中村佑介が語る、自身のイラストを大衆化する意義 「存在としてダサくならないと、文化の裾野が広がらない」
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今年で活動18年を迎え、過去最大規模の展覧会「中村佑介展 BEST of YUSUKE NAKAMURA」が、東京ドームシティ内のギャラリーで開催中の人気イラストレーター中村佑介。会場には、約400点を超える原画やラフが展示されており、これまでの中村の仕事がほぼ網羅されている。デジタルではなく、手で描いているという原画の綿密さや、絵に盛り込まれたアイデアの数々をぜひ実際に目にして欲しい。
活動開始の2002年以降、人気ロックバンド・ASIAN KUNG-FU GENERATIONのCDジャケットや、『謎解きはディナーのあとで』『夜は短かし歩けよ乙女』などの書籍における装丁画、アニメのキャラクターデザインからパッケージイラスト、音楽の教科書に至るまで、幅広く活躍し、走り続けて来た。今回のインタビューでは、その18年を振り返ると共に、イラストレーターとして現在中村が担っているもの、そして、漫画家の肩書きを諦められなかったという過去から、美人画系譜への意識、オリンピックへの夢、共感性が足りないと自負するパーソナルな部分においてまで、たっぷり話を訊いた。(こたにな々)
画集と共にイラストレーターとして腹を括った
ーーイラストレーターとしての活動は大学卒業以後の2002年からスタートしています。しかし、就職はもともとテレビゲーム会社を希望し、大学時代には漫画も描いていたとか。
中村:子供の頃の夢が漫画家だったことや、当時は同級生の漫画家・石黒正数くんに対抗して描いてて、漫画を読む事自体は好きだったけど、描くっていうのが実はそんなに好きではなかったみたいで、飽きて辞めちゃった。
ーー「飽きて辞めた」というのは?
中村:『ロッキング・オン』から当時出てた『コミックH』という雑誌で漫画が入賞したことがあって、掲載はされなかったけど、コメントを編集部から貰ってね。ちょうど同じ頃に『季刊エス』にもイラストが掲載されて、どっちが嬉しかったかっていうと、イラストが載った時の方が嬉しかったんだよね。漫画の技術を向上させてまで頑張って続けようという気力もなくて。でもイラストの方は頑張れた。
ーー中村さんの中で「漫画」と「イラスト」においての区別はどういったものですか?
中村:「漫画」は“他者の物語を伝える”というモノなのに対して、「イラスト」や「絵画」は見る人それぞれのパーソナリティによって、”それぞれの実体験を想起させる”という比重が大きい。女の子の絵ひとつ取っても、肌を白く塗っているからといって、真っ白な肌の持ち主と感じる人もいれば、自分が思い描く肌の色を想像する人もいる。女の子の横顔が無表情に描かれていたとしても、それは笑ってるのかもしれないし、泣いているのかもしれないと想像することができる。「漫画」だと、そこをセリフやストーリでちゃんと説明付けなきゃいけないけど、「イラスト」はそのまま見る人に投げられるっていうところがすごく楽しかったんだよね。それを良しとする世界に「自分は向いてる」と思ったから。でも先に漫画で50万とか貰えるような賞を取っていたとしたら、そっちに行っちゃってたかもしれないね。
ーーでは、そこで「自分はイラストレーターになる」と決めたのでしょうか?
中村:いや、決めてないね……。2008年までずっと名刺に「イラストレーター/漫画家」って書いてた。
ーー2008年までですか?
