劇場版『鬼滅の刃』を“列車映画”の観点から読む エモーションとモーションの連動が作品の醍醐味に
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冒頭、駅に停留していた列車が動き始める。主人公たちの声がオフで聞こえてくる。煙を堂々と噴き上げ、車輪が回転を始め、走り出した列車に飛び乗る炭治郎たち。そして、物語が動き出す。
プロローグ的な位置付けの墓のシーンが終わり、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は上記のように幕を上げる。列車の出発と物語の出発が綺麗にシンクロしている。
『鬼滅の刃』という作品において、この『無限列車編』はもっとも映画化向きのエピソードだろう。それはこの導入部が端的に示している。
映画と列車の相性の良さはいくつかの必然がある。映画(モーション・ピクチャー)は運動(モーション)によって人を魅了する。列車は、運動によって人や物を運搬する。映画も列車もその本質は運動だ。規則正しく決められた時間から上映が始まり、上映が終わる映画は、列車の運行表にも似ているかもしれない。
それ以上に、両者の関係には歴史的な深い結びつきがある。これまで列車を舞台・題材にした映画が数多く作られてきた。本稿では、列車と映画の近さから、列車という舞台装置がいかに本作の魅力を高めたか、この作品がいかに映画史に連なる運動の魅力に溢れているかを明らかにする。そして、本作において列車が表象するものがなんなのかを考えてみたい。
映画と列車の文化史
映画(実写映画)の歴史は、列車の映像から始まった。
映画の父、フランスのリュミエール兄弟が1895年に発表した『ラ・シオタ駅への列車の到着』は、映画の始まりの一つとされている。約50秒あまりのこの映像は、固定カメラが到着した列車から乗客を降りてくる様子を映しただけのものだ。画面に向かってくる列車に驚いた観客が逃げ惑ったという逸話とともに語られることも多く、その真偽はここでは問わないが、写真が動く、それだけのことに当時は大きなインパクトがあったことは確かだろう。
リュミエール兄弟は、世界中に撮影隊を派遣し、これ以外にも数多くの列車や駅を撮影している。有名なのは『列車でエルサレム駅を去る』という作品だ。これは、『列車の到着』の反対で出発する列車にカメラを載せて、世界で最初に移動撮影を試みたものと言われる。
以来、初期の映画において列車は重要なモチーフであり続け、飛行機が安価な近年になっても、スクリーンを切り裂くように突き進む列車の迫力は映画を彩り続けている。
映画史初期に映画と列車を紐づけたのはリュミエール兄弟だけではない。旧ソ連の映画監督アレクサンドル・メドヴェトキンは1932年、「映画列車」を主宰し、ソ連各地に赴き、ニュース映画などの制作を手掛けた。要するに旅する映画制作集団を立ち上げたのだ。(※1)
映画の黎明期で、列車と映画の結びつきに関する最も端的で興味深い事例は、「ヘイルズ・ツアーズ」と呼ばれる上映形態だろう。これは、列車の車内を模した部屋に観客を座らせ、前方のスクリーンに、機関車の全面にくくりつけて撮影された映像を投射するというものだ。映画が生まれたての頃、列車の旅行は現代ほど気軽にできるものではなかった。ヘイルズ・ツアーズは疑似的な乗車体験を気軽に味わえるものだ。
なぜ、初期映画は列車を必要としたのだろうか。それは映画が運動を描くことができるメディアであると、先行する写真に対しての違いを主張するためだ。映画評論家の加藤幹郎氏は自著『映画とは何か』でこのように語る。
十九世紀末に新媒体(ニュー・メディアム)として登場した映画(モーション・ピクチャア)にとって、同時代を代表する最速最大の運動媒体は列車だったということである。<中略>動く被写体をリアリスティックに再現することで人気を博しはじめた映画にしてみれば、そうした自己の特性に見合うすぐれた運動性能を発揮する列車をとらえてこそ、自己の存在理由を大きく喧伝することができた。映画が被写体の再現において先行メディア(写真や絵画)と差別化をはからねばならないとき、第一に主張しうることは、映画が「運動」を再現できる最初の本格的表象メディアムだということである。(※2)
