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宮台真司×黒沢清監督『スパイの妻』対談:<閉ざされ>から<開かれ>へと向かう“黒沢流”の反復

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リアルサウンド

 リアルサウンド映画部にて連載中の社会学者・宮台真司による映画批評「宮台真司の月刊映画時評」。今回は特別編として、10月16日に最新作『スパイの妻』が公開となった黒沢清監督との対談を掲載する。以前から黒沢監督の手腕を高く評価してきた宮台が、『スパイの妻』を起点に、黒沢監督ならではのモチーフの反復、フィルムというモノに対するフェティシズム、本作が無意識下で伝えている現代社会への痛烈なメッセージに迫る。

“黒沢流”のモチーフの反復が意味するもの

宮台真司(以下、宮台):最初に少し個人的な話をすると、僕の母方の祖父は、フランス租界にあった上海自然科学研究所の教授だったので、母の家族は租界地で暮らしていたんです。今作『スパイの妻』の優作とその妻・聡子と同じように、お手伝いが5人いるという環境で、想像を絶する大豪邸に住んでいました。母によると、母の両親であるその教授と妻ーーつまり僕の祖父母ーーは「とにかく早く日本が戦争に負ければいい」とずっと言っていたそうなんです。そういったこともあるので、「全く他人事として観ることができない」という、黒沢作品を観る僕としては非常に珍しい体験になりました。

 『スパイの妻』は、黒沢監督独自の物語の構造と画面構成がきっちりと維持・反復されていながら、誰にでもわかる娯楽性とメッセージが満ちているという意味で、「黒沢映画入門編」であると同時に、そのメッセージ性がすごく社会的に評価されるべきものに昇格していると思いました。これが、拝見しての第一印象です。

 先ほど述べたように、黒沢流のモチーフの反復があります。それは微睡(まどろみ)/覚醒、正景(まともな風景)/廃墟、そして狂気/正気です。まず、今回の映画で微睡んでいるのは、妻です。彼女は、満州に出かけてストレンジャーStrangerに変じた夫の、不可解な行動を通じて、最終的に覚醒。夫と同じように、妻もまた、この現実が既に廃墟であることーー徹底的に終わっていることーーを知ります。そこからの救済Salvationの道も、これまた従来の黒沢作品と同じく、「自らも狂人になる」という選択でした。

 しかし、今回の作品は「そもそも言葉と法と損得によって営まれる<社会>は、例外なく廃墟なんだぞ」という高度な抽象水準の黒沢作品群とは違い、特定の<社会>の在り方を標的にしています。戦時の<社会>でも現代の<社会>でも構わないのですが、<社会>において「まともであることで狂人扱いされる」時代がしばしばあり、「そうした<社会>においては、あえて狂人であり続けることこそが、まともさの証だ」というメッセージが与えられるのです。「抽象度が違えど、これぞ黒沢流だ」と、本当に感心しました。

 劇の後半でも、セリフとしてそのことが明確に示されます。そもそも冒頭、壁・窓・扉を背景にして人が集まる、ヨコ構図の深度のないシーンが、もうゾクゾクするのです。今回の黒沢流においては、これは人が微睡の中で狂気に陥っているぞと告げるオラクル(お告げ)になっています。まず最初に、世界観から、画面の細部にまで至る、こうした「黒沢流」を、どのように意識し、活かそうと思われたかをお伺いしたいと思います。

黒沢清監督(以下、黒沢):まず、大変に細かい点まで観ていただいた上に、予想もしないような嬉しいお言葉までいただき、ありがとうございます。大変恐縮しているのですが、「黒沢流」というものをそれまで強く意識したつもりはないのです。

宮台:黒沢監督は、いつもそう仰います(笑)。

黒沢:ただこれまでの作品は、東京近郊である不可解なことが起こり、人が右往左往するドラマをどう撮るかという考えから編み出されたものですが、今回は初めて歴史的モチーフを扱っているわけです。だから、東京の適当な場所でカメラを回すことは許されない現場だった。これまでは多くの素材がある中でどこを切り取るか考えていたわけですが、今回はある特定の歴史の枠内に様々な人やモチーフを押し込めて、作らなければならなかったんです。このような発想で作ったことは初めてでした。ただ、作品が出来上がってラッシュを観たり、編集したりしているうちに、この2つの発想は、そう違わないものかもしれないと思いはしたのですが。

