映画と働く 第5回 撮影監督:山田康介「作品至上主義、作品がよくなるのならなんでもいい」
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山田康介
1本の映画が作られ、観客のもとに届けられる過程には、監督やキャストだけでなくさまざまな業種のプロフェッショナルが関わっている。連載コラム「映画と働く」では、映画業界で働く人に話を聞き、その仕事に懸ける思いやこだわりを紐解いていく。
第5回となる今回は「神様のカルテ」シリーズや「僕等がいた」前後編、「シン・ゴジラ」に参加した撮影監督・山田康介の取材を実施した。「セブン」に衝撃を受けて業界を目指し、さまざまな出会いを経てキャリアを積んでいった山田。雪山での木村大作との逸話や、高倉健から教えてもらったという“心得”を明かしたほか、山田の相棒的機材・ステディカムを扱い始めた経緯も語ってくれた。
取材・文 / 田尻和花 題字イラスト / 徳永明子
「なんでできないんだ」と悔し泣きした日々
──まず、カメラマンを志したきっかけを教えていただけますか?
祖父の趣味だったスチルカメラを借りて撮ったり、Hi8 (ハイエイト)という家庭用ビデオカメラで弟を主役にドラマを撮ったりしたのが原点ですね。ほかにも富士山からの景色を祖父に見せようとカメラを持って登山したり。自発的に映像的なことをやろうと思ったのは中学生ぐらいが最初です。
──映画はもともとお好きだったんですか?
家の目の前がレンタルビデオ屋さんだったんです。両親が共働きだったので、夏休みは「子供たちだけで暇つぶしにビデオでも借りなさい」って言われていて。小学校1年生くらいからジャッキー・チェンが大好きで、出演作を観るようになりました。毎回ジャッキー・チェンの映画を借りに行ってずっと観ていましたね。もともとアクション映画や香港映画が好きで、「男たちの挽歌」に中学生のときすごくはまったんですよ。男くさい感じがすごくかっこよかったですね。
──銃撃戦もすごいですよね。
そう、どんだけ弾が出るんだよっていう(笑)。それで高校生になるとわりと劇場に観に行くようになって、大きいスクリーンで観る醍醐味を味わいました。劇場で高校3年生のときに観た「セブン」に衝撃を受けたんです。撮影監督が意図して作った世界観というものを感じて、撮影を志したいと思うようになりました。
──高校卒業後には日本映画学校(※現・日本映画大学)に入られましたね。
進路を迷っていて、でも漠然と映画の仕事をしたいなと思っていました。日本大学芸術学部の映画学科や大阪芸術大学のようなところに行くのかなと考えていたときに、(福岡県の)久留米の映画館に日本映画学校のパンフレットがあるのを見つけて。今村昌平さんが創始者だというのもあって、気になったんです。青春18きっぷで福岡から東京まで丸2日かけて鈍行で上京してガイダンスを受けて、この学校だったら実習も多いし勉強するにはいいんじゃないかなと思いました。日芸も行ったんですけど門が閉じられていて、中を見たかったんですが入れませんでした(笑)。
──日本映画学校に入っていかがでしたか。
とにかく友達とものを作るのが楽しかったですね。履歴書の「組んでみたい映画人」のところに李相日と書きましたが、日本映画学校に入って最初に友達になったのが李さんだったんですよ。たまたま同じゼミになって仲良くなって、バイト先も紹介してもらって同じところで働いて。当時DCR-VX1000という高価なハンディカムを李さんが買って、ガンダムのプラモデルでコマ撮りして遊んだりしていましたね。そのつながりで「青~chong~」にも参加しました。学校の実習ではみんなでめちゃくちゃ失敗もしましたけど、映画作りって楽しいんだという部分がそこで培われました。
──卒業後は東宝映画に入社されていますが、どのような経緯だったんでしょうか。
埼玉のいとこが通っていたサッカー教室の友人のお父さんが、東宝の電気室にいらっしゃったので「映画志してるんなら何か紹介してあげるよ」と言われて、東宝の撮影所に見学に行ったんです。当時の技術課長さんに撮影所を案内してもらって、そのときはそれで終わったんですが、1年後くらいに「モスラ2 海底の大決戦」の製作が入って、「人足が足りないから手伝いに来ないか」と誘いを受けました。ちょうど夏休みだったので現場に行って。それが東宝の仕事に足を踏み入れた最初の瞬間でした。
──それが終わってからはどうでしたか。
次は「催眠」という映画が製作に入るので、ここでも見習いが欲しいと呼ばれました。「モスラ2 海底の大決戦」は途中からの1カ月しか参加しなかったんですが、「催眠」は最初から最後まで付いてみないかと。卒業間際に現場アシスタントとして3カ月くらい入って、機材を運んだりハレーション(光暈)を切る作業をしました。毎日本当に怒られて、こんなに怒られるか?ってくらい本当に怒られたんですよ(笑)。それに全然寝る時間もなくて。
──忙しいときは2~3時間くらいでしょうか?
