松浦亜弥は、なぜ国民的アイドルに? ネガティブな世の中で生まれた“救世主・あやや”の存在
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劔樹人の自伝的コミックエッセイを、今泉力哉監督、冨永昌敬脚本、松坂桃李主演で映画化した『あの頃。』が2021年2月19日より全国公開される。同作は、ハロー!プロジェクト(以下、ハロプロ)の所属アイドルたちを追いかけたオタクたちの青春物語。映画化決定のニュースが発表されて以降、映画ファン、アイドルファンの両方の期待が膨らみ、早くから注目を集めている。
特に松浦亜弥役をBEYOOOOONDSの山﨑夢羽がつとめることが発表された際には、Twitterであややの名前がトレンド入り。あややの名曲「♡桃色片想い♡」のミュージックビデオを観て松坂桃李扮する劔樹人が涙を流す予告編の一場面も話題となった。 映画公開が近づくにつれて高まる、松浦亜弥への再評価。そこで今回は、「松浦亜弥は、なぜ国民的スターに?」をテーマに、松浦の魅力についてあらためて考察していきたい。
松浦亜弥の存在はサーチライトだった
松浦亜弥は1986年生まれ。2000年に「第4回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」で合格を果たし、同年10月にテレビドラマ『美・少女日記』でデビュー。翌年1月に「Hello!Project2001 すごいぞ!21世紀」で歌手としてお披露目され、4月に「ドッキドキ!LOVEメール」でメジャーデビュー。年末の『第52回NHK紅白歌合戦』(NHK総合)には、「LOVE涙色」をひっさげて初出場した。アイドル歌手として「100回のKISS」(2001年)、「♡桃色片想い♡」(2002年)、「Yeah!めっちゃホリディ」(2002年)などヒット作を連発。また女優業でも活躍をみせ、蜷川幸雄監督、二宮和也共演の映画『青の炎』(2003年)では第18回高崎映画祭最優秀新人女優賞を受賞している。愛称は「あやや」。
劔樹人は、あややに元気づけられたひとりである。予告編にあったMVに目頭が熱くなる場面は、実際に原作で描かれたもの。劔は当時、大学院受験に失敗し、先の見えないバンド活動に気持ちが落ち込み、古いアパートの部屋で電気を消して過ごす毎日を送っていた。早川義夫の「サルビアの花」(1969年)を聴きながらうずくまっている彼の姿を見かねて、大学時代の同級生・Sくんは、「これを見て元気出せ」とメッセージを添え、アイドルたちのプロモーションビデオのデータをつめこんだCD-Rを郵便ポストに放り込んだ。
そのなかで特に劔の目を奪ったのが、松浦亜弥の映像。同書のなかで劔は「気づくと、とめどなく涙があふれていた」、「その輝きは、ほかのどのアイドルとも別格であるように思え、とてつもない衝撃が僕を襲った」と記している。エネルギッシュに躍動する15歳の松浦と、いじけて生きている自分の現状を比べて「なんてちっぽけで恥ずかしい存在なのだろう。情けなくて情けなくて、暗い部屋の中、僕はひとりで泣いたのだった」と振り返っている。そして「松浦亜弥さんに出会ったことで、僕の人生観は一変した」といきいきとし始める。
松浦亜弥の存在に気持ちを弾ませた人は数多くいる。書籍『音楽誌が書かないJポップ批評 19 アイドル最終兵器・松浦亜弥&モーニング娘。』(2002年)のなかで、フリーライターの吉村智樹氏は松浦の魅力をこのように言い表している。「僕もまた、皆さんと同じく松浦亜弥の出現を心から嬉しいと思う者のひとりである。彼女が現れたときの、パーッとカラフルなミンツ菓子が吹きこぼれたかのような明るさ賑やかさは、度を越した不景気によって喜びの感情をえぐり取られ、しなびきった人々の心を蘇生させるほどの力を持つ(中略)彼女のように固形物が飛び散るさますら想起させる女の子は、そうはいない」
吉村氏が言うように、松浦のデビュー時期周辺、日本はバブル崩壊後の経済低迷真っ只中で、1980年代後半からコロコロと総理大臣が変わっていくリーダー不在の状態(米国からも皮肉られていた)。阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件などの爪痕もあった。就職氷河期が襲来して「50社以上受けてもダメだった」という学生のニュースが毎日のように流れ、当時大学生だった筆者も戦々恐々。「幸せな未来なんてやってこないんだろうな」と、これから自分が踏み出す社会が薄暗く見えていた。劔樹人と似たような心境だったかもしれない。
