村井邦彦×細野晴臣「メイキング・オブ・モンパルナス1934」対談
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リアルサウンド新連載『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』の執筆のために、著者の村井邦彦と吉田俊宏は現在、様々な関係者に話を聞いている。その取材の内容を対談企画として記事化したのが、この「メイキング・オブ・モンパルナス1934」だ。
第一回のゲストは、村井邦彦がレストラン「キャンティ」で運命的な出会いを果たした細野晴臣。村井と細野は当時、どのように出会ったのか。そしてその背景には、どんな文化が息づいていたのか。連載の序文となる【村井邦彦×吉田俊宏『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』連載スタートに寄せて】と合わせて読まれたい。(編集部)
※メイン写真:1980年12月、YMO第二回のワールド・ツアー”FROM TOKIO TO TOKYO”のファイナル武道館公演の楽屋にて。左から高橋幸宏、細野晴臣、村井邦彦、坂本龍一
村井邦彦と細野晴臣の初対面
村井:これから本を書こうと思っているんです。キャンティの「前史」というテーマでね。まずはウェブ上で連載して、ある程度の量になったら本にしようという計画なんです。
細野:先日、送っていただいた序文を読ませてもらいましたよ。面白そうですね。
村井:ありがとう。キャンティを創業した川添浩史さんは1934年にパリに行っているんだよね。
細野:戦前、昭和9年ですね。
村井:うん。川添さんはフランスで報道写真家のロバート・キャパと仲良くなるんです。キャパはまだ駆け出しで、有名になる前だね。2人は固い友情で結ばれるんだけど、第二次世界大戦が分かれ目になって別々の道に進むわけ。川添さんは日本に帰ってきて自分の道を模索するんだけど、キャパはアメリカに渡って向こう側の人間として戦争の取材に命をかける。彼はもともとハンガリーの出身なんだけど、アメリカ側で仕事をしたから敵国の人になったんだよね。
細野:そういうことになりますね。
村井:戦争が終わると川添さんは吾妻徳穂さんの日本舞踊「アヅマカブキ」のワールドツアーをプロデュースするんだ。日本の伝統文化を世界に紹介するという企画です。川添さんたちがニューヨークに到着した時、キャパの事務所に連絡したんだけど、彼は仕事で留守だった。代わりに弟のコーネル・キャパがアヅマカブキにすごく協力してくれるわけ。キャパは有名な報道写真家になっていたから、マスコミとのつながりがたくさんあった。弟がその人脈をうまく使って「日本のアヅマカブキがブロードウェイでショーをやる」と大々的に宣伝してくれたんだ。そのお陰もあってアヅマカブキは大成功するんだよ。
細野:へえ、キャパの弟がね。
村井:うん。その公演の後にキャパ本人が来日して川添さんと久々に再会を果たすんだけど、しばらく日本国内を取材した後、キャパはベトナムに出かけて地雷を踏んで死んじゃうんだ。
細野:ああ、地雷を踏んで。それは有名な話ですね。
村井:実はね、僕はYMOのワールドツアーは川添さんがプロデュースしたアヅマカブキの成功をモデルにしていたんだ。だから、改めてキャパと川添さんの友情物語を描きたいと思ったんだよ。
細野:ほおー、YMOのワールドツアーにそんなきっかけがあったなんて、初めて知りましたよ。
村井:ああ、知らなかったんだね。川添さんがやろうとしたのは、外国の文化を日本に紹介することだけじゃなかった。むしろ日本の文化を世界に持っていこうとしたんですよ。それでGHQとか国賓級のVIPのもてなしをする光輪閣の支配人をやったり、高松宮殿下の国際関係特別秘書官を務めたりもしているんだ。
細野:うん、そのあたりはだいたい知ってます。
村井:1969年には川添さんの長男の川添象郎がアメリカのミュージカル「ヘアー」を日本に持ってきてプロデュースするわけだけど、その前だか後に、僕とあなたは知り合ったんだよね。あれは川添さんの家のダイニングキッチンだった。
細野:はいはいはい、僕も覚えてます。あの時が初対面だったんですね。
村井:覚えてる? そうかあ、良かった。僕があなたのことですごく覚えているのは、その川添さんの広尾の家で出会ったときのシーンだね。映像として頭に焼き付いているよ。あなたがダイニングテーブルの横の作り付けのベンチに腰かけてギターを弾いていて、僕は「ああ、いい音楽をやるな」と思ったんだ。それともう一つ、象(ショウ)ちゃん(象郎)が僕の白金の家にはっぴいえんどのアルバムを持ってきたことだね。
細野:へえ、そうなの。
村井:それでね、彼が「クニ、すごいのが出たよ。こんなの今まで聴いたことがないから、聴いた方がいいよ」って教えてくれたんだ。
細野:そうだったんですね。
村井:川添さんが亡くなったのが1970年1月なんですよ。僕とあなたが川添さんの家で出会ったのが69年なのか70年なのか、はっきり思い出せなくて。
細野:はっぴいえんどのアルバムが出たのは1970年の夏だから、やっぱりすれ違っていたんだ。実は僕、川添浩史さんとはお会いしたことないんですよ。
村井:えーっ、会ってないの。
細野:僕はキャンティでは新米でしたからね(笑)。
思想家・仲小路彰さんとの思い出
村井:思想家の仲小路彰さんとの思い出についても聞きたいな。仲小路さんは川添さんにも大きな影響を与えたわけだけど、どういうきっかけで会ったんですか。
細野:川添象郎さんに連れていってもらったんですよ。一緒に風吹ジュンさんもいましたけどね。もうYMOをやっていた頃だから、70年代の終わりか80年代の初めぐらいでしょうね。
村井:ああ、そんな時期なんだ。その時の仲小路さんの印象はどうだったの?