本当にそうですね。撮影が終わるのが夜中の25~26時くらいでそこから家に帰って、1~2時間寝たらすぐ起きて現場へ行って……。一番下っ端なので機材室にも一番早く行かなきゃいけないですからね。眠くて頭はぼーっとしてるけど求められることは高度なので全然付いて行けなくて、毎日毎日怒られて悔しかったですね。「なんでできないんだ」と思って、「トイレ行ってきます」と言ってトイレで泣いてから戻ったことも覚えています。
──大きな経験でしたね。
「催眠」はスケジュール的にも体力的にも精神的にもきつかったですね。「催眠」の最中に卒業したんですが、現場が終わったときに技術課長さんから「お前今後どうする?」と言われました。「契約社員で入る?」と誘っていただいたんですが、けっこうきつかったので「仕事覚えるのも遅いので向いてないと思います」って言ったんですよ。そうしたら「そんなの続けてみないとわからないじゃん」と返されて、「確かに」と(笑)。それでそこからずっと東宝で撮影部助手を続けました。
──過酷な現場を乗り越えたからこそ、お声が掛かったんですね。当時はまだ会社お抱えのカメラマンさんはいたんでしょうか?
もう1人もいなかったですね。もともと東宝には撮影技師(カメラマン)はたくさんいたんですが、社員技師を抱えず助手だけという方針に変わったんです。僕が入ったときは技師は誰もいなくて、助手の先輩が2人いらっしゃったのでその方々にいろいろ教えていただきました。
立山連峰の雪の中を行ったり来たり
──山田さんは木村大作さんの助手をやってらっしゃいましたが、木村さんに付くまでのいきさつを教えていただけますか。撮影部はサード(※フィルム装填や機材周りの整理を行う)、セカンド(※フォーカス送り、現場の仕切りを行う)、チーフ(※露出の計測を行う)、そしてカメラマンとステップアップしていくシステムですよね。
僕はセカンドになって仕事がなんとなくできるようになったというあたりで、木村さんが撮影監督を務める「赤い月」に付く話をいただいて初めてご一緒しました。27歳くらいでしょうか。
──巨匠とのお仕事ということで、忘れられないエピソードも多そうです。
そうですね、いっぱいありすぎて……(笑)。でも特に「劔岳 点の記」は忘れられない現場でした。木村さんはすごく上の方ですし、「赤い月」のときは名前も呼んでもらえないくらいだったのですが、「劔岳 点の記」では最初の段階から参加させていただいて、スタッフ全員仲間という感じで進んでいきまして。資金を集めるためにプロモーション用映像を木村さん、助監督、プロデューサー、撮影助手の先輩、僕で撮ることになりました。「せっかくやるんだから吹替の画を撮ろう」ということで、ゆくゆく劇中で使うであろう衣装や小道具を一式全部借りて、着物の着付けも覚えて、それを持って立山連峰に行ったんです。1カ月くらい山の中でした。
──現場ではどんな役割をされたんですか?
主演の浅野忠信さんと僕の背の高さが同じくらいだったので、役衣装を着て吹替をしました。木村さんに「お前ちょっとあそこに行って来い」と言われるのですが、まっすぐ行けば近いように見えても実はすごい急こう配になっていてもう大変なんです。雪に足跡も付けたくないので回り込んで、豆粒ぐらいのサイズになるまで遠くへ行って。そこから「よーいスタート! 歩け!」と声を掛けられて何度も歩いたのですが、登山靴を履くと画でバレるので、足袋でやりました。雪でビチャビチャに濡れて本当に凍傷になるんじゃないかと思いましたが、意外と大丈夫でしたね(笑)。
──濃密な時間を過ごされたんですね。山田さんがチームに呼ばれたきっかけはあったんでしょうか。
「赤い月」「憑神(つきがみ)」で木村さんとご一緒して、そのあと参加した「単騎、千里を走る。」でものすごい失敗をしてしまったんです。でもその後も呼んでいただいて。あの失敗をきちんとした仕事でお返ししたいという思いがあったので、「劔岳 点の記」をやると聞いたときは「ぜひやらせてください」と手を挙げました。
助手も一流じゃないと駄目なんだ
──「単騎、千里を走る。」ではどんな失敗が……?
