“運動”自体がキャラクターの感情表現に? 『ハイキュー!!』『ユーリ!!! on ICE』などスポーツアニメの魅力
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人は、なぜスポーツを見て感動するのだろうか。
例えば、100メートル走は人間が約10秒走るだけだ。10秒走るのを観て感動したり、興奮したりするのは、よく考えてみると不思議だ。他にも様々なスポーツがあるが、必ずしもルールや選手のバックグラウンドを知らずとも感動するときがある。
スポーツは肉体の運動である。もしかしたら、人間は「運動」を見ると感動する生き物なのかもしれない。
そして、アニメーションもまた「運動」を創造する媒体だ。絵や人形によって創造された動き自体に、物語とは別の地平の感動が宿っている。スポーツを描いたアニメーション作品を観ると、そのことはより一層強く意識される。それは両者が、「運動」の原初的な喜びでつながっているからではないだろうか。運動の魅力と最大限引き出すスポーツアニメの魅力について考えてみたい。
スポーツの動きには人生が詰まっている
『ハイキュー!!』の主人公・日向翔陽は、幼いころ街のテレビ中継で偶然見かけた「小さな巨人」と呼ばれるバレーボールプレイヤーに魅せられる。その時の日向はバレーボールについて詳しく知らなかっただろう。何も知らないのに、「動き」だけで日向はバレーボールの虜となり、彼の人生は変わった。
スポーツの「動き」には、人生を変えるほどのインパクトがあるらしい。『ハイキュー!!』のこの描写にはそういう説得力がある。
スポーツ評論を多数著した評論家・作家の虫明亜呂無(むしあけ あろむ)氏は、スポーツの動きには人生が宿っているのだという。市川崑の映画『東京オリンピック』を評する文章に虫明氏は、100メートル走を引き合いに出してこう書いている。
「これがスポーツである。百メートルの疾走である。彼は彼の持てるすべての資質、あらゆる情念を肉体と生理のメカニズムを、十秒フラットに走る彼自身のうえに、あらためてつくりあげてゆかねばならない。十秒、そのもののなかに再構成された彼。緊密に再構成された彼。それを可能にする構想力。つまり、彼自身のイマジネーションの凝縮力。それがレースである。スポーツである」(『映画評論』1965年5月号、P63「スポーツを超える美学を」、映画出版社)
スポーツが感動的なのは、その動きに人生が凝縮され、再構成されているからだという。だとすれば、それに人生が変えられてしまうほどのインパクトがあっても不思議ではない。
『ハイキュー!!』に限らず、様々なスポーツアニメでこのような衝撃的な運動との出会いが描かれている。『ハイキュー!!』を制作したProduction I.Gの『ボールルームへようこそ』でも、人生の目標を持てない主人公が、社交ダンス講師の動きに魅せられ、人生を変えられる。数多くの作品で、このような原初的な「運動」の感動が描かれてきた。
筆者は『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』についての記事(参照:劇場版『鬼滅の刃』を“列車映画”の観点から読む エモーションとモーションの連動が作品の醍醐味に)で、「映画とはモーション(運動)によってエモーション(感情)を描くもの」だと書いた。その時は、列車というモーションを売りにした乗り物と映画の相性について論じたが、同じことがスポーツと映像についても言える。スポーツこそ、モーションでエモーションを呼び起こす最上の題材と言っても過言ではないだろう。
そして、運動の持つ原初的な魅力に迫るには、客観的な記録である実写映像よりも、作り手がゼロから主観的に動きを創造可能なアニメーションの方が接近可能かもしれない。
虫明氏は前述の「スポーツを超える美学を」の中で、映像によって選手の肉体に宿る人生の再構成を記録する難しさを語っている。
「光と色彩と肉体と情念。たった一度きり地上に現出する幻を、どのようにして記録するのか。いわば、人間の構想力を肉体によって表現するレースを、ゲームを、どのように画にしてみせるのか。肉体という客観を支配し、制限する構想力という選手個人の主観を、いかにして、記録するのか?」(『映画評論』1965年5月号、P63「スポーツを超える美学を」、映画出版社)
虫明氏が、「再構成」や「構成力」という言葉をしきりに用いていることは注目に値する。スポーツとは「再構成」する「構想力」がその本質だとすれば、まさにアニメーションと深いレベルでつながれるのではないだろうか。
『ユーリ!!! on ICE』に見るアニメとスポーツの相性
