実写とアニメの境を見直す杉本穂高の連載開始 第1回は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』評
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はじめに
連載を始める前に、この連載意図を記しておきたい。前置きとしてはやや長いかもしれないが、お付き合いただけると幸いだ。そんなのどうでもいいので、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』について読みたいという方は飛ばしてしまっても構わない(3ページ目から本論です)。ただ、この前置きを読んでおくと、本論の理解は深まるはずだ。(本稿には、『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のネタバレが含まれます)
現代における「アニメーションならでは」という言葉のいびつさ
アニメーション映画に関する文章で、「アニメーションならではの」という言い方を見かける機会は数多い。
アニメーションに対置される映画のジャンルは「実写」である。しかし、アニメーションならではの魅力は常々言われるのに、「実写ならではの魅力」が語られることはほとんどないのはなぜだろうか。
それは、「アニメーションならでは」という言葉を使う時、多くの人が「映画は基本的に実写である」ことを前提にしているからだろう。
これを例として持ち出すのは不適切かもしれないがあえて書いてみる。女性監督の作品に今さら「女性ならでは」の感性を見出していたら差別的だ。それは映画監督は男性であるという前提に立った物言いだからだ。女性監督も男性監督と同様、全て固有の作家のセンスが語られねばならない。アニメーション作品も同様ではないか。
そもそも、現代映画において、何が実写で何がアニメーションであるのか、明白に切り分けることが可能だろうか。デジタル化によって実写映画も、自由に現前しないものを描くことができるようになり、アニメーションもデジタル化によって実写映画と遜色ない奥行きとカメラワーク、レンズ効果を獲得し、実在感を強めている。モーションキャプチャは、細かい表情筋の動きまで再現を可能にしている。
今井隆介氏は、実写とアニメーションを以下のように区別する。
「実写映画とアニメーションはともに映像でありながら全く対称的な関係にあり、それぞれ〈かつてあった〉運動の視覚的再現と〈かつてなかった〉運動の創造とに役割を分担し、車の両輪のようにして映像メディア史を牽引してきた」(映像テクストからみるカートゥーン・アニメーションの誕生ーー映像装置における「再現」から「創造」へのメディア・シフト)
しかし、この両者はデジタル化によって、対称的な車輪の両輪から、急速に近似的なものへと変化してきているのではないだろうか。
アニメーションが実写を飲み込もうとしているのか、実写がアニメーションの表現力を獲得しその個性を奪っているのか、そのどちらなのかはわからない。あるいはその両方が同時に進行しているのかもしれない。
いずれにしても、実写とアニメーションの近接の時代に「アニメーションならでは」の魅力を語ることがまだできるのだろうか。その魅力の一部は確実に実写に溶け出しているし、アニメーションもまた、実写に迫る写実性と再現性を獲得している。
映画の前提はそんな風にドラスティックに変化している。しかし、映画をめぐる言説は未だに「実写/アニメーション」の二分法的思考が前提となっているのではないか。
映画は本当に写真が動いて始まったのか
映画の始まりは、リュミエール兄弟とエジソンの発明であるのは常識だ。
しかし、この2組が突然写真を動かそうと思いついたわけではない。画を動かしたいという欲望はそれよりもずっと前から存在した。
17世紀にはオランダ人クリスティアン・ホイヘンスがスライド式のマジックランタンを発明した。ドイツ人アタナシウス・キルヒャーは、雲母の円板に幾つかの絵を描き、回転してスライドさせることで絵が動くようにみせたらしい。エジソンのキネトスコープの発明よりも200年も前のことである。(『漫画映画論』、P9、今村太平)
日本映画黎明期の映画評論家、今村太平は『漫画映画論』の中で、エジソン、リュミエール兄弟以前の「映画の前史」に触れて、動く絵と映画の関係についてこう語っている。
