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渋谷系を掘り下げる Vol.13 多彩な才能が集った伝説のクラブ、下北沢SLITS

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「多彩な才能が集った伝説のクラブ、下北沢SLITS」ビジュアル

京王井の頭線の急行で渋谷から1駅の距離にある世田谷区下北沢では、近年、大々的に再開発が進められている。一方で昔ながらの商店街と、中古レコード店、古着店、スケートボードショップ、ライブハウス、ロックバーなどが同居してきた街の特徴はむしろ売りにしようと試みられており、一帯にはまるでサブカルチャーのテーマパークのような雰囲気すら漂う。ただしかつての下北沢を──例えばZOOやSLITSを知っている人からすれば、少々きれいにまとまりすぎていると感じるかもしれない。

下北沢南口商店街、ミスタードーナツ向かいのビルの地下深くへと延びていく、細く急な階段。かつてその先には、1987年に下北ナイトクラブの名前で開店、88年にZOO、94年にSLITSとリニューアルされたのち、95年いっぱいで閉まったわずか20坪のクラブが存在した。同店について残された無数の証言から浮かび上がってくるイメージはまさにカオスだ。ある側面としては、そこは瀧見憲司がDJを始め、フリッパーズ・ギターやカヒミ・カリィが常連客として訪れ、スチャダラパーやラヴ・タンバリンズがレギュラーイベントを行い、TOKYO No.1 SOUL SETが結成された──いわゆる“渋谷系”の供給源だった。そしてフィッシュマンズがZAKのPAでライブを行い、Buffalo Daughterや暴力温泉芸者も出演したように“ポスト渋谷系”の流れも準備している。

もちろん、日本のDJカルチャーやラップミュージックの歴史に位置付ければまた違った見方ができるだろう。1つだけはっきりと言えるのは、その狭い地下室で行われていたパーティや実験がやがてレコードとなって各地へ広まり、90年代以降のサブカルチャーを大きく変えたということだ。今年8月に開店したばかりのLIVE HAUSの店長スガナミユウは、以前、「現代版のZOO、SLITSを俺たちがやるべきだ」と語った。下北沢もまたリニューアルされ、イメージが利用されていく一方で、その遺産と精神は地下で受け継がれている。ZOOとSLITSの店長を務めた山下直樹に、ありとあらゆるジャンルをミックスし、新しい音楽を作り出した小さなクラブについて振り返ってもらった。

取材・文 / 磯部涼 ポートレイト撮影 / 沼田学 図版提供 / 山下直樹

原点にあるのはニューウェイブ

ZOO~SLITSの歴史に関しては山下直樹が監修を務めた書籍「LIFE AT SLITS」(2007年、P-Vine Books刊)という決定版がすでに存在する。編集者の浜田淳が130名以上にも及ぶ関係者の膨大な証言を「イーディ― '60年代のヒロイン」や「トルーマン・カポーティ」といった評伝で知られるジョージ・プリンプトンに倣い、いわゆるオーラルバイオグラフィの手法でまとめ上げた同書には、意外なことに渋谷系という言葉がほとんど出てこない。そもそも、山下は冒頭からこのように書いているのだ。

「渋谷系って何だったんですか?」
残念ながらその問いには答えられないけど、ズーやスリッツでやっていたことなら聞かせてあげられるかもしれない。(「LIFE AT SLITS」まえがきより)

また、同書は1995年12月31日──SLITSの“移転”に伴う閉店日であり、現在から見れば渋谷系ブームの只中と思える時期──に行われた年越しイベントの描写で終わっていくが、そこでの山下の筆致はとても暗い。彼は好きでもない酒で悪酔いしながら、マイクをつかんで満員のフロアに何度も何度も問いかける。

「楽しんでますか?」と。そんなことなかったよと言われるかもしれないけど、ぼくから見えるお客さんの表情は辛そうだった。ギュウギュウ詰めのなか、ただ自分のお目当ての出演者を待っているだけだと言わんばかりの朦朧とした目線がそこにはあった。その目線は本来ライヴハウスなどで目にするものであり、自分が携わる場所では見るはずのないものだった。しかしその頃にはすでに自分の店でも目新しいものではなくなっていた。ぼくはその瞬間、ズーからスリッツへの変化の際に自分が選んだ手段が正しかったのかどうかの判断をするより、ただただ朝になって早くこの場から立ち去りたいとしか思っていなかった。(「LIFE AT SLITS」あとがきより)

