「小説トリッパー」編集長・池谷真吾が語る、文芸誌の領域 「境界線はなくなり〈すべて〉が小説になった」
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小説雑誌は一般的に純文学系とエンタテインメント系に大別できるが、季刊「小説トリッパー」は、両方を扱っている点に独自色がある。また、朝日新聞出版という大手新聞社系の版元からの発行なのも特徴だ。昨年は今村夏子『むらさきのスカートの女』が同誌掲載作で初の芥川賞を受賞し、2020年夏季号で創刊25周年を迎えた。
池谷真吾編集長に「小説トリッパー」の歩みとともに、前歴である角川書店(現KADOKAWAグループ)での経験、吉田修一『悪人』、角田光代『坂の途中の家』など担当した書籍についても語ってもらい、1990年代からの文芸の流れをふり返った。(10月21日取材/円堂都司昭)
「野性時代」のアルバイトからキャリアがスタート
――この世界にどういう風に足を踏み入れたんですか。
池谷:就職活動に失敗しまして、どこからも採用されませんでした。1992年のことです。年が明けて、もう大学も卒業という時に、友人がアルバイト雑誌で角川書店の小説雑誌「野性時代」の募集をみつけてくれたんですが、締切前日で……あわてて履歴書と課題の作文を書いて翌日にバイク便で届けたところ、なんとか採用に漕ぎつけました。「野性時代」のリニューアルにともなって、スタッフを一新するタイミングだったようです。しかも、アルバイトでも担当の作家をつけて編集者として仕事ができるという、当時の角川書店には私のような立場の人が、たくさんいました。
――それ以前から小説雑誌に興味はありましたか。
池谷:正直なところ「野性時代」は手にとったこともありませんでした。学生時代に文芸評論家の加藤典洋さんと縁がありまして、現代小説や文芸評論は比較的読んでいたほうだと思いますが、すべて単行本か文庫です。文芸誌を手に取った記憶としては、1991年に柄谷行人さんが中心となって文学者が湾岸戦争に反対署名する運動があって、それに対して加藤さんが反論というか、かなり不思議な文章を「群像」と「中央公論文芸特集」に寄稿した。その掲載誌を大学でコピーして読んだのが、文芸誌に触れた最初ではないかと。
――1990年代の「野性時代」はどんな感じでしたか。
池谷:リニューアル直前の「野性時代」は、かなり個性的な雑誌だったと思います。例えば、吉本ばななさんの『哀しい予感』『N・P』と水野良さんの『ロードス島戦記』が分け隔てなく載るような誌面で、ある号ではスニーカー系のライトノベルが、ある号では第一線の現代小説が巻頭に一挙掲載されるような雑誌でした。この2つを棲み分けようとリニューアルが始まり、1993年の春にスニーカー文庫の書き手の雑誌として「ザ・スニーカー」が創刊され(2011年休刊)、「野性時代」はB5判からA5判と、ふつうの小説誌と同じ大きさになりました。
――1974年創刊の「野性時代」は、森村誠一『人間の証明』など角川映画でも有名なヒット作が載る一方、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」が芥川賞を受賞するなど、エンタテインメント小説だけでなく純文学も同居する雑誌でした。
池谷:1981年には、つかこうへいさんの一挙掲載『蒲田行進曲』が直木賞を受賞しています。同じ雑誌から芥川賞と直木賞を送り出す一方、連載陣も、澁澤龍彦さん、片岡義男さん、村上龍さん、高橋源一郎さん、栗本薫さん、荒俣宏さんと、かなりバラエティに富んでいました。学生時代は関心もありませんでしたが、会社に入ってバックナンバーを見ていくと本当に魅力的な目次で、かつては野性時代新人文学賞という新人賞もあって、選考委員が村上龍、中上健次、宮本輝、高橋三千綱といったそうそうたる布陣で、ずいぶん興奮した記憶があります。
――芥川賞作家ばかりですね。
池谷:でも、物語性の高い作品を送り出してきた、純文学の領域に止まらない書き手ばかりでしょう。この4人を担当していたのが、当時「野性時代」に在籍されていた幻冬舎の見城徹さんだったはずですから、その眼は確かなんだと思います。ちなみに、この賞からデビューしたのが、天童荒太さん(受賞作は栗田教行名義の『白の家族』)、確か草間彌生さんも受賞(『クリストファー男娼窟』)されています。