『無限列車編』の冒頭で、機関車が動き出す瞬間の興奮を思い出そう。鉄の塊が動く、そのことに誰もが子どものころは驚いたはずだし、動く列車の中から流れる車窓を眺めて興奮したことがあるだろう(伊之助のように)。列車と映画は、運動という分かちがたいキーワードで結ばれた相思相愛の仲であり、映画は純粋にその驚きに迫る初めてのメディアだった。本作は、その動きの驚きと物語が動き出す興奮を重ね合わせることで観客にそれを思い出させようとする。
3DCGの物理演算で正確に表現された無限列車は本物同様の迫力をたたえ、映画初期から描かれ続けた巨体が動く興奮をスクリーンに刻み付けている。ホームから移動するその瞬間、機械的運動を繰り返し激しく回りだす車輪、もうもうと煙を夜の闇に向かって吐き出す機関部の雄々しさに、「運動」の興奮が宿っている。そして、列車を舞台にするということは、終始舞台が運動し続けているということでもある。運動を持ち味とする映画にとってこれ以上ないふさわしい舞台はない。
しかし、今日の映画は、「運動」の魅力だけでは成り立たない。複雑なプロットで感情の起伏を作り上げ、観客の心を楽しませねばならない。動きの興奮に加えて映画は、怒りや悲しみ、笑いや恐怖など様々な感情を喚起するものへと発展していった。加藤幹郎氏の言葉を借りて言うと、「映画はモーション(運動)からエモーション(情動)の双方を描くようになった」のだ。(※3)
感情を表現するために映画にはプロット(物語)を必要とした。そして、本格的なプロットを持った初めてのアメリカ映画は、やはり列車を題材にした『大列車強盗』(1903年)だった。
そうして、今日の映画はモーションとエモーションの混淆が映画の醍醐味となり、その2つを生み出す傍らに列車は常に寄り添っていたのである。
冒頭シーンにみる映画的な絶妙アレンジ
映画史と列車の関係を『無限列車編』の作り手たちが意識したかどうかはわからない。だが本作は、エモーションを創出するための物語とモーションを描く運動が極めて的確に連動しているということは指摘できる。
上述の冒頭シーンを原作漫画と比較してみよう。原作に忠実な映像化だと評価されることが多い本作だが、映画ならではのアレンジも随所に見受けられる。その一つが冒頭の列車の出発と物語の出発のシンクロだ。
原作では、駅に停車している無限列車に炭治郎たちがいそいそと乗り込み、煉獄を見つけ、いくつかの会話をしてから列車が動き出す。列車の出発を待たずして、物語が始まっているわけだ。対して、映画では、炭治郎たちは走り出す列車に飛び乗り、煉獄を見つけるのは列車が走っている最中である。列車と物語が同時に出発しているのだ。
エモーションを描く物語とモーションを描く列車がきちんと手を取り合って動き出している。この細やかなアレンジにufotableの映画への理解の深さを感じる。
ちなみに、冒頭の列車に飛び乗るシークエンスに炭治郎、善逸、伊之助の3人のキャラクターと関係性がよく表れていて、初見の観客にも3人の関係性をワンシーンで上手く伝えている。猪突猛進に真っ先に一人で飛び乗る伊之助、あとに続く炭治郎は、善逸に手を差し伸べ手助けする。ひとつのアクションに3人の個性と関係性を詰め込み、なおかつ、モーションとエモーションを同時に動かすという映画史を踏まえた見事なアレンジである。原作に忠実という評価はもちろん正しいが、随所に加えられた絶妙なアレンジも本作を優れたものにしているポイントだ。
映画と観客の関係をメタ的に表現
映画は、一度始まったら巻き戻ることはない。アクシデントがなければ、時間通りに始まり時間通りに終わる。列車も一度走り出したら終点に着くまで戻らず進み続け、やはり事故がなければ時間通りに目的地に到着する。その直進的な映画の在り方が、ページを読み飛ばしたり、戻ったりできる小説や漫画との大きな違いだ。
