蒼井優が体現する“ギャップ”と闘う人間像 『スパイの妻』で発揮された、そのクラシカルな佇まい
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“明るいとか明るくない”はない
蒼井優の代表作の一本といえる『百万円と苦虫女』(タナダユキ監督/2008年)は、鈴子(蒼井優)の出所シーンから始まる。「シャバだ~」と、久々の外気を吸い込み、友人家族の出迎えもなく、一人出所する鈴子。まだあどけなさすら感じさせる容姿もあいまって、とても刑期を終えた女性とは思えない。鈴子の登場には、フィクションのウソ臭さが溢れている。ところが小さな声で歌いながら刑務所の外壁沿いを歩く鈴子の彷徨を見ているうちに、私たちはあっという間にその空虚な景色と一人の女性が調和していくのを発見する。鈴子が囁くように歌う小さな歌声は、悲しいわけでも楽しいわけでもない、放り投げられた感情として空に響く。そのとき、ウソ臭さは真実に近づいていく。蒼井優の体現する感情は、白とも黒ともつかない、色彩がつく直前の感情だ。
同じく『百万円と苦虫女』の中で中島(森山未來)が鈴子に言うセリフが、この蒼井優の在り方をよく表している。「いつも困ったように笑うね」。本心を隠しながら感情の表出を曖昧にさせていく蒼井優の演技と、ポートレート的に当時の蒼井優を撮っていること、また、タナダユキ的な物語の省略=飛躍の連続が融合することで、『百万円と苦虫女』は蒼井優のフィルモグラフィーの中でも演技の足し算と引き算が全くない、奇跡的な調和を見せている。同じくタナダユキ監督による『ロマンスドール』(2020年)では、高橋一生演じるラブドール製作者が、ラブドールのモデルになった園子(蒼井優)に一目惚れし、即日に交際することになるというフィクションならではのシーンがあり、ここで蒼井優は告白のアクションに対して、特別な驚きの表情を浮かべるでもなく、あるがままの受け入れのリアクションだけを提示する。好意を示す人がいて、好意を受け入れる人がいるという、必要最低限に単純化された二人の所作の交換によって、このウソ臭さはどういうわけか一気に真実に近づいてしまう。
蒼井優のこうした簡単に色を付けない演技は、衝撃的なまでに鮮烈なデビュー作を飾った『リリイ・シュシュのすべて』(岩井俊二監督/2001年)からすでに見られる。傷つきやすく、あまりに儚く堕ちていく少年と少女を描いたこの傑作の中で、「私たちに明るいとか明るくないとかないじゃん」と言い放つ津田詩織(蒼井優)の台詞が広げる存在の余白。明るいとか明るくないとかない、暗いとか暗くないとかない『リリイ・シュシュのすべて』の登場人物たちだからこそ、私たちはこの映画で描かれたことに胸が壊れてしまいそうになる。田園風景の中で執拗に蹴りを入れる少女と無抵抗な少年。思っていることと実際の行為が一致しないときに生まれる感情の余白に、人の心は動かされる。
後年、『オーバー・フェンス』(山下敦広監督/2016年)の寄る辺ないヒロインや、『彼女がその名を知らない鳥たち』(白石和彌監督/2017年)で恋愛依存の女性を演じた蒼井優のアプローチも、こうした“明るいとか明るくないがない”演技の系譜といえるだろう。人物像に色を付ける主体が、蒼井優ではなく、観る者の側に任せられる。彼女たちは、その女性がどうやって生きてきたかを、言葉ではなく存在の余白として示す。そこで共通して浮かび上がってくるのは、少女時代に何か大事にしていたものがあって、描いてた未来の自分と現在の自分がどう違うかという齟齬に苦しむ一人の女性の肖像。これを『リリイ・シュシュのすべて』に倣って、エーテルの行方と呼びたい。
デフォルメ化の破壊
その一方で、『リリイ・シュシュのすべて』に続く岩井俊二作品への出演となった『花とアリス』(2004年)では、蒼井優の演技が持つ、もう一つの側面が読み取れる。『花とアリス』は駅のホームで白い息を吐いて遊ぶ二人の少女(鈴木杏と蒼井優)を捉えた冒頭のショットから傑作だと確信できる作品で、ハイライトとして語り継がれる蒼井優のバレエシーンは、すべての感情を振り切った美しさに満ちている。有栖川徹子を演じる蒼井優は、突拍子のない動物性を演技の足し算として次々に加えていくことで、自信がないのか自信があるのか分からない少女の大胆さを表象する。結果として、それこそが少女のドキュメントを成立させる大きな要素になっており、当時の蒼井優が足し算の結果に対して、おそらく無防備だったところが、この作品の純度を一段と高めることに貢献している。
こうした蒼井優の足し算の演技は、『人のセックスを笑うな』(井口奈巳監督/2008年)において、応用される。ユリ(永作博美)とミルメ(松山ケンイチ)の恋人同士の笑いが、一回性の行為のかけがえのなさをドキュメントとして表わされていたように、井口監督による実験の狙いは、より役者をフレームという枠組みから開放させることにある。使える空間や演技そのものに、いつもより自由を与えられた蒼井優は、『花とアリス』の少女が見せた突拍子のなさを意識的に演技に加えていくかのように、映画に新たなリズムを加える人として動き回る。