――「野性時代」は1996年に休刊しました(2003年に同名で新創刊し、2011年に「小説 野性時代」に誌名変更して現在に至る)。
池谷:最後の編集長が、「海燕」(純文学雑誌。1996年休刊)の編集長だった根本昌夫さんで、いまや芥川賞作家を何人も輩出する小説講座の名物講師ですが、根本さんのもとで仕事ができたことは大きかった。「野性時代」には休刊までの3年しかいなかったわけですが、小川洋子さんや大沢在昌さんの連載、スティーヴン・キングの特集や本格ミステリの評論連載と、エンタテインメントから批評までジャンルを問わず、双方を行き来しながら仕事ができたのは今も財産になっていると思います。ただ、休刊は編集者にとって本当に「傷」になりますね。いちアルバイトの編集者でしかありませんでしたが、自分がクビになることよりも、書き手に対する申し訳なさのほうが先に立つというか、あれほど責任を感じたことはない。そういう経験でした。いまでも媒体がなくなる恐ろしさは身にしみています。
――それで「月刊カドカワ」へ移ったんですね。
池谷:「月刊カドカワ」は女性のための文芸誌として創刊されたんですが、これも見城さんが編集長になって松任谷由実さんをフィーチャーしたあたりから、大きく雑誌の方向性を転換しました。私が同誌へ異動したのは、Mr.Children、スピッツ、GLAYなどを特集した時代です。島田雅彦さんが「野性時代」で連載していた「蘇える青二才」(書籍化で『君が壊れてしまう前に』)を同誌に移すことになり、私は島田さんの担当をはじめ、主に小説担当として異動することになりました。
――尾崎豊、斉藤由貴などミュージシャンや俳優に原稿を書かせるのも同誌の特徴でした。
池谷:一方で、村上龍さんが必ず小説を連載していましたし、山田詠美さんの連載『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』が直木賞を受賞するなど、当時は文芸とミュージシャンの特集を両輪として走らせていました。巻頭がミュージシャンの特集で、第2、第3特集に「作家スペシャル」という定番の特集があって、ここで姫野カオルコさん、京極夏彦さん、平田オリザさん、辻仁成さんに登場していただいたり、あと、阿部和重さん、東浩紀さんと出会ったのも「月カド」時代です。そのなかでも大きな仕事は、辻仁成さんと江國香織さんの共作『冷静と情熱のあいだ』ですね。
――作家2人が交互連載で男女の主人公それぞれの視点から執筆したもので、後に映画化もされた海外が舞台のビッグプロジェクトですね。
池谷:辻さんと江國さんとで温めていた企画でした。タイトルも、イタリアという舞台も、物語の設定も、2人との話し合いから生まれたものです。かなり大きなプロジェクトになりますから、書籍と雑誌それぞれの編集者が関わりましたが、私は連載の担当として2人をお連れしてイタリア取材に行くことになりました。「順正」「あおい」という、それぞれの主人公の履歴書を作り、2人に設定を共有してもらい、約束の地であるフィレンツェのドゥオモで2人が再会するというクライマックスに向かって、その約束の日までを描くという大方針だけ決めてイタリアに行ったと記憶しています。辻さんと江國さんが交互に書くための設計図だけ用意して、それぞれ作品としての自立性は維持させました。制約が多すぎると、文章やディテールを殺すことにもなりかねませんからね。連載は順調に滑り出しましたが、その途中で、私は会社を移ることになりまして、江國さんと辻さんには、しばらく合わせる顔がありませんでした。
編集者としての大きな節目
――「野性時代」でミステリの評論を担当して以降、池谷さん自身も別名義で書評を発表した時期がしばらくありましたよね。どんな経緯だったんですか。
