必殺技やコスチュームがカギ? 『ヒロアカ』『スパイダーマン』『るろ剣』などにみるヒーロー論
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『鬼滅の刃』『約束のネバーランド』『ハイキュー!!』……『週刊少年ジャンプ』の人気漫画が、次々と完結した2020年。先日は、『アクタージュ act-age』が原作者の不祥事により急転直下の連載終了となり、世に衝撃を与えた。
そんな中、『ONE PIECE』と共に看板漫画の一角として気を吐いているのが、『僕のヒーローアカデミア』(以下、『ヒロアカ』)だ。シリーズ累計発行部数は2700万部を突破しており、TVアニメは第4期まで放送され、第5期が制作進行中。
劇場版はこれまでに2作制作されたが、第2作『僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ヒーローズ:ライジング』は、日本での大ヒットだけでなく、北米で公開された日本のアニメ映画の歴代興行収入で第8位に。『千と千尋の神隠し』をしのぐ好調ぶりを見せつけた。
『ヒロアカ』が日米で人気なのは、アメリカンコミックの要素を存分に注入し、「友情・努力・勝利」の“ジャンプ魂”と融合させた点にあるだろう。また、作中に『アベンジャーズ』『バットマン』『X-MEN』『ターミネーター』『エイリアン』『スター・ウォーズ』等々、ハリウッド映画の小ネタが無限に仕込まれており、映画ファンの心をくすぐる仕様になっている。
そしてまた、『ヒロアカ』が興味深いのは、日本のマンガ・アニメ作品の中でやや異質といえる「ヒーロー論」を打ち立てている点。かといって、アメコミの要素をそのまま持ち込んでいるのではなく、ウルトラマンや仮面ライダー、戦隊ものなど、この国で連綿と続いてきた「ヒーローの概念」を踏まえたうえで、説得力のあるものに仕上げている。
今回は、この『ヒロアカ』がつまびらかにした、日本におけるヒーロー作品の特徴とアメコミ作品との差異、近年の国内ヒーロー作品における“進化点”を、実写映画やアニメ作品を中心に考察していきたい。
まず、『ヒロアカ』の設定で興味深いのは、「ヒーローが資格制の職業であること」だ。いわば公務員的な扱いで、プロヒーローは数々の資格試験をクリアし、免許を取得しなければならない。
なぜそのようなルールが課されているのか? 『ヒロアカ』の世界は総人口の約8割が“個性”と呼ばれる特殊能力を有しており、法整備を行わなければ個々が力を自由行使し、秩序が崩壊するから。
これは、Amazonオリジナルドラマ『ザ・ボーイズ』にも共通する設定だ。こちらではヒーローが能力を悪用し、性犯罪や殺人が横行していくさまがショッキングに描かれていくが、超人社会では常にその危険が付きまとう。『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』での戦いを受けた『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』で、アベンジャーズを国際連合の管理下に置こうとする「ソコヴィア協定」が生まれたのも、同様のテーマといっていい。
ディズニー/ピクサーの『Mr.インクレディブル』シリーズもまさにそうで、こちらはスーパーヒーローを持て余した政府が、彼らを引退させた世界が舞台だ。主人公は政府の決定により失職し、保険会社に務めるサラリーマンとなる。ヒーロー活動を禁止されてしまうのだ。
対して、『ダークナイト』をはじめとする『バットマン』シリーズにおいては、法の整備がないことで、バットマンもジョーカーもひっくるめて「犯罪者」として扱われることに。バットマンを「自警団(ヴィジランテ)」とみる向きもあるが、現行の法に照らし合わせれば、行いは英雄的であっても認可できないものとなる(これは法で裁けない悪党を秘密裏に制裁する『デアデビル』も近しい)。
個性(特殊能力)の使用を法で制限することで、社会の“力の均衡”を保つ。このシビアな設定は、これまでの日本のヒーロー作品ではあまり見られなかったものだ。『ウルトラマン』の科学特捜隊や『科学忍者隊ガッチャマン』のように「平和を守る組織」として社会とコネクトするものはあれど、どこか性善説的というか、「能力を悪用する」という側面は強くは描かれてこなかったように感じる。
ただ、近年では『文豪ストレイドッグス』の内務省異能特務課、超能力ではないが力の行使という意味での『PSYCHO-PASS サイコパス』のポジションなど、「制限する」という意味合いを強めた作品も多数生まれてきており、『青の祓魔師』や『呪術廻戦』など、強大すぎる力を秘めた主人公を“武器”として育てるというストーリーも存在。「性善説」と「性悪説」が混沌とした時代に突入してきたといえるだろう。