中村:2005年~2006年頃には、最初に応募してイラストを掲載してくれた『季刊エス』の当時の出版社だった飛鳥新社から画集を出すことは決めてたんだけど、画集を出しちゃうと肩書きを一つに決めないといけないじゃない? 画集には載ってないけど、当時『OZmagazine』で四コマを書いたり、大阪芸術大学が発行してる『大学漫画』とか、雑誌でけっこう漫画も描いてたんだよね。それで、なんか諦められなくて。でも、漫画家が出してる画集って、イラストではないのに漫画の人気を利用した二次商品みたいであまり好きじゃなくって。もちろん好きな漫画家先生の画集は持ってるけど、自分としてそれをやるのは嫌だったし、どっちかに肩書きを決めた方がかっこいいと思ってた。だから、ずっと待って貰ってた1冊目の画集を出したタイミングというのは、僕にとって「これからイラストレーターになります」という宣言だった。
アジカンのジャケットは戦略じゃない
ーー2003年に中村さんのイラストジャケットでCDデビューしたASIAN KUNG-FU GENERATION(以下、アジカン)の作品に、私は当時もの凄く衝撃を受けました。アジカンの音楽が持つ文学性を見事に表現していて、レコード会社や広告代理店の戦略と勘違いするほどのものでした。イラストがCDジャケットに起用されること自体は珍しいことではないと思いますが、専属のような扱いでイラストレーター側もアーティスト側も同時に売れるというのは、98年にデビューした音楽デュオ・19のCDジャケットを担当していた326さん以来だと感じました。
中村:そうなんだよね、cakesで『豆しば こつぶ』を連載してる漫画家のキリさんと対談した時にも聞いたんだけど、あの当時の小学生や中学生だった子達は「19と326さんのコラボがすごく楽しかった」と言ってた。僕はもうその時には大学生になってるから、それが体験できなかったんだけども……だからそこは意識はしてなかったね。
ーージャケットを担当する経緯としては、当時インディーズで活動されていたアジカンの後藤正文さん(以下、ゴッチ)と連絡を取り合ってのことだったと思うんですが、担当するにあたって何か戦略などはありましたか? 特に2000年代に台頭したロックバンドは、あの時代特有の空気感を持っていたと思います。そこをイラストに落とし込むというような意識はされていましたか?
中村:ないない(笑)アジカン自体も本格的に日本語で歌詞を書こうとしたのがデビューミニアルバムの『崩壊アンプリファー』からだから、僕もゴッチに「どういうものが表現したいの?」ってよく聞いてた。みんながイメージするほど、ゴッチも戦略的には考えてなくって、歌詞のことを聞いても「なんかよく分かんない」とか、狙ってるわけではなかった。ロックミュージックの音でどうやったら日本語を違和感なく聴かせられるかを主に考えていただけであって、みんなが言う文学性は、“パッと聴きでは分からないけど、歌詞を見たら理解できる”という抽象的な部分が結果的にそう捉えられたのだと思う。だから僕も当時「どうやってジャケット書いたらいいんだろう」と迷ってた。
ーー最終的に『崩壊アンプリファー』のジャケットはどういう感じで描いたのですか?
中村:何かを意図したわけじゃなく、音を聴いたままのイメージで迷いながら色々入れていった。今回の原画展にも展示してあるように、顔をホワイトで塗り潰してる部分は修正した後だし、背景は元々はベージュだったけど、その後白になってる。それまで、風景やアーティストの似顔絵ジャケットはあっても、あそこまでコミック文化に影響を受けたイラストが、アニメに関連してるわけでもなく、ロックのジャケットを飾るというのが今までになかったことなのは自分でも分かってたから、このままイラストを載せると「ロックバンドのCDとしてはダサいんじゃないかな?」っていうのは常に考えてたね。手に取る人達が恥ずかしくならないような、お父さんやお母さん達から子供向けの音楽に見られないようなものにはしてあげたいなと思ってた。でも迷ってるから、背景に説明的にギターとか描いてあるし、当時の絵を今自分で見たら、自信がなかったんだなって思うね。
ーーその後、イラストレーターとしての自信や、クライアントの要望に沿ったものが入れこめると感じたのは、いつくらいでしたか?
中村:タワーレコードやHMVに行くと、アジカンのCDは面出しされていたし、レコード会社のKi/oon Music(当時はKi/oon Records)もポスターとか特典をつけてビジュアル面も重視して展開をしてくれていたから、それを見て、「これでいいんだ」って自信が出てきたかな。1stアルバムまではどのジャケットにも、エレキギターをはじめとした楽器が記号的に入ってると思う。これは「ロックバンドのCDですよ」っていうのを、その当時は絵柄だけではまだ伝えられなかった。(ギターや楽器を)描かなくてもよくなったのは2ndアルバム以降かな。
メジャー文化にするには“存在としてダサく”
ーーイラストレーターとして活動を始めた当初は「中村佑介=アジカンのイラストの人」と認識されていた時期があったと思います。そこから、幅広い層にイラストレーターとして認知されたと実感されたのは、どの辺りでしたか?