観客は主人公と一緒に物語を体験する。映画の物語装置としての在り方を指して、加藤幹郎氏は「映画の主人公は、理想的な観客をのせて物語世界を航行するテーマ・パークの乗り物(ライド)のようなものである」と語っている。(※4)
主人公は、なにゆえ主人公なのか。それは、物語の中心にいるから主人公なのだ。物語が終わりから始まりまで主人公はその中心にいて、観客は主人公とともに物語世界を見つめる。映画とは、観客が暗闇の中で受動的に、主人公をただ黙って見つめることで一体化して楽しむ。これは、物語についての暗黙の了解のようなものだ。
しかし、本作は物語と主人公、そして観客の関係についての暗黙の了解を公然と破壊する。テーマパークの乗り物が途中で壊れたり、脱線したりすれば、乗客は不安に陥るだろう。ならば、観客を安全に物語の終点まで送り届けるためには主人公は最後まで主人公でい続けなくてはならない。しかし、本作は主人公が途中から主人公でなくなる。
『鬼滅の刃』の主人公は炭治郎だ。『無限列車編』の物語も、炭治郎が無限列車に乗り込むことで動き出し、炭治郎が煉獄と出会い、鬼に出くわすという流れで進んでいく。そして、列車と一体化した魘夢を炭治郎が仲間の協力を得て倒し、無限列車が派手に脱線する。
直進し続けた列車が脱線によって止められると同時に、主人公として物語を牽引してきた炭治郎が主人公ではなくなる。本作の真の主人公は煉獄であると言われるが、列車が脱線した後、主人公らしく振る舞うのは確かに煉獄杏寿郎である。
本作のこの特異な展開は、映画と観客との関係性を高度に表象する。
映画は、列車が直進するように時間通りにまっすぐ進行し、観客はそれに干渉する方法は一切ない。観客にできることは、ただ黙って映画を観ることだけだ。
主人公として観客に観られる対象だったはずの炭治郎は、煉獄と猗窩座の戦いに手を出すことができず、2人の戦いを見つめるだけになってしまう。夜明け前が一番暗いとは、『ダークナイト』のハービー・デントのセリフだが、その一日のうちで最も暗い夜明けの闇の中で、さっきまで主人公だった男が、映画館の暗闇で映画を見つめる観客のように、ただ黙って見ることしかできなくなってしまうのだ。
この時の炭治郎の状態は、物語の主人公というより、我々と同じ「観客」に近い。この炭治郎の変化に、映画鑑賞の不自由さの魅力が詰まっている。インターネットという最新の媒体は、能動的で双方向性が特徴のメディアで、積極的に参加することで面白さを発揮する。映画館における映画は、インターネットと正反対のただ受動するだけのメディアだ。テレビのようにチャンネルを変えることも、早送りすることすら許されない。
何もできないからこそ、炭治郎は煉獄の死が一層悔しいと感じる。観客もまた、鬼の活動リミットである朝日が早く登ることを祈ることしかできない。本作は、主人公だったキャラクターを観客とメタ的に同一化させることで、不自由であるからこそ体験可能な強烈なエモーションを観客に体験させるのだ。
加藤幹郎氏はシンポジウムで、「映画の観客はモビリティ(運動性)を味わうためにイモビリティ(非運動性)を強いられている」と語っている(※5)。観客は黙って座っているしかない、その不自由さに魅力がある。その魅力をメタ的に伝えるきっかけを作るのが、運動の象徴である列車の脱線であるというのが大変に示唆的だ。運動していたものが、運動できなくなると同時に、主人公だった炭治郎もまた運動性を奪われた「観客」になる。
原作者の吾峠呼世晴氏がこのエピソードを描いた時に、こうした批評性を意識したかはわからないが、様々な幸運が重なり映画として描かれることで、偶発的に大変な批評性を獲得している。
炎柱・煉獄と炎で動く蒸気機関車
もうひとつ加えるなら、本作に登場する列車が蒸気機関車であるというのは、大正時代という歴史的背景の必然性以外に、とあるキャラクターを表象しているという点でも重要だろう。むろん、煉獄のことである。