そこには山下と、あるいはZOO / SLITSと時代との微妙な距離が表れているだろう。SLITS閉店から25年後。「LIFE AT SLITS」刊行から13年後。この連載のテーマに合わせて山下に改めて渋谷系について聞くと、やはり答えはそっけないものだった。

 「正直、渋谷系というものを何も理解していなかったですね。あくまでも店の外で知ることというか。当時、レコードショップに行くと、うちの店によく出演している人たちの作品がまとめて置いてあって。そこに渋谷系というポップが貼ってあったかどうかは覚えていないんですけど……なんとなくそう呼ばれているんだなと」

しかしZOO / SLITSと渋谷系には、同時代的感覚があったことも確かだろう。例えば、かつて日本のDJカルチャーで頻繁に使われた“オール・イン・ザ・ミックス”という表現だ。ありとあらゆる音楽を混ぜ合わせる。90年代の日本においてその試みはそれこそありとあらゆるところで──ターンテーブルとミキサーで、バンドサウンドで、そしてZOO / SLITSという下北沢の地下にあった店で──行われていた。

 「“オール・イン・ザ・ミックス”と言うと、自分の原点にあるのはニューウェイブだと思います」

山下の回想は80年代前半へとさかのぼる。

福岡のディスコまで押し寄せた“新しい波”

「あの時代、ニューウェイブはサウンドがどんどん変化していったじゃないですか。それに応じて俺もロックだけでなくレゲエやダブ、ノイズ、いろいろな音楽をつまんで聴くようになって。そして、ほぼ時を同じくしてDJカルチャーが出てきた。DJはミュージシャンよりもさらに幅広く音楽を掘り下げていますから、やっぱり影響を受けて自分の音楽の聴き方も変わっていきましたよね。だから確かなのは、俺はもともと1つのジャンルにどっぷり入り込む人間ではなくて、まあ尻が軽いというか(笑)。一方で、音楽を好きだという気持ちは人一倍強かった。80年代前半、東京に出る前は福岡にいて。天神にあったディスコで働いていた時期もあるんですが、そのお店自体は、毎晩マイケル・ジャクソンの『Billie Jean』がかかるようなところで。そこにもニューウェイブが好きな人も来るには来ていたものの、それほど音楽に深く入り込んでいるような感じではなかったんですよね。どちらかと言えばファッション寄りというか、The Specialsで踊っているけど、着ている服はコム・デ・ギャルソンみたいな。だから、『自分がいるべき場所はここじゃないのかな』と思いながら働いていましたね。

そういえば、その店で“Wild Style事件”という出来事がありました。ある日、店のDJとマネージャーが映画『Wild Style』の試写会に行って、感化されて全員アディダスのジャージ上下で出勤して来たんです。そうしたら、店長が『なんだその体操服は!』って黒服に着替えないマネージャーに怒っちゃって。しまいにはそのことがきっかけでマネージャーは辞めてしまった。俺は『みんなをこんなに熱くさせる<Wild Style>って一体何なんだ!?』みたいな感じで、そこからヒップホップにも強く興味を持ったんです。世界的に音楽が変わっていく時代だったんでしょうね。ヒップホップも黒人音楽の流れで言えば、ある意味、ロックに対するパンクみたいなものだったと思うし、その波が福岡のディスコにまで押し寄せていたという」

藤井悟のDJから受けた衝撃

そして“その波”は社会の動きとも合わさりながら、夜の街を変えていく。84年には通称・風営法が大幅改正。ディスコの深夜営業が禁じられたが、一方で法の目をかいくぐるようにあちらこちらに現れたのが初期のクラブだった。

「80年代半ばになってくると、福岡にもその後で言うクラブみたいな店ができ始めました。そういうところを作ったのは、1回東京に出て、戻ってきた人たちなんですよね。当時の自分はディスコで働いたあとにお客さんたちと一緒にクラブへ行って朝4時ぐらいまで遊んで帰るみたいな生活をしていたんですが、そこでは店の人がわりと突っ込んだ選曲をしていて、『おお、こんな曲もかけるのか!』みたいなことが何度もあった。それで、自分の中でも『こういう感じの店で働きたい』という気持ちが強くなっていきました」

