音楽シーンを撮り続ける人々 第20回 被写体がいるべき時間と空間を捉える大森克己
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YUKI「まばたき」通常盤ジャケット
アーティストを撮り続けるフォトグラファーに幼少期から現在に至るまでの話を伺うこの連載。第20回はYUKIやサニーデイ・サービスなどさまざまなアーティストを撮影している大森克己に、カメラマンを志したきっかけから独立するまでの経緯、撮影したアーティストとの思い出を聞いた。
取材・文 / 佐野郷子(Do The Monkey) プロフィール写真撮影 / タマイシンゴ
アルバムを見るのが好きな子供
生まれたのは1963年、神戸市内。物心ついたら家に祖父、父、伯父などが撮った写真のアルバムがたくさんあって、それを見るのが好きな子供でしたね。父の若い頃や戦前の祖父の写真を見ると、自分の目の前にいる父や爺ちゃんの顔と違うわけで、人が過去と現在で違うということが子供心に面白かった。親父は大学では写真部にいて自分で現像もする人で、「この前撮った写真がこうなるんだ」と興味を持ったのが小学校低学年の頃でした。中学では写真部に入部しました。顧問の先生が熱心な人だったので、暗室の機材のほかにカメラ雑誌のバックナンバーが豊富にそろっていたのは大きかった。「プレイボーイ」や「GORO」などの雑誌を読み始めたのも色気づいてきた中学時代。当時の雑誌の面白かったところは、ベトナム戦争なんかの報道写真からアイドルの水着グラビアまで、政治やエロ、ロックなどのカルチャーも同じ雑誌に載っていたこと。月刊の日本版「プレイボーイ」には金髪女性のヌードだけでなく、政治家や硬派なジャーナリストによる読み応えのあるインタビュー記事が載っていたし、そのバランスがとてもよかった。今みたいにネットであらゆる情報が手に入る時代じゃないから、好奇心を駆り立てられるのはもっぱら雑誌からだった。ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」を読んだのは高校に入ってからだけど、開高健に代表される写真と紀行文の本なんかも熱心に読んでいましたね。
コンサートでこっそり撮影
ロックを聴き始めたのも中学生から。初めて買ったアルバムは、井上陽水の「氷の世界」(1973年)。その後、The BeatlesやThe Rolling Stones、白人がやっているブルースバンドを入口に黒人のブルースも聴くようになりました。音楽をカテゴリーで聴くことはなかったから、パンクやYellow Magic Orchestraも聴いていましたね。高校生になると友達と大阪にコンサートを観に行くようになって、スティーヴィー・ワンダー、The Clash、エリック・クラプトン、マディ・ウォーターズも観たし、大阪のライブハウスで憂歌団を観たりしていましたね。その頃はセキュリティもユルかったからコンサートにこっそりカメラを持参して、ステージを撮ったりしましたね。
高校でも写真部に入ったんだけど、同学年で部員は俺1人。部室はラグビー部やサッカー部のヤツらが隠れてタバコを吸いに来るようなところだったし(笑)、高校時代は写真にのめり込んだというより、バンドをやったり、友達と遊ぶほうが楽しかったかもしれない。自分の地図の中に“写真”がなかったわけじゃないけど、写真は1人でやるものだから友達とツルめないじゃないですか(笑)。
大学受験のときは、勉強も嫌いだったし、家にいるのがイヤだったので、東京の大学に行こうと日本大学芸術学部を受験しました。ここなら写真学科もあるし、実技もない。テストもマークシートだから楽そうかなと思って(笑)。生まれ育った関西から出たかったというのもありましたね。アートやサブカルチャーを関西弁で語るのは無理がある気がして(笑)、「エエやん。友達やんけ?」というベタな人間関係から離れて、もう少し俯瞰して世界を見たくなったんですよ。
マガジンハウス社員カメラマンのアシスタント
芸術系の大学に行ったら、ヨーゼフ・ボイスやローリー・アンダーソンみたいなとがった学生がいるかと思ったら、当然だけどいるわけがない。授業も特に面白いわけでもない。それより池袋西武にあったアート系の洋書店「ART VIVANT」で見た写真集から受けた刺激のほうが大きくて、ウィリアム・エグルストン、ブルース・デヴィッドソン、ロバート・フランク、ダイアン・アーバス、リチャード・アヴェドン、アーヴィング・ペンなど名立たる写真家たちの写真集を片っ端から見ていましたね。日本では末井昭さんが1981年に創刊した雑誌「写真時代」でアラーキー(荒木経惟)さんが注目され始めた頃で、アンダーグラウンドからメジャーまでいろんな雑誌が活況を呈していた。僕も大学のときにマガジンハウスで、社員カメラマンのアシスタントのバイトを始めて、そこで生身の編集者と接触する機会はあったんだけど、技術も経験もないからネガを切ったりする程度。何者でもない自分を持て余していたところがあったかな。
