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清原果耶のモノローグが心に沁みる 『透明なゆりかご』が描いた産婦人科の“光と影”

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リアルサウンド

 NHKドラマ10枠で放送中のドラマ『透明なゆりかご』(全10話)が、いよいよ最終回を迎えようとしている。なので、このタイミングでは、これまでの「あらすじ」を書きつつ、最終回の見どころやポイントを書くべきなのかもしれないが、このドラマに関しては、そういう感じでもないような気がしている。基本一話完結の物語。最終回もまた、それぞれの事情を抱えた妊婦たちが医院にやってきて、出産準備を始めるのだろう。それが産婦人科医院の「日常」なのだから。

参考:『グッド・ドクター』と『透明なゆりかご』に共通点? 命が交差するドラマが教えてくれたもの

 『透明なゆりかご』の舞台は、ごく普通の産婦人科医院だ。清原果耶演じる主人公アオイは、高校3年生の夏休みのあいだ、そこで「看護助手」のアルバイトとして働くことになる。高校の准看護学科に通う身ではあるものの、そこに特段何か大きな気構えがあったわけではない。けれども、その産婦人科医院でアオイが目にした光景は、それまで彼女が漠然と考えていたものと、良くも悪くも大きく異なっているのだった。端的に言って、すべてが「リアル」だった。

 産婦人科医院の「日常」は、必ずしも「当たり前」とは言いがたいものがある。というのも、産婦人科医院の日常には、「出産」という決して「当たり前ではない」出来事が、その中心にあるのだから。「命が生まれる場所」としての産婦人科医院。そう言うと聞こえが良いけれど、そこは「命が生まれる場所」であると同時に、「命が消える場所」でもある。そんな産婦人科医院の「光」と「影」の部分を等価に描き出しているところが、このドラマの何よりも画期的なところであり、また挑戦的なところでもあるのだろう。

 第1回「命のかけら」の最後、まるで本作全体のテーマをあらかじめ宣言するかのように、アオイはその日、産婦人科医院で感じたことを、率直に言葉にする。「ここは、生まれる命と消える命が、絶えず交差する場所。命には、望まれて生まれてくるものと、人知れず消えていくものがある。輝く命と透明な命……私には、その重さはどちらも同じように思える」。そして言うのだった。「私は命というものがよくわからない」と。

 以降、彼女は毎回毎回、産婦人科医院を訪れる、さまざま事情を背負った妊婦たちと、そのまわりにいる人々と触れ合うことになる。出産リスクのある持病を持った妊婦、術後の合併症で夫が寝たきりの妊婦、14歳の妊婦、中絶を繰り返す妊婦、自分を捨てた母親の母子手帳を大事に持っている妊婦など、彼女たちの事情は実にさまざまであり、彼女たちとの出会いを通じて描き出される物語もまた、美しいものばかりではない。そして、医者でも看護師でもないアオイは、その現場の最前線にいながら、なかなか彼女たちの役に立てないのだった。

 しかし、何もできないことは、何も感じないこととイコールではない。自分がもし彼女の立場だったら、どうするだろう。彼女と同じ道を選び取り、同じように感じるのだろうか。もしくは、まったく別の道を選ぶのか。その答えは、いつも曖昧なまま、見上げた空の彼方へと消えていく。けれども彼女は、どこまでも真剣に、今の自分が持つ精一杯の力で考え続けるのだ。そう、その最前線にいながら、何者でもない――その当事者でもなければ関係者でもなく、医療行為を施すこともできない彼女の存在は、ある意味、このドラマの行方を固唾を飲んで見守っている我々視聴者と同じなのだ。本作が、出産経験のある女性はもちろん、そうでない女性、さらには男性の心も強く揺り動かすのは、この「アオイ」という主人公あってこその話なのだろう。

 第2回「母性ってなに」の最後、アオイはその日一日を振り返りながら、次のように独白する。

「今でもよくわからない。私の中に何が生まれていたのか。菊田さんの中に何が生まれていたのか。あの子の中に何が生まれていたのか。その生まれた何かに突き動かされてとった行動が正しい選択だったかどうかわからない。でもそのとき感じたことに嘘はないと思う。私たちはたった一瞬でも思ったんだ。目の前の小さな命をたまらなく愛おしいって」

