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映画と働く 第4回 CGエフェクトアニメーター:久保田孝「グラフ用紙から始まった“頭の体操”」

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ナタリー

イラスト / 徳永明子

1本の映画が作られ、観客のもとに届けられる過程には、監督やキャストだけでなくさまざまな業種のプロフェッショナルが関わっている。連載コラム「映画と働く」では、映画業界で働く人に話を聞き、その仕事に懸ける思いやこだわりを紐解いていく。

今回はアメリカでCGエフェクトアニメーターとして働く久保田孝に、リモートでインタビュー。公開中のストップモーションアニメ映画「ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒」や前作「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」にも携わった久保田に、スタジオライカ時代のエピソードを聞いたほか、大学の1年後輩である庵野秀明の存在、CG黎明期から60歳を迎えた現在まで見てきた業界の変遷など、たっぷり語ってもらった。

取材・文 / 黛木綿子 題字イラスト / 徳永明子

ライカの強みは人形作りから撮影、エフェクトまで社内で完結できるところ

──久保田さんは公開中の「ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒」に関わられたということで、まずはスタジオライカ時代の話を聞かせてください。同作では「CGエフェクトテクニカルディレクター」とクレジットされていましたが、具体的にはどんなお仕事ですか?

ストップモーションで撮った素材にあとからCG素材を追加して、映像を加工していく作業をビジュアルエフェクトと呼ぶんですが、僕はビジュアルエフェクトデパートメントの中のエフェクトと呼ばれる部門にいました。エフェクトではCGで炎や煙、水あるいは稲光のような光物を作ったりします。

──ライカの売りであるストップモーションアニメーションの技術は、“最古の特殊効果”とも言えますよね。CGエフェクトは最先端の技術を使うので正反対だと思ったのですが……。

ストップモーションであっても、“実写で撮影した素材に対してCGをつけ加える”という作業自体は、ほかの実写映画と変わらないんです。だから違和感なく作業を進めることができました。撮影された素材にCGで何か乗せる場合、カメラとの相対的な位置関係を計算してCGのカメラを後付けで作り出す“マッチムーブ”という作業をするんですが、ライカの作品もパペットを実写で撮った素材をマッチムーブする人がいて、僕らはそのCGのカメラを通して作業を進めていく。作り方はまったく一緒です。

──なるほど。では、ライカならではの特色を挙げるとしたら?

普通は大規模な撮影が行われたあと、世界中のいろんな会社で作業を分担してビジュアルエフェクトを追加しますが、ライカの場合はパペットや衣装、小道具、セットに至るまですべて手作りするところから始まり、撮影してエフェクトを加える過程まで全部ひとつの社内で完結できるところが強みです。独特な世界観を生み出すうえで重要なポイントだと思いますね。2017年から2018年にかけてポートランド・アート・ミュージアムで「Animating Life of Laika」という展覧会が開催されたんですが、「コララインとボタンの魔女」から「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」まで過去作のパペットやセットがズラーっと並んでいて圧倒されました。クラフトマンシップにあふれていて、こんな会社はほかに見たことがないです。

家族を連れたスタジオ見学や“サンドウィッチの日”も

家族をスタジオに呼びましょうというイベントも、年に1~2回ありました。家族連れでスタジオの中を見学させてくれるんですよ。途中で記念写真を撮ってくれたり。

──すごく楽しそうです! お子さんもかなり喜ばれたんじゃないですか?

いや、このぐらいの歳だと何もわからなかったみたいで、きっと記憶のカケラにも残ってない……(笑)。この子は「ミッシング・リンク」の制作中に生まれたので、エンドロールに“プロダクションベイビー”としてクレジットされているんです。いい記念になりました。

──いろんな分野のエキスパートが1つの会社で働いていると、タイプの違いもあったりするんでしょうか。

僕らビジュアルエフェクトの担当者たちは、ほかのスタジオと大差がなかったと思いますが、衣装や模型など手で物を作っている人たちは独特な雰囲気がありました。風貌もちょっと変わっていて……ライカの作品に出てくるキャラクターのような人が多いんです(笑)。映画を観てると、スタジオの人がモデルなんじゃないかなと思うことがあって。

──面白いですね(笑)。他部署とも交流はあるんですか?