当時、福岡からクラブカルチャーの発展期にあった東京に遊びに行った山下が衝撃を受けたのが、西麻布のクラブP.Picassoで体験した藤井悟のDJだという。ライター / DJの荏開津広は「LIFE AT SLITS」において、P.Picassoでの藤井のDJを以下のように振り返っている。「あの頃はみんなそれぞれ好きな音楽があるんだけど、ジャンルで言っちゃえばやっぱり二、三種類じゃない? スカとブガルーとか、ヒップホップとエレクトロ、レゲエ全般とか。だけど悟くんのプレイを聞くと平気で歌謡曲とかいろんなのが入ってきちゃうから、『これは混ぜた方がかっこいいかも』ってなるよね」。また、やはりP.PicassoでDJを務めていた松岡徹のDJについては「リン・コリンズぐらいから始めて、きれいにビート・ミキシングでレア・グルーヴから『パンプ・アップ・ザ・ヴォリューム』まで繋げて、最後にスカに持っていったのは鮮明に覚えてる。実際、すごい盛り上がったし。衝撃としては、最初に2メニー・DJズのCDを聴いたときぐらいの衝撃ですよ(笑)」と語っているように、彼らのDJはまさに“オール・イン・ザ・ミックス”だったようだ。

「『LONDON NITE』の噂は福岡のディスコ時代から聞いていて、大貫(憲章)さんはとにかくディスコっぽくないさまざまな曲をかけるというので、いろいろなジャンルをつまんで聴く自分にはぴったりだなと思っていた。ただ、俺が上京した頃には会場のツバキハウスが閉店してしまって、結局、元祖の『LONDON NITE』には1回も行けなかったんです。それで時期的にちょうど体験したのが、P.Picassoでやっていた悟くんのDJだった。当時の彼のスタイルがオリジナルなのか、大貫さんからの影響なのかはわからなかったんですけど、とにかく悟くんがかける曲がことごとく自分が好きな曲だったんです。

その後、上京してすぐに福岡の知り合いから『クラブをオープンするので店長をやってほしい』という誘いがありました。でも俺はディスコでしか働いたことがなかったので、東京で半年ぐらい修業してから福岡に帰ろうと思って。そしてP.Picassoと同じく村田大造さんが勤務していた会社が内装など手がけて、悟くんもDJをしていた下北ナイトクラブに雇ってもらったんですが、途中で福岡のクラブの話が立ち消えになってしまった。そして下北ナイトクラブは店名がZOOに変わって、もともと企画やブッキングをやっていた荏開津くんに、『青山にできたばかりのMIXでDJに専念したいから、山下さん、諸々引き継いでくれませんか』と言われたもんで、やるしかないかなという感じでスタートしたんですね」

いろいろな音楽を同時に楽しんで何が悪いんだ?

88年、山下はZOOの店長に就任する。荏開津が付けた店名には多様性への思いが込められていたが、同店で山下が始めたブッキングもまたジャンルの動物園の様相を呈していった。「LIFE AT SLITS」で章立てられているレギュラーイベントだけを書き出したとしても、初期はゴシックな雰囲気だったという「クラブ・サイキックス」、東京パノラママンボボーイズを産んだ「パノラマ・キャバレー・ナイト」、Jackie & The CedricsやThe 5.6.7.8'sもライブを行った「ガレージ・ロッキン・クレイズ」、瀧見憲司がメインDJを務めた「ラヴ・パレード」、イベント内のセッションがTOKYO No.1 SOUL SETへと発展した「スーパー・ニンジャ・フリーク」、日本におけるニュールーツ(レゲエ)の第一人者であるマイティ・マサの「ズート」、店の最初期から出演し、のちにラスティックストンプと呼ばれるカテゴリーを生み出す東京スカンクス主催の「クラブ・ヒルビリーズ」、DJ EMMAがレギュラーDJを務めた「DU27716」、日本のラップミュージック史においても重要な「スラム・ダンク・ディスコ」、ラヴ・タンバリンズが出演した「ブルー・カフェ」、スチャダラパーを擁するLBネイションの「LBまつり」……と実に壮観である。

「最初から1つのジャンルに特化したハコにするつもりはまったくなかったんです。自分がいいと思って聴いているいろいろな音楽を店のスケジュールにちりばめたかった。そうするとそれぞれのイベントにお客さんが来るじゃないですか。それで今度は店を媒介としてジャンルに関係なくイベントに足を運んでもらって、いろいろな音楽をみんなで共有できるようになればいいなと思っていた。そもそも、違うジャンルの音楽でもさかのぼっていけばどこかでリンクするはずだという気持ちがあったので。