「動く絵が映画の原始であるのは、そこに絵を動かす以外何の目的もないからである。絵が動くという驚異、これが動く絵の与えるすべてである。そしてこれこそ映画の本質であり、活動写真それ自身である」(『漫画映画論』、P7、今村太平)
エジソンとリュミエール兄弟が映画の始まりとされているのは、この2組が写真を連続して投射することを可能にしたからだ。フィルムに写された「実写」が動いた時、映画が生まれたとされている。
しかし、今日、映画である条件はフィルムであることと言えるだろうか。フランスの偉大な映画批評家アンドレ・バザンは、映画を写真についての考察を基礎として考えた。写真には本質的に現実を写し取る「客観性」があり、映画はその客観性を時間の中で表現するものだとバザンは考えた。この理論が、デジタル時代にもそのまま通用するかどうかは多くの識者が議論していることだ。なぜならデジタルという素材は、客観性を担保するにはあまりにも手軽に可変可能だからだ。
しかし、映画の本質を、動きを記録・再現することではなく、「ゼロから運動を創造すること」だとしたらどうなるだろうか。もし、そう仮定したら、エジソンやリュミエール兄弟の200年前に動いていたマジックランタンによる運動の創造もまた映画だったのだと言えるだろうか。ひいては、デジタル時代のノンフィルムの映像も映画と言えるようになるだろうか。
このような歴史観に立ってみると、アニメーションは映画の中の特殊なサブジャンルには全く見えなくなってくる。
今後、映像文化が何世紀先まで続くのかわからないが、映画に運動の再現性や客観性が必要だとする考えは、20世紀の間だけの特殊な考え方になるかもしれない。
ものすごく大げさなことを言うと、これまで信じられてきた映画史は「実写主義史観」すぎたのではないか。アニメーションと実写の接近と融合が進んでいる今起きているのは、20世紀的な価値観の転覆であるように筆者には思える。
時計の針を進める
大それたことを言えば、この連載は、その時計の針を早めることを目的にしている。そのために、この連載ではアニメーション作品を実写を語るように語り、実写映画をアニメーションを語るように語る。
実写映画に見られたようなカメラの写実性をアニメーションに積極的に見出そうと試み、実写映画が描き続けてきたテーマや題材が、今日いかにアニメーションが巧みに語っているかを語る。さらには、これまでの実写映画に見られた記録性を、アニメーションに見出すかもしれない。
一方、これまでアニメーションの特性とされてきた、ゼロからの運動の創造や原形質的なものを実写映画の中にも見出したりもするだろう。時には、アニメーションと演劇の芝居の近さを語るかもしれない。そのほか、実写/アニメーション双方の作り手たちの相互影響を論じたり、様々な視点で「実写/アニメーション」の二分的思考を乗り越えることを試みる。
正直言えば、本当にそのような語り方が可能なのか、100%の自信があるわけではない。しかし、時には蛮勇も必要だろう。この連載が、実写しか楽しめない人や、アニメしか楽しめない人を減らし、両方を楽しめる人が増える助けになればいいなと希望を抱きながら、無謀な試みに挑んでみようと思う。
まず、最初の試みとして京都アニメーションの『劇場版 ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』を、黄金時代のハリウッドが確立したメロドラマの作法で論じる。
アニメのメロドラマ的想像力『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』は美しい映画だ。「美しい」という言葉からあふれ出さんとするほどに美しくあろうとしている。
登場人物が美しい、背景が美しい、小道具も衣装も、服や髪を揺らす風も、光も、画面に映るすべてが美しくあろうとしている。なにより、タイトルが美しい。
その過剰な美しさは、もはや現実にはない領域へと向かっている。絵空事だと言いたいのではない。リアリズムの原則から自由であるのだ。
この過剰さは、黄金時代のハリウッドが極めた「メロドラマ」のスタイルに基づいていると筆者には思える。戦争が引き裂く男女、届かない手紙、暗喩的に示される抑圧、登場人物の感情を高らかに代弁する音楽、舞台、照明、構図、そして観客が流す涙などなど。本作のあらゆる美学がメロドラマ的だ。
メロドラマとは本来、何か。そして、メロドラマ的美学が本作をいかに傑作たらしめるのかを解説してみることにする。
