるのである。

 このように本作は、不思議な世界を舞台にしながらも、あくまで現実社会に対応した少女の成長を、かなり過激な要素をとり入れながら描ききった、希有な傑作といえるだろう。そして同時に、本作はここまで内容を解体せずとも、書いてきたようなテーマを、直感的に受け取ることができるのである。これは、宮崎監督が軸をブレさせずに一貫した描写によって自らの哲学をシーンごとに反映させているからである。そこが、広い支持を受ける要因になっているはずなのだ。

 そして特筆すべきは、そんな難解な内容を含み、大人の観客をうならせながらも、本作は子どもを喜ばせる作品でもあるということだ。筆者が本作を、公開当時に映画館で鑑賞した際に衝撃的だったのは、客席に座っていた10歳以下の大勢の幼い子どもたちが上映中に大盛り上がりしていたという事実だ。千尋が階段を猛スピードで駆け下りるシーンや、ものすごく臭い神様が油屋に現れたときの子どもたちの反応はものすごく、まるで場内の熱気が渦を巻いてるように感じたものだった。後にも先にも、筆者はここまで強烈な劇場体験をしたためしがない。

 『千と千尋の神隠し』が、日本で最も成功した映画作品となり、世界的な名作となったのは、これらの達成を踏まえると、むしろ当然のことだといえるだろう。

 最後に言及しなければならないのは、日本で当初発売されていた本作のDVDは、海外で発売されているものと比べてカラーバランスが崩れていたという事実だ。近年発売されたデジタルリマスター版Blu-ray、DVDではその問題が解決されたが、ここまで素晴らしい作品が、日本の作品なのにもかかわらず、日本人ばかりが長い間、本来の色調で楽しむことができなかったのは理不尽なことだった。

 だが、いま劇場で本作を観ることができるというのは、今度は日本に住む者の数少ない特権だといえよう。とくに映画館で本作を体験したことのないファンや、いまだ本作を観たことのない観客は、ぜひスクリーンで観ることができるこの機会に、本作の奥深さと感動を味わってほしい。(小野寺系)