自分の中には『いろいろな音楽を同時に楽しんで何が悪いんだ?』みたいな思いもありました。というのも、俺が若い頃ってそういう音楽の聴き方がよくないことだとされていたので。『俺はパンクだ!』とか『俺はヒップホップだ!』とか、1つのジャンルを追及している人がカッコいいという風潮があったんですよ。『どんな音楽が好きなの?』と聞かれて、いろいろなジャンルを挙げると『ありえない!』みたいな。でも今はジャンルを問わず音楽を聴くことって別に普通じゃないですか。当時の自分はそういう反発心を持っていたので、ZOOのお客さんにも音楽を分け隔てなく楽しんでほしいなと思っていた。実際、店をやっていると『あの人、あのイベントにもあのイベントにもいたな』っていうことがあって。例えば元DRY&HEAVYのマイちゃん(Likkle Mai)なんかは毎日のように遊びに来てくれていた」

各ジャンルの中のオールジャンル

「LIFE AT SLITS」が示唆に富んでいるのは、各イベント関係者がジャンルにこだわる一方で、それ自体がさまざまなジャンルの集合体であると証言していることだ。例えば、「パノラマ・キャバレー・ナイト」は「『パノラマ』っていうのはね、テレビのチャンネルをガチャガチャひねってる感じだね。(略)ラテンだけじゃなくて東京に入ってきたリズムは全部やってやろうと思ってたんだ。(略)ドドンパからマンボまでひっくるめて、ロックンロールもロカビリーも全部やっちゃおうよ、って」(ハスキー中川)、「ガレージ・ロッキン・クレイズ」は「なんせお手本はそんなになかった。しいて言えば、映画『アニマルハウス』のジョン・べルーシのいる大学のクラブのパーティね。いわゆるフラット・ロック。客はパンクでもモッズでもロッカーズでもいいわけ。もともと六〇年代アメリカン・ローカル・ガレージそのものが適当な交じり物でしょ?」(ジミー益子)、「ズート」は「スカからルーツ・レゲエ、ダンスホールまで、ジャマイカの音楽の歴史をそのまま体現してるような構成でした。(略)あとそれだけじゃなくて、ギャズ・ロッキン・ブルースの世界観にも影響を受けてたから、たまにジェイムス・ブラウンやリトル・リチャードがかかったりもしてて」(Likkle Mai)というように。

「各ジャンルの中のオールジャンルみたいなことを提示したかったんです。そうすると1つのジャンルをテーマにしていてもかかる音楽の幅が広がるじゃないですか。その広がりの中に、お客さんが引っかかる何かが出てくるはずだから。『ジャンルを幅広く解釈して選曲してください』というのは、どのDJにも伝えていましたね」

クラブの楽しさを知るきっかけの場所に

ところでZOO / SLITSと渋谷系の接点と言えば、前述した瀧見憲司がメインDJを務めたレギュラーイベント「ラヴ・パレード」が筆頭に挙げられるだろう。常連だったというフリッパーズ・ギターの小山田圭吾と小沢健二が番外編としてイベント「アノラック・イズ・ノット・デッド」を開催。本編ではカヒミ・カリィもDJを行い、91年には瀧見がCrue-L Recordsを立ち上げて、彼女や、やはりZOOを拠点としていたラヴ・タンバリンズをデビューさせる。

「『ラヴ・パレード』には『こんなに来ていいのか』というくらいお客さんが来ていた時期もありましたね。あんな狭い店に毎回300人とか。ただ、それは純粋な『ラヴ・パレード』のお客さんというより、初期から遊びに来ていたフリッパーズ・ギターの2人とかカヒミ・カリィのファンが、彼ら経由でイベントを知って来るというかね。だから、『初めてクラブというところに来てみました』みたいな人たちが大勢いたんですよ。お酒を頼まないでずっとソフトドリンクを飲んでいたり(笑)。そういうのって西麻布なんかではありえなかったんですけど、自分としてはクラブの楽しさを知るきっかけの場所になればいいなと思っていた。大きな音で音楽を楽しめるのはライブハウスだけじゃないんだよって。ただ先ほども言ったように、フリッパーズ人気に呼応していたので。瀧見くんはかけるものがどんどん変わっていく人でしたから、ネオアコ好きの人たちはマッドチェスターはよくても、ブラックミュージックをかけるようになると来なくなってしまったり、なかなか難しいところもありました」