結局、大学は2年で中退して、しばらくぶらぶらしようと下落合の学生バイト斡旋所で紹介された短期のバイトをしながらその日暮らし。家賃1万3000円のアパートに住んで、本を読んで、酒を飲んで、金がなくなったら働きに出る、というような生活が2年くらい続いた。そんな暮らしの中で、「やっぱり、写真かな」という思いが徐々に芽生え、自分に足りない技術を学ぶために誰かのアシスタントに付くか、スタジオで働くことを視野に入れつつ、その前に海外に行ってみたいと思ってね。それでホテルの皿洗いで金を貯めて、フランス、スペイン、モロッコに2カ月の旅に出た。それが1985年。大学の同級生がちょうど4年生の頃だった。
海外へ、そしてスタジオマンに
日本から遠く離れてものを見てみたい。海外に行った理由はそれだけ。南ヨーロッパを選んだのは、物価が安かったことと、文学やアートの影響でなんとなくラテン文化に惹かれていたからですね。その旅では写真もそれなりに撮ったんだけど、作品にまとめるという意識はまだなかった。ただ、外国に行ってそれまでモヤモヤしていた気持ちが不思議と落ち着いて、日本に帰ったら「写真の世界で働こう」という気になれたんですよ。
帰国してからは、スタジオエビスのスタジオマンになりました。スタジオマンは重労働で体育会系というイメージがあったんだけど、実際はそれほどでもなかったし、興味のあることでお金がもらえるうえに、売れっ子カメラマンの仕事を現場で見られる。尊敬できるカメラマンに出会えたら、弟子入りするつもりだったんだけど、1年くらいしたら「他人の撮影でレフ板持っていてもしょうがない」と思ったんですよね。スタジオマンのあとはフリーのアシスタントをしながら、自分の写真は撮っていたんだけど、「これだ!」と言える作品はまだなかった。写真を現代アートとして捉えるという動きはすでに始まっていたし、写真の公募展も増えつつあったんだけど、“作品撮りのための作品”というのが自分にはどうもピンと来なくてね。
1週間のうち5日間ライブ撮影
スタジオを辞めてから、ソニー・マガジンズに入社した大学の同級生から音楽雑誌の仕事が定期的に来るようになったのは駆け出しの身にはありがたかった。ライブも音楽も好きだし、ちょうどバンドブームの時期だったから、1週間のうち5日間くらいライブを撮りに行ったりしていましたね。80年代末から90年代の頭にかけては、渋谷公会堂、川崎のCLUB CITTA'、日清パワーステーションに毎日のように通っていた。THE BLUE HEARTS、LA-PPISCH、カステラ、Theピーズ、フィッシュマンズ、電気グルーヴ、真心ブラザーズ……その頃は仕事の半分がミュージシャンの取材やライブでした。そこで、毎日写真を撮るのって楽しいなと思ったんですよ。音楽誌はギャラは安いけど、1カットしか使用しなくても撮影したフィルム代や現像代は払ってくれるし、仕事ではあったんだけど、いい修行になりましたね。楽屋からバンドに密着する撮影では、場の空気をつかむ訓練にもなったし、ミュージシャンはいるべき時間と空間の中で撮るほうがよりリアルに残るなと思った。それは俳優さんでも、市井の人のポートレイトでも同じで、のちに自分の作品にも反映されていくんだけど。ある人をある場所、例えば街中の壁や橋の上、ある部屋の窓辺、スタジオのホリゾントで撮るときに、「絶対にこの場所だよな」「この人は、まさに今ここで生きているな」と思えるかどうかが大事で、そういう確信こそが写真を撮影するときには必要なんだよね。
転機はMano Negraの中南米ツアー
