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村井邦彦×川添象郎「メイキング・オブ・モンパルナス1934」対談

音楽

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リアルサウンド

 リアルサウンド新連載『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』の執筆のために、著者の村井邦彦と吉田俊宏は現在、様々な関係者に話を聞いている。その取材の内容を対談企画として記事化したのが、この「メイキング・オブ・モンパルナス1934」だ。

 第一回【村井邦彦×細野晴臣「メイキング・オブ・モンパルナス1934」対談】に続き、第二回のゲストは音楽プロデューサーの川添象郎が登場。『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』の中心人物である川添浩史の実子で、村井と共にアルファレコードを創業期から支えてきた川添象郎は、まさに盟友と呼べる存在だ。今回の対談では、1960年代に川添象郎がフラメンコギタリストをしていた頃の話を中心に、当時の文化の時代背景を探る。(編集部)

※メイン写真:1980年、YMO第二回のワールド・ツアー”FROM TOKIO TO TOKYO”のロンドンのハマースミス・オデオンの楽屋にて。左から、坂本龍一、高橋幸宏、川添象郎、細野晴臣、矢野顕子、大村憲司。提供、川添象郎

1960年代のニューヨーク〜ヨーロッパの思い出

村井:象(ショウ)ちゃん、今日はよろしくお願いします。「モンパルナス1934~キャンティ前史~」の序文を読んでもらったと思うんだけど。

川添:うん、読んだよ。わくわくする話だね。

村井:ありがとう。タイトルの背景に白黒の写真を使っているでしょう。 

川添:うん。モンパルナスのラ・クーポールだね。まさに1930年代ぐらいの写真かな。

村井:​そうそう。僕はあのカフェに行くようになって50年以上たつんです。1969​年に象ちゃんが初めて連れていってくれたんだよ。 キャンティはパリのいろんなカフェやレストランをヒントに作られたのだと思うけど、そんな僕の個人的な思いもあって、タイトルバックの写真はラ・クーポールにしたわけです。そういえばラ・クーポールの裏に川添さんが行きつけにしていた小さな店があったんだよね? 

川添:うん。「バー・バスク」っていう名前のね。そこのオヤジがうちの親父とすごく親しくてさ。息子の俺が行ってもツケでご飯を食べさせてくれたわけ。 

村井:何年ごろの話なの。 

川添:初めてヨーロッパに行ったのは1962年。イタリアのスポレトの舞台芸術祭に参加したんだ。 

村井:象ちゃんがニューヨークに行ったのは1960年だよね。それからヨーロッパに行ったわけだ。

川添:そうそう。そのスポレトの芸術祭が終わってもニューヨークには戻らず、パリでぶらぶらしていたのよ。たぶん​3​~4カ月だと思うんだけど、その時にパリのモード界の大物で、クリスチャン・ディオールの宣伝担当重役だったシュザンヌ・リュリングっていう女性の家に​……。 

村井:ああ、シュザンヌ。僕も会ったことがあるよ。 

川添:あのおばちゃんの家に俺は居候していたんだよ。夕方になると人が集まってきて、ワインを飲みながらいろんな話をして、それから夜の町に繰り出すんだ。俺はそんな家に居候していたから、いろんな人に会ったんだ。

村井:例えば、どんな人?

川添:バレエダンサーのジジ・ジャンメールとローラン・プティとか……。 

村井:うわあ、すごい人たちが来たんだ。

川添:イヴ・サン=ローランの一派だとか、アンドレ・クレージュの一派とかね。シュザンヌは社交の王者だからさ。

村井:そうだね。ところで象ちゃんはスポレトの舞台芸術祭で何をやっていたんだっけ。

川添:ミュージシャンだよ。まずニューヨークのオフ・ブロードウェイで『​ザ・コーチ・ウィズ・ザ・シックス・インサイズ』っていう前衛ミュージカルに参加したんだ。日本語の題名は『​6​人の馬車』だったかな。

村井:ああ、あれね。『​6​人を乗せた馬車』じゃない? 

川添:そうそう。ジェームス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』っていう超難解な小説を舞台化したの。よくやったよね、あんなこと(笑)。 

村井:うん、本当にね。ジョイスって言葉をひねるんだよね。

川添:その通り。 例えば「バイサイシクル」とか何とか言うんだよ。バイセクシュアル(両性愛)とバイシクル(自転車)を掛けた造語なんだよね。

村井:そういえばジョイスの代表作『ユリシーズ』はわいせつだといわれて発禁処分になるんだけど、パリのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店のオーナー、シルビア・ビーチがジョイスを助けて『ユリシーズ』を出版したんだ。

川添:へえー、クニのリサーチ能力はすごいね。

村井:いや、この話はそれなりに有名で、昔から知っていたんだよ(笑)。

川添:そうかあ、恐れ入りました(笑)。

村井:そのシルビア・ビーチにかわいがられたもう一人の作家がアーネスト・ヘミングウェイですよ。

川添:へえー。

村井:話は戻るけど、そもそもミュージカルの『​6​人を乗せた馬車』をやることになったのは、象ちゃんがグリニッジ・ヴィレッジで……。

川添:そうそう、俺は1960年にニューヨークに渡ってグリニッジ・ヴィレッジに住んでいたのね。そこでフラメンコギターを始めたの。サビーカスのようなスペインのギターの名手がなぜかそこに集まっていたからね。

村井:フランコの独裁から逃れてきたんでしょう?