また、いわゆる渋谷系に位置付けられるのかどうかは議論があるだろうが、それと同時代的なバンドとして山下が真っ先に名前を出したのが、やはり前述したイベント「スーパー・ニンジャ・フリーク」のセッションから形成されていったTOKYO No.1 SOUL SETだ。“ソウルセット”は、ジャマイカのサウンドシステム(1940年代に生まれた移動式の野外ダンスパーティ)においてレゲエ以外にもいろいろな音楽がかかる日を意味する言葉から取ったという。川辺ヒロシの膨大なレコードコレクションから作られたコラージュのようなビートに、ビッケのラップともポエトリーリーディングともつかないボーカル、渡辺俊美のコーラスとギターが乗る彼らの音楽は、まさに東京でしかあり得ない“ソウルセット”だった。

「ZOOから始まって大きくなっていく過程を間近で見ていたという意味では、やはりTOKYO No.1 SOUL SETには思い入れがあります。メンバー全員、もともとお客さんとして店に遊びに来ていた人たちだったので。川辺はフラッシュ・ディスク・ランチ(下北沢の中古レコード店)で働いていて、最初、荏開津くんが『レコードいっぱい持ってるんでしょ? 今度、ゴングショー(DJコンテスト)があるから出ない?』って声をかけたんじゃないかな。一方で(渡辺)俊美くんはいつも派手な格好して友達をいっぱい連れて、ZOOのフロアでめちゃくちゃ盛り上がっていたんですよ(笑)。『いったい何者なんだ?』みたいな。で、2人をくっつけたら面白いんじゃないかと思って川辺と俊美くんを引き合わせた。ソウルセットはやがてレコードを作り、全国ツアーまでやるようになって。自分にとって盛り上がりを一番リアルに感じられた人たちでしたね」

当時はロンドンの人たちを意識していた

しかし山下にとっては下北沢から急行で1つ先の渋谷よりも、遥かに離れたロンドンの方が刺激を受ける街だった。

「今となってはカッコ悪い言い方に聞こえるかもしれないんですけど、当時はロンドンの人たちを意識しつつ、『日本でも同じようなことができるんじゃないか』と思ってやっていたんです。ZOOの小さなフロアにいるまばらなお客さんを眺めながら、『パンクの誕生に立ち会った30人もこんな感じだったはず』とか考えたり。ロンドンってすごく大きな都市っていうイメージがありますけど、実際の人口は東京より少ないんですよね。

ソウルセットも当初にあった構想は日本版SOUL II SOULみたいなことがやりたいというものでした。SOUL II SOULの音楽性ってまさにロンドンの街から生まれてきたという感じだったし、バンドというよりは“ポッセ”というか、洋服のブランドを展開していたり、メディアミックスみたいな感じで面白いことをやっていた。ソウルセットのメンバーもアパレル経営者だったり、ばらばらの人たちがポッセとして集まっている雰囲気があったので。まあ、自分が思っていた方向には行かなかったですけど、もちろんそれでよかった。

同じくロンドンから出てきたThe Brand New Heaviesっていたじゃないですか。彼らが90年代初頭に出した7inchシングルが、当時全然手に入らなくて。知り合いにその話をしたら『あのシングルはプレスした1000枚中、300枚を彼らが友達に配ってしまって、残りのうち300枚が日本に入ってきたから、実質半分近くが日本で売れたんだよ』って教えてくれた。海外で新しい音楽が生まれたらいち早く飛びついて、それを理解しようとする人たちがたくさんいる日本って特殊な国なのかなあと思いますね。パンク、ニューウェイブの時代からそうだったみたいで」

ロンドンにおけるジャンルがミックスされる感覚の背景に移民社会があるとしたら、東京のそれは消費社会だろう。80年代後半に注目を集めた、ジャンルを問わずグルーヴを持つレコードを探し求めるレアグルーヴというロンドン発のムーブメントも、日本ではまず藤原ヒロシのようなトレンドセッターによって紹介された。そして徐々に土着化し、90年代で言えばフリーソウルはその日本独自の発展形だ。渋谷系も日本のミュージシャンたちがバンドのフォーマットでもってレアグルーヴからの影響を消化したと言える。ZOO / SLITSはそういったDJカルチャーとバンドカルチャーの相互的影響関係を生む現場だった。

音楽オタクの溜まり場みたいな感じだった

「音楽やカルチャーをマニアックに掘り下げるという意味で、渋谷系にはオタクカルチャーとの共通性みたいなものもあったんじゃないですかね。ZOO / SLITSにしてもちょうど“オタク”という言葉が一般化し始めた時期にたまたま存在していて、自分はオタクではないと思うんですけど、いろいろつまんで音楽を聴くようなタイプで、たまたまそういう人間が店長だったということなんじゃないでしょうか。そして同じタイプの人が店の雰囲気を嗅ぎつけて集まってきていたんだと思うんですよね。ただ、ダメな人は絶対にダメなんですよ、あの店は。いわゆる遊び人が集まるような店ではなくて、音楽オタクの溜まり場みたいな感じだったと思うし。そもそも下北沢は遊び人が来るような街じゃなかった。

