『となりのトトロ』はなぜ多くの人々を感動させるのか 唯一無二の作品になった理由を解説
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これまで何度もTV放送され、国民的アニメとして定着している『となりのトトロ』。『トイ・ストーリー』シリーズにもトトロが登場するなど、海外のアニメーターや観客たちにも愛され、スタジオジブリの象徴ともなっている。そんな誰もが知り、多くのファンに愛されている『となりのトトロ』は、1988年に『火垂るの墓』とともに上映されるも、意外なことに公開当時はヒットに恵まれていなかった。
スタジオジブリ人気が広まり、宮崎駿監督が国民的な監督となっていくのは、次作『魔女の宅急便』(1989年)からだが、その公開前に初めてTV放送された『となりのトトロ』が高視聴率を取っていたことは見逃せない。つまり、『魔女の宅急便』のヒットの背景には、『となりのトトロ』が多くの視聴者の心をとらえたことが一因にあったはずである。
ここでは、作品自体の純粋な力によって多くの人に愛されるようになった、本作『となりのトトロ』の魅力の正体や奥深さを、あらためて振り返っていきたい。
物語の主人公となるのは、小学生のサツキと、妹のメイ。大学講師の父親とともに、荷物を満載したオート三輪に乗って田舎へと引っ越してきた。そこは、車や交通機関を使えば、病気の母親が療養する病院にも通える距離にあった。都会からやってきた幼い姉妹は、そこで様々な体験をすることになる。
しっかりと描かれているのは、終戦から十数年ほど経った日本の農村の風景や、そこで暮らす人々の営みである。垣間見えるのは、暮らしを描くことで人間を描くという、高畑勲監督から受け継がれている作品づくりの理念だ。
この時代は、西岸良平の漫画『三丁目の夕日』の時代設定とも重なっていて、日本人の多くが夢想する“旧き善き日本”のイメージを抱えている。本作が我々の心をとらえるのは、まずこのような、日本人にとっての一種の原風景が舞台になっているということが指摘できる。
面白いのは、サツキとメイが住むことになる、お化け屋敷のような家の造形だ。和洋折衷のデザインからなる邸宅は「文化住宅」と呼ばれ、大正時代に流行したものだ。この日本家屋と西洋建築が繋がった家屋は、日本の風土を描きながら西洋的な文化や価値観への憧れのある宮崎監督自身や、『となりのトトロ』という作品を、そのまま象徴しているようにも見える。
都会に住んでいたサツキとメイにとって、ここでの生活は不便かと思いきや、感受性の強いふたりは、一つひとつの体験に感動し、体を動かしながら生きていくことを楽しんでいく。手押しポンプによる井戸水の吸い上げや、太陽の下で食べる、採れたばかりの生のきゅうり……。かつて高畑勲監督がTVアニメ『アルプスの少女ハイジ』で描いた、魅力的な田舎の生活が、日本を舞台に描き直されているのである。
さらに、未就学児のメイの、子どもならではの視点や豊かな感受性が、本作の世界の描き方を、より精細に、深いものにしている。宮崎監督は、多くの有能なアニメーターを、同時進行で製作されていた『火垂るの墓』の方に取られたことに不満を漏らしていたと伝えられているが、本作はそんなことを夢にも思えない、作品としての質と、アーティスティックな雰囲気を持っている。なかでも美術を務めた男鹿和雄による細密な自然描写は、作品にきれいなだけではない、ただならぬ荘厳な印象をくわえている。
本作は宮崎アニメらしいファンタジックな要素も顔を見せる。サツキとメイは、“まっくろくろすけ(ススワタリ)”や大、中、小の三種のトトロ、ネコバスのような超常的な存在と出会うことになる。
かつて柳田國男は、岩手県の地方に根付いた妖怪などの伝承を『遠野物語』に編み、口伝えで残っている話を書き記した。そして、漫画家・水木しげるは、地方に伝わる妖怪の話を親しみやすいかたちで漫画やイラストで描き残している。それは、権力者ではなく民衆のなかで生まれた日本の物語であり、一種の歴史といえるものである。そんな物語の構図に、宮崎監督は自らのオリジナリティをくわえて解釈し直すことで、おどろおどろしさを払拭し、本作を誰もが受け入れやすいファンタジー作品として換骨奪胎しているのだ。