金曜日の夕方、仕事が終わる頃に皆で大きな試写室に集まって、今週進めた作業を発表する上映会がありました。皆で観ながら「わあ、すごい!」と拍手したりして、コミュニケーションの場にもなっていました。

──ライカの作品だと、1週間掛かってわずか数秒ぐらいのペースですよね。

そう、少しずつできていく途中経過が見れて面白かったです。それと月曜の朝に毎週無料でサンドウィッチがふるまわれて、皆で食べながら業務連絡を聞く会があった。僕は寝坊したり、週明けからやる気が出なかったりで、結局2回くらいしか行ったことがなかったけど(笑)。各部門が自分たちのノウハウを紹介するセミナーも多かったです。内部の情報を共有するイベントが活発で、そのかわり外部には漏れないようにしてましたね。ほかの会社で作った映画の上映会をやって監督をゲストに呼んでくれたり、ライフドローイングといって、日本で言うところのデッサンの機会を設けてくれたり。僕はそういうのが好きで、しょっちゅう顔を出してました。

「ミッシング・リンク」冒頭シーンには3~4カ月掛かったカットも

──作品の話もお伺いしたいんですが、久保田さんが「ミッシング・リンク」で誇りに思っているのはどのシーンですか?

オープニングシークエンスの水のエフェクトです。湖から恐竜が首を出して暴れまくるところや、口から吐いたツバのようなものが主人公のライオネルにべちゃべちゃとかかる場面を担当しました。

──あのシーン、いきなりストップモーションだということを忘れてしまうぐらい素晴らしかったです。

ほかにも貴族クラブの看板に泥が引っかかるシーンとか細かい部分をいくつか担当しましたけど、ほとんどオープニングばかりやってましたね。全体で1年半ぐらい掛けて作業したのですが、3~4カ月掛かったカットもありました。

──やはり1シーンに掛かる労力がすごいですね。「KUBO」のメイキング映像で、水の表現を研究するために、わざわざ一度模型を作って実験してからCGを作っているのを拝見したんですが。

僕は「KUBO」に途中から参加したので、入社したときには残念ながら研究は終わっていたんです。だけど、その研究にもとづいた指示に従ってオープニングの大波のシーンを作っていったので、研究の成果は生かされていると思いますよ。

──「KUBO」ではほかにどういったシーンを担当されたんでしょうか。

主人公クボの母親が三味線をバーンと弾くと出る衝撃波や村にある稲穂、猿とクボが襲われる吹雪などを担当しました。木の葉でできた船が真っ二つに割れたあと、残骸が集まって、水しぶきを上げながら合体するショットも。僕のデモリールにも入っているので、ぜひ観てみてください。

──ちなみにクボの名前は久保田さんから取られたわけじゃないんですか?

そんな気がしますよね。でも違うんです(笑)。「KUBO」のコンセプトを書いたスタッフが、日系人の友人のニックネームから取ったらしいですよ。村で将棋を指しているキャラクターのモデルにもなっていて、顔がすごく似ているそうです。

──へえー、知らなかったです! では「KUBO」の制作に久保田さんが関わられたのは偶然だったんですね。

はい。僕が入社後にオリエンテーションを受けたときに、やたらスタッフからクボ、クボと呼ばれて。そのときは「KUBO」の企画をまだ知らなかったから不思議に思ってました(笑)。

大学の1年後輩・庵野秀明は同世代のヒーロー

──ここからは久保田さんの経歴を振り返っていきたいと思います。映画業界を目指したきっかけはなんだったんですか?

子供の頃、父が8mmカメラで撮った家族映画を観て、いつか自分でも映画を撮ってみたいと思ったことがきっかけです。英語教師だった父はオープンリールのテープレコーダーやポータブルレコードプレーヤーなど機材をいろいろ持っていて、旅行の思い出を撮影したり、寝る前にお話のレコードを聴かせてくれていました。

──初めて映画作りに挑戦したのはいつですか?