川添:うん、全くそう。サビーカスはカルメン・アマヤというフラメンコダンサーのアメリカツアーにギタリストとして同行して、そのまま亡命しちゃったんだ。グリニッジ・ヴィレッジの俺のアパートの近くにスペイン料理屋があってさ、そこでサビーカスの弟が毎晩ギターを弾いていたの。こいつは下手くそなんだけど、兄貴のサビーカスも毎晩その店に来て、ジャムセッションをやっているわけ。

村井:そういえば以前、ジャズクラブのヴィレッジ・ゲートの話を象ちゃんから聞いたことがあったね。

川添:ちょうどその話をしようと思っていたんだ。ヴィレッジ・ゲートは俺のアパートから歩いて​2​分ぐらいかな。伊藤貞司に誘われて見にいったことがあるんだけど、最初に出てきたのがフルートのハービー・マンって人だったの。

村井:有名な人だね。

川添:うん、それが終わったらさ、次は​3人のコーラスでね。ランバート、ヘンドリックス​&ベバン。 全部スキャットで……。

村井:ビバップをやる。 

川添:そう、全部歌詞をつけてね。楽器のアドリブみたいなことを声でやってしまう超絶技巧のコーラスだったわけ。その3人組が2番目。

村井:うん。

川添:で、3番目がソニー・ロリンズだったの。

村井:はっはっは。豪華だねえ。

川添:もう観客総立ちみたいな感じだったんだけど、もう一つアクトがあるっていうんだよ。誰が出てくるのかと思ったら、小太りのおいちゃんがガットギターを抱えてヒョロヒョロと出てきたわけ。おもむろに弾き始めたらすごいんだな、これが。そのおいちゃんがサビーカスだったんだけどさ。観客全員が熱狂しちゃって、その晩のおいしいところを全部さらっていっちゃった。

村井:よっぽどすごかったんだろうなあ。

川添:すごい、すごい。それで俺はぶっ飛んで、あのギターをやってみようと思ったわけ。 ある日、ヴィレッジのブリーカーストリートを歩いていたら、どこからかあの晩と同じような音が聞こえてきた。隅っこでフラメンコギタリストが弾いていたわけ。「教えてくれよ」と頼んだら「俺よりいい先生がいる」と紹介してくれたのがホアン・デ・ラ・マタって人なの。名手だよ。早速その人のところに行って教わり始めたんだけど、フラメンコって譜面がないじゃない。

村井:ないねえ。

川添:ホアンはいきなり曲を弾き始めるわけ。それで「おまえ、やれよ」って、急に言うのよ。そんなの「できねえよ!」だろ?(笑)。

村井:「おまえ、やれよ」っておかしいねえ。

川添:できるわけないよ。それで俺が先生に「今、何をどうやったの」って質問して、トレモロ、ピカード、ラスゲアードとか、テクニックを一つ一つ再現してもらったの。先生に教え方を教えながら教わったみたいな感じ。

村井:ははは。

川添:しかし、それでも完全にはできないんだよ。それで「この技術を練習してから、また来るよ」と言っていったん出てきたんだ。1​日​8​時間ぐらい死に物狂いで弾いていたら、1週間ぐらいで弾けるようになった。それで先生のところに戻って……。漫画みたいな話だけど、こんな感じだよね、芸事の習得というのは。 教科書を見ればできるってもんじゃない。

村井:音楽理論みたいなことなら、パパパッと教えられるけど、その背後にある精神とか、感情とかは……。

川添:味とかね。

村井:うん。

川添:俺はアパートの近くのスペイン料理屋に毎晩通って、サビーカス本人からも直々に教わったりしたんだ。そんな毎日を1年ぐらい送っていたら、アッと言う間にうまくなった。

村井:いい話だね。

川添:ヴィレッジのブリーカーストリートにライブカフェを持っているジャックという名のルーマニア人がいたんだけど、そいつがその一帯のボスだったわけ。俺が行ったらさ、ジャックが近づいてきて「おまえ、日本人か。オオヤマって男を知っているか。カラテの名人だ」って言うんだよ。「もちろん知ってるよ」って答えたら「俺はオオヤマの一番の弟子だ。おまえも何か武道をやるのか」だってさ。「剣道​2​段だ」と答えたら、空手と剣道で勝負しようって言うんだよ。

村井:ははは。

川添:「竹刀で打たれたら痛いよ」と忠告しても「空手の方が強い」と言い張るの。それで早朝にブリーカーストリートで果たし合いをやることになったわけさ。俺は竹刀を持っていったんだけど、向こうもちゃんと空手着姿で来て「ヒエー」とかやっているわけ。ところが俺が鹿児島の示現流の蜻蛉(とんぼ)っていう構えで待っていたら、全く仕掛けてこないんだ。俺の周りをくるくる回っているだけでね。「おまえ、何やってるんだ」って怒鳴ったら、やけになって突っ込んできた。俺はススッと下がりながら、バーンと頭に引き面を食らわせてやったんだ。相手はあえなく降参だよ。