Double Famousがやっていたイベント『ブリリアント・カラーズ』には、レコードも演奏も好きな人たちが作っている空間というか、DJのかける音がバンドの音に吸い上げられていくような雰囲気がありました。自分が10代の頃にバンドの人に対して持っていたイメージって、家にあまりレコードがなさそうな感じ(笑)。もちろん、自分が出したい理想の音がはっきりとあって、いろいろなものを聴いていたら邪念が入ってしまうという人もいると思う。でもSLITSを始めた頃から、たくさんレコードを持っている人が音楽を作り出すようになっていった」

山下は「〇〇〇〇(人の名前)のオールジャンル感」というような言い方をするが、そこには彼の哲学が現れているように思う。人間には1人ひとり、独自の“オールジャンル感”がある。だからこそ山下はそれを世に出すべく、ZOO / SLITSでたくさんのDJではない人にDJを依頼していった。

「『ガレージ・ロッキン・クレイズ』で回していた人たちなんかも、あの場がみんな初めてのDJだったんじゃないかな。イベントの発端としては福岡時代の友達が先に上京して、いわゆるネオGSシーンで活動していたんですよ。ミントサウンドから出たオムニバスアルバムにも参加しているピンキーズというバンドのメンバーなんですが。それで東京のガレージシーンのこともなんとなく知っていたので、ガレージロックをかけるイベントをやれないかなと思って、同じくネオGSシーンで活動していたザ・20ヒッツのジミー益子さんや(ワウ・ワウ・ヒッピーズの高桑圭と白根賢一がやっていた初期)GREAT 3を紹介してもらった。片寄(明人)くんが入る前の、全員革ジャンを着てインストを演奏している頃の。『ガレージ・ロッキン・クレイズ』のみんなは、『俺たちがDJをやっていいの?』みたいな感じもありましたね。東京でバンドをやっていた人たちにとっては『LONDON NITE』の存在が大きくて腰が引けたと思うんですよ。ロックをかけるのは大貫さん、っていうイメージだったかもしれないから。でも自分はそのちょっと前まで田舎にいた人間なので、そういう感覚が全然わからなかったんです」

お客さんにも「DJやりましょうよ」と声をかけていた

「今だと『DJなんて誰でもできる』というイメージがあると思うんですが、クラブカルチャー以前──ディスコの時代のDJはハコ側が雇っている職業DJだったんですよね。だからミキサーなんかも店で特注して作っていた。当時は(DJがやりやすい)クロスフェーダーもなかったし。で、Vestaxの初期のディスコミキサーが逆輸入で入ってきたときに自分も買ったら、DJの人にすごまれましたから。『お前はDJになるつもりか!?』って(笑)。そういう時代だったんです。でも自分は誰もがDJをやったほうが面白いと思っていたので、お客さんにも声をかけまくっていました。『DJやりましょうよ』って。声をかける基準は踊っている感じを見ると、なんとなくピンとくるんですよね。レコードをどれくらい持っているかはわからないですけど、音楽が好きなことは踊っている雰囲気で伝わってくるじゃないですか。あとはファッションの気合いの入り方とか。『半端ない恰好をしてるな』っていう人には声をかけて。『は?』とか怪訝そうな顔をされることもありましたよ。それで、『DJ? やりたい!』って言ってくれたらノートに名前と電話番号を書き込んで。働いている場所も。今、そんなことありえないですけどね(笑)。

瀧見くんも、もともとは雑誌『FOOL'S MATE』の編集者で、音楽誌のライターにDJをお願いするという企画のもとに、彼の知人であるEMMAが誘ったことでDJを始めた。冷牟田(竜之 / MORE THE MAN、ex.東京スカパラダイスオーケストラ)くんも、DJはうちの店でやったのが初めてじゃなかったかな。当時、彼はスカパラに入る前でブルートニックっていうバンドをやっていたんですけど、スカが好きだって聞いて『やってみれば?』って。最初、自分もレコードをターンテーブルに乗せるのを手伝いました」