高校のとき中古の8mmカメラを買って、文化祭用に短編アニメ映画を作りました。その頃はマンガ家になるのが夢で、マンガ研究会に所属していたんですよ。部員みんなでセルアニメっぽいものを作ったんですが、全然動いてなくて、恥ずかしいから「8mm紙芝居」と言っていたかな(笑)。その頃はアニメが人気を得ていた時代で、自分にとって「宇宙戦艦ヤマト」の存在は大きかった。高校のときにテレビシリーズを編集した映画が上映されたんです。夏休みの最初は全国で4館ぐらいしか上映してなくて、僕らは茨城から東京の渋谷までわざわざ観に行って、帰りに九段下にあるオフィス・アカデミーという製作プロダクションにも寄り道しました。やった、観てきたぞ!って喜んでたんですが、夏休みが終わる頃には地元の映画館にもかかってて(笑)。

──いいエピソードですね(笑)。「尊敬する映画人」の欄に黒澤明と書いてありましたが、その頃から?

中高生までは田舎に住んでたのもあって、怪獣映画やアニメはテレビでよく観ていたんですが、ちゃんとした映画はそれほど観たことがなかったんですよ。でも大阪芸術大学の映像計画学科に入ったら、黒澤明と組んだことのある撮影監督が講師にいたり、溝口健二のシナリオライターだった人が学科長だったり、いきなり映画、映画っていう世界だったので、これは観なきゃダメだなって(笑)。そこらへんからハマった感じです。ちょうど在学中に黒澤監督が「影武者」を撮ったんですけど、2個上の先輩なんかは撮影の手伝いに行ったりして盛り上がってたんですよね。

──レジェンドがすぐ手の届くところに……すごいです。

けっこうレジェンドがいましたね。「羅生門」の撮影監督だった宮川一夫さんが特別講師だったんですけど、僕ら全然知らなかったものだから、授業中に大騒ぎしてひどく怒らせちゃったことがあって(笑)。いまだに後悔してるんですけどね。

──大学では、ほかにどんな出会いがありましたか?

直接の面識はないのですが、1年後輩に庵野秀明さんがいました。

──あっ! 確かに同世代で同じ大阪芸術大学ですね。

最初にすごいと思ったのは、彼が課題で作った「ウルトラマン」のパロディ映画。2年生になると3分の短編を作る課題が出るんですが、その発表会「ファーストピクチャーズショー」で3年生が上映係をやるんです。僕は上映ブースの中にいたんですが、突然それがバーンと始まって、うわっ、すごいな!とびっくりしたのを覚えています。簡素な作りにもかかわらず、抜群に面白かった。「アオイホノオ」(※注1)というドラマの中でも再現していて、柳楽優弥さん演じる主人公がいいリアクションをしていましたけど(笑)、あんな感じで僕も驚いたことを覚えています。

※注1:島本和彦の自伝的マンガを柳楽優弥主演でドラマ化した作品。大阪芸術大学が実名で登場し、庵野秀明をモデルとした庵野ヒデアキ役を安田顕が演じた。

──柳楽さんの演技も決して誇張ではなかったと(笑)。

あのドラマを観ていると目頭が熱くなりますね。その後ずっと庵野さんの関わった作品を観続けていますが、いつも変わらず驚きと感動を与え続けてくれる、同世代のヒーローのような監督だと思っています。来年公開予定の「シン・ウルトラマン」も楽しみですね。

「トイ・ストーリー」のメイキング映像を見て必死に研究

──卒業後の1983年にJCGL (ジャパン・コンピュータ・グラフィック・ラボ)に入社されたのは、どんなきっかけだったんですか?

アニメーションが好きだったから、映像系の雑誌の募集広告を見て応募しました。CGといえどアニメをやっているということでなんとなく応募したら受かっちゃった。ほかにCMの会社に6社ほど応募したけれど、全部落ちちゃったので、受かってラッキーって気持ちで入社しました。大学ではキーボードすら触ったことがなかったのに(笑)。JCGLは日本で最初の商業CGスタジオで、もともとはCGで2Dアニメをサポートして作ろうとしていた。でもいざ始めてみたらあまりにも手間暇とお金が掛かるので、2Dから3Dに方向転換したんです。僕は会社の2期生として入社しました。まだ初期の本当に何もできないような3Dシステムが入ってきて、誰も何もわからないから、みんなで覚えていったって感じです。

──まだCGになじみはなかった時代ですよね。映画で言うと、1982年の「トロン」あたりから一般的にも認識された感じでしょうか。

ええ、CGで最初にインパクトがあった作品と言えば、大学生の頃に観た「トロン」です。1985年のつくば科学万博に向けてCGの映像が少しずつテレビで放送され始めた頃で、漠然としたイメージはあったけど、その世界に入っていくのは予想してなかったですね。

──JCGLでは、どんな仕事が印象に残っていますか?