メロドラマとは「チープ」ではない
メロドラマは誤解されやすいジャンルだ。「チープなお涙ちょうだいもの」というイメージを持たれることが多く、いまだに作品を貶める蔑称として用いられることもある。しかし、それは間違いだ。
メロドラマとは、人間の真の感情に迫るための演劇的、映画的装置であり、観客をある感情の高みへと導き解放するものだと筆者は考えている。
元々、メロドラマの「メロ」とはメロディ、つまり音楽を指している。映画史家の四方田犬彦氏は、メロドラマの起源は17世紀のイタリアであると紹介している。(※1)
それがフランス革命の前後から、悲劇に代わり、ブルジョワジーの道徳観を表現する形式として定着していったそうだ。フランス革命後、自由・平等・博愛を理想とする社会に邁進するフランスで、王権なきあと、平等の実現についての希望をうたったものとしてメロドラマは流行したと、メロドラマの価値を最初に見出した名著『メロドラマ的想像力』にてピーター・ブルックスは語っている。平等にとって妨げとなる抑圧的なもの、身分や社会的秩序、あるいはジェンダー差別などに翻弄される主人公を通して、自由と平等の希求が語られた。(※2)
メロドラマは、そのスタイルゆえに安っぽいものだと誤解を受けやすい。メロドラマは基本的に、役者は感情を大げさに表現し、善玉と悪玉がわかりやすく割り振られ、画面はあらゆる方法で登場人物たちの感情を表現しようと試みる。時にはリアリズムを無視した展開を見せることもあり、とにかく、観客に強い情動を呼び起こすように作られる。
映画評論家の加藤幹郎氏は、映画におけるメロドラマは「過剰なまでに画面が饒舌」であると語る。
「メロドラマにおいては、いつも画面が、その色彩や形態、そしてこれは次に見ることですが、主人公が実際に立っている場所の背景、小道具などのセッティングが、高まる音楽と相まって、いつも何事かを観客にたいして、実に饒舌に―ときに声高に、ときに囁きかけるように語りかけるということです」(※3)
続けて、加藤幹郎氏は、メロドラマの過剰な饒舌さが弱者の声を代弁するものとして機能してきたと言う。
「メロドラマには負のメロドラマと正のメロドラマがあります。負のメロドラマとは弱者の吐く(本来なら他人の耳に届くはずのない)弱音です(「弱音」とは、ここで「よわね」であると同時に「じゃくおん」であることに気をつけてください、つまり弱者の吐く弱音には社会的ミュート[弱音器]がつけられていて、弱い音しか出せないのです)。正のメロドラマとは弱者の見る幸福な夢です。前者において弱者は外圧に翻弄されるまま死んでしまいます。後者においては弱者は嘘のようなハッピー・エンディングをむかえます」(※4)
メロドラマとは、そんな抑圧された人々の小さな声を拡大する装置だからこそ過剰である必要があり、それゆえに人間の実存を掬い取ることができるのだ。メロドラマに大きな影響を受けた映画監督トッド・ヘインズの言葉が示唆的だ。
「1950年代のメロドラマの外観とスタイルは、決してリアリスティックでないけれども、そこには映画の感情的な真実についてのほとんど不思議なほど的確な何かがある。ハイパーリアルなんだ」(※5)
人は囚われ、手紙は舞う
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が、いかにして抑圧された人々の感情を画面に表出させているかを見ていこう。
ファーストシーン。薄暗い室内から窓の外を見るデイジー・マグノリアの姿を、カメラが室内から捉える。窓の外には、室内と対照的に豊かな緑と晴れやかな青空が広がっている。広い外の世界に出ることができないでいるかのようなデイジー、そして両親との不和をほのめかす会話が続く。
祖母の古い手紙を見つけたデイジーは、ガラスに覆われたテラスでそれを読み上げる。デイジーの祖母、アン・マグノリアの回想が手紙に合わせて挿入されていく。この回想シーンは全て室外の明るい場所で展開され、室内にいるデイジーと対照をなす。その手紙を突如吹く風がどこかで運んでいく。手紙の行方を追うデイジーをカメラは、狭いガラスのフレームに閉じ込められているように映す。
メロドラマの巨匠、ダグラス・サークは、画面上に窓や鏡などの「フレーム内フレーム」で、抑圧された女性を暗喩した。本作の冒頭でも、デイジーをガラスと窓を使って抑圧されている様を暗喩している。対照的なのは手紙だ。風に舞う手紙は小さく空いた窓の隙間から、抑圧をかわすかのように自由に飛び立つ。