高倉健さんがクランクアップされてセットをバラしたあとに、僕のフォーカスが駄目だったということが判明したんです。「高倉さんをもう1回呼びましょう」となったときは本当に死にたいと思いました。ピントがぼけててもその素材を使うこともあることにはあるんですが、木村さんは許さない。それで僕としては救われたところもあります……。高倉健さんが入られるのを、死ぬ思いでセットの外でずっと待っていました。高倉健さんがいらっしゃって「しょうがないけど、また何度も失敗するのはよくない。大ちゃんにも『怒れ』って言われたからなあ……」と言って、後ろを向いて「ふざけんじゃねーよお前!」とセットの壁をバンと叩いて入っていったんです。
──場を収めるために怒ったふりをしてくれたんですね。
はい。僕は胸が苦しくなりながらそのあとに入って行って、中にいた人たちも「相当怒られたんだろうな」って感じですごく緊張していて。そのあと高倉健さんは「木村大作は日本を代表する撮影監督だから、助手も一流じゃないと駄目なんだ」とおっしゃって、僕にとってそれがすごく大きかったです。作品に対する責任はカメラマンだけじゃなく助手にとってもすごく重いもので、作品を左右することも大いにある。あの一件でいろんなことを学びましたし、本当に転機になったなと思います。
──いいお話ですね……。そうした経験を経て、山田さんが仕事をするうえで決めていることがあれば教えてください。
作品至上主義というか、作品がよくなるのならなんでもいいと思っています。よくなるんだったらこれは入れたほうがいい、よくならないんだったらやめたほうがいいというふうに常に考えるようにしています。
──監督とは方向性のすり合わせをされると思いますが、どういうふうに話し合われるのでしょうか。
僕らの共通言語は映画です。例えば「シン・ゴジラ」のときだったら、「実相寺昭雄監督の『ウルトラマン』のような感じで撮ってほしい」とか、「前半の会議室は『日本のいちばん長い日』の会議室っぽくしてほしい」とか。イメージを共有しやすいんですよね。
──自分の色が一番出せたと思う作品はありますか?
「連続ドラマW そして、生きる」「劇場版 そして、生きる」ですね。なるべくカットを割らず、観客の視線を誘導しながら物語を進めていく手法を取りました。観客を違和感なく物語の中に引き込むことがこの作品ではできたかなと思っています。 “生っぽく”というか、その場で起きることを瞬間的に閉じ込めるつもりで撮っていこうと月川翔監督と決めていたんです。
──なるほど。また、三木孝浩さんとは何度もタッグを組んでいらっしゃいますね。
そうですね、ここ何本かはスケジュールがなかなか合わなくて実現していないんですが。最初は「僕等がいた」でご一緒したんです。年齢が近いということもあって、今まで聴いてきた音楽も似ているし、どういうものが欲しいかをよくわかり合える間柄。作品に入る前に音楽のプレイリストを作って、「この作品はこういう雰囲気でやりたい」と最初に渡されるんですよ。俳優さんにも共有されるので、あまり見たことがない演出だなと思います。
──ほかの監督との仕事で印象に残ったエピソードはありますか?
劇団ひとりさんが監督を務めた「青天の霹靂」では、序盤に主人公が「過去にタイムスリップしたんだ」と気付くシーンがあるんです。そのシーンをワンカットにしたいと。主人公を全速力で走らせたいという要望もあったので、ステディカムでぐるっと回り込んで、主演の大泉(洋)さんを映しながら画を引っ張っていって、そのままクレーンに乗ってから広い画角にして……という撮影になりました。何回もリハーサルをして、これはものすごい大変でしたね。
駅のホームから始まったステディカム撮影
──山田さんの撮影はステディカムを使用することが多いそうですね。
「僕等がいた」を撮ったときが最初なんです。駅のホームを人物が走るシーンがあったんですが、JRからは「カメラ用のレールをホームに敷いてはいけない」と言われていました。ホームの幅がものすごく狭かったので、ステディカムを使って自分でやってみようと思ったのが始まりですね。通常であればステディカムをレンタル会社で借りる際にオペレーターも一緒にお願いするんですが、ステディカム撮影の海外研修を受けた東宝の先輩に教えていただいていた経緯もあって、そこから自分でもちょっとずつやっていくようになりました。
──ステディカムを操れるカメラマンはたくさんはいないんでしょうか?
