宮台真司の『TENET テネット』評(後編):ノーランは不可解で根拠のない倫理に納得して描いている
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リアルサウンド映画部にて連載中の社会学者・宮台真司による映画批評。今回は10月17日放送のミュージシャン・ダースレイダーとのライブ配信企画「100分de宮台」特別編の一部を対談形式にて掲載する。“時間の逆行”が大きなテーマとなっている現在公開中の映画『TENET テネット』(以下、『TENET』)から「記憶と記録の構造」を読み解く。前編では、『TENET』が『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上に位置すること、そしてその独特の構造を指摘した(参照:宮台真司の『TENET テネット』評(前編):『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上にある)。続く後編では、『メメント』との比較により浮かび上がる不可解な倫理観、そして本作が潜在的に提起したある重大な問いについて論じる。
『TENET』と『メメント』の主人公の対称性
宮台真司(以下、宮台):そう。本人の望みにかかわらず「油を注がれた=冠を授けられた」存在という意味ではむしろメシアに近いかもしれない。注目したいのは、主人公に名前がないだけでなく、過去の来歴も分からない点です。ある種の空洞、つまり特異点なんですよ。主人公を演じているジョン・デヴィッド・ワシントンも、何とも掴み所がなくて覚えにくい顔でしょう(笑)。
これは考え抜かれた末にそれしかないと選ばれた設定だと思います。過去の来歴がある人間は、それに拘束されて行動するからですね。例えば、イエスも来歴がよく分からない存在でしょう。考えてみれば、いかに勇敢でも、過去のトラウマチックな記憶ゆえに「これだけは耐えられない」とパニックを起こすことが、人間にはありえます。その可能性を消すためには、主人公の名前と過去を消すしかないんですよ。
もっというと、主人公には記憶の痕跡が感じられませんね。『メメント』の主人公は「過去は覚えていても、今を覚えられない」という意味で、過去(妻に関わるトラウマ)だけを生きます。『TENET』の主人公は、逆に「今を覚えていても、過去の記憶が感じられない」という意味で、現在(ニールの指示による任務)だけを生きます。そこに、かなり重要な対称性があると思います。
過去に拘束されずに自由に決定できるのは、全能の存在で、神に近い。通常なら、過去を記憶する倫理的な存在であるニールが主人公でもいいでしょう。でも、過去を背負うという意味での存在感があり過ぎて、ニールは神にはなれません。実際、神にはトラウマがないでしょう(笑)。だから、この映画の主人公に相応しくないということです。
さらに展開して、僕らの一部がなぜ倫理的なのかを考えます。比較認知科学は、過去に「悲劇の共有」があり、それを「忘れない」がゆえに、未来永劫「皆を裏切らない」と決意することが倫理の起源だと考えます。そうした存在が一部に存在することで、集団生存確率が上がり、個体の生存確率が上がり、僕らが生き残ったのだとね。その意味で、名もなき主人公が提示する倫理は、過去の記憶の不在ゆえに「悲劇の共有」との結び付きがなく、異質だと感じられます。つまり由来が不明の倫理です。映画史上、特筆に値することだろうと思います。
ダースレイダー(以下、ダース):例えば、ニールが主人公に、未来で好きだと知っているダイエットコーラを勧めるが、そこで勧められたから好きになったのだ、とわかるシーンがあります。同様に、主人公の倫理観にも出発点があり、それが、後に経験する拷問も含めた一連の記憶であり、それが未来のニールを派遣することにつながっていることを考えると、「悲劇の共有をもとにした行動原理を組み立てる」という意味で、人間に倫理が生まれる過程を描いている、という解釈もできると思いました。
宮台:その解釈もありえますが、十分に説得的ではない。なぜなら、拷問は「個人的な悲劇」で、家族や仲間を見殺しにしたといった「共同体的な悲劇」ではないからです。主人公は、その意味での大きな悲劇を、作劇上少しも経験していない。少なくとも観客には最初から最後までまったく分からないままなんです。
今回の映画では、ノーランは夫妻で制作をやり、自分で脚本を書いて監督しています。つまり制約がなく、ブレーキがない暴走状態で、映画を作っているんです(笑)。つまり「大人の事情」で描けなかったことなんてないんですね。だから、こうした人物造形や世界設定ーー不可解で根拠のない倫理ーーに納得して描いているはずです。ノーランが、メシアに似た「過去に拘束されない存在」の像を、敢えて描き出したんです。
普通なら、主人公が倫理の獲得に至るプロセスが作劇上のポイントになるのを、敢えてすっぽり抜かすので、実に不可解に見えます。それゆえ『TENET』の世界では、事実上は存在することが不可能な存在として、プロタゴニスト(主人公)が描かれていることになります。だから、神に近くなります。神とは「存在することが不可能なものの存在」だからです。「存在できないものを存在させている」という点にノーランの意図的な戦略があるんだと思います。
ノーランが描いた、<閉ざされる>場合の2つのパターン
ダース:そうすると、ジェネシス(創世記)的なものだという捉え方もできますか?
