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村井邦彦×吉田俊宏『モンパルナス1934~キャンティ前史~』連載スタートに寄せて

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 村井邦彦と吉田俊宏による新連載『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』の本編スタートに先駆けて、両人より寄せられた序文を掲載する。なお、関係各者との対談企画「メイキング・オブ・モンパルナス1934」の第一回として、村井邦彦と細野晴臣の特別対談も同時掲載しているので、こちらも読まれたい。【村井邦彦×細野晴臣「メイキング・オブ・モンパルナス1934」特別対談】(編集部)

村井邦彦による序文

「おまえ、緑色のスパゲティーを食べたことあるか」
 ある土曜の昼下がり、友人の山田和三郎が言った。僕はケチャップで味つけした真っ赤なナポリタンしか知らなかった。
「緑色をしたバジリコってやつを出す店ができたんだ。連れていってやるよ」
 信号が赤から緑に変わったように、僕の人生が前に進み始めた瞬間だった。
 僕はジャズサックス奏者の吉本栄さんに弟子入りしてアルトサックスを習っていた。和三郎はレッスン仲間の一人だった。彼とバジリコを食べたのが、今も繁盛しているイタリア料理店のキャンティだ。1960年4月のオープン当時は、飯倉片町の店の前を都電が走っていた。
 和三郎はキャンティのオーナーの二男、川添光郎の同級生。そんな縁もあって、僕は高校1年からキャンティの常連になり、川添一家とは家族同然の付き合いになっていく。
 和三郎はニューヨークに飛び、光郎の兄、川添象郎の住むグリニッジ・ヴィレッジのアパートに転がり込む。象郎はスペインから亡命していたサビーカスに弟子入りしてフラメンコギターを学んでいたのだ。彼はやがて日本に戻り、フラメンコ舞踊団を結成する。

 象郎と光郎の父が『モンパルナス1934』の主人公となるキャンティのオーナー、川添浩史さんだ。大政奉還の立役者となった後藤象二郎の孫で、戦後は高松宮殿下の国際関係特別秘書官を務めている。
 川添さんはダンディーな紳士だった。海外の文化人が来日すると、川添さんに会うためにキャンティを訪れる。川添さんは相手が大物であろうが、無名の若者であろうが、常に等しく、にこやかに、親しくもてなし、英語やフランス語で芸術談議に花を咲かせた。無名の若者の中には、後に『ラストタンゴ・イン・パリ』や『ラストエンペラー』を監督するベルナルド・ベルトリッチもいた。実にスマートな社交だった。キャンティが文化人のサロンになり得たのは、川添浩史という底知れぬ魅力を持つ紳士がいたからだ。高校生の僕が憧れないわけがなかった。
 川添さんの計らいで、象郎率いるフラメンコ舞踊団の全国公演が実現し、僕はその手伝いをさせてもらった。フラメンコ歌手を探しにマドリードまで出かけた象郎との連絡係を務め、ポスターを作ったり、公演パンフレットの編集を任されたりもした。
 川添さんはブロードウェイ・キャストによるミュージカル『ウエスト・サイド物語』の日生劇場公演を実現させた。振り付けをしたジェローム・ロビンスがキャンティを訪れた時、僕は横に座り、川添さんたちとの会話にずっと耳を傾けていたのを覚えている。川添さんの活躍は目覚ましく、文楽の全米公演のプロデュースを手がけ、イヴ・サン=ローランを日本に紹介し、晩年は大阪万博の富士グループ・パビリオンのプロデュースを任され、ありったけの情熱を注いでいた。
 こんな人になりたい。僕はそう思った。1969年にアルファミュージックを設立した時に「作家の自由な発想で音楽を作る」「国際的な音楽ビジネスをやる」を経営の2つの柱にしたのも、川添さんの影響だった。実際、アルファから送り出した赤い鳥の最初のシングルは英国で発売したし、黛敏郎さんが応援してくれた「須磨の嵐」もフランスで発売している。
アルファを旗揚げした翌年、僕は細野晴臣と出会っている。彼はアルファの音楽的な屋台骨となり、やがてイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成する。僕はYMOの世界進出で「国際的な音楽ビジネス」の夢を実現させたわけだが、その原点は洋の東西を軽々と往還する川添さんの姿を間近で見ていた日々にあったのである。では、川添さん自身の原点はどこにあったのだろうか。