みんながみんなできる、というわけではないかもしれないですね。僕も一度ちゃんと学ぼうと思い、ステディカムの販売代理店Tiffenのワークショップがアメリカで年2回くらいあるのでそれを1回受けました。帰ってきてから機材を買ったんです。
──お持ちの機材は自前なんですか!? ちなみにおいくらほどするんでしょうか……。
めちゃくちゃ高いですよ……。細かい機材も含めると1000万円くらいいきますね。
──高級外車が買えるくらいですね……。ではステディカム以外で、相棒のような道具があればご紹介ください。
まずはアングルファインダー。リングでミリ数を合わせて覗くと、そのレンズの画角がわかる単眼鏡です。レンズ選びに使うほかにも、撮影用のレールを敷いたあとに「もうちょっと寄りたかった」と敷き直すことにならないよう、これでアングルを確認しています。これは(第40回)日本アカデミー賞で最優秀撮影賞を獲ったときに、お祝いでいただいたものです。現場で一番使うのはiPad Proですね。台本も全部ここに入れているので、連ドラでも10冊持ち歩く必要がなくなりました。あとはクラウドに入れてもらったラッシュ(※編集前の映像素材)も毎日確認することができるので。現場ではこれだけ持ち歩いてます。
──今日は、カメラマンを目指している人にお薦めしたい1冊も持ってきていただきました。
「マスターズ・オブ・ライト アメリカン・シネマの撮影監督たち」ですね。学生の頃から持っているもので、バイブルです。撮影部でこの本を持っていない人はいないんじゃないかな。学生時代と今読むのでは受け取り方が全然違います。本で撮影監督が話していることが今になってよくわかるというのが多々ありますね。今もたまに開いて読んでいます。
──尊敬する映画人には、撮影監督のロジャー・ディーキンスを挙げていただいていますね。
昔から好きなんです。彼が撮影監督をよく務めているコーエン兄弟の映画も好きで、作品ごとに自分の色がありますよね。一番いいルックになるよう変換していくことができる人だなと思うんです。「1917 命をかけた伝令」は長回しで撮られていますが、僕は普段ステディカムで撮っているので、あれがどれだけすごいことかというのもすごくわかるんですよ。複雑で長いワークですし、エキストラもいっぱいいますしね。例えば、フランス人の女性が赤ちゃんと一緒に隠れて暮らしている部屋に主人公が入ってくるシーン。彼が女性と会話している間にカメラが背中側から主人公の顔に回り込むんですが、キーライトになっている暖炉の火の前を横断しているのに影が出ないんです。どうやっているのかわかんないんですよ(笑)。照明弾のライティングもすごく計算されていて、1個1個のことがすごいです。
それってフェアじゃない
──今回のコロナ禍で映画業界も大きな打撃を受けました。文化支援要請の声も上がりましたが、これから日本で映画を撮っていくうえで、もっとこうなってほしいという点はありますか?
もし国にお願いしたいことがあるとすれば、もっとロケがしやすい状況にしてほしいということですね。この場所でロケをしたいと思っても、許可が下りないことがめちゃくちゃいっぱいあるんです。韓国で高速道路での撮影をしたいとなったら、国が支援して高速道路の交通止めをしてくれるんですね。でも日本では高速道路で撮影するなんてまず許可が下りない。もちろん迷惑をかけてしまうこともわかってるんですけど、そうやって最初からこれはできませんよとなってくると……。本当はこの場所がよかったけど、違うどこかでという工夫って、結局代案でしかないのでやっぱりイコールにはならないんですよね。もう少し理解が欲しいなというのはあります。行政がいいと言っても、警察には駄目だと言われたりもしますから。
──あちこちに許可申請が必要なんですね。
そうなんですよ。許可をもらうにしても、申請先がいくつもあったりするので、その連携がうまく取れてロケをしやすい状況になればいいなと思います。東京都内は本当に厳しいので。
──ここで撮りたいという場所はありますか?
渋谷ですかね。撮影監督で参加した「サイレント・トーキョー」では相当な予算をかけて(栃木県の)足利にスクランブル交差点のセットが作られたんです。でも、もし渋谷でできたらいろいろともう少し楽だったとは思います。渋谷ではまったく撮れないので、予算がある作品だったらこういう形でできますが、予算がない作品だとできないってなってきちゃいますよね。それってフェアじゃないというか、もう少しいろんな作品に可能性ができればいいのになとは思っています。
──では最後に若い方へメッセージがあればいただけますか?
スマホでも映像が簡単に撮れるようになりましたし、昔よりは撮影のハードルは下がりましたよね。手軽に撮れるとはいえ、フィルム時代のRGBしか動かせないような時代のノウハウから学べば、今のツールがより使えるようになりますし、もっと楽しくなると思いますよ。
山田康介(ヤマダコウスケ)
1976年5月21日生まれ、福岡県出身。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後、東宝映画に入社。「単騎、千里を走る。」「劔岳 点の記」などの撮影助手を経て、「神様のカルテ」で撮影監督デビューを果たす。「シン・ゴジラ」で第40回日本アカデミー賞の最優秀撮影賞を受賞した。そのほかの参加作品に「僕等がいた」前後編、「羊と鋼の森」「フォルトゥナの瞳」などがあり、2020年12月4日に「サイレント・トーキョー」が封切られる。現在はフリーとして活動中。