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映画『鬼滅の刃』大ヒットの“わからなさ”の理由を考察 21世紀のヒット条件は“フラットさ”にあり?

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映画『鬼滅』大ヒットの「わからなさ」

 10月16日公開のアニメーション映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』がもはや社会現象と呼べるほどの記録的大ヒットとなっている。公開3日間での興行収入は史上最高の46億円を突破した。この勢いは、4年前に興行収入250億3000万円を記録し邦画歴代2位のヒットとなった新海誠監督『君の名は。』(2016年)、さらにはもしかすると、19年間破られていない日本映画史上最高の興行収入308億円という宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』(2001年)の持つバケモノ級の記録を抜くことも不可能ではなくなってきている。この先も、テレビ、劇場用映画両方でのアニメ化続編や舞台、スマホゲームといったメディアミックス展開を考慮すると、おそらく本作が2020年代前半を代表する一大コンテンツのひとつに成長していくことは間違いないだろう。

 『鬼滅の刃』や今回の劇場版『無限列車編』が、いったいなぜここまでの大ヒットにいたったのか。ぼくは映画批評やアニメ論を専門としているが、それでもその理由は「わからない」というのが率直なところだ。

 もちろん、ぼくもこれまでにさまざまな視点から書かれてきた無数の分析やレビューに目を通してきた。それらからはそれぞれに示唆を受けたし、吾峠呼世晴の原作マンガとufotable制作によるアニメの細部に注目した読みには説得させられたが、それでもどこか決定的な解答というには欠けるものがある気がした。いいかえると、どの分析や解釈も、どこかこの作品の表面をツルツルと上滑りしているように思えたのだ。もちろん、別に『鬼滅』にかかわらず、メガヒット作品のヒットの理由に決定的な答えなどあるわけがない。それはいつも、複数の要因が複雑に絡み合って生まれるものだろう。だが、それでもぼくには『鬼滅』に感じる、この独特の言葉が「ツルツルと上滑りする」感触が気になった。

 このコラムでは、今回の映画『鬼滅』の大ヒット発進の理由が、なぜ「わからない」のか、その「わからなさ」の理由を考えてみたい。

作品自体はジャンプマンガの「優等生」

 そもそもぼくの眼から見た『鬼滅の刃』の感想は、率直にいえば「ジャンプマンガの王道のウェルメイドなパッチワーク」というものである。

 もちろん、決してつまらない作品ではない。むしろ唸るほど非常によくできている。しかし、物語の設定やキャラクターのデザイン、あるいは名称や作画のディテールは、以前に『週刊少年ジャンプ』の名作のどこかで見た記憶のあるような要素が多い(実際、これが「王道」という世間的な評価にも繋がっているだろう)。一例を挙げれば、「十二鬼月」という名称、あるいは鬼殺隊の「柱」と「十二鬼月」という対立構図にせよ、さほど『ジャンプ』を熱心に読んできた覚えのないぼくでさえ、和月伸宏『るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-』(1994年〜1999年)の剣心一派と「十本刀」、藤崎竜『封神演義』(1996年〜2000年)の「崑崙十二仙」と「十天君」、そして久保帯人『BLEACH』(2001年〜2016年)の「護廷十三隊」と「十刃」……などなどのテンプレ化した同種の無数の先行例が脳裏に浮かんでくるのを払拭することは難しい(単純に、ぼくが齢をとったというわけなのだが……)。とりわけ『るろ剣』をわりと愛読していたぼくとしては、蟲柱の胡蝶しのぶは天剣の瀬田宗次郎、岩柱の悲鳴嶼行冥は明王の悠久山安慈を髣髴とさせるところがある(私見では、和風の舞台設定にアメコミを思わせるデザインのキャラクター配置という点でも『鬼滅』は『るろ剣』とよく似ている)。ぼくの周囲にも、同様の感想を持つ者はじつは少なくない。

 ここ十数年の『ジャンプ』のヒット作が『DEATH NOTE』(2003年〜2006年)から『銀魂』(2004年〜2018年)まで、1980〜90年代の『ジャンプ』黄金期の王道名作から逸れたテイストのヒット作が続いていたことを踏まえれば、『鬼滅』の「王道感」溢れる世界観と物語展開が、むしろ現在の小中学生の眼に新鮮に映るだろうことはわからなくはないし、また、同じ『ジャンプ』系列作品のほかのテレビアニメと比較したとき、(すでに『鬼滅』ヒットの分析として語り尽くされた感があるように)ufotableによるダイナミックかつ精細な作画表現が相対的に高評価の要因となったことも容易に想像がつく。また、この記事のように(参照:劇場版『鬼滅の刃』“予備知識ゼロ”の人と観て分かった「大ヒットの真のすごさ」|ふたまん)、今回の劇場アニメは物語についての説明が作中ではなされないにもかかわらず予備知識がまったくない観客にも十分訴求できており、だからこそこれだけのヒットに繋がっているわけだが、逆にいえば、やはりそれは物語の構造やテーマが「テンプレ」(定型)をなぞっており、初見者でもパッと作品世界の枠組みに入り込みやすくなっていたということでもあるだろう。しかしだとしても、今回の『鬼滅』が――しかも映画は、物語のなかの1エピソードにすぎないのである!――ここまでの記録的大ヒットに結びつく理由にもならないだろう。