石炭を燃やす炎の力で動く蒸気機関車を舞台に、炎柱である煉獄の活躍が描かれるのは、物語とキャラクターが舞台と密接にかかわり作品の表現としての密度を高めている。蒸気機関車の脱線による運動の停止は、煉獄の死の暗示でもある。漫画では死にゆく煉獄と脱線した列車を一緒に描くコマはないが(週刊連載でそこまで背景を描きこむのは困難だろう)、映画ではワンショットで煉獄と列車を収めることで喪失感を二重に描きこんでいる。列車の運動の喪失と煉獄の命の喪失。本作の結末を多くの観客が知っているにもかかわらず、一層やるせない感情を抱き涙を流すのは、こうした批評性と、巧みな映像による象徴表現があるからだ。
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は、映画史が列車とともに刻んできた運動の快楽、モーションとエモーションの融合、そして映画と観客の関係性への批評的考察までが(半ば偶発的に)含まれた稀有な作品だ。列車が動き出す冒頭のワクワク感に始まり、朝日に照らされた、脱線して運動することのない列車と煉獄の命の喪失感で締めるこの作品は、モーション(運動)によってエモーション(情動)を描き続けた映画史に連なる見事な映画である。
引用資料
※1 Medvedkine Project(http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/NO2/medvedkine/TRAIN_DB.HTM)
※2 『映画とは何か』、P117、加藤幹郎、みすず書房
※3 『映画とは何か』、P124、加藤幹郎、みすず書房
※4 『映画とは何か』、P23)、加藤幹郎、みすず書房
※5 第一回シンポジウム 映画学と映画批評の未来 CineMagaziNet!(http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN4/sympo.files/symposium1.html)
参考資料
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』公式パンフレット
『列車映画史特別講義 芸術の条件』、加藤幹郎、岩波書店
『映像という神秘と快楽 世界と触れ合うためのレッスン』、長谷正人、以文社
『映像研究』2002年3月号、P83「えっせい 列車と映画」、波多野哲朗、日本大学芸術学部映画学科刊
『交通公論』2019年6・7月号、P42「鉄道と映画 地域鉄道フォーラム2019」、交通公論社
嵐電という電車はすごく映画館に似ているんです。『嵐電』鈴木卓爾監督【Director’s Interview Vol.28】|CINEMORE(シネモア)(https://cinemore.jp/jp/news-feature/702/article_p3.html)
リュミエール兄弟のアルケオロジー CineMagaziNet!(http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/NO2/ARTICLES/HASE/1.HTM)
※煉獄杏寿郎の「煉」は「火」に「東」が正式表記。
■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。
■公開情報
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』
全国公開中
声の出演:花江夏樹、鬼頭明里、下野紘、松岡禎丞、日野聡、平川大輔
原作:吾峠呼世晴(集英社『週刊少年ジャンプ』連載)
監督:外崎春雄
キャラクターデザイン・総作画監督:松島晃
脚本制作:ufotable
サブキャラクターデザイン:佐藤美幸、梶山庸子、菊池美花
プロップデザイン:小山将治
コンセプトアート:衛藤功二、矢中勝、樺澤侑里
撮影監督:寺尾優一
3D監督:西脇一樹
色彩設計:大前祐子
編集:神野学
音楽:梶浦由記、椎名豪
主題歌:LiSA「炎」(SACRA MUSIC)
アニメーション制作:ufotable
配給:東宝・アニプレックス
(c)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable
公式サイト:https://kimetsu.com
公式Twitter:@kimetsu_off