また、「ヒーローが職業になり、金銭の譲受が発生する」という設定は、サム・ライミ版『スパイダーマン』で描かれた「ヒーローはボランティア行為で、食い扶持は他で稼がなければならない」不遇に対する救済措置ともいえる。そして、この構造が発展していくにしたがって、「密かに悪をくじく」的なヒーローの情緒は薄れていく。トニー・スタークが「私がアイアンマンだ」と公表したように、ヒーローは皆に知られた存在になっていくのだ。
しかしそれは同時に、ヒエラルキーを生み出す原因にもなってしまい、『ミスター・ガラス』で描かれた「能力者狩り」、『LOGAN/ローガン』での「ミュータント狩り」等々、新たな脅威が台頭していく。「異分子を排除する」という動きは人類史とも密接に結びついたものでもあるが(『ゲゲゲの鬼太郎』でも差別は重要なテーマ)、ヒーロー映画の流れを見てもどんどん複雑化しているのが興味深い。
このように、『ヒロアカ』に見られる「現代社会をベースにしたうえで、どうヒーロー作品を展開させるか」は、それぞれに独自の“世界”がある『ONE PIECE』『NARUTO ナルト』『BLEACH』といった近年の『ジャンプ』のヒット作と一線を画すものであり、アメコミや洋画からの影響を強く感じさせる。しかし今や、『アベンジャーズ』や『ダークナイト』の存在もあり、日本でもなじみあるものに変わりつつあるのも、確かだ。
ここまで、『ヒロアカ』の基本設定、つまり“ヒーロー論”における海外作品との共通項を語ってきたが、ここからはより細部にわたって、本作の独自性をみていこう。ずばり「必殺技論」と「コスチューム論」だ。この2つはいずれも「ザ・日本」な特質であり、これをハリウッド的なヒーロー論にどう組み込んでいくか、その趣向を凝らした工夫の数々が『ヒロアカ』の面白さなのだ。
まず「必殺技」だが、日本のヒーロー作品は、往々にして技名を叫ぶ。『ドラゴンボール』『ジョジョの奇妙な冒険』『ONE PIECE』『NARUTO ナルト』『BLEACH』……『銀魂』でネタにされるほど、当たり前とされている様式美だ。これは一説には武士の「名乗り」文化の影響があるとも言われているが、日本人にとってはごくごく当たり前のものといえる。
しかし、マーベル作品やDC作品を観ても、そのような描写はあまり見受けられない。では、世界観がそちらにも共通する『ヒロアカ』は、この問題をどう処理したのか? それは「名は体を表す」という思考だ。『ヒロアカ』では技名を叫ぶ方法論をとりつつも、そこに必然性を付加しようとしていく。
まず、技名を叫ぶ前に、プロヒーロー養成学校に入った主人公たちが課されるのが「コードネーム(ヒーロー名)の考案」。原作の第45話「名前をつけてみようの会」では、プロのヒーローとして世間に認知されるためにも、ヒーロー名は必要不可欠、といった説明がなされる。
ここに関しては、『スパイダーマン』等でも主人公が「ヒューマン・スパイダー」と名乗るも「スパイダーマン」にされる、といった一コマが描かれており、アメコミとも共通する部分といえよう。逆に言えば、日本のヒーロー作品では主人公が新しく「ヒーロー名」を背負う、という流れ自体が珍しい。
『ヒロアカ』ではさらに、代々ヒーロー名を受け継ぐヒーロー一家の存在なども入れることで、“名前の重み”も描かれていく。この襲名のプロセスは、歌舞伎などの伝統芸能も彷彿させ、日本的なエッセンスも入っているといえよう(『NARUTO ナルト』でいうところの火影、のような意味合いだ)。
このような前提があったうえで、「必殺技」をどう処理していくのか。原作の第100話「編め必殺技」では、「状況に左右されずに安定して力を発揮するために、得意の型・技を作ることが必要」というロジックが展開する。つまり、技名をつけることで、脳と身体に動きをインプットさせ、いつでも出せるようにするということ。これは、『青の祓魔師』でも言われていることだ。
これはある種、剣道・剣術の考え方にも近いかもしれない。『るろうに剣心』でも、『鬼滅の刃』でも、師から弟子へと受け継がれてきた「型」や「流派」があり、その延長線上に「技」が存在する。それを叫ぶということは、己が何者であるかを宣言するものでもあるのだ。
『ヒロアカ』でも、ヒーロー名と同様に「技は己を象徴するもの」とされ、周囲に認知されるためにも、ヒーローは必殺技を叫ぶのだ、と語られる。日本の伝統的な思考に、「ヒーローは民衆の憧れであり、ある種のタレント」という海外の感覚を足した結果、「叫ぶ“必然性”がある」という流れを構築しているのだ。
