小田嶋隆×武田砂鉄が語る、Twitter論 “オールドメディア”はどうあるべきか?
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先日刊行されたコラムニスト小田嶋隆の新刊『災間の唄』は、東日本大震災のあった2011年からコロナ禍真っ只中の現在までの同氏のツイートを収めたものだ。選者は、同氏から大きく影響を受けてきたというフリーライターの武田砂鉄。膨大なツイート群からセレクトされた10年分のツイートは縦書きになって時系列で並べられ、一年ごとに年表と武田の解説も添えられている。ツイッターの画面上とはまた異なる雰囲気を持つ一冊だ。
世代は異なれど、ともに第一線で活躍する書き手である両氏に、本書はもちろんのこと、その故郷とも言えるツイッターについて、さらにはコラムやその他のメディアについて語り合ってもらった。
横書きのツイッター画面上から縦書きの本へ
――10年分のツイートがツイッター画面上とはまったく異なる縦書きの本になって、どう感じられましたか。
小田嶋:私はずいぶん意外でしたよ。横書きでスクロールで流れてる時は情報という感じがするけど、縦書きで紙だとやっぱり文字になる。ありがたみ、名言感が3割ぐらい増す感じですね。大したことなくてもちょっと深い
ことを言ってるように見えるんですよ。本にまとめてもらったのはそういった意味ではありがたいなと思ってます。
――RTやいいねの数がわからないのも新鮮です。
武田:そういった具体的な数値が入ってないのは意外と重要な点かもしれないですね。文章のみを目にして、頭で考えられる。ツイッター上では、このツイートはこれだけ多くの人が反応しているから強いものなんだと、数値の馬力、ポイント数みたいなものに影響されてしまうから。
小田嶋:今回のはRT数が多いツイートを選んだわけじゃないんでしょ。
武田:はい。最初に編集者の方からツイートを印刷したものを大量に送ってもらった段階からRT数は載ってなかったですね。ただ、読んでいけば、小田嶋さんがこの話題にかなりこだわっているな、だいぶしつこくやってるなってことは体感できました。でも、このしつこさって、日頃のスクロールではわからないので。
――10年分の膨大なツイートをセレクトする際に、そのしつこさもちゃんと残そうとか、何か基準はあったんですか。
武田:2年前にナンシー関さんのベストセレクション本を新たに文庫で出すにあたり、そのセレクトを担当したことがあって、それも大変な作業だったんです(朝日文庫刊『ナンシー関の耳大全77 ザ・ベスト・オブ「小耳にはさもう」1993-2002』)。週刊連載を時系列で追っていくと、何回も何回もカイヤと川崎麻世について書いていたりする。世間的には、他に重要な芸能ニュースがたくさんあったはず。でも、その2人を書く。コラムとツイッターで性質の違いはありますけど、今回の本も「うわ、また言っている」が重要で、その上で、今読み直しても面白いと感じられるか、追体験しながら、その流れをどう抽出するかは考えましたね。
小田嶋:本に載ったのは全ツイートの2.5%ぐらいで、もともとは40冊分の量があったらしいんですよ。雑文耐性がある職業的な読み手じゃないと、この量は読めない。
武田:本として読める形に編集するために何が重要かというと、面白いと感じる能力より、冷酷さですね。「なんだ、これ、こんなのいらねえよ」ってビシバシ切り捨てることで、面白さの濃度を高めていく。間引いて、間引いて、という作業をそのときの気分でやってるから、また新たにやり直したらたぶん別の内容になると思います。もう、やりたくないですけど(笑)。
ツイッターがもたらしたコラムの書き方への影響
――時事問題などをコラムに書く場合とツイートする場合で身構え方などに違いはあるんでしょうか。
小田嶋:はじめはウケればありがたいなって純粋にツイートしていて、ツイッターはツイッター、コラムはコラムで別立てだったんです。でも、途中から変わったと思います。この5年ぐらいは「これはきっとあとでコラムにするんだろうな」と思いながらツイッターを書いてるから、創作メモみたいな役割を果たしてるんですよ。140字でまとめることは4000文字、5000文字のコラムとは絶対違うんだけど、ツイートを並べちゃうような手抜きのコラムの作り方も覚えてきてしまった感じです。140字で言えないことは結局言えないという体の構造が少しできたのかなって点は、ちょっと反省してるんですけどね。
武田:小田嶋さんはとにかく時間をかけて1つのツイートを考えているから、あとでコラムに組み込もうとすると、ツイート部分が「これから必殺技出します!」みたいな感じになる。でも本来コラムは、どこが必殺技かわからないように、2000字なら2000字の間にまぶしたりフラットにしたりするものだったはずですよね。
小田嶋:コラムニストの腕としてはね、600字、2000字、5000字のコラムだと、それぞれ緩急というのか、前段の置き方と結論の持ってき方が絶対違うんですよ。ツイッターの140文字には無駄な言葉一切が入らないので、それを2000文字のコラムのなかに混ぜて少し引き延ばそうとするとダメになっちゃう。140文字に頭としっぽがついてちゃんと魚のかたちをしてるから、崩すと魅力が失われるんです。結局、魚を3匹並べるみたいな酷い話になって、コラムの書き方がツイッターによって少し変わったことは、自分でも認めなきゃいけないなと思ってます。
――そういう影響があったんですね。ツイートするときはやはり、これは“コラムニスト小田嶋隆”のツイートだということを意識して?