この映画において、人は不自由だ。ヴァイオレットもギルベルトも、ディートフリートも何かに囚われている。
主人公のヴァイオレットは、2つの想いに囚われている。1つは帰ることのないギルベルトへの想い。もう一つは、自動手記人形(ドール)として、人々の想いに答えねばならないという、職業人としての責務だ。彼女は、祭りの日にさえ夜遅くまで仕事をしている。ドールの仕事は、かつて、戦争しかしらなかったヴァイオレットを、戦場の悪夢から解放したと言える。多くの人の心を救ったことを彼女は誇りに思っているだろう、しかし、責務への没頭がある種の抑圧にもつながっていることも確かだ。
ヴァイオレットは、その抑圧を顔にも言葉にも出すことはない。放っておけばいつまでも仕事を止めなさそうな彼女は、義手の調子が悪くなってはじめて作業の手を止める。一息の間をおいて帰らぬギルベルトへの想いを綴りだす彼女をカメラが窓外から捉える時、窓のフレームがまるで十字架のように彼女の顔を覆っている。まるではりつけられているかのように。
メロドラマはなぜ泣けるのか
イギリスの映画研究者スティーヴ・ニールは論文「メロドラマと涙」で、メロドラマが泣ける謎を解き明かす。ニールは、「メロドラマの物語的論理の鍵は、リアリズムや自然主義ではなく、むしろ、観客と登場人物の間に知識と視点の不一致をつくり出す」ことにあるという。(※6)
観客がすでに知っていることを、登場人物が遅れて見出すことによってペーソスが生まれ、観客は涙する。その気づきが遅かったりタイミングが悪すぎた場合、物語はハッピーエンドとならず、ギリギリ間に合えばその逆となる。「遭遇が遅すぎるにせよ、なんとか間に合うにせよ、そこに遅延と、間に合わないかもしれないという可能性があれば、涙はこみ上げてくるのだ」(※7)
そして、登場人物が気づくまでの間、観客はいかなる介入もできない。その無力さから涙が生じるとニールは結論づけている。
これは、本作のTV版第10話の構成を考えるとわかりやすい。ヴァイオレットは、余命幾ばくも無いクラーラの娘への50年分の手紙を代筆する。これから50年間、娘のアンの元に手紙が届くことをヴァイオレットは知っており、アンはそのことを知らない。ヴァイオレットは、アンのこれからを想い、物語の中で初めて他者を想い泣きじゃくる。この10話のヴァイオレットとアンの関係の構図は、そのまま本作の観客とヴァイオレットと同じ構図である。
本作において、登場人物と観客の知識の最大の不一致は、観客はヴァイオレットよりも先にギルベルトが生きていると知らされることである。観客はいつヴァイオレットがそのことに気づくのか、そして、それがどんなタイミングでやってくるのかに心を乱される。
なぜタイミングを気にするのか。それは、本作のもう一つの大きなストーリーラインである、病魔に蝕まれる少年ユリスの最後の手紙の仕事が残っているからだ。仕事と愛の相克とも言える、ある意味ベタな展開であるが、石立太一監督と京都アニメーションの演出力と吉田玲子の構成力は、とことん過剰に、饒舌に、最大級の劇的さでもってこの衝突を描いている。
ユリスの死の知らせが、遠く離れた島にいるヴァイオレットにもたらされた時、観客はすでに彼女が絶対に間に合わないことを知っている。島に向かうまでに汽車と船を乗り継ぎ、外はひどい嵐である。急いで戻ろうとするヴァイオレットはすでに遅すぎるし遠すぎる。
しかし、ここでその距離を、新しいテクノロジーである電話機が一気に詰めるという奇跡を起こす。負のメロドラマ的運命のいたずらを覆すこの「いまいましい機械」の活躍に立ち会ったのは、その機械を一番いまいましく思っているアイリスだった。
タイミングということで言えば、電話機が普及し、ドールの仕事が脅かされているという「いまいましい」時期だからこそ、ユリスは親友に想いを伝えることができたと言える。ヴァイオレットは間に合わなかったけれど、電話機の普及は間に合ったのだ。
この一連のシークエンスは、観客が知っている情報と登場人物が知っている情報の整理と、それに気づかせるタイミングも、盛り上げる演出力も、時代設定も、メロドラマとしてこの上ない次元に達している。吉田玲子脚本の類まれなる構成力と京都アニメーションの画面構成力が非常に高次元でマッチしていることを証明するシークエンスと言えるだろう。
涙は明日への希望なり