 川添さんは1934年、21歳の時にパリに留学している。モンパルナスのアパルトマンで暮らし始めた川添さんは、生涯の友となる井上清一さんや報道写真家のロバート・キャパ、最初の妻となるピアニストの原智恵子さんをはじめ、美術、建築、文学、映画など、様々な分野の文化人と出会い、親交を結ぶ。まだ世界の芸術の中心地はパリだった。戦後はその人脈を生かして日本文化を世界に発信していくのだ。
 川添さんは1970年1月に亡くなる。同じ年に妻の梶子さんがキャンティの2階で僕に古垣鐵郎さんを紹介してくれた。古垣さんは70歳、僕は25歳だった。川添さん亡き後、若い僕には後見人が必要だと考えたのだろう。梶子さんが「この青年をよろしくお願いします」と頭を下げたのに合わせ、僕もペコリとお辞儀したのを覚えている。NHK会長や駐フランス大使などを歴任した古垣さんは、川添さんと同じように自由を愛し、芸術を愛した人だった。古垣さんにはアルファの特別顧問を引き受けていただいた。
 古垣さんは1920年代にフランスのリヨン大学へ、川添さんは1930年代にパリの映画学校にそれぞれ留学している。お二人から学んだことはたくさんあるが、特に外国人との付き合い方は勉強になった。少しでも相手の文化的な背景を知り、同時に日本の文化も分かってもらうことが肝要で、それだけで一気にお互いの理解が深まり、付き合いも面白くなる。
 お二人はどんな人生を歩んできたのか。当時、日本と世界はどんな歴史を刻んでいたのか。年齢を重ねるにつれ、僕の関心はそこに向かっていった。そのために日本の近代史の本をたくさん読んだ。

 5年余り前、日本経済新聞文化部の編集委員、吉田俊宏さんと知り合った。何度か取材を受け、いくつかの記事になった。その一つに思い出の品を紹介するコラムがあった。僕はキャンティの古いテーブルを挙げた。店の地下の増築部分を設計した建築家、村田豊さんが自らデザインした変形テーブルで、今も同じ場所にある。
 僕はひとしきり思い出を語り、吉田さんは熱心にメモを取った。僕はその後の吉田さんの仕事ぶりに感心した。僕の話をそのまま書くのではなく、現場を訪れ、関係者の話を聞き、徹底的に裏を取る。事実に基づいた無駄のない文章はキラリと光った。
 作家で外交ジャーナリストの友人、手嶋龍一さんが「この記事を書いた記者と組んで、本を書いてみたらどうですか」と勧めてくれた。
 僕はその場で吉田さんに電話をかけて「一緒に組んで何かやろう」と話した。しかし、その時はこれだという企画は思いつかなかった。しばらくして吉田さんは建築家の坂倉準三の大きな記事を書いた。僕の昔話を聞くうちに興味を持ったそうだ。坂倉さんはパリに留学して近代建築の巨匠ル・コルビュジエに師事した人で、パリで川添さんや井上さんと知り合って親友になっている。息子の坂倉竹之助は僕の古くからの友人で、坂倉建築研究所の会長でもある。
 坂倉準三は六本木の昔の防衛庁の裏、赤坂桧町に事務所を構え、2階には文化サロン「スメラクラブ(クラブ・シュメール)」が置かれた。メンバーには坂倉さん、川添さん、原さんらモンパルナス組がいたが、背後には「スメラ学塾」という団体を結成した川添さんの親戚に当たる哲学者の小島威彦、歴史哲学者の仲小路彰らの存在があった。
 仲小路さんは井上さんが通った熊本の五高の先輩で、後に五高の同級生、佐藤栄作首相のブレーンを務めたといわれる人だ。僕は川添浩史さん、梶子さん夫妻と一緒に、山中湖畔に隠棲して研究に打ち込んでいた仲小路さんを訪ねたことがある。吉田さんは坂倉さんの取材を進めるうち、仲小路彰に興味を持ち、記事に必要な範囲を超えて調べ物に熱を入れ始めた。分かったことは逐一、メールで教えてくれた。
 吉田さんの関心と、僕の長年の興味の対象だった川添さんやキャンティの歴史が交差した。僕が吉田さんと一緒に筆を執る必然が生まれた。共同でキャンティの前史を書けばいい。そう直感した。
 折しも僕に本の出版を打診してくれていたblueprint社に話したところ「是非、それで行きましょう」との返事をいただき、すべてが動き出した。同社の運営する「リアルサウンド」に適宜原稿を発表し、いずれ本にして出版することになっている。