宮台:そうかもしれない。ニールは、存在をイメージできる存在。プロタゴニストは、存在をイメージできない存在。ニールは、自分をループさせることで、歴史をループさせる存在。プロタゴニストは、ニールによってループする時空を与えられ、ニールの求めに応えてループ終了後の歴史を切り開く存在。想像可能なニールの「委ね」と、想像不可能なプロタゴニストの「引き受け」の、組み合せ。それが「呼び掛け」と「呼応」とする関係になることで、ループを完成させ、ループ後の時空を創造する。少し複雑なジェネシスです。
二人は対照的だけど、共に「記録された通りに歴史をなぞる覚悟」を貫徹する「ありえない存在」です。ここに『メメント』との対照が見出されます。『メメント』の主人公も、『TENET』の二人も、「記録」に<閉ざされて>いる点では「まったく同じ」です。でも『メメント』の主人公は、起点での「記録」の捏造を除けば、自動的に「記録」に<閉ざされ>てしまう受動的存在です。それに対して『TENET』の二人は、覚悟によって不断に「記録」された歴史をなぞり続ける──<閉ざされ>を意志し続ける──能動的存在です。
この共通性と対照性を思うにつけて、ノーラン監督は、「記録」に<閉ざされる>場合の2つのパターンを、2005年の『メメント』製作時に同時に思いついたんじゃないかと思います。利己的に<閉ざされる>能動的受動パターンを『メメント』で描き、利他的に<閉ざし続ける>受動的能動(=中動)パターンを15年後に『TENET』で描いた。実際、ある時点からの『TENET』の未来は、結果的にプロタゴニストが作ることになっています。「アルゴリズム」(全時空逆行装置)を未来人に渡さず、世界全体を逆行させる未来人の企てを阻止して、その後の人類が逆行なしにまっすぐそのまま進むことになったんですからね。
ダース:プロタゴニストがいなければ、逆行世界になって今の世界はなかった。また、彼は未来の自分がした計画に受動的に反応しているだけで、都度都度の選択で物語が展開していくという、普通の映画の主人公ではまったくない。
宮台:それが受動的能動=中動です。『メメント』との比較では、『メメント』の主人公の起点に能動がある受動的<閉ざされ>に対し、『TENET』の主人公は起点に受動がある能動的<閉ざし>の構えを継続します。具体的には、ニールを通じて提示された「記録」をひたすら機械のようになぞるーー恣意的選択をしないという選択(覚悟)を続けるーー。なぜ『TENET』の主人公は、「能動態」ならぬ「受動的能動=中動態」なのか。
このありそうもなさを理解するには、ナチスをルーツにした「ディープ・エコロジー」の残響を聴く必要があります。ディープ・エコロジストは、ガイア(地球生命圏)を守るには、人間中心主義を脱し、人類が今すぐ核戦争を起こして真っ先に絶滅するべきだと考えます。こうしたナチス的な思考の、どこが適切で、どこが不適切なのかについて、「料理の人類学」というプロジェクト(参照:https://twitter.com/miyadai/status/1275004933385801734)で隅々まで話しましたが、とても込み入った議論です。
だからここでは再説しませんが、環境問題で生き残れなくなった未来人による“全時空逆行によって、環境問題の「犯人」である過去の人類を窒息で絶滅させた後、全時空逆行で順行と等価になった世界を新たな構えで生き直す”という企てが失敗したことが、善いのか悪いのかが未規定だという点に、細心の注意をする必要があります。だからこそ主人公には“善だから選択する”という能動的構えがないんです。主人公はむしろ「暗黒のメシア」かもしれないという話です。
ダース:そう。未来人が悪なのかどうかという記録はないんですよね。未来人が困っているというのも想像上の話で、つまり、こういう計画で時間を逆行しているということは、彼らが暮らす未来の地球環境などが相当ひどいことになっていて、賭けに出たのだと。
しかし、その計画がどのように意思決定されて、どれくらいの人口規模で行われていることなのか、などの情報は、あえてブラックボックスに入れてある。要するに、プロタゴニストが行ったことが、長い目で見て善なのか、人類のために、地球のためになったのかということに関しては答えていない。
宮台:それを簡略に言えば、“「今の人類」を救うことが「未来の人類」を死滅させる”、つまり“「今の人類」を死滅させることが「未来の人類」を救う”という設定です。未来人は、ディープ・エコロジストと同じで、“地球環境を長期に持続可能にして人類や動植物の子々孫々を繁栄させるには、「今の人類」が死滅するのがいい”という発想をします。それをどう評価すればいいのかということです。