小田嶋:それはあるはずです。140文字のなかにひとつの主題をいれて、ちゃんと着地してるよって書き方をするのは、自分がコラムを20年書いてきて培ったなんらかの腕みたいなものがあるはずで、たぶん、昨日今日文章を書き始めた素人がさっとできることではないんですよ。そこは少し技術的蓄積みたいなものがあったと思うんですけどね。
ツイッター登場前からあった140文字との相性の良さとクソリプ耐性
武田:ツイッターぐらいの文字数って、いちばん難しいですよね。編集者をやってたとき、文庫のカバー裏に内容紹介を書くことがあって、これが確か200字ぐらい。これくらいの文字数で、手にとってもらうための言葉を並べるのってすごく難しい。
小田嶋:あれ、上手下手というよりも好き嫌いなんだよね。オレ昔っからキャプションが大好きで、雑誌の編集部で「小田嶋さんキャプションつけてよ」って言われるとタダでつけてたんです。もっと遡れば、中学校のとき、遠足とかの写真が注文用にクラスの後ろに貼られるでしょ。あれに何か一言つける作業を誰にも頼まれてないのにやってたんです。誰かふたりが歩いてる写真に、一コマ漫画みたいな「~~なふたり」とか、クラスの写真ぜんぶにキャプションをつけてたんですよ。
武田:短い言葉で全てをひっくりかえすみたいなことが好きなんですね。
小田嶋:そうそう。ちっちゃいオチをつけて、それを笑ってもらえたらうれしいなってことは、子供のころからずっとやってました。
――じゃあ、ツイッターの登場はちょうどいいツールが出てきたという感じで?
小田嶋:ツイッターを「ああ、これは面白いものだなあ」と思ったのは、そういう人だったからということですよ。本にするとか、儲けるとかいうことはまったく考えてなかったですから。
武田:「あ、中学校のときにやってたアレじゃん」ってサイズ感だったわけですね。
小田嶋:で、ときどき反響がかえってくるのがまたね。クソリプもそんなに嫌いじゃないですから(笑)。
武田:クソリプが嫌いじゃないって言う人はほんと珍しいですよね(笑)。
小田嶋:クソリプ耐性の高さはこの業界でやっていく必須の条件ですよ。私がちょうど80年代のライターのブームで出てきた頃、同じような立場で実際文章の上手い人とか、着眼の鋭い人とかたくさんいたんだけど、みんなふーっと消えてったんです。それは、どちらかというと文章の問題じゃなくて、耐性の問題で、文章の上手い人とかセンシティブな人って、クソリプに弱くてやめちゃうんですよ。ただ、別にやめてダメになったわけじゃなくて、もっといい位置に行ってたりするんですけどね。
メディアは高飛車に物を言うことも必要
武田:それこそ、80年代から小田嶋さんのコラムや文章を読んでる人には「小田嶋さんってのはコミカルで、時にシニカルな、面白いエッセイを書くタイプの人だったのに、最近じゃ、政権批判や社会事象にかなりダイレクトに突っ込んでいく人になっちゃったね」という言い方をする人も多いですよね。
小田嶋:そうそう。昔のものを読んでた人が言うときもあるし、読んでないくせにそういうこと言うやつもいるんですけど。80年代、90年代のイメージだと、不謹慎な酔っ払いのちょっと危ない人だったわけで、その芸風がなぜか上から物を言う説教おじさんみたいなことになってることに違和感を持つ人はいますよね。これは私のせいじゃなくて世の中のせいだと思ってるんですけど。
武田:今これだけいろんな政治的な問題、社会的な問題が転がっているなかで、小田嶋さんにいろんな新聞社がコメントを求めるっていうのは、引き続き、コミカル要員というか、面白おかしく言ってもらいたいという面もあるんじゃないですかね。
