山下智久、ジャニーズ退所に寄せてーー活動の可能性や選択肢を広げた変遷を辿る
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「この24年間、応援し続けてくれたこと、一生忘れません。皆さんから頂いた温かい言葉、たくさんの愛がどれほど僕に勇気と希望を与えてくれたことか、言葉では言い表せないほど感謝しています」
11日10日、山下智久が10月31日付でジャニーズ事務所を退所したことが発表された。かねてから海外を拠点に活動したい意向を示していたこと、10月27日に海外作品へのオファーがあったことで決断に踏み切ったという。山下はすでに日本を離れ、海外に渡ったと報じられた。海外でキャリアを積みたいという山下の意向は、このところの活動からも伝わってきた。改めて山下の軌跡をまとめてみたい。
山下智久の軌跡
千葉県出身、1985年4月9日生まれ。1996年にジャニーズ事務所へ入所。ジャニーズJr.時代から注目を浴び、当時、滝沢秀明と渋谷すばるを筆頭にした“ジャニーズJr.黄金期”から続く、Jr.人気を牽引してきた一人だ。山下、生田斗真、風間俊介、長谷川純で結成されたジャニーズJr.のユニット・FOUR TOPSでも注目を浴びたほか、生田とのシンメも人気で、やまとま、トマピーなどと呼ばれて親しまれてきた。錦戸亮とは、雑誌『Myojo』のJr.特集で、ジーンズを交換したことを明かし、仲良しショットが掲載された。
2003年9月15日、9人体制の「NEWS」を結成。「NEWSニッポン」でCDデビュー。翌年「希望~Yell~」でメジャーデビューを果たした。NEWS人気を牽引しつつも、明治大学へ進学。すでに人気を博していただけに、大学進学は大きく話題を呼んだ。
グループ活動に加えて、ソロとしてもテレビドラマや映画への出演が相次ぎ、俳優としても人気を得てきた。グループの中心人物であり、バイプレーヤーとしてドラマに出演してもパッと目を引く、華があるのが山下だ。
2006年には主演ドラマ『クロサギ』(TBS系)の主題歌に起用された「抱いてセニョリータ」でソロデビュー。数々のドラマ作品に出演してきたが、2008年放送の主演ドラマ『コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』(フジテレビ系)は彼の代表作。シリーズ化されたほか、2018年には劇場版公開と広がりをみせ、山下の代表作になった。2011年にNEWSを脱退、以降はソロに転身。東京・代々木第一体育館、横浜アリーナと、ソロアーティストとしては大きな会場で開催してきたように、たくさんのファンに支持されてきた。印象的だったのは、MCタイム。山下が喋らず、振り返っただけで客席から黄色い声援があがった。ファンの熱と、山下との距離感が伝わる一幕だった。
グルーブの枠を超えた活動
山下の活動では、コラボレーションも特徴的だ。2005年に160万枚のミリオンヒットを飛ばした「青春アミーゴ」。ドラマ『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系)劇中の役名・修二と彰名義でリリース。2011年には、安室奈美恵 feat. 山下智久として「UNUSUAL」を、翌2012年にはThe MONSTERS名義で香取慎吾との「MONSTERS」をリリース。
事務所内に留まらない、人気アーティストとのコラボ展開は山下だからこそ実現したのだろう。ドラマ出演から主題歌起用に加えて、劇中を飛び出して発展をみせた。グループを跨いだ活躍、枠にとらわれない挑戦は、後輩たちにとっても可能性や選択肢を広げてくれたはずだ。
修二と彰誕生から15年の月日を経た今年、再び亀と山P名義の活動といったコラボの話が出たように、この先20年、30年とどんな風に歳を重ね、どんな歌を聞かせてくれるのか。楽しみにしていただけに予定していたステージを一目観たかったのが本音だ。
今後はウィル・スミスの日本での活動の窓口を担当しているマネジメント会社を拠点に、海外での活動をスタートさせる。日本で積み上げてきたキャリアを手放すことについては勇気が要っただろう。
自粛期間は3カ月間を予定していたという情報も伝えられたが、真偽のほどはわからない。SNSでも、応援する声の一方で、厳しい意見が寄せられているのも事実だ。それも重々受け止める覚悟の上での決断であろう。「幸運の女神には前髪しかない」と言われるように、どれだけ願っていてもチャンスはそう簡単に巡ってくるものではない。この機会を足がかりに、どんな道を歩むのか。24年間のアイドル活動を経て訪れた転機。35歳、新たなスタートを切った。
■柚月裕実
Web編集者/ライター。企画、担当編集、取材・執筆してます。
日本の男性アイドルの頑張りを見ては涙する30代。
始まりはSMAP中居さん。 KAT-TUN、NEWS中心の事務所担。年中HDDの整理と原稿書きに追われています。