僕らには飽くまで「たまたま」ナチスの記憶があり、「ナチスは人道的に酷いことをした」とうなづき合えるので、互いに人間中心主義的にうなづき合って、ディープ・エコロジーを倫理的な迷いもなく否定できます。しかし、それは、未来の人類と動植物が被る惨状を「悲劇として共有」できないーー敢えてしないーーがゆえの浅はかさかもしれません。こうした設定の未規定性について、ノーラン監督は、敢えて善か悪か決めずに、オープンエンドにしています。
『TENET』は果たして“ハッピーエンド”か
ダース:例えば、コロナ禍で大気汚染が非常に下がった、ということが明らかになりましたね。
宮台:気候変動枠組条約のパリ協定(2015年)では、年間7%以上の大気中二酸化炭素を削減しないと、気温上昇を2度以内に抑えられないとしていますが、コロナ禍でやすやす達成されました。もしかすると新型コロナは、中国ではなく、逆行してきた未来人が、順行に転じてバラ撒いた可能性があります(笑)。むろん冗談ですが、ウイルス禍で人間が活動できなくなれば地球温暖化が止まることが、図らずも「記録」に残り、それはもう取り消せなくなりました。
さっき(参照:宮台真司の『TENET テネット』評(前編):『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上にある)紹介した『表象は感染する』という本の、タイトル自体で著者スペルベルが示したように、「記録」とは、真実であれ捏造であれ、それを前提に行動せざるを得ないもののことです。今回全世界的に共有されたコロナ禍の記録は、その意味で文明史的に重要な転機になります。中でも、思想や哲学の界隈で生じていた脱人間中心主義&存在論的発想が共に先鋭化し、従来タブーだったディープ・エコロジー=極端なエコロジーに、親和的な発想が出てくるだろうと思っています。
この発想に従えば、未来の人類と動植物を死滅と苦しみから守るためには、「今の人類」を苦しめるコロナ禍が起こったのは、むしろタイムリーな福音です。僕にもそういう思いがあるくらいだから、ノーランにもあるはずです。だから、「今の人類」の苦悩と「未来の人類」の苦悩のどちらを取るか、というオープンエンドな問いを投げかけたのではないかと思います。いずれにせよ今後は、倫理ゆえに「今の人類」の9割を死滅させる「善なるサイエンティスト」が描かれても不自然じゃなくなりました。
そのことを含めて、『TENET』には、敢えて踏み込んでいない生煮えのモチーフが山のようにあります。スピンアウトを作るとしたら、『スター・ウォーズ』シリーズみたいに何作も作れるはずです。そんな潜在的にヤバイ映画に対する扱いが、単なる「謎解き」のゲームに終始してしまうのは、残念だという思いがあります。だから今回話させていただいているんですね。さて、そこで、この映画が潜在的に提起した最も重大な問いを、敢えて言葉にすると、「人類が意識的に文明を放棄することはあるか?」です。
ダースさんが参加しておられるので御存知のように、僕がゼミでよく話すのは、スペインによって滅ぼされたアステカ文明と違って、紀元前3世紀から紀元9世紀まで大規模に繁栄した古代マヤ文明(古典期マヤ文明)が、なぜ忽然と消えたのかということです。疫病説・内紛説・気候変動説など十種類ほどの仮説が提示されているけれど、文明の高度さや大規模さに鑑みて、どれも決定的というには程遠い状態です。
マヤ暦を含め、マヤ的な「森の哲学」を最近まで継承してきた先住民たちの存在ーーシーロ・ゲーラ監督の『彷徨える河』が描くように今それも死滅しようとしているのだけれどもーーを考えると、どうも人が死滅したというわけじゃなくて、文明=大規模定住だけが放棄されたようにも見えるんです。そこでの僕のロマンチックな仮説は、「人々が、明確な倫理的理由があって、意識的に文明を放棄したのではないか?」というものです。
文明の放棄に社会成員が合意しようもないとすれば、指導者層の賢者たちがが文明を終わらせるボタンを押したのかもしれません。とすると、そうしたことが実は過去にも他の高度な文明で行われてきた可能性もあります。とすれば、僕らも、後の人類文明の障害となるのを避けるべく、敢えてマヤ文明のごとき──ムー大陸やアトランチス大陸のごとき──遺構となることを選ぶ、という選択肢が視野に入って来ざるを得なくなります。