1年目にやった「SF新世紀レンズマン」(※注2)です。いきなり映画の仕事だったのでとてもうれしかったです。ただ、僕らはまだ素人に毛が生えた程度の技術力しかなかったし、コンピュータの処理能力も今のスマホの1万分の1ほどもなかったんじゃないかな。面白かったけど、いろいろ苦労の連続でした。当時、日本で映画にCGを使っているものって言ったら「レンズマン」と「ゴルゴ13」くらいしかなかったんです。それから3年目にアメリカのSIGGRAPH (シーグラフ)に行ったこと。アメリカのコンピュータの学会が毎年夏に開催している、CGの最新技術や映像を披露するイベントです。その初めての海外旅行でいろんなCGスタッフに会って、英語はよくわからないけどアメリカというものに触れて、大いに刺激を受けた。ここで仕事したいという思いが芽生えたんです。1985年にそう思って実際にアメリカで働き始めたのが1997年だから、10年以上掛かりましたが(笑)。

※注2:米作家E・E・スミスによる小説「レンズマン」シリーズを原作とし、CG技術を取り入れたアニメーション映画。1984年7月に公開され、同年10月よりテレビシリーズも放映された。

──履歴書によるとJCGLのあと、1997年にスクウェアUSAホノルルスタジオに入社されて、海外でのキャリアが始まるわけですよね。

実はJCGLのあとに太陽企画やポリゴン・ピクチュアズでも働いていたんですよ。1980年代の半ばから1990年代初めぐらいまでは博覧会ブームがあって、展示用大型映像の制作にも参加しました。1985年のつくば科学万博用に制作された、松本零士さん原作のアニメ「アレイの鏡」のラスト3分のCGシーンなどですが、それ以外はほとんどCM関連の仕事でしたね。当時のコンピュータ処理能力は非力ですから、CGの使われ方としてCMのような尺の短い仕事に向いていたということだと思います。しかし、やっぱり映画に関わりたいという気持ちが大きくなった頃に、知り合いからスクウェアで働かないかと誘われたんです。面白いかもしれない、場所もハワイだしと思って行くことにしました(笑)。

──言葉の壁はどう乗り越えられたんですか?

スクウェアは日本の会社なので通訳が付いていたんです。そこでは「ファイナルファンタジー」とうフルCGの映画に参加して、レイアウトスーパーバイザーを担当しました。普通の実写映画だと撮影前に絵コンテなりビデオコンテを作ると思いますが、その3DCG版がCG映画における“レイアウト”。軽めのCGモデルとCGのカメラで1カット1カット素早く作っていき、それらを編集して簡易的な映画を作る作業です。CG映画の基本的な設計図といってもいいと思います。最初にきちんとレイアウトという工程を打ち出したのは「トイ・ストーリー」からですね。

──「トイ・ストーリー」は1995年製作なので、ちょうど同時期ですね。

「トイ・ストーリー」のレーザーディスクでメイキング映像を観て、必死に研究したのを覚えています。作業の分担の仕方など参考にして、スクウェアUSAのワークフローを組み上げていきました。僕が作ったものは荒削りだったんですが、現在はもっと複雑で素晴らしいものになっていると思います。僕らは本当に最初の最初だったので、会議室で毎日こうかな、ああかなと模索していました。

──大変そうですが、一歩外に出ればハワイというのはうらやましいです(笑)。

レイオフされてからの5年は鳴かず飛ばずだった

──海外で働いてみて、壁にぶつかったことはありませんでしたか?