先に、映画(映像)はモーションでエモーションを表現するもので、スポーツもまた同様であると書いた。そのことは、フィギュアスケートを題材にした『ユーリ!!! on ICE』という作品を見るとよくわかる。まさにスケートによる演技の一挙手一投足に登場人物の感情が乗せられている。
フィギュアスケートの演技にはテーマがある。『ユーリ!!! on ICE』で主人公は、コーチのヴィクトルから「アガペーとエロス」をテーマに与えられ、スケーティングで表現していくことになる。本作でもっとも雄弁にキャラクターの感情を語るのはセリフでも物語でもなく、スケーティングシーンそのものだ。その動きの一つ一つに、再構成されたアガペーとエロスが詰め込まれている。アニメーションで描かれたそれらの動きは、やはり生放送の中継とは異なる距離感を視聴者に与える。それは、カメラポジションの問題だけではないはずで、ゼロから選手の動きをアニメーターの解釈で「再構成」しているが故に、より選手の主観に近い感情が動きに宿っているのだ。
本作は、作画のためにスケーターの参考映像が用意されている。映像をそのままなぞるロトスコープではなく、あくまで参考に見ながら描いているそうだが(後半の話数では3DCGも参考映像として用意されるようになったそうだ)、その参考映像は絵コンテに合わせた構図で撮られているものではなかったそうだ。なので、作画担当が、コンテの構図に合わせて、動きを文字通り再構成する必要があった。結果として、それはより強くアニメーターの解釈によって動きを再構成することにつながり、動きに秘めた感情が強く表現されることとなったのではないか(参照:『アニメスタイル』Vol.011、「[特集]ユーリ!!! on ICE」)。
スポーツのモーションとエモーションをどう構成するか、近年では様々な試みがなされている。先に挙げた『ユーリ!!! on ICE』は実写映像を参考に描いたが、自転車レースを題材にしたアニメ『弱虫ペダル』では、迫力あるレースシーンを作るために3DCGと作画のハイブリッドで挑んでいる。
『弱虫ペダル』のレースシーンは、ロングの画に関しては全身CG、クローズアップは手描き作画、そして全身と表情がはっきりと映るミドルショットの画では、身体は3DCG、顔は手描きという手法を選択した。プロデューサーの竹村逸平氏は、「ロードレースのスピード感とか迫力を出すためには、どうしてもミドルサイズでガツガツぶつかりながら、勝負をしているような表現をしなければならない。そこでは、魂で走っている部分を顔で表現しなければならない」と考えたそうで(参照:『オトナアニメ』Vol.36「スポーツアニメの現在」、P7、洋泉社Mook)、顔も動きも熱のこもった映像に仕上がっている。
『弱虫ペダル』は実写映画版も製作されているが、実写はCGやボディダブルを極力使わず、生身の役者がレースシーンに挑んでいる。役者が自らの肉体の限界に挑む様は、それ自体大変に感動的で、実写版は良質な青春映画に仕上がっているが、それは裏を返すと「役者の肉体」という限界が存在するということでもある。だが、アニメなら様々な手法でその限界を超え、プロのアスリートの「動き」の感動に近づくことができる。そういう点でもアニメーションは、実写よりもスポーツのリアルに迫りやすいと言えるかもしれない。余談だが、近年は実写映画もCGとボディダブルを巧みに使用することで役者の肉体の限界を超えた迫真のスポーツシーンを作る作品も生まれている。実在のフィギュアスケーター、トーニャ・ハーディングを描いた『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』では、プロのスケーターが躍ったボディに主演女優の顔を合成する手法を採用している(実写版『弱虫ペダル』よりもアニメ版のやり方に似ている点が興味深い)。
実際、近年スポーツを題材にしたアニメは、それぞれのスポーツのリアルに迫る内容が多くなってきた。駅伝を描いた『風が強く吹いている』や、水泳の『free!』、今年は体操の『体操ザムライ』やクライミングの『いわかける!- Sport Climbing Girls -』、来年にはカバディを描く『灼熱カバディ』など、題材にされるスポーツも多岐にわたってきており、それぞれの動きに込められた感動を初心者にもわかりやすく伝えるものが増えている。
モーションが生み出す感動が詰まったスポーツという題材は、アニメーションととても相性が良い。これからも様々なスポーツがアニメーションで描かれていくだろう。それは、人間が「動き」に感動する生き物である限り続くはずだ。
■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。