そんななかで、松浦の存在はサーチライトだった。口をすぼめたキメ顔。ばっちり似合うピンクやイエローの衣装。ヘソ出しルックにドキドキさせられ、「♡桃色片想い♡」でバスタオルを巻きつけただけの姿を見たときには、なぜかこちらがアタフタするほどの清純イメージ。というか、単純に可愛らしくて明るい。おもちゃ箱から飛び出してきたとは、まさにこのこと。ぶりっ子キャラ風だけど同性から嫌われることなく、むしろ好感度大。筆者の大学時代の女友だちにも、あややファンは多かった。アイドルとしてとても理想的だった。
『音楽誌が書かないJポップ批評19』の谷亜ヒロコ氏(作詞)のコラムでは、「ちょっと前までは、みんな「本当は孤独な私」を分かってほしがり、ネガティブな“本音”を聞いて「寂しいのは私だけじゃないんだ」と安心したがった。でも世の中がこう暗くなってくると、そんなもの確認してもますます不安になるだけ。影のある人、暗い人は周りにゴロゴロいるのに、テレビでまで見たくないって」と当時の世相と照らし合わせなが、松浦の明るさについて語られている。 日本の社会全体がネガティブな傾向にあり、それが個人の生活やメンタルも蝕んできた時代のなかで、劔同様、松浦の存在を救世主のように感じる人は少なくなかったのではないか。「国民的アイドル」へとのぼりつめた一因は、そういった点にある。
空気を読みつつ頑固に自分を貫いて作り上げた「あやや像」
当時のアイドルシーンはいろいろと変革期でもあった。モーニング娘。は『うたばん』(TBS系)や『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』(フジテレビ系)などバラエティ色の強い歌番組に積極的に出演。ぶっちゃけトークにも対応できて、体を張るようなコーナーもうまく乗り切り、時にはアイドルらしからぬ一面ものぞかせた。でも、素顔に近い振る舞いがウケた。SUPER MONKEY’S、SPEED、東京パフォーマンスドールあたりも、王道系や清純派と呼ばれる路線とはまた違うアクティビティを感じさせた。
1980年代後半から1990年代にかけて正統派な歌番組が少しずつ減少し、アイドル歌謡が衰退。森口博子、山瀬まみ、松本明子、渡辺満里奈、加藤紀子といった、大物芸人を相手にしても適応できる「バラドル(バラエティアイドル)」が重宝されたこともあり、「歌って、踊って」だけではなく、ライブ系アイドルであっても「歌って、踊って、喋れる」が求められていた。そう言う意味では当時の洋楽、邦楽のロックシーンのように、アイドルシーンにもオルタナティブな雰囲気が漂ってきていた。
だが、松浦は一貫して「ザ・アイドル」だった。たとえばMVで松浦本人が何役もこなし、彼女しか出てこない内容が多いところは、その唯一無二のアイドル性をあらわしているように思える。「トロピカ〜ル恋して〜る」のMV内での花柄のチューブトップとショートパンツでテニスをする模様も、とびっきりキラキラしている。「Yeah!めっちゃホリディ」のMVでのコスプレや〈ズバッとサマータイム〉という歌詞の言い回しと振り付けの照れのなさ。モー娘。の石川梨華、加護亜依と組んだユニット・三人祭のときの典型的なアイドル表現。どこを切り取っても、まるで嘘みたいに「アイドルらしいアイドル」として魅せていた。
バラエティ系歌番組だろうが何だろうが、アイドルとしての顔は一切崩さなかった。大人メンバーもいたモー娘。にとんねるず、ダウンタウンが下ネタを振ればそれ相応のリアクションがあったのに対し、松浦はそういった話題を一切寄せ付けない。『松浦亜弥のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)の「ニセ女のコ川柳」のコーナーでは、下ネタ投稿に対して松浦がバサバサと切り捨てていくところが印象的だった。
藤井隆がMCをつとめていた番組『Matthew’s Best Hit TV』(テレビ朝日系)に出演したときの松浦は、いきいきとしていた。藤井自身がもともと松田聖子らへのリスペクトが強く、そういった王道アイドルをモデルにしたキャラクター作りをおこなっていたこともあり、松浦は彼の前では自分が目指すアイドル像を出しやすかったのではないか。松浦出演回は、番組全体がアイドル的世界で埋め尽くされていた。松浦にもっともフィットしていた番組であったように記憶している。