 廃墟というモチーフに関しては、今回は扱うのが少し大変でした。というのも、劇中の時代当時の面影を残している場所はもうすでに廃墟のような場所であったり、もしくはピカピカに修復された上で保存されている。後者は法的に映画撮影ができないことも多かったので、すでに廃墟となっている場所を使用することになる。そうした際にどのように、一方は本当の廃墟として、もう一方は劇中において賑わっているように見せるか苦心しました。その点はこれまでとはだいぶ違っていました。

『スパイの妻』にある、「覚醒の連鎖」

宮台:なるほど。僕が「アニメが抱える過剰コントロール問題」と呼ぶものです。実写と違い、アニメでは、敢えて意識しない限り、統制不可能なノイズが映り込みません。実写とアニメの違いは、ロケとセットの違いに平行移動できます。「コレ、なんかいいぞ」と現場で覚醒して取り込めるものを、セル画やCGやセットで「ゼロから構成」するのはとても難しい。だから、黒沢監督のおっしゃることは、とてもよく理解できます。

 話を戻すと、今回は「微睡からの覚醒」という契機が連鎖しています。覚醒者が次なる覚醒者を生み出す、という、これまた黒沢流モチーフです。まず、大陸に渡った夫・優作が満州で何かを目撃する。目撃によって覚醒した夫は、妻・聡子から見ると最初は異形の存在だったのが、やがて妻も夫に感染したかのようにして覚醒する。この「覚醒の連鎖」があまりにも感動的なのです。

 というのも、本作が、巷では「愛の映画」ーー「愛ゆえに覚醒した女の物語」ーーなどと言われながら、そうした御都合主義的な妄想の一切を、映像においても物語においても否定するものになっているからです。聡子が「アメリカへ渡りましょう」と優作に呼びかけるときに目がキラキラと輝く、ある種「異様なシーン」ーー僕には彼女が妖怪のように見えました(笑)ーーが典型です。ここにあるのは、「愛ゆえに」ではなく、「<世界>(あらゆる全体)との関わり方ゆえに」です。

 当たり前ですが、聡子が「愛ゆえに」優作の世界観に連なる、などという絵空事は、単なる中二病の夢であって、現実には神経症の症状としてしかあり得ません。実際には「フィルムという記録を通じて」、聡子が優作の世界観に連なることで初めて、今までになかった新しい愛の地平に到るのですね。そして、聡子が優作の世界観に連なれたことで初めて、どんなに遠くにいてもーーラストシーンに関わるモチーフですがーーつながっている感覚を抱けるようになるのです。間違いなく、これだけが現実にあり得ることです。

 ただし、僕が性愛のフィールドワークやワークショップを1980年代半ばからしてきて思うことは、今やそのような関係ーー世界観に連なることで新しい地平に到れるような愛ーーはどこにもなくなったということです。だから「愛ゆえに覚醒した女の物語」などという極端な妄言がまかり通ります。妄言を口にする昨今の男女たちは、等身大へと閉ざされていて、マッチングアプリで表示しあう「身過ぎ世過ぎの損得勘定」や、喋り方や食べ方を含めた「ショボイ性癖」の中でしか対面できず、出会えず、セックスもできません。

 その意味で、本作は現代において稀有になった関係を描きます。「覚醒の連鎖」と言いましたが、「聡子の覚醒」は「世界観への覚醒であるがゆえに、新しい愛への覚醒でもある」というものです。そうした関係は、今や現実の社会から蒸発しています。それはなぜか。人の存在形式が間違っているからです……という具合に、この映画は今の現実に対する批評を構成しています。最終的に「人の存在形式の決定的な誤り」に到るのは黒沢流ですが、従来の作品より一段迂回して「恋愛を描く」ので勘違いが生じやすいのでしょう。

黒沢:鋭いご指摘ですね。しかしまずお断りしておくと、この脚本の元々は僕が書いたものではなくて、濱口竜介と野原位という、僕の元・教え子によるものです。僕はこれまで、男女関係を彼らが書いてきたようには深く追求してきませんでした。ただ、これは映画ができた後に濱口たちと話して分かってきたことなんですが、彼らが当初書いた脚本では、聡子を突き動かしている動機は「夫に女がいる」というただの嫉妬心を発端としている。それはある意味、増村保造的作風とも言えます。確かに濱口は、聡子が単なる嫉妬を発端として、どんどん自分自身が変化する過程を見事に書いていました。しかし、僕は脚本を読んだとき、増村的にしたいとは思わなかった。というか、僕には増村的に映画を作れないと思ったんです。