池谷:こんな個人的な話ばかりでいいんですかね……。本格との出会いは「野性時代」で「密室」をテーマに短編の特集をしたときに、山口雅也さんと有栖川有栖さんから短編をいただいたことがきっかけです。そこから北村薫さん、法月綸太郎さん、貫井徳郎さんを担当することになり、本格ミステリについて考えることが仕事の領域を広げるという自覚が芽生えたところに、根本さんが「海燕」時代から懇意にしていたミステリ・SF作家で批評家の笠井潔さんの担当を命じられたわけです。笠井さんから、純文学の領域では小説と批評が両輪となってジャンルの可能性を広げている、そういう運動体のようなことを本格ミステリでも実践したいという意向がありました。1980年代後半からの新本格ミステリの潮流に関して、笠井さんの長編評論と、毎号書き手を代えた作家論の連載を担当したんですが、これも雑誌の休刊によって頓挫してしまう(笠井連載は1998年、東京創元社『探偵小説論II 虚空の螺旋』に収録。一連の作家論は1997年、笠井潔編、国書刊行会『本格ミステリの現在』に収録され日本推理作家協会賞受賞)。連載の受け皿がないまま、その運動体が東京創元社に移管されて、笠井さんを中心にしていた探偵小説研究会(ミステリ評論家のグループ)に参加することになったわけです。そこで『本格ミステリ・ベスト10』というムックに本の紹介文を書くことになり、「椎谷健吾」という本名をアナグラムにした別名義で貫井徳郎さんの『慟哭』、有栖川有栖さんの『ブラジル蝶の秘密』の解説を書かせていただきました。
いまは書評を書くこともありませんが、山口雅也さんの『続・日本殺人事件』の紹介原稿を送った時、東京創元社の編集者として名を知られた戸川安宣さんから褒められたのは嬉しかったですね。
――1997年に朝日新聞社の出版部門(2008年に分離独立して朝日新聞出版)に移った頃には、どんな仕事をしていたんですか。
池谷:PR誌「一冊の本」の編集を主にやっていました。最初に企画した単行本は、東浩紀さんの『郵便的不安たち』ですね。さまざまな媒体に発表した文章をまとめたもので、角川に在籍していたころから温めていた企画でした。もうひとつ、「アサヒグラフ」で阿部和重さんに『シンセミア』の連載を始めていただき、これが私の編集者としての大きな節目といいますか、仕事に対する考え方を決める意味でも大きな存在となりました。ところが「アサヒグラフ」も休刊という憂き目にあい、連載が「小説トリッパー」に移ったことで同誌の編集にも本格的にかかわるようになり、現在に至るという感じでしょうか。東さん、阿部さんという、同世代の書き手との仕事がかたちにできたことで、やっと一人前になれたというか、大きな自信にもなりましたね。
――「小説トリッパー」はどういうコンセプトで始まったのでしょうか。
池谷:創刊については入社してから聞いたことなので、どこまで正確か分かりませんが、「月刊Asahi」という総合誌が鳴り物入りで創刊されて、そこで朝日新人文学賞という新人賞を立ち上げたものの雑誌が休刊になってしまった。また休刊の話になりますが、それで新人賞の受け皿として創刊が決まったと聞いています。「休刊」って、本当に歴史を動かすくらいのインパクトがあると思います。
小説雑誌というと、主に芥川賞を対象にした文芸誌と、直木賞を対象にエンタテインメントを中心に掲載する小説誌と、大手出版社では棲み分けされ、それぞれ新人賞をもっています。ところが、朝日新人文学賞は一つの新人賞から両賞を目指すというコンセプトで立ち上げられたそうで、そうした賞の性質を引き受けるかたちで、雑誌の方針も決まったわけです。と同時に1995年は、ジャンルを越境するという流れが出てきた時期でもあって、その後、1998年に「小説すばる」出身の花村萬月さんが芥川賞、私小説を書きつづけてきた車谷長吉さんが直木賞で同時受賞するという現象もありました。「小説トリッパー」は新人賞の規定も400字詰めで200枚から350枚として、選考委員も栗本薫さん、林真理子さん、高橋源一郎さん、高樹のぶ子さん、村上龍さんと、中短編を対象にする芥川賞、長編対象の直木賞の双方を射程に入れた人選でしたから、選考委員の交代はありましたけど、雑誌の目指すところは変わらなかったと思います。のちに、芥川賞を受賞する小野正嗣さんと日本推理作家協会賞を受賞する柳広司さんが同時受賞しましたし、中山可穂さんも野間文芸新人賞の候補になり、その後、山本周五郎賞を受賞していますから、文学賞としては打率は良い方だと思います。
誌名は糸井重里さんによるもので、創刊当時はまだ角川にいましたから、創刊号を外部から「さすが新聞社は構えが大きい。表紙は島田雅彦さんだし、高樹のぶ子さんの短編に、久世光彦さんの連載まで載っている!」と羨望の目で見ていましたが、創刊編集長からは、本当に創刊に至るまで苦労の連続だったと聞いています。