そのスクウェアUSAをレイオフ(一時解雇)になったときです。自分にアメリカのCGスタジオで雇ってもらえるだけの専門的スキルがないことに気付き、焦りました。

──アメリカのCG業界では、レイオフは日常的なことなんでしょうか?

アメリカのCGスタジオは高度にシステム化された分業体制が確立されていて、個々のスタッフはそれぞれの分野でのエキスパートでなければなりません。スケジュール管理もしっかりしていて、定時で働くことがスタンダードです。オンとオフをきっちり分けられるのが、アメリカの働き方。一方、常にレイオフされる可能性があり、安定して働き続けることは日本以上に難しいと思います。

──緊張感がありますね。

ただ、実力とやる気があれば次の職場を見つけることは可能ですよ。僕は当時、ドリームワークスの本社まで面接に行ったものの、最後の最後に英語力を理由に落とされてしまって。レイアウトをやるならディレクターと言葉のコミュニケーションが必須になるけど、それには英語力が足りないねって。ガッカリでした……。そのとき僕はすでに40歳ぐらいで、なかなかその歳から英語の上達は難しい。違うことでなんとかならないかなと思いながら1年ほどバイト生活をしたあとにロサンゼルスへ行ったんです。そこから鳴かず飛ばずの状態がさらに続いて、結局5年ぐらい掛かったんですよね。途中でだれちゃって、この機会に絵の勉強でもしようかなって、サンタモニカ・カレッジでアートなんか学んじゃったりして(笑)。

──そこだけ聞くと、優雅な暮らしに思えます(笑)。

そろそろまずいぞと察した頃にリズム&ヒューズ・スタジオ(※注3)で働いていた友達に相談したら、「これからの映画にはエフェクトが絶対必要だ。技術系だから言葉のコミュニケーションが上手じゃなくても雇ってくれるはず」と助言をくれた。エフェクトをやるならハリウッドでは今、Houdini(フーディニ)が一番のソフトウェアだと言うので、勉強をしたうえでリズム&ヒューズの短期仕事に応募しました。そうしたら、持参したデモリールも見ずに「あ、いいよ」って即採用されたんです。絶対、裏で友達が根回しをしてくれてましたね(笑)。それから2カ月ほど短期で働いたあと、感触がよかったのか翌年にもう1度呼ばれて、社員にしてもらいました。すごくいい会社でしたよ。

※注3:ジョン・ヒューズらが設立したVFX制作会社。コカ・コーラのCM「白熊」シリーズや「マウス・ハント」「ベイブ」「ナイト ミュージアム」「ライラの冒険 黄金の羅針盤」などを手がけた。

──「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」などを手がけた、動物のCGに定評のあるスタジオというイメージです。

その通りです。「ライフ・オブ・パイ」にも携わって、クジラが海から登場するシーンの波しぶきを担当しました。そのときエフェクトのスーパーバイザーをしていたデヴィッド・ホースリーという人が、その後ライカに移って僕を呼んでくれたんですよ。それで2人して「KUBO」の海のシーンをやろうという話になった。

──なるほど、そこにつながっていくんですか。クジラにも通ずるところがありますね。

そうそう、水だ!って(笑)。そんなに水が得意なわけじゃないんだけど、まあがんばってやってみますと。

ロサンゼルスで生き残っているVFXスタジオはわずか

──ライカのあとにはデジタル・ドメイン(※注4)を経て、現在はドリームワークス・アニメーションに所属されていますが、コロナ禍の中で日々どのように働かれているんですか?

※注4:スタン・ウィンストンとジェームズ・キャメロンが設立したVFX制作会社。「タイタニック」「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」、「トランスフォーマー」や「アベンジャーズ」シリーズで知られる。

今年3月の段階で親会社のNBCユニバーサルから全社員に、家へ帰るようお達しがあったんです。それで、翌週の月曜日からもう出社するなとなった。会社のシステム担当者がすごいスピードでリモートワークするためのシステムを組み上げて、そこからはずっと在宅で働いています。

──さすが、対応の速さが違いますね。

仕事にはだいぶ慣れてきましたが、2月に入社して、会社のシステムを十分理解していない段階でリモートワークになったので……迷惑をかけているはずですけど、そこはアメリカらしいというか、みんな心が広くて、まあいいよって許してもらっています。

──コロナの影響もあって映画業界は日々変化していますが、問題点はどんなところだと思いますか?