なのに、そこは今までのSF映画ではきちんと描かれたことがありません。むしろ「今の人類」が消滅することは悲劇だという定番の前提で、最近の作品でさえも作られ続けてきています。そんな中で、クリストファー・ノーラン監督は、『TENET』において、これから描かれるべきSF映画へのジョイントとなるような未規定なものを、わざと作ったという可能性があると思うんです。僕がノーランであれば、確実にそれを意図します。
ダース:つまり、これで人類は救われた、ハッピーエンドだ、ということではないかもしれないという含みが重要で、そこに可能性があるということですね。
『TENET』のフェティシズムを堪能する
宮台:そう。多くの人が頭を悩ませる「謎解き」には、暇潰しの楽しいゲームという以上の意味はありません。所詮、映画は荒唐無稽なものだし、言語は幾らでも荒唐無稽に使えるものだから、「謎」を言葉で補おうと思えばいくらでも補えるけれども、ノーラン監督は「死ぬまで謎解きしてな、本当の恐ろしい謎はそこにはないんだよ」と思っているんじゃないかな(笑)。
ダース:まあ、作った側にしてみれば、そこまで面倒見る必要もないから(笑)。
宮台:古い話だけど、リドリー・スコット監督の『ブレードランナー』(1982年)に7つもバージョンがあることから僕らが理解したのは、映画の結末は、編集権を握るプロデューサーがちょっといじるだけで、どうとでもなること。それが示しているのは、巷で話題になりがちなプロデューサーとの確執問題というよりも、むしろ監督自身にとって「大人の事情」を含めたいろんな要因で結末をどうとでもいじれるということですよ。
それを知って、僕がやるようになったのは、映画のハッピーエンドを、頭の中で想像的にバッドエンドにしてみることです。すると、途端に映画に潜在していた見えない可能性が、一挙に顕在化するんですね。今回の『TENET』でもやってたところ、ドラマツルギーは破壊されますが、映画の設定が抱える倫理的な未規定性ーー「今の人類」は善か悪か/未来人は善か悪かーーが顕在化することになりました。
さて、ここからは別の話題です。『メメント』を最初観た時、「何かすごいものを観た」と思ったけど、何がすごいか分からなかった。だから当時3回観直して、すごさを理解していきました。僕が150回以上観た『殺しの烙印』(1967年)もそうだけど、何となくカッコいいなという享楽を感じた映画を、繰り返し観ると、いつの間にか主人公のジェスチャーやセリフを真似しているんですね(笑)。この段階で、主人公の存在形式が美学的に感染しています。実は、ストーリーや設定とは別に、そこから伝わる世界観が確実にあるんですよ。
実は、ノーランの映画もそうです。『ダークナイト』(2008年)の事実上の主人公ジョーカーもそうでしたね。ジョーカーを演じたヒース・レジャーは、恐らくこの感染から染まった世界観から逃れられずにオーバードーズして死にました。『TENET』も、ストーリーや設定で語れる抽象水準とは別に、美学的なものを提示しているように感じます。三島由紀夫に従えば、「美的」とは見掛けの美しさですが、「美学的」とは、見掛けが醜くても、内側から生きられた構えに感染できることです。
ダース:まさに、ストーリーではないところで火が降ったり、世界観を締めるという観点は、『TENET』を観る上で非常に重要だと思います。特に1度目に観るときは、ストーリーがどうだではなく、「うわ、すげえな」という体験を味わえばいい。物語の解釈やネタバレみたいなものは、この映画においてはあまり重要ではない、ということが重要な気がしてきます。
宮台:そう。美学的な感染は、必ずしも規範的構えに限らず、フェティシズムでもあり得ます。それで言うと、黒沢清さんに先日『スパイの妻』のインタビューをしたのですが(参照:宮台真司×黒沢清監督『スパイの妻』対談:<閉ざされ>から<開かれ>へと向かう“黒沢流”の反復)、彼の映画には映写機を回すシーンがよく出てきます。それが今作でも非常に重要な役割を果たしていました。そこで「なぜいつも映写機が出て来るんですか?」と尋ねたところ、「いや、映写機を回すとワクワクしませんか」と。実にいい答えなんですね。
僕は黒沢監督とほぼ同世代で、小学校の社会の時間などに16ミリフィルムのドキュメンタリーの映写を何度も経験してきているので、本当によく分かります。同じことがノーランにも言えるんじゃないかな。『メメント』と『TENET』に共通したフィルムの逆再生ーー典型的には落として割れた花瓶がもとに戻る映像ーーは子供なら誰でもめちゃくちゃ喜んだものですよ。