細野:印象ですか。もう印象深くて忘れられないんですけどね。山中湖のお宅まで行って。
村井:ああ、僕もそこ行った。
細野:仲小路さんは生け花の指導をしていました。
村井:えっ、仲小路さんは生け花もやっていたんですか。
細野:いろんなことをやっていましたね。幼稚園なんかもやっていた。あれ、ご存じないですか。村井さんは仲小路さんのところに行っているんですよね?
村井:うん、僕は2回ぐらい行っているんだけど、川添浩史さんが生きていた時代ですからね。68年とか69年くらい。細野君はその10年後に会ってるんだね。
細野:10年余り後になりますね。僕が訪ねていったら、アインシュタインみたいな風貌の人が出てきて、いろんなことをお話しになった。僕はずっと聞いているだけなんですけど、すごく面白かったですね。
村井:そうそう、アインシュタインね。僕もそう思ったな。どんな話を聞いたか覚えてる?
細野:雨の中、佐藤栄作さんを待たせた話とかね。
村井:どんな話なの?
細野:仲小路さんは佐藤栄作首相と同窓生で、政治的な顧問というか、ブレーンみたいなことをしていたそうですね。
村井:そう、五高の同窓生だね。公刊されている「佐藤栄作日記」にも1969年に佐藤首相が仲小路さんと会ったという記録が載っているよ。
細野:仲小路さんは漫画に出てくる黒幕みたいで、本当に面白かったな。「山中湖の先生」みたいな感じでね。僕は2、3回山中湖のお宅にうかがっただけですけど、非核三原則に関するアイデアを佐藤栄作さんに授けたのも仲小路さんだと聞いて、すごい人だなと思いました。あっ、この話は秘密なのかな。
村井:そのあたりの裏にも仲小路さんがいたということだね。僕も山中湖のお宅に行ったのは2、3回だったけど、彼の著作『未来学原論』は読みました。
細野:グローバリズムっていう言葉は『未来学原論』で初めて知りました。今でも本を持ってますよ。
村井:僕も持ってる。今になって読んでも難しいよね。当時の環境で、よくあんなにいろんなことを勉強したなと驚いちゃう。
細野:あの頃の日本はキャンティも含めて面白いですね。だから村井さんの今度の本もすごく楽しみです。
村井:ベストを尽くしますよ。最近はコロナでどうにもならないから、時間はあるんだけれど、ボーっとしていると生きている感じがしないから、何かやろうと動き出したんだ。何年か前から構想はあったんだけれど、動き出したらすっかりハマってしまって、毎日、この本のことばかり考えてるよ。
細野:じゃあ、もうずいぶん進んでいるんじゃないですか?
村井:そうですね。日本経済新聞の編集委員の吉田俊宏さんというベテランジャーナリストとの共著だから、僕の頭だけじゃなくてね。吉田さんにはジャーナリストのリサーチ力と文章をまとめる能力の両方があるし、ほかにもフランス文化の研究者や象ちゃんたちも協力してくれることになっているから。
当時抱いていた海外文化への憧れ
村井:僕は今、75歳なんだけれど、細野君はいくつになったの?