「SNS化」=投機化する映画興行との関係性

 ともあれここでは、原作マンガやテレビアニメのヒットの問題は差し置いて(それについてはすでに多くが語られているので)、さしあたり今回の『鬼滅』の映画興行について考えてみたい。

 ぼくがここ1週間ほどの『鬼滅』の常識破りの興行的快進撃を眺めていてあらためて思い出したのは、過去のやはり同じような2本の映画の大ヒットぶりである。ひとつは、2014年の日本国内でのディズニーアニメ『アナと雪の女王』(2013年)の大ヒットであり、もうひとつは、2019年の『アベンジャーズ/エンドゲーム』の世界的な大ヒットである。『アナ雪』が日本で大ヒットしていた当時、ぼくは別稿でこのアニメ映画の空前の大ヒットについて、かつての『千と千尋』や『タイタニック』(1997年)のときとはまったく異なった構造の、映画興行のプロモーションやコンテンツの消費モデルが成り立っていたと指摘したことがある。ひとことでまとめれば、それは現代の映画のヒットの構造の仕組みが、SNSの情報消費のモデルと一体化してきたことにそのヒット要因が求められるというものだ。

 『アナ雪』にせよ、あるいはその後の『君の名は。』や『シン・ゴジラ』(2016年)、『カメラを止めるな!』(2018年)にせよ、それらの映画では一様に、動画サイトやSNSに、関連するネタや二次創作的なコンテンツが自生的に増殖し、それらの口コミや関連動画などが脊髄反射的に次々と拡散していくことで、従来の映画興行ではありえないほどのきわめて短期間のスパンで爆発的な動員を可能にする(と同時に、一定の時期が過ぎれば一挙に終息していく)というプロセスをたどった。その意味で、当時のぼくは「いってしまえば、この『アナ雪』という作品は、構造自体が、きわめて「ニコ動的」なのである」(拙稿「イメージのヴァイタリズム」、『すばる』2014年2月号所収)と記した。ぼくは2010年代の映画興行に起こったこうした新たな事態を、「文化消費の「ニコ動ランキング化」ないし「pixivランキング化」」(「液状化するスクリーンと観客」、『スクリーン・スタディーズ』東京大学出版会、2019年所収)とも呼んだ。そして、国内映画興行におけるこうした現象は、いうまでもなく昨年の『アベンジャーズ/エンドゲーム』においても正確に反復されていただろう。『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、瞬く間に全世界で約28億ドルの興行収入を稼ぎ出し、巨匠ジェームズ・キャメロンの『アバター』(2009年)を抜いて世界歴代興行収入ランキングの1位に駆け上がった。

 ところで、まさにいま、このコラムを書いている瞬間にもぼくのふだん過疎りまくっているTwitterは、『鬼滅』についてつぶやいた何気ないツイートが、とくに意味もなくプチバズっている。急速に「リアルタイムウェブ化」し「SNSのトレンドランキング化」している現代の映画興行の構造も、まさにこのTwitterの「バズり」(アテンション)と同じだ。それは文字通り脊髄反射的で情動的、そして投機的(speculative)なのであり、その背後にじつはさしたる意味=「深さ」はない。今回の『鬼滅』の大ヒットもまた、こういってしまうと本当に身もふたもなくなるが、おそらくはそうしたものなのだ。

フラット化するメガヒットの構造

 いずれにせよ、20世紀末の大ヒット映画、たとえば『ジュラシック・パーク』(1993年)や『タイタニック』、そして(これは厳密には21世紀の映画だが)『千と千尋』などと、SNS登場以降の21世紀の映画、たとえば『アナ雪』や『アベンジャーズ/エンドゲーム』、そして『鬼滅』との決定的な違いは、おそらくはこのあたりにあると思う。