中村:『謎解きはディナーのあとで』(小学館)が2010年に出版されて、ちょうどサイン会のツアーをしてる最中だったんだけど、いきなりサイン会に子供たちが来てくれるようになったんだよね。小学生や中学生達が「図書館で借りました!」と言って来てくれた。そこで「伝わった」って実感した。近い世代は共通言語を持ってるから、絵を通して「わかる!」って言えるけど、子供や年配の方達とは世代が離れすぎていて、価値観の共有をあまりしていない分、絵を通して何が伝えられるかというのはずっと課題にしてた。その前の『夜は短かし歩けよ乙女』(KADOKAWA)も、もちろん大事な作品だけど、あれはやっぱりアジカンと同じ当時の若年層が中心だったからね。
ーー中村さんは以前からイラストレーションをサブカルチャーではなく、メジャー文化にしたいと仰っています。
中村:うん、ダサくしたい(笑)! 絵がダサいとかじゃなくて、存在としてダサいものにしたい。「メジャーだからダサい」という価値観は、未だにあると思う。たとえばTVに出ているアーティストが商業主義的に見えて「カッコ悪い」と感じる人は一定数はいると思う。でも、それができる上で選ばないのはカッコいいと思うけれど、できもしないのに“すっぱい葡萄”みたいな感じで「ダサい」っていうのは、全然違うとも思う。
今回の東京オリンピックも、結局イラストレーターは一人も起用されていないわけだよ。選ばれたのは、漫画家の浦沢直樹先生と荒木飛呂彦先生だけど、それは僕も総理大臣だったらあの二人に頼むと思う。日本文化はイラスト文化じゃなくて、アニメ・漫画文化なわけだからさ。世界に向かってアピールしなくちゃいけないわけだから、「それだったら有名漫画家使うよな」と納得するけれど、だからこそ、そこに入っていけるような文化にならないと、イラストレーターを志す人達が食えるようにはならないと思う。僕も「商業主義的に見えない昔の絵の方が好きでした」とよく言われるんだけど、自分でもそういう風に見られるとわかってて変えた。存在としてダサくならないと、その文化の裾野が広がらないから、いつまで経ってもお父さんやお母さんから反対される職業になってしまう。イラストレーターよりもよっぽど倍率の高いプロ野球選手を親が目指せって言うのは、まだイラストレーターという職業がイメージとして理解できない博打に見えてるってことだからさ。
美人画系譜での立ち位置と、“可愛い女の子”という記号を超える挑戦
ーー竹久夢二さんや林静一さんをはじめとする、その時代の女性を描く“美人画系譜”というものが存在すると思います。女性を中心に描いてこられた中村さんは、その系譜を意識することや、自分の立ち位置を考えたりすることはありますか?
中村:意識するよ。みんなが思ってるほど、竹久夢二さんも林静一さんも当時のウケ方はサブカルチャーじゃないし、その当時バリバリ売れてたし、稼いでた。結構、俗な存在だったというか、そこまで崇高な感じではなくて、ポップな存在だったんだよ。その証拠に林静一さんの当時の画集は『サンリオ』から出てたりするわけ。でも、現代で美人画をやるとどうしても存在としてサブカルチャーに寄ってしまう。それを正しく次の世代に持っていくには、そのお二方がやられていたことよりも一歩先に進めなくちゃいけないし、売れたままで古くならないようにしないといけない。次の世代が出て来るまでバトンをしっかり持っておかなくちゃいけない。だから僕はあまり着物や昭和以前のモチーフは描かない。竹久夢二さんや林静一さん達がもう魅力的に描いてきたから、今、当時の着物姿の女性を描いても、それはただのコスプレであって、現代の美人画ではない。現代のスタンダードなものを描くという意味では、僕にとってそれはセーラー服だったんじゃないかな。
ーー中村さんの絵は最近だとどんどん女性の描写が、瞼や上唇、目の虹彩など、書き込みがリアルになっていると感じます。初期の絵は、薄く素朴な顔の女性が中心だったように思うのですが、これはどういった変化なのでしょうか?
中村:“可愛い女の子”という記号に対して「どこまで描いても可愛いのか?」という挑戦をみんながやってきていて、たとえば江口寿史さんであれば鼻の穴を書いたり、鳥山明さんが頬の線を描いたりね。僕がはじめに描いていた女の子はそれまでの人達が作った記号の上で描いていた安全パイだったわけで、「そりゃ可愛いでしょ」っていう。そうじゃなくて、僕も新しい記号を作りたいというか「どこまで描いて大丈夫なのか」みたいな実験をしたいと思ってる。鶴田一郎さんであれば、最近の作品には影が付いていたりして、それを見て、挑戦されているんだなぁって思ったりする。
ーー絵柄を進化させていく中にも、イラストを大衆化させるための目的が含まれているんでしょうか?