アメリカのVFX業界に関して言うと、もっと活況が戻ってほしいと思っています。カナダやイギリスなどの税制優遇制度によって、ハリウッド映画のVFXの仕事の多くがアメリカ国外に発注されるようになって久しいですが、それに伴い国内のVFXスタジオは海外移転や撤退が相次ぎました。リズム&ヒューズもそのせいで倒産したんです(※その後、プラナ・スタジオに買収され営業を再開している)。ロサンゼルスで生き残っている映画のVFXスタジオは、ほんのわずかしかありません。以前ロサンゼルスで一緒に働いていた同僚の多くが、カナダやニュージーランドなどで仕事をしています。だから北米で映画のVFXをやりたいと思ったら、今はカナダに行くしかないって感じですかね。

──そんな状況になっていたんですか……。「目指せハリウッド」という世の中ではなくなってきているんですね。

グラフ用紙から始まったCGの仕事

──履歴書で「あなたにとってCGエフェクトとは?」という欄に「頭の体操?」と書いていただいたんですが、その心とは?

この仕事ってすぐに道具が古くなっちゃうんですよ。代わりに新しいものを常に取りこんでいかないといけない。1つのものを作るにしても真っ向からやるのと裏口からやるのと、いろいろ方法論があって、どのツールを組み合わせたら効率よくできるかを考え続けなきゃいけないのが、なんだか頭の体操しているみたいだなと。

──どんな人がこの仕事に向いてると思いますか?

1つに絞るのは難しいけど、まず「すぐ匙を投げる人」はダメですね。粘土をガーッといじったり、キャンパスに絵の具を投げてできるものではないので、間にある何層もの過程を予測しながら進める計画性がないといけない。一方で、ちょっとしたインスピレーションも必要な気がする。自分もエフェクトの仕事を始めたのは40代後半なので、いまだに模索中です。アメリカは雇用に年齢制限がないので、そこはよかったなと思ってます。

──今、久保田さんはちょうど60歳ですか?

はい、還暦を迎えたばかりです。アニメーションや映画の世界にはもっと歳上の先輩がいると思いますが、CG業界で言うと日本ではおそらく最高齢になるんじゃないでしょうか。実際現場で端末をたたいてる人は僕の上にはほとんどいないと思いますよ(笑)。

──CG黎明期から業界を見てきた方のお話を聞けて、とても興味深かったです。技術の進歩を間近で見られる点も面白いなと思いました。

ちなみに最初に僕らがモデリングに使っていた道具ってなんだと思います? グラフ用紙ですよ、グラフ用紙! グラフ用紙に絵をプロットして、読んだ座標をキーボードでパソコンに打ち込んでたんです。AとかBとかロゴを1個入れるだけで1日掛かりだった。最初の頃に培ったノウハウなんて、今ひとつも役に立ってないです。

──想像を絶する世界です……。技術が進化したとはいえ、地道な作業という点は変わらないですよね。

この仕事は忍耐力が必要で、計算を待っている間など地味な部分も多いですから、どこかに楽しいと思える部分を見つけないとやってられないところがあって。「仕事は楽しくなければならない。つまらないと思ってする仕事ほどつらいものはない」というのがモットーなので、自分なりにこだわりを持って、楽しめるように工夫してやっています。

久保田孝(クボタ・タカシ)

1960年6月22日生まれ、茨城県出身。大阪芸術大学の映像計画学科を卒業後、1984年にJCGL(ジャパン・コンピュータ・グラフィック・ラボ)に入社。1997年よりスクウェアUSAホノルルスタジオに所属し、フルCG映画「ファイナルファンタジー」のレイアウトスーパーバイザーを務める。2006年以降はリズム&ヒューズで「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々:魔の海」「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」、2014年以降はライカで「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」「ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒」などにCGエフェクトアニメーターとして参加した。デジタル・ドメイン社を経て、2020年2月よりドリームワークス・アニメーションに所属している。