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『もう終わりにしよう。』に絶えず寄り添う“死のにおい” リンチ映画にも通じる不気味さを探る

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リアルサウンド

 『マルコヴィッチの穴』(1999年)、『アダプテーション』(2002年)の脚本や、『脳内ニューヨーク』(2008年)、『アノマリサ』(2015年)を監督として手がけた個性派チャーリー・カウフマン。哲学的とすらいえる内省的な物語を創造し、そのユニークな魅力が毎回話題にのぼる作家だ。そんな彼が、カナダの若手作家イアン・リードの最初の小説を映画化したのが、Netflixの配信映画『もう終わりにしよう。』だ。

 近年、Netflixはオリジナリティの強い映画作品を製作、配信してきた。なかでも本作『もう終わりにしよう。』は、利益を生み出す娯楽大作映画の存在感が強くなっているなか、凄まじいほどの作家性を放っている作品である。個性的な劇場作品の製作、配給においては、アメリカでは「A24」、「プランB」などの会社がめざましい印象があるが、Netflixがミニシアターで公開するような個性の強い映画を積極的に扱い続けることで、映画業界の趨勢は複雑な変化を見せている。

 本作の面白いところは、もともとチャーリー・カウフマン自身の書いた物語ではないのにもかかわらず、カウフマンの作家性が前に出ている点にある。というのも、この原作小説自体が、カウフマンの持ち味である、人間の存在や個人の意識というものをきわめて内省的に描いているからだ。

 強い吹雪の夜に走る、一組の男女が乗った一台の乗用車。ジェシー・プレモンスが演じる男は運転席に座り、助手席に座る恋人を両親に紹介するべく、田舎にある自分の実家へと向かってアクセルを踏んでいる。しかしその彼女は車外の闇を見つめながら、“もう終わりにしよう”という言葉を思い浮かべている。

 男はいまいち冴えない雰囲気だが、博識でいろいろな話題を振ってくる。彼女はネガティブな思いにとらわれながらも、それに受け応え、美しい自作の詩まで披露する。そんな特別な雰囲気を持った彼女を演じているのは、音楽映画『ワイルド・ローズ』(2018年)で見事なパフォーマンスを見せたジェシー・バックリー。

 男の実家に着くと、彼女は次々に異様な出来事を体験することになる。実家にある昔の写真に、なぜか彼女の子ども時代の姿が映り込んでいたり、男の両親の年齢が突然変わったように見えたりするのだ。この事態は何なのか? 果たしてここは現実なのか?

 実家を出て帰路についた後も不可思議なことが続く。吹雪が続いているのに、男がなぜか「甘いものを食べよう」と言い出したり、不思議と営業しているアイスクリームショップに着くと、不気味な店員たちに異様な対応をされたりと、一つひとつの出来事が、デヴィッド・リンチ監督の映画演出にも通じる不気味さを呈しているのだ。そして、絶えず寄り添っているのが、漠然とした“死のにおい”である。その意味で本作における二人の道行きは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い起こさせる部分がある。

 このようないくつもの出来事や、車内における、文学や映画などの名前を挙げていく二人の会話は、おぼろげながら“何か”を表しているように感じられる。そして、さらに奇妙なのは、本筋と関係あるようには思えない学校の映像と、そこで働いている人物の様子が、断続的に映し出されるという点である。これは一体何なのか?

 じつは原作小説も、物語とは一見関係なさそうな謎の描写が文中に何度か配置されるという、映画に近い構成となっている。そして映画がはっきりとした答えを提示しないのも、この小説のスタイルを踏襲しているといえよう。とはいえ原作を読めば、数々のシーンが何を表していたのかが、おそらく映画版より読み取りやすくなるはずである。

 ヒントになっているのは、彼女が望まないことが次々に起こるという部分である。そして、ときに彼女の性格すら“何か”によって都合よく作り変えられてしまう。それは、彼女にとって恐怖であり苦痛でもある。

 本作の謎というのは、劇中で描かれてきた世界の正体が誰によって生み出されているのかということだ。それは、分かってしまえば一気に納得できるものとなっている。だが問題は、なぜそれを描く必要があったのかという点だ。

 この作品世界は、劇中のある人物によってイメージされたものだ。その人物は、自らの孤独を、自分にとって都合の良い妄想によって埋めようとしていた。しかし、その世界には自分の“どうにもならない”現実が紛れ込んでくるときがあるのだ。

 妄想の中身というのは、もちろん個々人によって変化するものだ。その世界のなかでは、自分のコンプレックスを糊塗することができる。自分を理想化させたり、ありのままの自分を周囲が受け入れられるようにしたり、または自分の存在を消すこともできる。それでうまくいかなければ、途中から設定を都合よく変化させることもできる。だから妄想の世界は不自然でつじつまが合わず、そして現実への復讐の性質を帯びたものになる。そして、本作はこの世界を映し出すことで、そこで描かれるもの、あえて描かれないものを通し、一人の人物の絶望と孤独、そして独善的な感情を表現する。

 それは、これまでチャーリー・カウフマンが作り出してきた“脳内世界”そのものではないのか。彼の作り出す世界は、彼自身の内面をナルシスティックなまでに追求するような文学的なものだった。そして、それを支持する観客は、そこに自分の気持ちや気分を同調させることで、ある種の陶酔感を味わっていたように思える。

 しかし本作は、そんな世界に棲んでいる女性の視点を観客に共有させ、不快感を示すことによって、そこに厳しい客観性を発生させている。この“自分”という堂々巡りの世界に対する批評性というのは、もちろん原作自身が持っていたテーマでもあるが、ここではそれをチャーリー・カウフマンがリライトし、さらに自身で監督したことに大きな意味があるのではないだろうか。

 本作の最後、エンドクレジットとともに映し出されるのは、吹雪の夜が明けた朝の学校のさわやかな空であり、そこには“現実”を示す環境音が流入してくる。観客はこの景色に、ある種の健全さと辛さが混じった複雑な思いを抱くことになるだろう。

 こういうかたちに作品が着地したというのは、一つには“時代”が影響しているのではないかと考えられる。1990年代から2000年にかけて、アメリカではインディーズ映画が隆盛し、日本でもミニシアターブームが起こった。その頃に多くの作品が語っていたのは、“自分とは何か”という疑問だった。それは、先鋭化された大量消費社会のなかで画一化された価値観やシステムが支配する環境を、個人としてどう生きるのかという、世代的な共通の問題があったからだ。

 しかしその後から現在にかけて、経済格差問題が深刻化し、世界的に排他的な思想が蔓延するという事態を迎えたことで、多くの個人の画一的な生活や安全すら保証されない局面を迎えることになった。そこでは、個人の自意識の問題よりも、“過酷な現実を生き延びること”、“かつての人並みの生活を手に入れること”が優先される、余裕のない世界が到来したのである。

 “妄想の世界”は、ここにおいて自分へのナルシシズムな感情や実存性の追求というよりは、現実からのひたすらな逃亡の意味でしかなくなってきているのではないか。そして、そんな環境では内面の世界をもうまく形成することができないのではないのか。そこで脳裏に浮かぶのは、“もう終わりにしよう。”という言葉である。

 本作『もう終わりにしよう。』は、不完全な内面世界を描くことで、立ち塞がる現実を間接的に表現することに成功した。それは、まさに現代に横たわる切実なテーマを、チャーリー・カウフマンのやり方でとらえた結果だといえるだろう。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■配信情報
『もう終わりにしよう。』
Netflixにて独占配信中
Mary Cybulski/NETFLIX (c)2020