『オーバー・フェンス』では、こういったリズムの加え方が、オダギリジョーの素晴らしい受けの演技との美しい調和を見せている。生きるということに対して何も変えたくなくなってしまった白岩(オダギリジョー)の持つリズムを、あれよあれよと相手の気づかないうちに変えてしまうヒロイン。ここでは自分のリズムが壊されることに心地よさを感じることが、すなわち恋になっていく。ヒロインの綱引きのジェスチュアで引き寄せられる恋人という、ミュージカルのようなシーンは、このことを極めて美しい形で描いている。
こうした蒼井優の演技が持つ自由は、あらかじめデフォルメ化されてしまった性格や感情と親和性があるように思わせつつ、その実、感情のデフォルメ化に抵抗するだけの動物的な瞬発力を合わせ持っている。『宮本から君へ』(真利子哲也/2019年)は、その意味で蒼井優の足し算の演技の代表作といえるだろう。こんな人は現実にいないだろうと思えるほど劇画的に振り切っていく本作での演技は、デフォルメ化された感情とそれに抵抗する動物的瞬発力によって、むしろ一人の女性の生々しさを帯びていく。蒼井優は、ウソ臭さの極北さえも真実に変えてしまったのだ。
エーテルの行方
『贖罪』(黒沢清監督/2012年)の第1話『フランス人形』で、蒼井優は初めて黒沢清の作品に出演する。黒沢清の映画における蒼井優は、完全に引き算の演技を披露する。それが監督の指示というわけでもなく、おそらく黒沢作品に出演するという意識そのものが、演技の抑制を自然な形で導いている。抑制と向き合うことで、蒼井優の演技は、これまで以上に鋭利な切れ味を研ぎ澄ましていく。“少女の体のまま、大人になってしまった”麻子(蒼井優)は、夫(森山未來)との常軌を逸した新婚生活について、「こう見えても幸せだから」と、本心を隠す。『百万円と苦虫女』で見せた、あの「困ったように笑う」笑顔で。本心と表情が一致しないことで生まれる演技の余白。むしろこの蒼井優こそが、本来の女優としての気質に合っているのではないかと思わせるほど、その余白は深く物語の肌理に浸透していく。また、毎晩フランス人形の衣装を着て、夫の寝室に立たされる麻子に当たる照明の冷たい光は、一人の女性の徹底的に冷え切った肖像を浮かび上がらせる。
黒沢映画における蒼井優はいつもと違い、動線に繋がれた美しさとでも言うべきか、自己抑制の中で際立っていく演技の美しさなのだ。このことはクローズアップのショットを迎えたときに、より一層際立っていく。ポン・ジュノがオムニバス映画『TOKYO!』(2008年)の一編『シェイキング東京』を蒼井優と撮ったとき、『メルド』で同オムニバスに参加したレオス・カラックスが、蒼井優の顔のフレームへの収まり方を称賛していたように、蒼井優のクローズアップは、たとえば『汚れた血』(レオス・カラックス監督/1986年)のジュリエット・ビノシュのクローズアップがそうであったように、感情の向き方がどこに向かっているのか簡単には読み解けないものになっている。また、ニュアンスの広がりに富んでいる上に、蒼井優のフレームへの収まり方は、日本映画の古典に出てきそうなクラシックな女優の雰囲気を備えている。そのことに意識的な黒沢清は、『岸辺の旅』(2015年)に続き、最新作『スパイの妻』(2020年)で、蒼井優の持つ最大の資質をクローズアップとして全開に開放する。劇中にスクリーンで上映される小作品の聡子(蒼井優)のクローズアップの美しさに小さなどよめきが起こるのは当然のことだ。さらにその切り返しとしての聡子のクローズアップの豊かさに至っては、尋常ではない深度と広がりを持っている。これこそが蒼井優がデビュー作『リリイ・シュシュのすべて』で語った、“明るいとか明るくない”のない、悲しいとか楽しいもない、スクリーンに投影された、あまりに唯物的な女優の肖像であり、エーテルの現在地なのだ。
■宮代大嗣(maplecat-eve)
映画批評。ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、キネマ旬報、松本俊夫特集パンフレットに論評を寄稿。Twitter/ブログ
■公開情報
『スパイの妻<劇場版>』
新宿ピカデリーほかにて公開中
出演:蒼井優、高橋一生、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理、東出昌大、笹野高史ほか
監督:黒沢清
脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清
音楽:長岡亮介
制作著作:NHK、NHK エンタープライズ、Incline,、C&I エンタテインメント
制作プロダクション:C&I エンタテインメント
配給:ビターズ・エンド
配給協力:『スパイの妻』プロモーションパートナーズ
2020/日本/115分/1:1.85
公式サイト:wos.bitters.co.jp