小田嶋:1個だけちっちゃいオチがついてるぐらいのコメントが、新聞社あたりではうれしいんだと思うんですよ。でも、新聞がほんとうのメタなメディアだった時代は、自前の文責で新聞記者が自分で書いてたんです。その危険を負担したくないから、いわゆる外部の有識者になんか言わせる。その役割に私は組み込まれてるんだと思うんです。「お前にスリッパ貸してやるから、あいつのうしろ、安倍さんの後頭部叩いてこいよ」という鉄砲玉みたいな役割をさせられてる気分はありますよね。
武田:とはいえ小田嶋さん、そのスリッパをちゃんと持って叩きにいきますよね、ちゃんと(笑)。
小田嶋:行きますよ(笑)。
――SNSがどんどん台頭していくなかで、いわゆるオールドメディアが変わってしまったっていう点はありますか。
小田嶋:オールドメディアがやってること自体はそんな変わってないと思うんですよ。記事の質がある程度は落ちてる部分がないわけじゃないけど、ちゃんと優秀な人間がきちんとした記事を書いてる。何がダメになったかって、読む側が信用してないんですよ。内田樹先生の『先生はえらい』というとても面白い本があって、学校の先生がどうして先生をやっていられるかというと、生徒が先生は偉いと思い込んでるからだと。新聞もそうで「新聞に書いてあるのは本当のことだ」「新聞記事ってのは基本的に鵜呑みにしていいんだ」とみんなが思うことで初めて役割を果たせてた部分がある。「なんか朝日って変じゃないか?」とか「どうせ産経は右だろう」とか思って読むと、新聞の価値は半減しちゃうと思うんですよね。しかも、記者自体が自分の新聞を疑ってる。もっと高飛車にやんないとダメですよ。
武田:そういう不安があるから、記者が自分で「こう思います」と書かずに「いやー、小田嶋さんがこんなことを言ってますよ」と書く。それがネットに出て「ったぅ、ひどいな、小田嶋ってのは」となる。どこに載ったかなんて、関係なくなっちゃうんですよね。
小田嶋:誰かが高飛車に言わないとね。反対側の高飛車なご意見というのは、たとえば松本人志が、何かを混ぜっ返して何もかも無意味にしちゃうような変な笑いを垂れ流してるでしょ。そういうものに対して、ちゃんと建前を言い募る人間がいないと世の中は成り立たない。でも、なぜ俺が建前を言ってるんだろうっていう驚きはあるんですよ。80年代とか90年代は、新聞の言ってる建前をまぜっ返すのがコラムニストの役割でしたから。最近の流行りの言葉でいえば俯瞰的、総合的なことを言うのがコラムニストや学者の役割だったのに、そんなことを政府が言ってるのは不気味なことですよね。
武田:コラムとして読ませるものを書くというのは、政治でもなんでも対象がしっかりズドンと立っているからこそ、そこに足をひっかけたり、後ろから火をつけてみたり、毒を盛ってみたりという技があったわけです。でも、あっちが軟体動物みたいだと、まず立たせ方を教えるところから始めなきゃいけなくて、書くほうはすごく難しい。この本の10年間はそんな時代だったんじゃないかなと思います。
ケチをつけるときも面白い言い方で
――たとえば怒りでも、ただ怒ってますという表現ではなくて、ちょっとクスリとさせる点も小田嶋さんのツイートの特徴ですよね。
小田嶋:ものの言い方サンプル集みたいな気分があるんですよ。これをこう言ったら当たり前だけど、こっちの方向から言ってみようかなとか。表現の仕方のいろんなパターンをやってみたいときに140字ってちょうどいいんです。断言してみたり、疑問形で終わってみたり。語尾のバリエーションでも「である」だけでなく「だろうか」だったり「あるまいか」だったりあるじゃないですか。
――どんなツイートをするか考えるときは、ツイートの主題のことよりは表現方法について考えて?