1950年代、メロドラマの巨匠ダグラス・サークはアメリカンドリームの中で抑圧される女性たちを描いた。メロドラマはミュートされた弱者の本音を代弁するための物語だと先に書いた。本作において抑圧された弱者はヴァイオレットのような女性だけではない。
強権的な兄の元で様々なことに耐えていたギルベルト。ヴァイオレットを戦場で道具として扱うしか選択肢のなかった自分を呪って、彼は自責の念という牢獄の中にいる。
ホッジンズがギルベルトを訪ねる時、彼の部屋はあまりにも暗い。その暗い部屋でギルベルトは決してホッジンズの方を向かない。ホッジンズが開けたドアから外の光が見えるが、部屋から出ることはない。部屋から出る瞬間は描かれず、いつの間にか消えて、次に登場する時はやはり自室の部屋の中である。彼もまた何かに囚われていることを暗喩する。
本作のカメラについて少し説明したい。本作のフレームは終始安定的でオーソドックスな構図を作っている。そのカメラが唯一、トリッキーな瞬間を見せるのが、ホッジンズがギルベルトの声をドア越しに聞いた時だ。この時だけ、カメラは真横、それから斜めの構図を採用している。舞台も光も小道具も構成も饒舌だが、カメラもまた饒舌に登場人物たちの感情を物語る。
島に嵐が訪れ大雨が降ってくる。雨は映画において涙の代弁であることは一般的にもよく理解されているだろう。ヴァイオレットに会おうとしないギルベルトに対して「大ばかやろう!」と叫ぶホッジンズに合わせて、クローズアップで動くカメラの後、大雨の中、道でふさぎ込むヴァイオレットのカットがある。さめざめと大泣きする天気の中、水平線の向こうに雲の切れ目が見える。観客は、この時やはりこの後の展開をかすかに期待することになる。
ギルベルトのいるエカルテ島の建物はくすんだ色で色彩に乏しい。そんな島で唯一鮮やかなのはぶどうだ。ギルベルトが作った、丘上にぶどうを運ぶリフトに乗って、豊かに実ったぶどうが運ばれていく。代わりに降りてくるのはヴァイオレットがドールとなって身に着けた、言葉の果実とも言うべき感謝の言葉をつづった手紙である。
手紙を読んで走り出すギルベルトを日没の光が照らす。作中、最も激情あふれるシーンに、京都アニメーションは日没であるマジックアワーの時間を選んだ。一日で最も美しい映像の撮れる時間である。
メロドラマで泣き顔を要請されるのは、主に女性だ。しかし、最後に涙を見せるのはギルベルトだ。ヴァイオレットに「愛してる」を伝えることができたギルベルトは「私も泣きたいんだ」と言う。男の涙は、男らしさからの解放である。軍人一家(典型的な男性性の象徴)の家を継がなくてはならない運命だったギルベルトがその運命から降りることができ、愛する人の前で涙を流すことができたのだ。
男は涙を見せるな、という古い価値観がある。かつてのフィルムスタディーズには、メロドラマを女性映画と括る考えもあった。しかし、メロドラマと女性映画を同一視することは、リアリズムと男性性を同一視した結果としての「遡及的な分類」ではないかと映画研究者のクリスティン・グレッドヒルは指摘する。そして、メロドラマが感情を扱うジャンルだということは、「感情という領域がいかに歴史的に女性に割り当てられてきた」かということであり、逆にリアリズムが男性性を前提とすることは、「男性の自制心、すなわち公共の場で男性が泣くことへの文化的な禁忌」を作っているのではないかと彼女は言う。(※8)
黄金時代のハリウッドの男性主人公の何人が涙を見せただろうか。いまでもハリウッドの男性主人公はあまり泣かない。もしかしたら、女性主人公も泣く機会は減ったかもしれない。社会を見渡してみても、今は涙よりも怒りの時代なのかもしれない。
泣くことはもはや時代遅れなのだろうか。電話が普及して手紙が時代遅れになったように。
しかし、私たちは、急いで古いものを捨てる必要はないはずだ。デイジーの祖母が古い手紙を大事にしていたように。メロドラマは「廃れてしまったものさえも受け入れることができる」(※9)。古いものを大事にする自由に対して、メロドラマは寛容なのだ。
泣きたいと本音をついに語ることのできたギルベルトと、あふれすぎた想いで言葉を失うヴァイオレットを淡い月の光がやさしく照らす。涙を浮かべる二人は、泣くことでようやく囚われていたものから自由になったのだ。
メロドラマを観て観客が涙するのは、登場人物に対して何もできない観客の無力感ゆえという意見を先に紹介したが、映画研究者リンダ・ウィリアムズがこれに反論したことをジョン・マーサーとマーティン・シングラーが紹介している。