 実際に完成した本作も、「夫に女がいる」という嫉妬心がきっかけの一つにはなっていますが、僕はもう少し軽やかに、ある種の運動ーー映写機を回すとか、倉庫に忍び込むとか、自ら市電に乗って憲兵の幼なじみに会いに行くとかーーそういった彼女なりの動き、彼女の自発的な行動によって、どんどん変容させていきたかった。そして宮台さんがおっしゃる通り、「アメリカへ渡りましょう、私たち2人で」という、気が狂ったかとすら思うようなセリフをあの場面で言う。あれは賭けだったんですよ。この場面で、彼女はこんなにうれしそうに目を輝かせて大丈夫なのかという不安もあった。でも、彼女があのような結果に至るように運動させることで、帰着させました。濱口たちが書いたものを、僕が無理矢理運動させたことでできたキャラクターが聡子なのかなと振り返ってみて思います。

宮台:それがまさに、<閉ざされ>から<開かれ>へと向かう運動の玉突きです。その運動の過程で、自分は夫を見くびっていたという風に、夫の存在形式にーー世界観にーー覚醒するところが、感動的かつ批評的なのですね。作中では、ストア派の時代以降2300年間も繰り返されてきた「ナショナリストvsコスモポリタン」という図式が出てきます。夫の存在形式に感染した妻は、ナショナリストからコスモポリタンへと<開かれ>ます。

 「精神の平穏」を目標とするストア派の命題を今日的にパラフレーズすると、ナショナリストとは、「日本すげえ」「中国こそが敵」とほざきつつも、その実態は、中国人どころか日本人の友達さえほとんどいない「不安にさいなまれた輩」が、言葉にへばりついて不安を埋め合わせるだけの神経症(笑)。同じ神経症の症状が性愛に現れます。それが、黒沢監督が<開かれ>への運動の出発点だったに過ぎないとされた妻・聡子の嫉妬です。

 ぶっちゃけ、日本スゲエ系の妄想的ナショナリストは例外なく粘着系ソクバッキーです(笑)。例えば、日本スゲエの始まりは1997年の「新しい歴史教科書をつくる会」でしたが、数多の本で書いたように、性的退却の始まりは1996年の秋からです。ストーカーやセクハラという日本語の元年も1996年です。繰り返すと、妻・聡子は、日本スゲエ系のショボイ妄想的ナショナリズムの外へと<開かれる>ことで、夫をショボイ存在だと見くびっているがゆえの嫉妬から外へと<開かれた>わけです。そこも辛辣で批評的です。

 今まで何度かある黒沢監督との対談で申し上げてきたように、たとえ黒沢監督が自覚しておられなくても、ある運動の形式が「フィルムを見ている我々の体験」として反復されるとき、運動の形式を制御しているコードーー命令文ーーに、黒沢的無意識が表れるのだと思っています。今回もそのコードは、言葉によって粉飾された関係の中に<閉ざされた>状態から、粉飾決算の外へと<開かれ>よ、という形式です。今回は、観客の脳が今日的文脈を参照せざるを得ないので、その運動形式が自動的に類い稀れな批評性を帯びます。

 単に「コスモポリタンであることが倫理的だ」という主張なら、ゴダールが言う意味で「映画の政治性に鈍感な、単なる政治映画」です。今回の作品は、<閉ざされ>によるみすぼらしさから、<開かれ>による力の充溢へ、という存在形式の運動を反復的に示します。逆説的ですが、存在形式の運動を示す映像のほうが、コスモポリタニズムや普遍主義の正しさを唱う政治映画よりも、辛辣です。パラフレーズすれば、存在形式の運動が変われば、イデオロギーの変化は後からついてきます。ゴダール的なるものの真髄ですね。

黒沢:最初の脚本を読んだとき、聡子の「それでは売国奴ではないですか」というセリフに「僕はコスモポリタンだ」と優作が答える場面があって、「主人公にこれを言わせるのか」という逡巡がありました。濱口たちにも何度か確認しました。そのようなセリフを言うことによって、登場人物が、我々の想像以上に、政治的イデオロギーに囚われてしまうのではないかと思ったんです。「それでも言わせたい」という濱口たちからの要望もあり、結果的に俳優たちの演技に任せようということになりましたが。さらっとしたトーンで言ってしまえば、気にはならないだろうと信じた結果です。宮台さんがおっしゃるように、主人公たちが政治的な枠から抜け出せていると見えたのなら、よかったです。