転機が訪れたのは1991年。LA-PPISCHとフランスのロックバンド、Mano Negraのライブを撮影しにフランスに行ったこと。Mano Negraが来日したときも撮影して、そのときに翌年の1992年、中南米ツアーに行くという話をメンバーから聞いたんですよ。そのツアーは、フランス文化省主催のヨーロッパとラテンアメリカの交流記念事業の一環で、野外でパフォーマンスする劇団や舞踊家たちとMano Negraが一緒に中南米をまわるというけっこう大掛かりなものでね。これは面白そうだなと直観して、「そのツアーに俺も付いて行っていい?」と言ったんですよ。仕事じゃないからすべて自腹で。メンバーは承諾してくれて、フランス文化省絡みだから手続きとかあったんだろうけど、とりあえずツアーの最初の公演地、ベネズエラのカラカスまで行ってみた。現地に行けばあとはなんとかなるだろうと。その後、メキシコ、キューバ、グアテマラ、ボリビア、ブラジル、アルゼンチンを半年間かけて旅して、途中のグアテマラでスペイン語の学校に通ったりしながら、ツアーの要所要所で合流して撮影を続けたんですよ。動機はもちろんMano Negraの音楽やパフォーマンスが好きだったからなんだけど、中南米に行ってみたかったというのも大きかったかな。それがもし英米のバンドのアメリカツアーだとしたら、行かなかったかもしれないですね。すでにできあがっているショービジネスに入っていくのは別に俺じゃなくてもいいから。非英米のバンドをラテンアメリカで撮るというオルタナティブなところにも魅力を感じたんだと思います。それが28歳のときでした。
帰国してからは仕事に戻り、スタジオエビスのフォトギャラリーで、中南米の風景や出会った人の写真を中心にした初めての個展「Buscando America」を開催しました。それはそれでよかったんだけど、もっと躍動感のある旅の実感が必要だなと考えて、ツアーで撮影したライブや演劇などの写真と、自分が1人で旅をしながら撮った写真を混在させてどう編集するか、いろんな試行錯誤を経て作ったブックが「GOOD TRIPS, BAD TRIPS」。旅に出る前から、とにかく自分の作品を作らないと始まらないなと切羽詰まったところがあったし、評価は別として、「これが自分だから」と自分が納得できる作品にしたかった。
ロバート・フランク賞の受賞
そのタイミングで、1994年に新人写真家の発掘・育成・支援を目的としたプロジェクト「写真新世紀」の第3回に応募して、ロバート・フランク賞を受賞したことは背中を押してくれましたね。「これが僕の作品です」と人に言えるものがようやくできたので、そこで初めてブックを持っていろんな人に見てもらった。「大森くん、よろしく」で受ける仕事も楽しくやっていたんだけど、ブックを見て「この作品を作った人」と理解してくれたうえで来る仕事は、当たり前だけどやっぱり違うじゃないですか。それ以降は、今までやっていなかった媒体や違う種類の仕事も増えて、「ROCKIN'ON JAPAN」、「SWITCH」、「relax」、ファッション誌、広告やCDのジャケットと活動の幅が広がっていきましたね。
90年代に起こった写真ブームに僕も紐付けられることは多いんだけど、「写真新世紀」で優秀賞を取ったのが30歳だから、デビューは決して早くないんですよ。僕の翌年の「写真新世紀」でデビューしたのが当時10代のHIROMIXだから。長島有里枝さんは年下だけど、作家としては先輩だし、若い才能が次々現れる中では遅いほうだったと思います。原発事故から10年後のチェルノブイリを訪れた写真や、マニラ、LAなどを旅して撮った写真で構成した初めての写真集「Very Special Love」(1997年発行)は、整理されていない混沌が自分らしい、今思えば志は高い、でも言いたいことが多すぎて、あふれちゃっているところが愛らしい。ただ、自分でもちょっと偉かったなと思うのは、お手本がないままなんとか自分なりの方法を探しながら“独り”でやってきたこと。まだギャラリーの数も少なかったし、カメラマン、写真家の生き方としては今に至るまでずっと手探りできた気がしますね。
YUKIの野蛮さと知性のバランスは最高だ
自分の作品や写真集を作りながら、雑誌以外にもCDジャケットやツアーパンフの仕事もずいぶんしました。ジャケット撮影のために海外に行ったり、レコード会社に潤沢な予算があった時代でしたね。YUKIを撮るようになったのは、彼女がまだJUDY AND MARYにいた頃で、YUKIの単行本「yuki Girly ☆ Rock」(1997年発行)の写真は、ロンドンのレコーディングの合間に1日で撮影したんですよ。この本はスタイリストもヘアメイクもいないから、すべて彼女の私服、自前のヘアメイクというのがいいんだよね。おそらく彼女にとっても「自分はこうありたい」という姿勢を見せるようになった最初の頃で、カメラマンと被写体の共犯関係みたいな感じをメジャーなアーティストが見せたのは当時としては珍しかったんじゃないかな。彼女は自分がどこにいるべきかをわかっている。写真に写る才能があるんですよ。