ダース:カッコいい、すげえなって。
宮台:そう。僕は、逆回しがカッコよく見えるというフェティシズムから見えてくる世界観が、あるんじゃないかと思っています。それを言葉にするのは難しいけれど、敢えて言えば、「世界はどうとでもありうる」という感覚かもしれません。映写機が回ると眩暈がするほどワクワクしたのは、そういうことじゃないかと思っています。
黒沢清が映写機に感じるようなフィルム的なものへのフェティッシュが、ノーランにもあります。つまり、「なぜ逆回しで見せるのか、実は物語的に言うと……」じゃなくて、「逆行自体が何かカッコよくない?」というフェティシズムが間違いなくある。僕は、物語や設定から浮かび上がる世界観だけでなく、フェティシズムから浮かび上がる世界観も、確実にあると思っています。例えばマゾにはマゾなりの世界観があるんです。実際、「謎解き」に知恵を絞るより、「逆行シーンを撮りたかっただけ」と考えると愉快になりませんか?
ダース:実際、『TENET』は防護服をつけて逆行時間を進むシーンとか、順行と逆行が入り交じったカーチェイスとか、何が起こっているかわからなくても、映像的にとにかくすごいことが起こっているという快感があります。
宮台:そう。そういうワクワク感は、圧倒的に『メメント』を超えていますよね。だって、あんなカーチェイス、フィルムに対するフェティシズムが病気の域に達しているノーラン以外に、誰が思いつきますか(笑)。彼が長らくフィルムでの撮影にこだわりつづけてきたのも、映像効果もあるでしょうが、単にフィルムを回すと眩暈がするからだと僕は思っています(笑)。まぁ荒唐無稽な理由ですよ。
そういうヘンテコな映画、最近少なくなっちゃいましたね。日本だと大林宣彦監督がその意味でヘンテコでしたが、先日亡くなっちゃいました。素人8ミリフィルムみたいに、タイムラプスやオーバーラップや唐突なジャンプショットを使いまくるという。とてもステキでした。実は、僕はヘンテコな映画であるほど好きです。自分が8ミリ映画を撮っていたからかもしれません。
ダース:全体としては何が何だかわからないが、映像としてワクワクするし、面白い。そういう受け取り方も大事にしたいですね。
■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter
■DARTHREIDER a.k.a. Rei Wordup
77年フランス、パリ生まれ。ロンドン育ち東大中退。Black Swan代表。マイカデリックでの活動を経て、日本のインディーズHIPHOP LABELブームの先駆けとなるDa.Me.Recordsを設立。自身の作品をはじめメテオ、KEN THE390,COMA-CHI,環ROY,TARO SOULなどの若き才能を輩出。ラッパーとしてだけでなく、HIPHOP MCとして多方面で活躍。DMCJAPAN,BAZOOKA!!!高校生RAP選手権、SUMMERBOMBなどのBIGEVENTに携わる。豊富なHIPHOP知識を元に監修したシンコー・ミュージックのHIPHOPDISCガイドはシリーズ中ベストの売り上げを記録している。
2009年クラブでMC中に脳梗塞で倒れるも奇跡の復活を遂げる。その際、合併症で左目を失明(一時期は右目も失明、のちに手術で回復)し、新たに眼帯の死に損ないMCとしての新しいキャラを手中にする。2014年から漢 a.k.a. GAMI率いる鎖GROUPに所属。レーベル運営、KING OF KINGSプロデュースを手掛ける。ヴォーカル、ドラム、ベースのバンド、THE BASSONSで新しいFUNK ROCKを提示し注目を集めている。
■公開情報
『TENET テネット』
全国公開中
監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス
製作総指揮:トーマス・ハイスリップ
出演:ジョン・デヴィッド・ワシントン、ロバート・パティンソン、エリザベス・デビッキ、ディンプル・カパディア、アーロン・テイラー=ジョンソン、クレマンス・ポエジー、マイケル・ケイン、ケネス・ブラナー
配給:ワーナー・ブラザース映画
(c)2020 Warner Bros Entertainment Inc. All Rights Reserved
公式サイト:http://tenet-movie.jp
公式Twitter:https://twitter.com/TENETJP