中村:そうだね、初期に僕が描いていたタイプの女の子だけだと、大衆向けにはなれなくって。それは2008年に『PORTRATION』という似顔絵展をやった時にも思ったんだけど、自分の絵柄だけでは描けない顔の人って沢山いるなと思ったの。でもちょっと線を足すだけで、色々な人にアプローチできる人間像ができるという勉強にもなった。絵がだんだん変わってきたのは、その前後だったと思う。記号から人間になってきた。
「僕は絵は描けるけど、感受性や情緒はない」
ーー中村さんのインターネットの活用とフットワークの軽さに着目しています。リプライで届いたフォロワーからの声を瞬時に企業に反映させる行動力や、お仕事依頼以外で描いたイラストも仕事として繋げる姿勢が素晴らしいと感じています。プロとして商売する以上はその姿勢は必要だなと感じるのですが、そこは物作りをする人達や目指す人達の意外と苦手とするところじゃないかなとも感じていました。実際のところ、意識的にされているんでしょうか?
中村:これは僕の性格かな。これでイラストの仕事も頂いてきたわけだしね。そこにてらいがある人は、要は「恥ずかしい」ってことだと思うんだよね。「自分のことなんて知られていない」ということにまだ気付いてない。何かある時に緊張する人は、実はすごく自己中心的な面があって「みんなから注目されているから、失敗しちゃいけないから、緊張する」と思ってるわけ。でも本当は誰も見てないの。だから「なんで仕事来ないんだ!」と言ってる人は誰も知らないからであって、本当はちょっと一声かけるだけで気づいてもらえることって多い。
でも最近、脳科学者の中野信子さんの本を読んでいたら、サイコパスの特徴として、「共感能力がない」「緊張しない」「アプローチが得意」と書かれていて、「まんま自分だ!」と思った(笑)。だから、これは僕の持っている資質であって、他の人もやったらいいとは全然思わないし、僕は僕ができることをただやってるだけ。僕自身は、絵を描いてる人よりも絵を見てる人の方が「見る力」を持ってる分だけ偉いと思っていて、よっぽど豊かな心を持ってると思ってる。僕は絵は描けるけど、絵を見る能力や感受性が全然ない。まったくもって情緒がない。
ーー情緒がない?
中村:「こういうのが情緒なのかな?」と思って描いてるけど、夜景とか風景とか見ても子供の頃から感動できなくて変だと思ってた。ご飯も腹が膨れればファストフードでもなんでもいいし、サイン会や展覧会で全国を回っても、ほっといたらホテルでインターネットだけして直帰する。本当に物事に関心がなくて、心が動くべきところでなかなか動かないの。だからインタビューでも緊張しなかったりするんだけれど、そんな自分だからこそできることはあると思ってる。
ーー情緒がない中でどうやって絵を描いているんですか?
中村:みんなのことを見てる、よく観察してる。こういうところでみんなはこう感動するのかなって。
ーー合理的に描かれているということですね。
中村:そう。でも他の人に共感したり、同調したり、テンションが持ってかれるようなことはなくて、映画を見て泣いたこともこの人生で一回もない。その一方で僕はそのことを気にしてるから、こういうところで笑わなきゃいけないんだとか、悲しい顔しなくちゃいけないんだって、勉強するためによくみんなのことを見てるよ。
ーー中村さんのそういう面を聞くと、色々な人の救いになる気がします。持って生まれた資質と、世間一般との相入れなさの間でも、ちゃんとみんなに届く素晴らしい絵を描いていらっしゃるので。最後に、今後やりたいお仕事や目指すお仕事はなんでしょうか?
中村:オリンピックとか万博とかの国の仕事かな。でも、市の仕事をしてみて思ったのは、この感じがもっと巨大になるんだったら、僕の行きたい方向は本当に茨の道だなということ。僕に依頼が来たということは、いつもとは違うアプローチをしたいという現場の若い人達の思いがあったからだと思うけど、審査が上の方に行くに従ってNGが溜まっていく。そういう堅いものをクリアした上で最終的に描かれた絵っていうのは、メッセージが中和されて、観る人のテンションが上がり切らないものがどうしても出来ちゃうんだよね。でも、市長の立場での意見もわかるから、結局「集団」と「個」という思考性の違いがあって、イラストレーションはあくまでも「個」のためのものでしかないから、そこがどうしても水と油で難しいところだね。でも、クリアできたら楽しいだろうなと思うから、出来るようにする。