宮台:実際、とてもうまくいっていました。黒沢監督がおっしゃった聡子のシーンも、家の壁を背景にして、引きの画面でしゃべっているので、ちょっとコメディを観るような軽やかさを感じられます。映像の解釈をコントロールしてしまう間違った呪文というよりも、映像的な運動の分泌物に過ぎないという感じでしょうか。

黒沢:ほっとしています。心配していたんですよ。

「記憶」から「記録」へ ー「フィルムというモノ」へのフェティシズムー

宮台:もう一つお伺いしたいことがあります。本作では、神戸の上流階級の人物が主人公です。だから、何1つ不自由のない、お手伝いのいるお屋敷での生活が描かれます。頓馬な人たちがーーまぁウヨ豚(ネトウヨ)のことですがーー「なんでこんな余裕のある上流の人間を描くんだ」と反発するでしょう。実際アメリカでも、リベラルは「俺には余裕がある」という自己提示に過ぎないんだという議論が、ここ30年ぐらい続いています。リベラルの裕福さ、あるいは裕福なリベラルを描くことに、危惧はありませんでしたか?

黒沢:ありました。極度に貧しいという人はこれまで登場させたことがありますが、いわゆる“お金持ち”を出したのは初めてでした。ただよく考えてみると、それは何に対しての危惧なんだろうと。これはフィクションですし、階級差がテーマの作品でもない。題材にした人たちが、たまたま上流階級だったというぐらいで、あまりそれ以上考えることはしませんでした。僕があまりネット上の言説を把握していないというのもありますが……。

宮台:大半はゴミの垂れ流しなので見ない方がいいです。僕は、先ほど述べたような言いがかりがもし生じるようなら、それを全面的に粉砕するために、完全にArmed(武装された状態)です(笑)。少し開陳すると、戦間期研究や戦時期研究では「陸軍的なもの」と「海軍的なもの」というコードが用いられてきました。カオスを愛でる戦間期前期は「海軍的なもの=都市的なもの」で、統合を愛でる戦間期後期は「陸軍的なもの=農村的な劣等感」。僕の母方曾祖父は戦間期の浅草六区に芝居小屋と映画館を5つ所有するカブキ者だったので、上海租界地で生まれ育った母を通じてこのコードに馴染んできました。

 御存知のように、陸軍エリートには貧しい階級の出身者が多く、海軍エリートはその逆で上流階級の出身者が多い。出身階級とリベラルの度合いに相関があることは昔から知られています。実際、大内兵衛や大内力といった初期マルクス主義者は豪農出身です。これは「見たくない事実」でしょうが「見なければならない事実」です。それを前提に本作を観ると、人々は余裕がなくて不安だから「まとも」という名の狂気に駆られていくのだ、という当たり前の現実が描かれています。陸軍的/海軍的は、語弊が生じることを恐れるポリコレ的な流れゆえに積極的に語られなくなりましたが、重要なポイントです。

 川端康成と江戸川乱歩の認識では、戦間期前期の光と闇の織り成す綾に満ちた浅草の「大正ロマン」を楽しめるのは、明智小五郎のような探偵=都会人であって、そうした渾沌の享楽から見放された地方出身者のあからさまな劣等感が、闇を消去した銀座の「昭和モダン」を駆動し、それがやがて全体主義につながっていくのだということになります。母や祖母からの宣べ伝えの「生々しさ」もあって、ほほ正しいだろうと確信しています。

 だからこそ、泰治の存在が気になるのです。彼の出身階級は物語としては描かれてはいませんが、映像が直接に語っています。泰治にとっては、優作と聡子という夫婦の生活が本当に「輝く光」です。泰治が聡子に惚れていることを示唆するモチーフがありますが、そこにあるのも、ある種の階級的なハレーションです。劣等感による階級的な憧れが、自分の劣等感を「見たくない」ので、恋愛感情として粉飾決算されるのです。泰治の存在の御蔭で、豊かさが描かれることの意味が明らかになっていると感じます。