 さらに、第4回「産科危機」の最後では――

「命が消えるってやっぱりわからない。生まれるってこともよくわからない。命って何。ある日突然消えちゃうぐらい儚いのに、私たちの心も体も容赦なく突き動かす。命って怖い。でも、ありがとね、無事に生まれてきてくれて」

 そう、作者が高校生の頃の実体験をもとにした、沖田×華の漫画を原作とするこのドラマの見どころは、そんな「アオイ」という役どころに瑞々しい息吹を注ぎ込む、清原果耶の初々しくも繊細な演技をはじめ、若手とベテランが織りなす芝居の絶妙なアンサンブル、自然光にこだわった「光」の演出など、枚挙にいとまないのだけれど、そのなかでもとりわけ強く心に残っているのは、気がつけば毎回毎回、じっと耳を澄ませながら、その言葉を待ち続けている、エンディングのモノローグなのだった。近年は、ドラマおよび劇場版『コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』など、「命の現場」にまつわる物語で、秀逸な台詞の数々を生み出している脚本家・安達奈緒子による珠玉の言葉たち。原作のエッセンスを活かしながら、ひとつひとつ丁寧に編まれていったであろうその台詞は、清原果耶の身体を通して瑞々しい輝きを放つと同時に、視聴者の心の奥底で、いつまでも響き渡るのだった。

 そんなエンディングのモノローグに注意深く耳を傾けているうちに、あることに気づいた。当初「わからない」を連呼していたアオイの心は、徐々にではあるけれど、少しずつある変化を遂げているように思えたのだ。第5回「14歳の妊娠」の最後、「この子もいつか、自分がどんなふうに生まれてきたか知るんだろう。それは、たくさんの人の思いを知るってことだ」と語ったアオイのまなざしは、それぞれの事情を抱えた妊婦たちから、徐々にその子供たち、さらには自分自身へと向けられていくのだった。

 母子手帳が重要なモチーフとなった第7回「小さな手帳」。そこで目の当たりにした母と娘の「絆」を思い起こしながら、やがてアオイは自身の母との関係性に思いを馳せる。幼い頃に親が離婚し、女手ひとりで育てられたアオイ。幼い頃から、ちょっと変わった子どもであり(のちに注意欠陥多動性障害の可能性があると医師に診断される)、その態度がときに母を執拗に苛立たせ、その記憶が今も心の奥底に澱のように残っているアオイ。そう、アオイもまた、母親から生まれたひとつの「命」なのだ。そう考えたとき、アオイの「命というものがよくわからない」という言葉は、「私というものがよくわからない」と同様の意味を持ち始めていくのだった。そんな第7回の最後、一念発起のもと、これまで見ないようにしていた母親の母子手帳に目を通しながら、アオイはこんなふうに言葉を綴っていく。

「小さな手帳は愛で溢れてた。でも、その純粋な愛はずっと続くとは限らない。傷ついたり歪んだりして形が変わってしまうこともある。ただほんの一瞬でも、世界中の誰よりも愛されていたという証があれば、私たちは生きていける。そして、いつか誰かを愛することもできる気がする」

 妊婦たちへのまなざしが、生まれた子供たちに対する願いや祈りに変わり、それがやがて自分自身へと向けられたとき、彼女のなかで何かが緩やかに変わり始める。もはや彼女は、最前線の傍観者ではない。「わからない」――最初はそうとしか言えなかった物事が、「他人事」を通じて、いつしか「自分事」へと変わっていくような、そんな大きな流れが、実はこのドラマの根幹にはあるのではないだろうか。かくして、最終回をもって、「命」の現場に触れたアオイの夏休みは終わってゆく。いわゆる甘酸っぱい体験とは違うけれど、何よりも濃密で忘れがたい「ひと夏の体験」を過ごした彼女は、その最終回の最後に、一体どんな言葉を発するのだろうか。それが今から楽しみでしょうがない。ハンカチ片手に待機します。(麦倉正樹)