私は、かなり多くの観光客がそうしてきたように、書籍『遠野物語』を片手に、いまだ過去の姿を多くとどめる遠野市を散策した経験がある。そのときに史跡や風習を見たことで実感したのが、神道と仏教が教えるもののほかに、日本には古来より一人ひとりが体験した出来事からなる、より個人的な宗教的世界が存在しているということだ。そしてそれらは、さらに神道や仏教と部分的に融合し、山岳信仰やアニミズム、修験道などとして、山里の文化を複雑かつ賑やかにしている。
個人的な感覚と伝承との関係をとくに肌で味わったのは、遠野のある山道を登ったときだった。人の住む里と、普段は人の立ち寄らない自然の世界。その間には何か得体の知れない境界のようなものがあるように感じられた。いつしか自分が一種の異界に入り込んでいるような感覚に襲われ、突如として恐怖に似た感覚を覚えたのだった。水木しげるも、少年時代に同じような体験をしていて、その感覚を言語化して書籍に記しているように、そういった個人個人の体験が、神仏の理屈とは異なる部分で宗教性を帯びていったものが、妖怪や精霊といったものとして表現されていったのではないだろうか。本作でのメイとトトロとの出会いは、まさにそのような体験がベースにあるのではないかと思われる。
メイがトトロに出会った後、父親はサツキとメイを連れて、あらためて“樹木の精霊”であると思われるトトロに挨拶に行くが、樹の側にある社(やしろ)ではなく、樹木そのものに頭を下げる描写も、興味深い部分である。ここで表現される自然への敬意というのは、権威的な大きな宗教が広まる以前の、より人間と自然が身近にあった頃のプリミティブなものではないのか。
同時にトトロという存在は、創造力豊かだが周りに友達のいないメイが作り上げた“イマジナリー・フレンド”としての側面も持っている。本作のエピローグには、ノルウェーの絵本『三びきのやぎのがらがらどん』が登場する。そこに登場する、兄弟のやぎたちを脅す伝説上の怪物“トロル”に似たトトロが、メイの孤独をなぐさめてくれた状況というのは、いつも絵本を読んでくれていた母親への思慕が反映された、メイの幻想であり願望であったように思われるのだ。
つまり、“トトロに会う”というのは、幻想に遊ぶという行為であり、その幻想にアクセスするためには、創造力や感受性が必要だということではないのか。サツキとメイの両親の素晴らしいところは、彼女たちの見る幻想の世界を、ただの夢だと決めつけず、興味深く聞くという部分にもある。もし両親がサツキやメイに、「そんなバカなこと言ってないで勉強や家事でもしていなさい」などと叱っていたとしたら、これ以上の奇跡は起こらかったのではないか。
このような描写から、人間が豊かに“生きていく”ということは、そこでただ生活したり、金銭を稼ぐということだけではなく、空想したり、小さな発見を繰り返すような、実利とは結びつかない要素が必要だという、監督のメッセージを感じるのである。
少し離れた隣家のおばあちゃんは、サツキとメイを自分の本当の孫のようにかわいがり、仕事に追われる彼女たちの父親に代わって、何かと世話を焼いてくれるようになる。その出会いは、サツキとメイがまっくろくろすけを見た体験と結びついている。おばあちゃんもまた、サツキやメイが見たものを少女の頃に見ているのだというのだ。ことによると、彼女もトトロに会っていたかもしれない。おばあちゃんがサツキやメイにただならぬ愛情を向けるようになったのは、少女時代の同じ創造力を持った同志であり、自分が失くした大切なものをそこに見たからではないだろうか。
サツキとメイを通して描かれるのは、感受性や創造力だけではない。作中の数々の描写を見ていると、幼いメイは自分以外の人間に対して思いやりを持つことが、まだ不十分であることを示唆している描写が散見される。もちろん、それは年齢からいえば無理のないところである。
それがよく分かるのが、メイが寂しさからサツキのいる小学校にやってきてしまう場面だ。多感な時期のサツキが、このことによってクラスメートたちに奇異な目で見られるというのは、非常に恥ずかしいことだったはずだ。しかしサツキは、メイをきつく叱るようなことはしない。それは、サツキにメイの心情を察する思いやりがあるからだ。しかしその帰り道、突然の通り雨に遭った姉妹は、隣家のカン太が傘を貸してくれるという経験をする。カン太にはサツキに対する親切心以上の複雑な感情が存在するのだが、そのような自己犠牲的に見える行動は、少なくともメイには良い影響を与えていたのではないか。