 他方、言葉による粉飾決算に関連した話ですが、この10年の映画の国際的流れには、モノとしての「記録」に語らせるモチーフが頻出します。「記録」には、化石のように人が介在しない表象と、日記やメモみたいに人が介在する表象があります。いま話題のクリストファー・ノーラン監督『TENET テネット』も、「記憶」を消去された存在が、時間の逆行を通じて「記録」に戻る運動を示します。商業映画デビュー作『メメント』も同じ運動が全体を覆い尽くし、人が介在する「記録」への全面的疑いに帰着して行くのでした。

 本作にも、近年一流の映画監督の方々が描いてきたモチーフと全く同じものがあります。最近はデジタルが主流だから、若干の語弊があるのを承知で申しますが、映画はフィルムというモノがベースです。ドキュメンタリーならぬフィクションであれ、撮影した現場の「記録」そのものです。文書も「記録」ですが、モノが幾重にも介在するフィルムのほうが、嘘をつくのが下手クソです。別の言い方をすれば、フォレンジック(鑑識)に弱い。

黒沢:その通りです。

宮台:僕は、ノーラン作品とも共通する「フィルムというモノ」に対するフェティシズムをーーゆえに映写という「フィルムのハンドリング」へのフェティシズムをーー、黒沢作品に感じてきました。そこには、モノとしての「記録」こそが、御都合主義的な「記憶」へと<閉ざされた>者たちにとっての、<開かれ>の契機になるんじゃないかと、という楽天的感覚ーー川端康成のフィルム体験的な視座を支える感覚ーーがあります。

 黒沢監督の作品は、冒頭に申し上げた「壁・窓・扉を背景に、前景に人が集まる画面」が典型ですが、脆弱な記憶をベースにショボイ営みに淫する人間たちを、観客のフィルム体験を通じて相対化させます。そこで僕らは、人によって語られているのか、壁や窓によって語られているのか、よく分からなくなるような「未規定な感覚」を抱くのですね。それはちょっとした眩暈(めまい)です。

 30分のインタビューで、実に残念ながら最後の質問になってしまうのですが(笑)、『ダゲレオタイプの女』でも現れた、フィルムというモノへのフェティッシュな感覚は、本作においてどのような機能を果たしていると思われますか?

黒沢:物語では、主人公・聡子がフィルムに映写されたものを観ることによって、またはフィルムで撮影した映画に出演することによって、どんどん違う人間に変わっていく契機として使われています。

宮台:これまでも使われてきました。『LOFT ロフト』や『CURE』もまさにそうです。本当に一貫しています。それは、黒沢作品を体験することで、観客が違う人間に変わるかもしれないという事実の、隠喩的な反復です。この自己言及が黒沢作品の真骨頂です。

黒沢:単純になにかを映写するという行為が好きなんです(笑)。

宮台:映写する営みが始まった瞬間に何かワクワクさせられてしまうという事実ですね。

黒沢:そうなんです。当たり前ですが、映写したら、そこになにかが映し出されるわけです。それまで1つの閉ざされた部屋だと思っていたものが、突如スクリーンという<向こう側>が出現することで、<こちら側>と<向こう側>の2つに割れる。映画のあの驚くべき特性には、何度向き合っても舌を巻きます。映画ほど露骨かつ作為的にもう1つの世界を開示させる、鮮やかな手はないと思うんです。今回はとりわけそれが何度かいろんな手段で、物語の契機となるシーンで出てきて、最後には劇変のきっかけにまでなるわけです。もちろんそれらは脚本に書かれていたことですが、いつも以上に、映写したものを観るという行為で、どれだけドラマや人が変化するか、挑戦したように感じます。

宮台:本当にそう思います。暗闇でフィルムが映写され、日常に異次元が闖入することで、あっさりと微睡から覚醒してしまう、という黒沢監督の楽天的なモチーフが、みごとに結晶化しています。歌舞伎で言えば「成田屋!」と声をかけたくなるような(笑)。本日はありがとうございました。僕もその楽天性につらなっていきたいです。

黒沢:こちらこそありがとうございました。ここまで詳細に観ていただいて、嬉しいです。

■公開情報
『スパイの妻』
新宿ピカデリーほかにて公開中
出演:蒼井優、高橋一生、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理、東出昌大、笹野高史ほか
監督:黒沢清
脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清
音楽:長岡亮介
制作著作:NHK、NHK エンタープライズ、Incline,、C&I エンタテインメント
制作プロダクション:C&I エンタテインメント
配給:ビターズ・エンド
配給協力:『スパイの妻』プロモーションパートナーズ
2020/日本/115分/1:1.85
公式サイト:wos.bitters.co.jp