世代を超えた人たちがツルんでる感じがいいなって

ZOO / SLITSにあった“オール・イン・ザ・ミックス”感とは、同店が営業していた90年代前半、現在は確立されたジャンルが言わば地固めをしている時期で、まだまだ未分化だったということでもあるだろう。例えば荏開津広がDJに加えてブッキングも担当していたイベント「ショットガン・グルーヴ」では、TOKYO No.1 SOUL SETに加えて、KRUSH POSSE(DJ KRUSH、DJ GO、MURO)、BEATKICKS(TWIGY、HAZU)という、現在から振り返ると意外な組み合わせのライブが行われたという。また、同イベントから発展した「スラム・ダンク・ディスコ」はオープンマイクが売りで、MICROPHONE PAGERやYOU THE ROCK★、RHYMESTER、ECD、キミドリ、SOUL SCREAMとやはり多様な面々がラップを披露し合う、決戦場兼社交場になっていた。ただし客入りは乏しく、フロアにはほぼラッパーしかいなかったという。

ZOO / SLITSに関して連想する光景は人によってさまざまだ。行列が駅まで続いていたことやフロアで酸欠になりそうなことを思い出す人もいるし、逆にフロアがガラガラだったこと、あるいは親密な雰囲気だったことを思い出す人もいる。ECDの著作「いるべき場所」(2007年、メディア総合研究所刊)における、キミドリや四街道ネイチャーがレギュラーだった「カンフュージョン」の描写は以下のようなものだ。「僕はクボタ(引用者注:キミドリのクボタタケシ)がかけるクック・ニック&チャッキーの『可愛いひとよ』やマコちゃん(引用者注:キミドリのMAKO)がかける浅川マキの曲を新鮮な思いで聞いた。何かといってはショットをあおったり、トンガラシの入ったビールを飲んで酔っ払ったりと非生産的な時間を過ごすのが楽しかった。店が終わってからも下北の南口にあった立ち食いそば屋『富士そば』で注文したそばやうどんを店の外に持ち出して噴水の跡の囲いに座って食べた後、昼近くまで皆でダラダラと過ごしたりした」。やがて日本のラップミュージックは全国的なブームとなり、一方でECDはアルコール依存症を悪化させていく。それは大きな動きが起こる“前夜”でもあったのだ。

「石田(ECD)さんが『LIVE AT SLITS』(1995年)という作品で店の記録を遺してくれたことには本当に感謝しています。石田さんは自分が福岡にいるときから存在を知っていて。その頃はトレンドセッターみたいな感じで、次から次に流行りのラッパーの格好をしたり、俺から見たらスターだった。どちらかというと、MAJOR FORCEの人という印象。でもキミドリが出てきたときに急速にそのへんと仲よくなった感じがうれしかったですね。自分は外から見ていただけですけど、世代を超えた人たちがつながって、いつもツルんでいる感じがすごくいいなあって」

「渋谷系にあえて乗っかってやろう」という気持ち

94年、ZOOはSLITSへとリニューアルする。山下はその名前に敬愛するポストパンクバンドTHE SLITSのようにさまざまな音楽の影響を受け、そこからオリジナルの表現を生み出せたら、という思いを込めた。リニューアル1年後に営業時間帯は夜の早い時間帯に──つまりSLITSはライブハウス寄りのスペースになった。そしてそこには山下の時代に対する意識の変化が関係していた。

「SLITSの頃になると渋谷系というムーブメントをわりと意識するようになっていたんです。毎晩どこかのレコード会社の人が来て、名刺を渡されて、『面白いバンドいませんか?』みたいなことを言われて。ライブが終わったあとにレコード会社の人がアーティストを店外に連れ出して何やら話していたりとかね(笑)。そういう場面をしょっちゅう見ていたんで。“盗られる”ような感覚もあったのかな。それまでよくイベントに出てくれていたバンドがデビューしたら、レコード会社との契約の条件でうちの店には出演できなくなったりとか。『なんだ、普通のライブハウスに出ているようなバンドと変わらないんだな』と思っちゃいましたよね。今考えれば当たり前のことだってわかるんですけど、当時は理解ができなかったです。そういうことが重なると、またゼロから出演者と関係性を作っていかなきゃいけないのかって、ちょっと気が遠くなりました。