 スピルバーグや宮崎駿には、替えがたい大文字の作家的個性があり、それがどこか彼らの興行的な成功とも必然的に結びついていた。少なくとも、批評家を含む多くの観客の側にはそのように信じられる余地があった。したがって、作家・作品を批評することとその興行的な成功の理由(意味)とを重ねあわせて考えることがなんとなく自然に繋がる感触があった(たとえば、『千と千尋』で宮崎が「カオナシ」に込めた意図から時代の要請を解釈してヒットの構造を説明するなど)。いいかえれば、かつてだったら作品にヒットの理由(解釈)を読み込みうるような意味の「起伏」が存在した。しかし、『アナ雪』や『アベンジャーズ』、そして『鬼滅』にはそのような解釈のフックを見つけることは格段に難しくなっている。作品の表面はのっぺりとしていて、ふわふわと掴みどころがない。

 むろん、かつての映画批評や文芸批評の手つきを動員して、映画『鬼滅』の大ヒットの時代的な「意味」について論じてみることはできるだろう。たとえば……奇しくも平成から令和への元号の端境期と作品世界との連動に注目してみるのはどうか。テレビアニメ第4話「最終選別」での手鬼の改元についての台詞がちょうど現実の改元のタイミングと重なって話題になったことは知られているが、他方で、『鬼滅』は大正時代を舞台にした鬼が登場する「偽史」として、一種の「伝奇ロマン」の趣向も含んでいる。実際に近代日本の大衆的な伝奇小説はまさにその大正期に華開いたのだった。またその後、伝奇ロマンは昭和末期の1980年代にふたたび一大ブームを迎えるが、その旗手のひとりでもあった笠井潔がかつて『空の境界』(2001年)をめぐって論じたように(「偽史の想像力と「リアル」の変容」、『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』南雲堂所収)、そのジャンルは天皇制との時代的な緊張関係(改元!)のうちに書かれ、読まれていたといえる。つまり、新たな近代伝奇の起源の時代(大正)を舞台にし、21世紀に現代的な伝奇ロマンとして描かれた『鬼滅』がまさにこの令和への改元の時期に大きな支持をえたのは必然だったのだ……うんぬんというように。しかし、そうした作品の読み=意味づけは、もはや『鬼滅』という作品の持つ「リアリティ」=ヒットを何も支えていないだろう。

 そもそも『アベンジャーズ/エンドゲーム』も『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』も、先ほども触れたように、単体で完結した作品ではなく、長大な物語の一エピソードというパッケージが、そののっぺりとした感じを如実に象徴している。それらは最終的には、ヒットしたからヒットしたのだ、としか言えないようなトートロジー的な回路に絡みとられている。いや、言い方を代えれば、今日のメガヒット作品の条件とは、むしろそうした過剰な「意味づけ」(深さ)こそを受け付けない、あらゆる「投機」のチャンスに開かれた「フラットさ」が求められるとさえいえるだろう。数あるジャンプマンガの定型(王道)をほどよく折衷し、昇華した『鬼滅』はじつはそのフラットさにぴったり適合しているのだ。付け加えれば、『鬼滅』のはらむそうしたフラットさは、今回の劇場アニメでいえば、作中で、本来抑圧されて見えないはずの炭治郎や煉獄らキャラクターの「無意識領域」がこれまたのっぺりと視覚化(表層に露呈)されてしまう表現に図らずも具現化されているようにぼくには見えた(という解釈もまた上滑っていくのだが……)。

 映画『鬼滅』がこの先、興行ランキングをどこまで駆け上がっていくか、わからない。そして、『鬼滅』がなぜこれほどまでの爆発的な大ヒットとなったのか、結局のところはぼくには「わからない」し、その問いに意味があるのかも「わからない」。ただ、21世紀カルチャーのヒットの動向を俯瞰したとき、その「わからなさ」がひるがえって『鬼滅』ヒットの重要な部分を担っていることは確かなように思える。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■公開情報
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』
全国公開中
声の出演:花江夏樹、鬼頭明里、下野紘、松岡禎丞、日野聡、平川大輔
原作:吾峠呼世晴(集英社『週刊少年ジャンプ』連載)
監督:外崎春雄
キャラクターデザイン・総作画監督:松島晃
脚本制作:ufotable
サブキャラクターデザイン:佐藤美幸、梶山庸子、菊池美花
プロップデザイン:小山将治
コンセプトアート:衛藤功二、矢中勝、樺澤侑里
撮影監督:寺尾優一
3D監督:西脇一樹
色彩設計:大前祐子
編集:神野学
音楽:梶浦由記、椎名豪
主題歌:LiSA「炎」(SACRA MUSIC)
アニメーション制作:ufotable
配給:東宝・アニプレックス
(c)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable
公式サイト:https://kimetsu.com
公式Twitter:@kimetsu_off