そして、「コスチューム論」。これは、日本の伝統的な「変身」文化と、アメコミにおける「着替える」文化の違いがあるように思う。日本の作品では、変身・あるいは変化することが多い。『仮面ライダー』に『ウルトラマン』、『BLEACH』に『美少女戦士セーラームーン』……主人公がヒーローになる際に、平常の姿とは異なる状態に「変わる」のが、日本のヒーロー作品の花道だ。『ONE PIECE』の「ギア」、『ドラゴンボール』の「スーパーサイヤ人」も、この系譜にあるといえよう。
それに対して、『スパイダーマン』や『バットマン』などでは、正体を隠すためもあるが、コスチュームを着ることが、ヒーローへのスイッチとなる。ハルクやソーは「変化」だが、アイアンマンもキャプテン・アメリカもコスチュームを着て、モードの切り替えを行う。『ヴェノム』は「変身」に近いが、どこか二人羽織のように描かれており、これも「着替える」の発展形といえるかもしれない。
ベースは普段のキャラクターのまま「着る」文化と、ベースから変わる「変身する」文化。どちらもヒーローを描いてはいるが、アプローチの違いが面白い。そして『ヒロアカ』では、どちらもミックスした形態を用いている。
まず、「コスチュームを着て街に出ればヒーローだ」というセリフがある通り、コスチュームはプロヒーローのみに許された特別な「ユニフォーム」であり、着ることがヒーローの証、という設定が敷かれている。そのうえで、主人公・緑谷出久は「ワン・フォー・オール フルカウル」という技を取得することで、「変身」に近い姿になっていく。コスチュームを着てヒーロー活動を行い、さらにそこから変身する、という2段構えになっているのだ。
また、ヒーローの代名詞ともいえる「マント」についても、「マントで体を隠すことで動きを見えなくさせる」戦術や、「ヒーローがマントを羽織るのは! 痛くて辛くて苦しんでる女の子を包んであげる為だ!」というセリフに象徴されるような、救助や救命のアイテムとしての役割も付加しており、細部までみていくことで独自の「コスチューム論」が浮かび上がってくる。アイアンマンのパワードスーツのように、歴戦の中でキャラクターたちのコスチュームがアップデートされていく、という展開も熱い(コスチュームやサポートアイテムを作る技術者についても、細かく言及される)。
ちなみに、『ヒロアカ』だけでなく、実写映画『るろうに剣心』のアプローチも実に意義深い。原作では、剣心は登場時からトレードマークといえる赤い着物を着ているが、実写映画ではあえて地味な着物を着せて登場させ、ファンにかすかな違和感を与える演出をとっている。
しかしこれが、剣心が中盤で赤い着物に「着替える」ことで、「ヒーローとしての覚醒」を促すトリガーとして使われているのだ。このロジックは、上に挙げたようなアメコミ的感覚に近く、本作を現代の感性で実写化するにあたって追加された、粋な計らいといえるだろう。
また余談だが、「変身」でなく「着替える」動きは、“支持者”を増やすことにもなっていく。『アメイジング・スパイダーマン2』のラストで描かれた感動的な「ちびっこスパイダーマン」のシーンは「着替えてヒーローになる」だからこそ描けたものだし、『ジョーカー』でピエロマスクのフォロワーが増えていくおぞましいシーンも、共通点を感じさせる。こちらは逆に、「着替える」文化ならではの特長ではないだろうか。
長々と書いてきたが、多様なヒーローの在り方・描かれ方がミックスされてきた現在は、制作国を問わず、“共通認識”が生まれる土壌が育ってきているフェーズともいえる。その好例が『ヒロアカ』であり、今後その動きは加速していくだろう。ヒーローたちの未来から、目が離せない。
■SYO
映画やドラマ、アニメを中心としたエンタメ系ライター/編集者。東京学芸大学卒業後、複数のメディアでの勤務を経て、現在に至る。Twitter
■リリース情報
『僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ヒーローズ:ライジング』
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・Blu-ray通常版:4,800円(税別)
・DVD通常版:3,800円(税別)
原作・総監修・キャラクター原案:堀越耕平(集英社『週刊少年ジャンプ』連載)
アニメーション制作:ボンズ
発売・販売元:東宝株式会社
(c)2019「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE」製作委員会 (c)堀越耕平/集英社