それが、母親が死んでしまうかもしれないという不安にかられたサツキが大泣きするシーンに結びついていく。いつも明るい姿ばかりを見せていたサツキも、まだまだ子どもであり、母親にいつも側にいてほしいという感情を隠さなくても良い立場のはずである。しかし、自分がしっかり者の姉でなければいけないという義務感から、メイの前では弱いところを見せないようにしていたのだろう。頼ることのできるおばあちゃんとふたりきりになったことで、感情が抑えきれず大泣きしてしまうのだ。
その姿を、離れたところからメイは見ていた。メイはそこでおそらく初めて、自分以外の人間のために行動しなければならないという、強い義務感と覚悟を持ったはずである。サツキのためにも、とうもろこしを母親の病室に届け、病気を治したいという思いつきは、結果としてはサツキを心配させ、村に騒動を起こす事態へと発展してしまう。だがそれでもメイは、誰かのために力を尽くすことのできる人間へと成長したのだ。
そして、行方不明になったメイを探すため、何度も全力疾走を繰り返すサツキの姿にも、我々は胸を打たれることになる。このように、誰かを大切に思い助けようという気持ちは、普遍的な感動を呼び起こす。それは、ただその描写が素晴らしいというより、宮崎監督が本作で積み上げてきた、巧みな人間描写の数々が下支えすることで花開いた瞬間でもあるといえよう。
宮崎監督が評価するアニメーション作品には、ロシアの『雪の女王』(1957年)や中国の『ナーザの大暴れ』(1979年)のように、愛する者を守るための自己犠牲的な描写のある作品が多い。これらは、ただの美しい人間性というよりは、一種の激情をともなう無謀さをはらんでいる。愛する者のために、理屈を飛び越えて突き進む激しい感情、これこそが宮崎監督の表現の核にある部分である。それがいささか常軌を逸しているからこそ、この激情は我々の心を強く揺り動かす。
だが、この深刻な終盤の事件は、あっけないほど華麗に、マジカルな解決を見せてしまう。もはやメイの幻想を超えて、現実の世界にトトロたちが奇跡を起こしてしまっているのだ。そのことで、ここで解説してきたような、作中の文学的な描写は、部分的にぶっ飛んでしまう。しかし、この展開の強引さが、本作にむしろ非凡な印象を与えているのも確かなのである。これは宮崎監督が、この姉妹を幸せにするために作品に与えた、一種の“デウス・エクス・マキナ(古代ギリシア演劇における都合の良い展開)”であり、ここまで宮崎監督自身が本作で行ってきた、現代的でリアルな物語づくりのバランスを破壊するような表現である。ここでは、宮崎監督自身が、ある種の狂気ともいえる激情に突き動かされているようにすら感じられるのだ。
宮崎監督が信奉する作品のなかに、『やぶにらみの暴君』(1952年)という、フランスの劇場アニメーションがある。これは監督のポール・グリモーの意志に反して、不完全な状態で公開され、それでもアーティスティックな内容が評価を集めた作品として知られている。その後、監督自身がふたたび手がけ、納得するかたちで完成させた作品が、『王と鳥』(1980年)として公開し直された。これも素晴らしいアニメーションだが、宮崎監督は、比較的唐突なかたちで終わっている『やぶにらみの暴君』の方を、より高く評価しているのだという。
実際に『やぶにらみの暴君』を観ると、たしかに宮崎監督の気持ちは理解できる。『王と鳥』は端正なつくりで、納得のいくラストを迎えるのだが、それは定型に従った、よくあるオーソドックスなハリウッド大作のような展開だともいえる。そのような定型から外れた『やぶにらみの暴君』の、理性から脱出するようなパワーが、『となりのトトロ』のラストまでの怒涛の展開に見られるのである。
考え抜かれた描写の数々に、このバランスを崩した描写がくわわったことで、本作は唯一無二の特別な作品となっている。そこに息づいているのは、理性や計算だけではたどり着けない領域の感覚である。宮崎監督は、狂気にも近い自身の激情を武器に、そこにたどり着いた。だからこそ『となりのトトロ』は、多くの人々に正体不明の強い感動を与えることになったのだ。そして同時に、後のクリエイターにとって超えることが難しい奇跡の一作となったといえるのである。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト
■放送情報
『となりのトトロ』
日本テレビ系にて、8月14日(金)21:00〜22:54放送
※ノーカット放送
原作・脚本・監督:宮崎駿
音楽:久石譲
声の出演:日高のり子(「高」はハシゴダカが正式表記)、坂本千夏、糸井重里、島本須美ほか
(c)1988 Studio Ghibli