細野:73ですよ。だから2つしか違わない。村井さんは早生まれだから学年は3つ上かな。とにかく、あんまり変わっていないから、信じられないんですけど(笑)。村井さんは高校生の頃から、そういう大人の世界に触れてましたよね。あの当時はすごく面白い人がいっぱいいたでしょう。そういう人たちの影響は、村井さんにとって大きいんですね。
村井:そうですね。僕がいつも謎に思っていたことがあるんだ。戦争が終わった瞬間にアメリカ文化がどっと入ってきて、戦前の日本人は悪いことをしてきたとか、日本は暗かったとか言われることが多いけれど、僕の周りにいた大人たちは戦前から戦後にかけても生き生きとしていたんだよね。今回のプロジェクトでは、戦前から戦後まで流れる日本の歴史の知られざる一端を示せればと思っているんだ。
細野:それはみんなが知りたいことですね。戦後の日本のカルチャーの中心は、そこにあったわけですから。
村井:そうなんですよ。僕も細野君も同じような感じだと思うんだけど、僕の場合はジャズが好きでさ。そのジャズは、僕の父親世代の大正デモクラシーの人たちから受け継いできてるわけだよね。実際にジャズが禁止された時代もあったんだけど、みんな隠れてジャズをやったりしていたみたいで(笑)。戦前から戦後にかけて、ちゃんと流れは続いていたと思うんだ。
細野:僕もそう思います。でも、最近はそういう流れがあったということが、もう消えかかっていますよね。日本の音楽界でも、世代が入れ替わっていって、そういう流れがあったことは忘れられつつある。だから、僕にとってキャンティの存在は大事なものだったんだなって、最近ますます思うようになりました。当時抱いていた海外文化への憧れとか、大切ですよね。
村井:うん。コロナの状況で人と人が接触できないと、そういう文化の交流も生まれにくいし、本当に辛いよね。
細野:そうそう。ますます分断されていきますよね。
村井:細野君は昨年、ソロでアメリカ公演をやったでしょう。その時、英語で「自分が物心ついた頃にはもう進駐軍というのがいて、FENっていう在日アメリカ軍向けのラジオ放送があって、そこでアメリカ音楽を流していた」と話したじゃない。もともとはどういう音楽から興味を持ったの?
細野:僕が3歳ぐらいの頃には、もう家にSP盤がありました。浪曲とかいろいろな音楽があったんです。その中で3歳児が自分で選んだ音楽がジャズなんですよ。ブギウギとかね。ディズニーアニメの音楽もありました。自分で選んで踊っていましたね。たぶんベニー・グッドマンか何かでしょうね。
村井:そのあたりは同じだね。僕もベニー・グッドマンが最初でした。でも、そこから僕はジャズオーケストラに行っちゃったんだけれど、あなたはもっとロックとかに傾倒していったんだよね。
細野:そうですね、ロック世代になっちゃいました。そこに当時の2、3歳の年の差が出ていると思います。受ける影響は少し違いますよね。
村井:そうかもしれないね。
外国から見た日本の面白さ
細野:今回の村井さんの本には、僕も知らないすごい人がたくさん出てくるみたいですね。古垣鐵郎さんとか。
村井:古垣さんはずっとアルファレコードの顧問をやってくれていた人だね。どんな人かというと、鹿児島出身で、第一高等学校を出てからフランスのリヨン大学法学部に留学して、22歳くらいでジュネーブの国際連盟事務局情報部に就職するんだよ。朝日新聞社に引き抜かれて欧州局長をやり、戦後はNHKの会長や駐フランス大使を歴任したんだ。元イギリス国王のウインザー公やフランスのド・ゴール大統領と深く付き合ったりして、いろいろなことをされていました。戦争の時代に生きた人なのに、すごいリベラリストで、よく生き抜くことができたと思うほどなんだ。
細野:なるほど。戦後はそういう人たちが元気だったんですね。
村井:そうだね。僕なんかはベニー・グッドマンに憧れて、クラリネットを学校で貸してくれるっていうからブラスバンドに入ったんだよね。
細野:序文を読ませてもらったら、サックスを吹いていたって書いてあってびっくりしましたけど。
村井:そうなんだよ。最初はベニー・グッドマンの真似でクラリネット、その次がチャーリー・パーカーの真似でサックスを吹いていた。でも、僕はああいうのを吹いていると鼻がフガフガになっちゃうの(笑)。だからピアノに転向したんだよね。アマチュアとして外国の音楽の真似をしているときはいいんだけれど、実際にそれを自分の職業にすると、果たしてこれでいいのかなって思うこともあった。細野君はそういうことを感じたりはする?
細野:同じですよ。悩みながらやってますね。
村井:細野君は沖縄やインドに行って影響を受けたり、中国風になっていったりした時期もあるけれど、やっぱりそういう活動にはルーツ探しみたいな心境があったの?
細野:結局、はっぴいえんどのときに一番強く思ったのが、面白い音楽を作るには自分の足元を見ないとダメだということなんです。当時のメンバーはただ海外の音楽をコピーするだけでは面白くないと思って、自分たちのオリジナリティーとは何だろうと考えていたんですね。松本隆という文学青年がいたので、日本語とか日本の文化や文学を掘り下げてみようとしたわけです。音楽的には日本の音楽に全然影響されていないけれど、その分、言葉で攻めたんです。
村井:そのあたりはポイントだね。その後に沖縄やインドに興味を持った理由は?