「ウィリアムズが主張したのは、メロドラマにおいては、涙が未来の力の源泉であるかもしれないということだった。というのも、その涙は欲望が満たされるという希望を承認するからである。涙はほとんど未来への投資であり、過ぎ去ったものや元に戻らないものに対する単なる思慕ではない」(※10)
ダグラス・サークからメロドラマ的感性を受け継いだ、西ドイツの名監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーはインタビューでこう語っている。「ぼくの考えでは、映画が美しく、わざとらしく、演出されきって、仕上げられていればいるほど、映画は自由で解放されるんです」(※11)
その意味で、『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』ほど自由な映画はあるまい。過剰なほどに美しく激情を描いた本作が流させる涙は「自由な明日を生きる希望」である。
引用資料
※1『映画と表象不可能性』、P208、四方田犬彦、産業図書
※2『メロドラマ的想像力』、P37、ピーター・ブルックス、産業図書
※3『映画のメロドラマ的想像力』、P12、加藤幹郎、フィルムアート社
※4:映画学と映画批評、その歴史的展望――加藤幹郎インタヴュー
※5『メロドラマ映画を学ぶ』、P160、ジョン・マーサー&マーティンシングラー、フィルムアート社
※6『メロドラマ映画を学ぶ』、P171
※7『メロドラマ映画を学ぶ』、P171
※8『メロドラマ映画を学ぶ』、P182
※9『メロドラマ映画を学ぶ』、P181
※10『メロドラマ映画を学ぶ』、P193
※11『ファスビンダー (エートル叢書)』、P9、渋谷 哲也 (編集), 平沢 剛(編集)、現代思潮新社
そのほか参考文献、リンク
『「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー』、岩本 憲児編集、フィルムアート社
『サーク・オン・サーク』、ダグラス・サーク、INFASパブリケーションズ
『映画と身体/性(日本映画史叢書 6)』、斉藤綾子、森話社
『imago』 1992年11月号、「映画の心理学」、青土社
『メロドラマ・女性・イデオロギー』(https://www.manabi.pref.aichi.jp/contents/10000276/0/index.html)
『メロドラマ的想像力とメロドラマ研究会の活動―日本近現代文学とのかかわりから』、横濱雄二(甲南女子大学准教授)、日本映画学会会報第58号(2019年11月22日)(http://jscs.h.kyoto-u.ac.jp/kaihou-58.pdf)
CineMagaziNet! no.19 『シネマガジネット!』読本(http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN19/reader-2015.html)
■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。
■公開情報
『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
全国公開中
出演:石川由依、浪川大輔
原作:『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』暁佳奈(KAエスマ文庫/京都アニメーション)
監督:石立太一
脚本:吉田玲子
キャラクターデザイン・総作画監督:高瀬亜貴子
世界観設定:鈴木貴昭
美術監督:渡邊美希子
3D美術:鵜ノ口穣二
色彩設計:米田侑加
小物設定:高橋博行
撮影監督:船本孝平
3D監督:山本倫
音響監督:鶴岡陽太
音楽:Evan Call
アニメーション制作:京都アニメーション
製作:ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会
配給:松竹
(c)暁佳奈・京都アニメーション/ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会
公式サイト:http://violet-evergarden.jp
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