 川添さん、井上さん、キャパ、原さん、坂倉さん、梶子さんらが主な登場人物になるが、彼らのかかわった文化人にも言及し、キャンティの背景にどれほど豊潤な文化があったか、できる限り掘り下げてみたい。建築家のル・コルビュジエやオーギュスト・ペレ、音楽家のアルフレッド・コルトーやダリウス・ミヨー、作家のアンドレ・ジイドやポール・ヴァレリー、アーネスト・ヘミングウェイ、映画監督のルネ・クレールやジャン・ルノワール、ファッションデザイナーのクリスチャン・ディオールやイヴ・サン=ローランといった人たちも登場することになりそうだ。
 これから吉田さんと行き先の見えない旅に出る。原稿は僕のいくぶんセンチメンタルな思い出と、吉田さんのジャーナリストとしての透徹した事実の追究がミックスしたものになるだろう。先人の経験と知恵を後の人に伝えたいと願う気持ちは75歳の僕も57歳の吉田さんも変わらないと思っている。

■村井邦彦(むらい・くにひこ)
1967年ヴィッキーの「待ちくたびれた日曜日」で作曲家デビュー。1969年音楽出版社・アルファミュージックを設立。1977年にはアルファレコードを設立し、荒井由実、YMO、赤い鳥、ガロ、サーカス、吉田美奈子など、多くのアーティストをプロデュース。「翼をください」、「虹と雪のバラード」、「エメラルドの伝説」、「白いサンゴ礁」、「夜と朝のあいだに」、「つばめが来る頃」、「スカイレストラン」ほか、数多くの作曲を手がけた。2017年に作家活動50周年を迎えた。

吉田俊宏による序文

 『モンパルナス1934』のタイトルは村井邦彦さんが考案した。私は「ちょっと時差ぼけ」という寝ぼけたパロディーを思いついたが、ピントが合っていたのは明らかに村井さんの方だった。
 『モンパルナス1934~キャンティ前史~』は「小説のように書こう」と村井さんと話している。できるだけ史実に基づいたフィクションという形になるだろう。
 主人公はキャンティの創業者、川添浩史だ。彼は映画を学ぶためパリに留学し、モンパルナスのアパルトマンで暮らし始める。昭和9年、1934年のことだ。すべてはここから始まったのである。
 キャンティには三島由紀夫や安部公房、黒澤明、千田是也、浅利慶太といった大物が訪れ、そこに加賀まりこ、大原麗子、安井かずみ、萩原健一といった当時の若手が加わって文化人のサロンと化したことはよく知られている。しかし、こんな店が偶然、ポッと生まれるはずがない。戦前の1934年までさかのぼり、キャンティ以前に何があったのかを解き明かしていくのが、この物語の主眼である。