細野:外国から見た日本がすごく面白かったんですよ。マーティン・デニーの音楽へのアプローチが好きになって、発想が逆転したというか。マーティン・デニーは日本の音楽をエキゾチックなものとしてとらえていましたからね。東京に馴染んじゃうと見えにくいんですけど、例えば『八十日間世界一周』に出てくる横浜の景色とか、外から見るとへんてこりんで面白いんだなと。それを屈辱と受け取る日本人もいたけど、僕はそこに高揚感を感じていました。自由でいいなと。例えばインド人にエキゾチックだと思う国はどこだと聞いてみると、日本だと言うんです。場所によって見方が変わるんですね。それで世界の音楽にもすごく興味を持ちました。YMOはマーティン・デニーの影響で始まりましたね。
村井:そうだったんだね。あなたがクラウンでマーティン・デニー風のレコードを作っている頃に、僕はアメリカのA&Mレコードと契約したんだ。ジェリー・モスを筆頭にA&Mの幹部連中がアルファレコードのスタジオAにやって来て、僕がプレゼンテーションをしたんですよ。そこであなたの『泰安洋行』をかけて「今度、このアルバムを作ったハリー・ホソノがアルファと契約するよ」って伝えたら、ジェリーは微笑んでいた。これは面白いことをやる人だと思ったんじゃないかな。
細野:それは知らなかったな。冷や冷やするわ(笑)。
村井:そのプレゼンテーションがみんな印象に残ったみたいで、ジェリーたちは「ハリーはどうするんだ?」ってよく言っていたよ。
細野:嬉しい。それは嬉しいですね。
村井:それで「俺たちは外国で売れるレコードを作ろう」と思ってYMOが始まったんだよね。
細野:そうですね。日本では珍しい現象でした。きっと村井さんが珍しい存在だったんですね。
村井:いや、あなたも珍しい(笑)。
細野:じゃあ、珍しい人が集まったんですね(笑)。
YMOの世界進出
村井:細野君としては、自分の音楽を外国で発表したいという気持ちはいつごろから湧いてきたんですか?
細野:クラウン時代はひたすら自分の好きな音楽をやっているだけで、あんまり考えていなかった。村井さんからプロデュース契約を提示されて、ちょっと考えが変わったんですね。何かやらなきゃと。YMOのときは、もう最初から外国に発信することを考えていました。そこで急にアルファがA&Mと契約することになったというので「あ、これはいける」と確信に近くなりました。すごく運命を感じましたよ。
村井:運命的だよね。
細野:ワールドツアーが決まるまで、すごいスピードでしたからね。続けるのは大変でしたが、面白い時期でした。
村井:僕も含めて全員にもう少し体力があって、もう一回りぐらいツアーをやったら、本当に世界を席巻できたはずだという悔いは少し残るんだけど。
細野:そうかもしれないけど……。
村井:くたびれたよな(笑)。外国のバンドの人たち、体力あるよね。
細野:ずっとやってますからね。でも、僕らは僕らで、日本的でいいんじゃないですか。
村井:そうかい?
細野:だいたい当時の僕は一つのことを3年以上やったことがなかったので。頑張った方だと思います。
村井:そうだね、頑張った。ところでYMOの世界進出について、キャンティで細野君が会った人たちから受けた影響というのはありますか。
細野:キャンティで会った人というより、村井さんと川添象郎さんの影響が大きいですね。村井さんが紹介してくれた芸術家の脇田愛二郎さんとか、今井俊満さんとか、あの人たちの存在に触れるだけで嬉しかったです。懐かしいですね。
村井:脇田さんはアルファのアートディレクターをお願いして、YMOの日本盤とか細野君の「はらいそ」のジャケットもやってもらったね。彼らの存在に触れるだけで嬉しかったっていうけど、どうして嬉しかったんだろうね。
細野:やっぱり、さっきおっしゃっていた戦前の大正時代からつながっている日本の文化の片鱗に触れた思いがあったからでしょうね。でも、それはもう今はなくなってしまって、村井さんや僕に少し残っているくらいかもしれない。
村井:そうだね。ありったけ、後の人に残しておいてあげたいね。
細野:そうなんです。だから今は大事なときですよ。村井さんはちょうどいい時期に本を書いていると思います。村井さんが書く文化の話にはすごく興味があります。
村井:じゃあ、このプロジェクトにずっと協力してくれるかな? 例えば、またこういう形で対談するとか、やってもらえると助かるんですけれど。
細野:もちろん。いくらでもやりますよ。
村井:ありがとう。これは心強い味方ができたな。象ちゃんも「これを助けるのが自分の最後の仕事だ」なんて言ってくれているんだよ。僕より年上だからね。まあ、これからよろしくお願いします。
細野:こちらこそ、楽しみにしています。