書籍『南海キャンディーズのハート泥棒 アイドルに恋して』(2008年)のなかで松浦は、幼少期に父親から「お前、空気読めよ」と口すっぱく注意され、育てられたと語っている。同書内で「うちの父親の仕事場によく連れていかれたんですね。で、目上の方との接し方を学べと。みんなが一生懸命働いている時に、お前だけワーワーはしゃいでていいのかと」と思い返し、理想の男性像についても「いっつも「空気読め!」と怒られていたので、私は空気を読める人じゃないとムリですね」と話している。
松浦は、自分が周囲に求められているアイドル像を理解し、その空気を読んで、ブレることなく王道アイドルをやりきっていた。逆に、その点では頑固な性格もうかがえる。松浦と小貫信昭の共著『亜弥とあやや』(2004年)では、上京してアイドル一本でやっていこうとする松浦に対し、父親が「せめて高校は卒業しよう」と説得するも、「でも「あたしは今したいんだ」と。「ごめんねー、頑固なところはパパに似たんだよ、ホントごめんね」とか言いながら」と押し切ったという。
さらにその頑固さゆえに、限定ユニットであればお祭り感覚で楽しめるが、グループアイドルには抵抗があるとも述べている。グループの一員になると、他のメンバーに気を使ってしまい「ここは私が引いておこう」となるだろうと語り、「グループよりも一人の方が大変なところもあるけれど、大変だけど、ちゃんと自分の考えを出せる方がいいなって思います」と周りに左右されず、自己ブランディングを徹底していると口にする。 空気を読みつつ、頑固な一面もあってこそ「あやや」は作られたのだ。
宇多丸氏、近田春夫氏らも絶賛するパフォーマンス
歌、ダンスなどパフォーマンス力の高さも触れておかなくてはならない。『音楽誌が書かないJポップ批評 19』のビバ彦氏(モーヲタ)と宝泉薫氏(著述家)の対談のなかで、ビバ彦氏が松浦について「パフォーマーとしては古典的ですよね。歌ってダンスする人の普通のやり方」と指摘し、宝泉薫氏は「スタッフは単純に自信を持っていたんじゃないかと思うんですよ。とにかくパフォーマンスを見せて楽曲を聞かせておけばきっと浸透すると」と分析している。
同書の宇多丸氏、掟ポルシェ氏の両ミュージシャンによる対談でも、宇多丸氏が「松浦ってすごく職人的なんだよね。インタビューに顕著だけど、歌の内容より歌い方、技術論の話ばっかりしてる」、「ミュージシャンシップが強い」、「松浦の歌って、アイドルの上限ですよね。それを超えるとアイドルとして見れなくなっちゃうレベル」と絶賛。その歌は美空ひばり、松田聖子クラスだと言い、「歌謡史に名を残せるレベル」としている。 書籍『松浦亜弥 素顔のメモリアル』(2002年)では、同級生が松浦とのメールのやりとりについてコメントしており、朝から晩まで体調管理に気を使っていることや、歌唱力アップのために腹筋を強くし、また全国規模のツアー活動に挑むために筋トレで体を鍛えていることなどが明かされている。
ちなみにその同級生は、彼女の頑張りを見て「亜弥が頑張っている姿を見ると、こっちも負けてられないなって、気持ちにさせられますね」と活力を与えられているという。松浦は、ファンだけではなく、友人たちにも元気を与えていたのだ。 松浦は努力家で勉強熱心。デビュー時、映画『パール・ハーバー』(2001年)や『A.I.』(2001年)など話題作をたくさん鑑賞して、「自分が出演したらどんな演技をするか」と役者としての自分のイメージトレーニングにも励んでいたという。
ミュージシャンで音楽評論家の近田春夫氏が「松田聖子以来の大物」と称したこともあったが、実際に松浦は藤本美貴と「勉強のために松田聖子さんの武道館コンサートを観に行った」と明かしている。「アイドル・松浦亜弥」を探ると、そういったストイックなエピソードがたくさん出てくる。 映画『あの頃。』公開にあわせて、松浦亜弥は何か動きを見せるのだろうか。もう一度、彼女のステージに魅了されたいと願うアイドルファンは多いはずだ。
■田辺ユウキ
大阪を拠点に、情報誌&サイト編集者を経て2010年にライターとして独立。映画・映像評論を中心にテレビ、アイドル、書籍、スポーツなど地上から地下まで広く考察。バンタン大阪校の映像論講師も担当。Twitter