――「小説トリッパー」は2003年に判型をB5からA5へ小型化しました。やはり小説雑誌はこのサイズでないとダメなのでしょうか。
池谷:「野性時代」を反復しているようで、その後の歴史を考えると恐ろしいですけれども、ひとつあるとすれば棚の問題ではないかと。あと判型が大きい雑誌は、ビジュアルで見せていかないとページがもたない。「野性時代」もB5時代はイラストを重視していましたし、「トリッパー」も創刊当時は、巻頭と巻末にグラビアがあってエッセイにイラストや写真に組み合わせたページ構成をしていました。これは新聞社の雑誌だったからではないかと思います。週刊誌のグラビアページ、あるいはグラフ誌の発想が先にあったのではないかと。
――「小説トリッパー」は書評コーナーで評論家だけでなく新聞記者も書くのが特徴です。
池谷:書評を充実させようというのはありました。しかし、季刊だから月刊誌のような時評やベストタイミングで話題作を紹介することはできないと考えた時に、季節ごとに外せない作品を総ざらいできる構成を考えました。記者に「文芸季評」と「エンターテインメント季評」を執筆してもらっているのは、年末になると新聞各社が年末回顧と称して、各ジャンルでその年の外せない作品を総ざらいするじゃないですか、それを季節ごとに執筆してもらえないかと。記事を書くために新聞記者は毎日のように取材をし、文芸誌や話題作はすべて読んでいますから、新聞社系列の文芸誌として特徴も出せると考えました。リニューアル当時は、純文学担当とエンタテインメント担当2人の記者に執筆してもらい、読書面で書評委員経験のある社会部の編集委員の方には、「報道の現場から小説を読む」という、時々のトピックや社会事象を照らすような作品を取り上げてもらっています。
誌面での「批評」その希望と課題
――誌面において批評というものは、どのように位置づけていますか。
池谷:批評の有無が、文芸誌と小説誌の違いだと思います。言い方がすごく難しいんですが、「小説トリッパー」はエンタテインメントも批評も両方やろう、その両極のなかで目次を作っていきたいと考えています。小説には批評性のあるエンタテインメントもあれば、物語性の高い批評的な作品もある。1つの作品に両方を共存させることはできる。イメージしづらいかもしれませんが、雑誌として、そういうことができないだろうかと。あと、私が入る以前の「野性時代」には、雑誌の立ち位置として、そういう批判力があったのではないかと思います。
文芸評論ということでいえば、小説はストーリーだけで読むものではないし、感情移入や共感だけで読むものでもありませんが、でも、あらすじの紹介の仕方に批評性が宿ることもあります。私がこれまで読んできた、あるいは読みたい批評というのは、その書き手の「読み」によって対象としたテキストが別の色彩を帯びたり、その「読み」を通して世界を見る目が変わるというもので、そういう資質を持った新しい書き手にもっと出てきてほしいですね。その一方で、批評の中に含まれる批判力みたいなもの、批判的な「読み」を誌面化するのが難しくなっているのも事実で、その点をどのように克服していくかは、これからの課題とさせてください。
――男性中心の批評のホモソーシャル性がとかく批判されますが、書評コーナーでは倉本さおり、江南亜美子、鴻巣友季子の各氏がレギュラーですし、男女比は考慮されていますね。一方、最近の文芸誌のリニューアルには特集主義がみられますが、「小説トリッパー」では特集が毎号あるわけではない。
池谷:鴻巣さん、江南さん、倉本さんの書評連載については、性別で選んだわけではなくて、良い読み手に依頼した結果で、男女比を考えたわけでもありません。「文藝」リニューアルの成功をみると、フェミニズムやシスターフッドの特集など、従来の男性中心的な状況や考え方に対する批判力は強力で、それを求める読者が潜在的にいたということがわかりました。そこにいる読者が可視化されたのは、誌面で「批評」を考えるうえで、とても良いヒントをもらったように思います。もし特集をするとしたら、今後はかなりインパクトのあるテーマをもってこないと、「文藝」と肩を並べるのは難しいでしょうね。