小田嶋:何を書くかという内容より表現方法のほうが大きいと思いますね。安倍さんにケチつけようと思えば毎日20個や30個つけられるんだけど、面白い言い方でケチつけられるんじゃなかったら、あえて言うもんかみたいなところはあったと思います
武田:だから、小田嶋さんの1日のツイート数って、そんなに多くないですよね。
小田嶋:10個かそこらじゃないですか。1日に2、3時間やってるので、1個に15分ぐらいかけてるのかな。ずっと考えてるわけじゃなくて、反応すべきかどうか、タイムラインをだらだら見てる時間もありますけどね。
武田:1年のうち1、2ヶ月ぐらいはツイートに費やしている計算になりますよね。
小田嶋:だからすっかりテレビを見なくなりましたよ。昔は原稿も書かないで何もしてないときってなんとなくテレビつけて、ぼやーっと見てたわけですよ。
武田:自分は、わざわざ不愉快になろうと思いながら、テレビを見ている感覚があります。よく言われる話ですけど、ツイッターで自分がフォローしてる人たちのタイムラインって、比較的自分と考えが似ている人が多いわけので、そればっかり浴びて、あたかも世の中はこうであると勘違いしちゃうのもよくないなと思う。毎日、『バイキング』と『ひるおび!』を交互に見ながら昼ご飯を食べてますから。情報収集の仕方はたぶん自分と小田嶋さんとはけっこう違うと思うんですよね。
小田嶋:『バイキング』見るって偉いよねえ。そういう文芸作品の下読みみたいなことができるのはひとつの能力ですよ。私はツイッターで情報収集することが多い。ただ、タイムラインのなかを漂ってると、一種浮世離れしてはいるんですよね。比較的趣味のいい人たちが見てるものしか見てないので。
――快適なタイムラインは、一方で似た考えの人が集まることによる負の側面も指摘されていますね。
小田嶋:エコーチェンバーって言い方をするみたいですけど、自分でどんどん蛸壺を作っていっちゃうでしょ。蛸壺のなかの人同士でコミュニケーションをとるムラを作っちゃう狭さがある。だから、たまには外に出て「ああ、世間はこうなってるんだ」って『バイキング』とか『ミヤネ屋』見ないとね。
――外からはクソリプもきますし。
小田嶋:クソリプがずいぶん外の空気を入れてくれてるんだと思いますよ。あいつらいなかったら本当にもう、自分だけ気持ちいい変なオヤジになっていきますからね。
武田:クソリプで世間を知るという、その取り込み方がいちばん体に悪いと思うんですけどね(笑)。
この本が売れたら第二集として出したいのは……
――最後に、この本のなかでベストツイートを選ぶとするとどれになりますか。
小田嶋:このなかからベストを選ぶのは難しいですが……箴言集みたいものって最近振り返られてないけど、詩や俳句や短歌だとか短文の伝統が日本語のなかにあったはずなんです。江戸時代なら大田南畝だとか、狂歌師みたいな狂歌や川柳をやってた人たちがいた。そういう伝統が途絶えて久しかったので、今回、少し短い文章でなんか言ってそれで終わり、石を投げるみたいにして去っていくということができたのは、気分がいいですよね。そして、とにかく、これが売れたら、そのご褒美でちょっと薄い第二集のバカネタ編を出したいんですよ。
武田:それはもう、セレクトは自分でやってくださいよ。
小田嶋:ははははは。バカネタはね、パッと見て誰でも笑えるようなネタじゃなくて、「この面白さわかる?」ってちゃんと解説しないとわかんないような奴を自分は偏愛してるんですよ。「気がつかないかもしれないけど、ここに面白い要素が詰め込んであるんだよね」みたいな解説つきで出したいんです。クドクドとしたね。
武田:間違いなく自分でやってください!(笑)
■書籍情報
『災間の唄』
著者:小田嶋隆(著/文)武田砂鉄(著/文)
発行:サイゾー
定価:2,000円+税