ソロになってからは、「PRISMIC」(2002年3月発売のアルバム)や「まばたき」(2017年3月発売のアルバム)のジャケット、写真集 「ONE DAY」(2017年3月に発売されたYUKIのソロデビュー15周年記念BOX「LETTERS FROM ME」に同梱)も撮らせてもらって、長い付き合いになりましたね。「ONE DAY」のときはYUKIの故郷に僕が1人で訪れて、縁のあるライブハウスやかつての行きつけの喫茶店なんかの写真を撮ったのもドキドキしたなあ。「まばたき」のときは、「国内で旅がしたい」というキーワードを彼女がくれたので、とある街の洋館で撮影しました。「yuki Girly ☆ Rock」から20年以上経っても、YUKIの野蛮さと知性のバランスは最高だし、撮っていていつも刺激的な人です。
頼まれた仕事は断らない
自分の作品に関しては外に向かう旅より、もう少し自分に近いところにあるものを見つめていきたいという態度に徐々になっていったかな。2000年代以降も国内外での写真展や写真集を通じて作品を発表しながら、エディトリアルの仕事も継続して。写真の面白さって、好きではなかったものを好きになったり、価値観を揺さぶられるものに出会う偶然性にあると思うので、自分は作品と仕事をあまり明確に分けて考えていないですね。社会の中で仕事を依頼されること、それ自体も作品なんですよ。「サナヨラ」(2006年発行の写真集)には、90年代後半から2005年の間に仕事で出会った人も私生活の中で撮った写真も混ざっているしね。商業写真は頼まれてする仕事だけど、そこには頼まれる理由がある。誰かに必要とされているって重要なんですよ。自分が表現したいもの、見せたいものだけで世の中と接していると、写真も表現も痩せていく気がするなあ。写真はノイズも含めて写真だから、世間や人との関わりがないと偶然に出会えなくなってしまう。だから、基本的には頼まれた仕事は断らない。
そうやって生きていると、話題になった中沢新一さんの著書「アースダイバー」(2005年発行)の写真を担当することになったり、去年は1年間、食についてのメディア「dancyu」のWeb版で「山の音」という写真エッセイの連載をやったりと、思いがけないテーマに遭遇することがある。サニーデイ・サービスの「the CITY」(2018年3月発売のアルバム)のジャケットは、曽我部恵一さん行きつけのラーメン屋さんの店主や美容師さん、彼らのコミュニティにいる人たちが集まって家族の記念写真のように撮ったんだけど、それは曽我部くんから出たアイデアでした。昔のアルバムはマネージャーが撮った何気ないスナップがジャケットに使われたりしていたけど、そういう写真のよさをひさしぶりに思い出しましたね。僕はそんなふうにいろんな人と濃厚接触しながら自分からは出てこないアイデアを日々拾っているんだと思います。
現場ではなるべく朗らかでいる
長く続けていると、「秘訣はなんですか?」と聞かれるけど、現場ではなるべく朗らかでいること、コントロールできないことを心配しすぎないことくらいで、特に秘訣はないんじゃないかな。今はこのコロナ禍で、これからどうなっていくんだろうと世界中の人が思っている。そんな事態は滅多にないわけだから、表現の分野は面白いものが出てくると思いますね。怒りやムカつくことはたくさんあっても、そこで止まってしまうのはつまらない。僕は最近、文章を書くことが面白くなってきたんですよ。この前は初めて詩を頼まれて、改めて言葉に向き合ってみたり、それが写真に何かしら影響するかもしれない。コロナが収束したら日本中を旅してみたいとか、iPhoneで撮った写真をまとめたいとか、エリカ・バドゥを撮ってみたいとか、やりたいことはたくさんあるけど、今、一番興味があるのは世の中がどう変わっていくかですね。それを写真家として面白がっていきたいと思っています。
大森克己
1963生まれ。兵庫県出身。スタジオエビスでのスタジオマン経験を経て独立。1994年に開催されたコンテスト「写真新世紀」第3回でロバート・フランク賞を受賞した。独立後から現在に至るまで国内外問わず多くのアーティストのジャケット写真やライブ写真を撮影している。主な作品に1997年にリトルモアから発行された写真集「Very Special Love」、2007年に愛育社から発行された写真集「サナヨラ」、2011年にマッチアンドカンパニーから発行された写真集「すべては初めて起こる」などがある。2019年3月から2020年3月にかけて、Webサイト「dancyu web」で、エッセイと写真のコンテンツ「山の音」を隔週で連載。2020年3月には平凡社から、最新写真集「心眼 柳家権太楼」を刊行した。