――20周年記念号では20人が短編を競作し、アンソロジー『20の短編小説』として刊行。今年夏季号の創刊25周年記念号でも純文学とエンタテインメント双方の作家25人が競作し、『25の短編小説』として文庫になりました。一方、批評に関しては、2020年秋号から藤井義允氏の連載「擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム」が始まりました。
池谷:宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』が出版されてから、もう10年が経ちます。宇野さんの著書は文芸作品を排したものでしたが、その後、小説でもカルチャーでも、状況全般を対象として論じた書き手は、若い世代からそれほど出てきていません。藤井義允さんの連載は、2010年代の小説群を読み解く評論として楽しみにしていますが、中村文則さんを特集したときに書かれた作家論がよかった。藤井さんは1991年生まれですが、批評の書き手として温度が低いというか、かつて加藤典洋さんがカフカの言葉をもじって「君と世界の戦いでは世界に支援せよ」と題して、島田雅彦さんのデビュー作を論じましたが、藤井さんの場合、「君」と「世界」が戦いもしない、そういう世界感受の仕方があるのではないかと予感させるものがある。彼の感度で作品を選び、精密に読んでいくとどのような世界が見えるのか期待しています。
記念号については、20周年は「20」という数字をテーマにしましたが、25周年については、もともとオリンピックが開催されることを前提に、時代の空気が画一的になるというか、オリンピックに向けて一丸になっていくであろう雰囲気に対する違和感から、そういう流れとは離れた、ささやかなことを執筆いただきたいと依頼したところにコロナがやってきた。期せずして、コロナウィルスの感染拡大のなかで多くの短編が書かれることになり、あの状況下を伝えるものになったという感じです。
――池谷さんは、現代文学を特集した「文藝」2017年秋号の「38人による「来たるべき作家たち2020」」という企画への寄稿で今村夏子、古谷田奈月の両氏の名をあげていました。今村氏の『むらさきのスカートの女』は、「小説トリッパー」から初の芥川賞受賞となりました。
池谷:今村さんは『星の子』でも候補になりましたが(同作で野間文芸新人賞を受賞)、芥川賞の受賞については、担当編集の四本が粘り強くやりとりを続けて、今村さんの中では構えの大きな作品を続けていただけた結果だと思います。エンタテインメントと純文学の両方を載せる雑誌として、いずれ芥川賞、直木賞の受賞作を送り出したいと考えていましたし、各誌とも菊池寛の発明したゲームのなかで作品を掲載しているわけですから、雑誌としては一回限りで終わらせることなく、直木賞も含めて受賞作も送り出したいですね。古谷田さんは『神前酔狂宴』のあと、早く次回作を読みたい。それに尽きます。
編集者としての池谷真吾
――「文藝」の寄稿では、池谷さんが担当した作品の名もあげられていました。それらをふり返ってください。「池谷真吾」という名の人物も登場する阿部和重『シンセミア』から。
池谷:『シンセミア』は33歳の時ですが、こんな自分語りをつづけて大丈夫なんでしょうか。阿部さんは、それ以前に「J文学」というムーブメントと、カバーデザインでも話題になった『インディヴィジュアル・プロジェクション』で、すでにスパイ小説的なガジェットを織り交ぜながら、純文学の中にエンタテインメントの要素を取り込んだ都市小説を発表しています。『シンセミア』は初めての長編連載で、大江健三郎やガルシア・マルケスのように出身地の磁場を神話的に描くサーガの形式を取り入れながら、三部作の第一部として「神町」という空間的な広がりを投入しつつ、ジェイムズ・エルロイのノワール(犯罪小説)に出てくるような登場人物ばかりを配した作品世界を立ち上げたわけです。阿部さんのなかには、より複雑な企みがあると思いますが、作品の外観としてはそういうふうに理解しています。阿部さんはいずれ芥川賞を受賞すると期待されていた作家ですが、新人賞という位置づけの芥川賞を受賞する前に、この作品で伊藤整文学賞と毎日出版文化賞を受賞しています。キャリアと評価にねじれを生じさせてしまうほどの傑作だと思いますが、編集者としては担当した作品が文学賞を受賞するのも初めてだったので、格別の喜びがありました。自分を「文芸編集者」にしてくれた作品だと思っています。