でも、渋谷のHMVに行ってバイヤーの太田(浩)さんとしゃべっているうちに、渋谷系と呼ばれるような音楽が売れている今の状況ってかなり稀なんじゃないかとも思えてきて。さっき話したパンクやニューウェイブの、日本での受け入れられ方の規模がさらに大きくなったものっていうか。だったらこの際、そこにあえて乗っかってやろうじゃないかという気持ちが湧いてきた。自分たちの店と関係しているようなアーティストが作る音楽が渋谷系と呼ばれているのなら、いっそ開き直って『そうです!』みたいな感じで打ち出してみたらどうなるんだろう。今までやってきたようなことを、規模を大きくして思いっきりやったらどうなるんだろうって。『LIFE AT SLITS』のあとがきって暗いじゃないですか。確かに閉店間際は暗い気持ちだったんですけど、一方で、そういう未来も思い描いていたんですよ」

山下は営業時間帯の変更だけでは飽き足らなかった。契約更新のタイミングで、バブル期の高額な保証金の返却をあてに移転を決意する。

「当時の店の構造ではやれることに限界があった。それで移転というアイデアが浮かんだんです。新しい店はクラブやライブハウス、レコーディングスタジオ、編集部といったいろいろなスペースを組み合わせたものが作れないだろうかと考えていました。例えば新宿JAMは、ライブハウスでありながら店でレコーディングができたんですよね。代々木チョコレートシティというライブハウスもNUTMEG(ナツメグ)ってレーベルをやっていたり。ソウルセットも最初のレコードはNUTMEGから出したんですけど、それに対する嫉妬もありました(笑)。あとは読み物みたいなものを作りたいという構想も。それは『Barfout!』や『米国音楽』といった雑誌の影響が大きかったですね。インディペンデントな体制で本を作って、普通に全国の書店に流通させるっていう。そういう動きを横目で見て、いいなと思っていたので。

移転にあたってまずは下北中のビルを見て回ったんですけど、想定していたような大きな地下スペースがあるテナントが1つもなくて。そこから『どうせ渋谷系に乗っかっていくのなら、この際、渋谷でやるのはどうだろう』と発想を変えて、周辺の物件をしらみつぶしにしていったものの……結局タイミングが悪くていい物件と出会えなかった。もしあのあと、店を続けていたらどうなったんだろうな、ということはちょっと考えますけど」

日本のサブカルチャーの過去と未来をつなぐ役割

山下はSLITSの移転先を見つけられなかったものの、97年には音楽レーベル・SKYLARKIN RECORDを立ち上げ、クボタタケシや川辺ヒロシ、渡辺俊美のミックステープ、クボタと渡辺の共作音源「TIME」、日暮愛葉とTSUTCHIEのユニット=RAVOLTAの音源などを制作している。クボタのミックステープ「CLASSICS」シリーズのまさに“オール・イン・ザ・ミックス”な内容が象徴的だが、そのディスコグラフィはまるでZOO / SLITSの想像上における移転先のようだった。そしてそういった感覚は「LIFE AT SLITS」の編集を手がけた浜田淳が、2004年から07年にかけて開催したフェスティバル「RAW LIFE」にも受け継がれていたし、現在もあちらこちらに見つけることができるだろう。つまりZOO / SLITSは日本のサブカルチャーの過去と未来をつなぐ機能を果たしたのだ。しかしその役割を担った山下は不思議そうに言う。まるで夢を思い出すように。

「ZOO / SLITSの雰囲気って、やっぱりたまたまできたものだと思うんです。もし自分が普通にもっと若いときに上京していたら『LONDON NITE』にも行ったりしただろうし、その他、東京の文化の影響を丸ごと受けていたはず。でも25、26歳ぐらいまで福岡にいて、『こんなことができたら面白いんじゃないか』ってある程度のビジョンを構築してから東京に来て。そして1年後とかに『自由にやっていいから』って店を任されるようになったわけですから。そんなパターンはあまりないと思うんですよ。上京したての素人がいきなりブッキングを任されるっていう、今思えば本当に夢のような(笑)。しかもお客さんはほとんどが東京の人で、俺だけが田舎者なんです。その状況も変だと思うし、さっきも言ったように当時の自分は東京の常識みたいなものを知らなかったから、手当たり次第に『DJやりませんか?』って誘えたんだろうし。それでいろいろな人たちがうちの店でDJを始めて。ちょうど日本でDJカルチャーがもう1段階大きくなる時期で、DJをやってみたい人にとっても按配のいいハコだったんじゃないかな。そして場所も六本木とか西麻布ではない、普段から若い子がブラブラしてるような街にあったし。そういうふうに、偶然さまざまな要素が重なって面白い雰囲気が作り上げられていったと思うんですよね」

あるいは、偶然の積み重ねこそが歴史と呼ばれるのだろう。ZOO / SLITSの小さなスペースはその中で大きな存在感を放っている。