 戦前のパリに、21歳の川添を中心にモンパルナス人脈ともいえる交流の輪ができた。ほとんどが同世代で、誰もがとても若かった。川添の生涯の友となる井上清一、世界的な報道写真家に成長するロバート・キャパ、キャパの恋人ゲルダ・タロー、川添の最初の妻になるピアニストの原智恵子、日本を代表する建築家になる坂倉準三、誰もが知っている美術家の岡本太郎、フランス文学者の丸山熊雄……。若い彼らはモンパルナスのル・ドームやラ・クーポールといったカフェに集い、芸術談議に花を咲かせた。
 川添たちがパリにいたのは第一次世界大戦と第二次大戦の間、いわゆる「戦間期」と呼ばれる時代だが、エコール・ド・パリの芸術家たちが活躍した1920年代の明るさ、華やかさは1930年に入ると次第に失われていった。世界大恐慌の荒波がフランスにも押し寄せ、国民は困窮し、ストライキが相次いだ。隣のドイツはナチスの独裁国家になり、ヒトラーの脅威は年を追うごとに増大していく。母国の日本はといえば、満州事変、国際連盟脱退などで国際的に孤立し、パリの知識人たちが日本に向ける目も厳しくなっていった。
 そんな暗雲が垂れ込める中で暮らしていた川添たちに朗報がもたらされる。モダニズム建築の巨匠ル・コルビュジエの事務所で働いていた坂倉準三が1937年、パリ万博の日本館の設計でグランプリを受賞したのだ。日本の近代建築が初めて世界に認められた瞬間だった。一見するとモダニズム建築なのだが、日本の伝統建築と西洋の現代技術が共存し、調和している点が高く評価されたのである。特に「建築と庭園の結合」が日本精神の象徴とみなされた。
 世界に通じる国際性と日本の伝統。この2つは両立させることができる。坂倉自身はもちろん、彼の仕事を間近で見ていた川添や井上たちもそう実感したことだろう。1970年の大阪万博では、坂倉が電力館の設計を担当し、川添は富士グループ・パビリオンのプロデュースを手がけることになる。奇しくも2人とも万博の開幕を間近に控えて相次いで亡くなってしまうのだが、両者の念頭には常にパリ万博日本館があったに違いない。

 パリに留学していた日本人の大半は、第二次大戦が始まる前に帰国を余儀なくされた。川添たちも例外ではなかった。ハンガリー出身のキャパはアメリカに渡り、アメリカ人として戦地を取材することになる。一方、日本に戻った川添は井上や坂倉らとともに、歴史哲学者の仲小路彰らが結成した「スメラ学塾」、その文化サロン「スメラクラブ」に加わり、独自の活動を繰り広げる。
 川添、井上とキャパは固い友情で結ばれていた。3人とも母国で左翼運動にかかわったことで当局に捕まり、国を追い出される形でパリにたどり着いているだけに、その絆は強かった。それが戦争を機に思いがけず敵同士になってしまったわけだ。戦後しばらくして、ようやくキャパの来日が実現し、川添たちと感動の再会を果たす。ところがキャパは日本を離れた後、ベトナムの戦地で地雷に触れて亡くなってしまうのである。後に川添と井上はキャパの著書『ちょっとピンぼけ』を訳出し、今も名著として読み継がれている。
 『モンパルナス1934』の柱の一つは、川添とキャパの友情物語になるだろう。
 川添は高松宮殿下の知遇を得て、国際文化交流プロデューサーとして社会的な地位を確立する。日本文化の世界発信に努め、吾妻徳穂の『アヅマカブキ』の欧米公演を成功させるなど、数々の成果を上げていくのである。

 高校時代からキャンティに通いつめ、川添の薫陶を受けた村井さんは、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の世界進出を「これはアヅマカブキの延長である」と考えていたという。国際文化交流のバトンを確かに受け取ったと自覚していたのである。
 「吉田さん、一緒に何か書こうよ」と村井さんからお誘いを受けたのは少し前のことになるが、それがこうした形で実現するとは予想もしていなかった。これから村井さんと共同で「キャンティ前史」を訪ねる旅に出る。小説のように書くといっても、はてさて、どうなるか。村井さんにも、私にも分かっていない。まさに地図のない旅だ。
 村井さんの住むロサンゼルスと日本は17時間も時差がある。お互いに「ちょっと時差ぼけ」になりながら、オンライン会議やメールのやり取りを繰り返し、共同執筆に備えている。『モンパルナス1934』で描く先人たちの物語が、国際社会における日本の立ち位置を探るヒントになれば望外の喜びである。

■吉田俊宏(よしだ・としひろ)日本経済新聞社文化部編集委員 
1963年長崎市生まれ。神奈川県平塚市育ち。早稲田大学卒業。86年日本経済新聞社入社。奈良支局長、文化部紙面担当部長などを経て、2012年から現職。長年にわたって文化部でポピュラー音楽を中心に取材。インタビューした相手はブライアン・ウィルソン、スティーヴィー・ワンダー、スティング、ライオネル・リッチー、ジャクソン・ブラウン、ジャネット・ジャクソン、ジュリエット・グレコ、ミシェル・ペトルチアーニ、渡辺貞夫、阿久悠、小田和正、矢沢永吉、高橋幸宏、松任谷由実ほか多数。クイーンのファンでCDのライナーノーツも執筆。