――「小説トリッパー」掲載以外でも吉田修一『悪人』など著名な作品を担当しましたね。
池谷:吉田さんは『パレード』『東京湾景』『パークライフ』といった、初期の代表作となる都市小説群とは違う、もう少し構えの大きなものを書きたいという意欲を持っていました。イメージとしては、殺人事件の実行犯を取材したカポーティの『冷血』のようなものでしたが、犯罪者を取材するのはリスクを伴いますし、吉田さんもそのことが主眼ではありませんでしたから、しばらく試行錯誤するなかでいまのかたちに収斂していきました。そもそも「小説トリッパー」で依頼していたものでしたが、題材が絞られてきたことで「週刊朝日」に連載を持ちかけたのと同じタイミングで新聞からも連載の依頼があった。吉田さんとしては同じ会社からの依頼ですから、もっとも反響が多いだろう新聞を選ばれたという経緯もありました。私としては、どこで連載されても書籍の担当としては同じですから、良いところに落ち着いたと思う一方で、作品にとっても、新聞連載という形式が合っていたように思います。
――現実の事件が報じられる媒体で犯罪小説を連載したわけですね。
池谷:媒体の特性を活かすという意味では、このあとの毎日新聞の連載『横道世之介』で、作中の時間と連載の時間を重ねていて、新聞連載という形式と内容の一致という意味では、そちらのほうが成功しているように見えます。『悪人』については、5章構成で各章を50回と決めて全250回で書くという、ボリュームと構成を決めてから書くというスタイルが確立されて、この書法は『平成猿蟹合戦図』でも、10年後の『国宝』でも貫かれていますが、新聞連載という形式が、『悪人』という作品の質を決定したことは間違いなくて、吉田さんの執筆スタイルが、ここで確立されたように思います。
阿部さんが『インディヴィジュアル・プロジェクション』から『シンセミア』に移行したように、吉田さんも初期の都市小説から、出身地である九州北部の空間的な広がりのなかで物語を展開させることで『悪人』という大きな作品を書かれたわけですが、さらに吉田さんが『国宝』で時間軸を投入して物語の奥行きを深めたように、阿部さんもまた『ピストルズ』『オーガ(二)ズム』で現実とフィクションの相互侵犯を深化させている。作家はみな新しい小説を書くにあたってさまざまな方法を試みますが、2人の小説をエンタテインメントとの関わりから読んでいくと、また違う景色が見えてくるような気がしています。
――松浦理英子『犬身』も担当されましたね。近年、ジェンダーをテーマにした女性作家の作品が増えましたが、先駆者的な作家です。
池谷:2010年代に入ってからは、自分の仕事を思い返しても、井上荒野さん(『あちらにいる鬼』)、江國香織さん(『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』)、恩田陸さん(『EPITAPH東京』)、角田光代さん(『坂の途中の家』)、桐野夏生さん(『路上のX』)との仕事が印象に残っています。
松浦さんについては、編集者になった年に刊行された『親指Pの修業時代』を読んで衝撃を受けて以来(同作は女性の右足の親指が突然ペニスになったことから物語が始まる)、いつかお仕事でご一緒したいと願いつづけてきた作家でした。「月刊カドカワ」で人生相談の連載をされていましたが、担当は別の編集者でした。その後、中上健次の命日に紀州で毎年開催されていた熊野大学の特別講師として、松浦さんと島田さんが招かれることになり、そこで初めて面識を得ることができましたが、『犬身』を担当するのは、そこからさらに10年後です。朝日新聞社に籍を移してから正式に担当となったところで巡り合わせがありまして、出版社数社とソニー、凸版印刷で設立したパブリッシングリンクに朝日も出資することになりまして、ちょうど角川書店時代に松浦さんの担当をしていた同僚がソニーに転職、この事業の担当になったという縁もあって、そのウェブマガジンで『犬身』の連載が決まりました。
角田光代さんの『坂の途中の家』は「週刊朝日」連載です。吉田さんの『悪人』が朝日の夕刊、角田さんの『八日目の蝉』が読売の夕刊と、同じ時期に新聞連載が始まって、単行本の刊行も同時期だったこともあって、単行本の刊行直後に角田さんの呼びかけから3人で食事をすることになりました。四谷にある開高健常連の中華料理屋で、2つの作品について話し込んでいくなかで、松本清張や水上勉の話になったときに角田さんが強く関心を示されていた。それ以来、角田さんには『八日目の蝉』に次ぐ、事件を題材にした小説を執筆いただけないかという依頼をしつづけて、それが実ったかたちです。でも角田さんの関心は、さらにその先にありました。家庭内におけるジェンダーギャップや夫から妻への無意識の暴力といった問題です。『坂の途中の家』はWOWOWでドラマ化されたんですが、その海賊版が中国で広まり、「結婚への幻想を打ち砕くドラマ」としてかなり話題になりました。そこから正式に中国での翻訳が決まり、オリジナルドラマの企画も進行しているそうですが、こうした受容のされ方をみていると、作家が本当に遠く先をみて小説を書いているということを実感しますね。
――担当してきた作品をふり返ると、やはりエンタテインメントと純文学の境界線が多い。
池谷:ずっと同じことを繰り返しているような気がします。「野性時代」に入ったばかりのころ、編集長から「担当したい作家の本を持ってきて」といわれ、持参したのが多和田葉子さんの『犬婿入り』でした。編集長からは「もちろん、いい小説だけど、うちの媒体では難しいな」という一言が、あとの編集人生を決めたかもしれません。
――エンタテインメントと純文学の間の壁ですね。
池谷:うーん、壁なのかもしれませんが、私が編集者になったころから、壁は崩れつつあったというか、双方の領域が相互侵犯するようになったというか、あらゆる小説が読者にとっては等価になったという面もあるのではないかと。あと、角川書店も朝日新聞社も、文芸雑誌が1誌しかなかったことが私の中では大きかったはずで、どの雑誌もいまはそんなことはないと思いますが、もし文芸雑誌が2誌ある出版社にいたら、その雑誌の方針だったり、社内的な役割だったり、担当作家の棲み分けといった外在的な要因によって、2つのジャンルを厳密に分ける考え方をしていたかもしれないです。
さかのぼると1993から95年にかけての変化は、かなり大きかったんだと思うんですね。最後まで私語りのようで恐縮ですけれども、1993年に松浦理英子さんの『親指Pの修業時代』が発表され、1994年には阿部和重さん、そして川上弘美さんが「神様」でパスカル短篇文学新人賞を受賞してデビューしています。実は、このあたりで現代小説が完成するというか、それ以前の近代小説が終わりを迎えて、文学史的には亀裂が入ったのではないかと。1970年代後半に龍と春樹のW村上がデビューして、近代小説から現代小説へ移行が開始されたとすれば、歴史の年譜で縄文時代と弥生時代を分割する線が斜めに入っていたように、変化の完了が示されたのが1994年、1995年あたりだと考えています。同じ年には本格ミステリというジャンルで、その外にいた京極夏彦さんもデビューしていますから、そういう領域侵犯的な書き手は増えていった。ある種の制約から自由になるというか、そういう変化の節目が、このあたりにあったように思います。ジャンルの垣根がなくなって、すべてが小説になったと言えるかもしれません。
――では、今、来たるべき作家をあげるとしたら誰ですか。
池谷:そこから4半世紀経っていますから、新しいかたちで領域侵犯する書き手に現れてほしいですね。すべてが小説になったいま、小説と小説以外ということになるんでしょうか。分かりません。最後に宣伝めいたことを言えば、「小説トリッパー」創刊20周年でリニューアルしたタイミングで、北九州市が主催する公募の新人賞林芙美子文学賞を引きつぎましたから、ここから来たるべき新人作家を送り出したいとも思います。第2回受賞者の高山羽根子さんが芥川賞を受賞されたばかりですから、高山さんには今後も期待したいです。もし来るべき作家として挙げるとすれば、すでに「来ている」書き手ではありますが、小川哲さん、櫻木みわさんでしょうか。前回の塩澤さんのインタビューに影響を受けたわけではありませんが、みなSF出身の書き手になりました。