村井:ははは。

川添:「おまえ、強いな。うちのカフェでギターを弾いてくれていいよ」と言われて、すっかりジャックと仲良くなっちゃった。彼のライブカフェにはコンガを抱えて歌っている目の不自由な男がいたんだ。打楽器のコンガだけを伴奏に歌っていて、しかもやたらと歌がうまい。そいつが俺のギターを聴いて「教えてくれ」って言うんだ。​

村井:目の見えない人にどうやって教えるの。 

川添:彼の指を触って、これが​E​のポジション、これはAのポジションだとか教えるわけ。​E​をワンフレットずらせば​F​になるよとかね。そのうちに俺の教えたことなんかすぐに会得しちゃった。そいつは天才だったんだよ。自分でいろんなフレーズを作って、ギターを弾きながら歌うようになったんだ。 

村井:すごいね。 

川添:うん。その男が後にグラミー賞の最優秀新人賞を獲るホセ・フェリシアーノだったっていうオチなんだけどね。

村井:へえー。グリニッジ・ヴィレッジにはそんな天才がたくさんいたんだろうね。かつて世界の文化の中心といえばヨーロッパで、特にパリには世界中の芸術家が集まっていたんだよね。川添浩史さんが留学した1934年当時もまだパリが中心だったわけだけど、その頃からヒトラーが嫌だとか、あるいはフランコが嫌、スターリンが嫌だと言って、アーティストがどんどんニューヨークに集まってきたんだよね。

川添:そうそう、その通り。

村井:そこに象ちゃんもいたわけだ。

川添:うん。そんなアーティストたちが寄り集まっていたのがグリニッジ・ヴィレッジなのよ。理由は何かといえば、アッパー・ニューヨークの方は冷たいビルばっかりじゃない。

村井:まあ金持ちの住んでいるところだよな。

川添:溜まり場にならないわけ。ところがヴィレッジはヨーロッパのカフェみたいな店がいくつもあってさ。溜まりやすかったんだね。

村井:そういう場所は必要だね。キャンティもそうだもんね。

川添:うん。あらゆる芸術家がヴィレッジにいたわけよ。オノ・ヨーコさんもいたよ。

村井:その話を聞きたかったんだ。オノ・ヨーコさんとか、ヨーコさんがジョン・レノンと再婚する前の最初の旦那さん、ジョン・ケージに影響を受けた現代作曲家の……。

川添:一柳さん? 

村井:そう、一柳慧さん。象ちゃんは一柳さんに会っているの?

川添:何回も会っているよ。ヨーコさんが自分のロフトで開いたパーティーにも行ったなあ。当時はロフト文化の始まりなんだよね。ロフトって、つまり倉庫でしょ。倉庫をアーティストの自宅兼アトリエにするのが流行していたんだ。金がないから倉庫を借りて、思い思いに改造して使っていたわけよ。ヨーコさんもロフトを持っていて、そこでパーティーをやっていたんだ。変なパーティーでね。何千個という風船がフワフワと漂っていて、気が向いたら針で突いて割ったりするんだ。

村井:ウディ・アレンの映画にそういうシーンが出てきたね。そんなことをやっていたんだね、ヨーコさんは。

川添:うん。要するに、前衛芸術家をやっていたわけよ。

フラメンコギタリストとして過ごした日々

村井:ヴィレッジのアパートには、他にどんな人が住んでいたの?

川添:上の階にジャズのサックス吹きがいたんだけど、この野郎が朝からでかい音でサックスを吹きやがるんだよ。

村井:ははは。

川添:あんまりやかましいから、殴り込みに行ってね。「いい加減にしろよ」って言ったら、すごく大人しくて良いやつでさ、わ、わ、分かった、分かった、ごめん、ごめんってね。結局、何時から何時まではおまえがサックスを吹いていい、俺は下でギターを弾いているからってことで話がついたんだけど、相手は超有名なジャズミュージシャンだったんだよね。

村井:えーっ、誰だろう?

川添:モダンジャズの……。名前をど忘れしちゃった。

村井:黒人? 白人?

川添:黒人だよ。

村井:ハンク・モブレーかな。

川添:いや、エリック・ドルフィーだ。対談って、こんな話でいいの?

村井:最高だよ。

川添:そういえばガスライトっていうカフェがあってさ、そこで今晩、最近人気の出てきた男が歌うと聞いて行ってみたことがあるんだ。出てきたのはボブ・ディランだった。

村井:うわー、全く映画の世界だね。

川添:そうだよ。変な青年がハーモニカを首にくっつけて、器用にハーモニカを吹きながらギターを弾いて歌うんだ。変な歌い方だなあって思ったけどね。

村井:そんな男がノーベル文学賞を獲ったりするんだから面白いね。

川添:すごい人たちに次々と出くわしていたんだよ、俺はさ。 『フォレスト・ガンプ』の主人公みたいだよ。

村井:そうだね。川添浩史さんだって、モンパルナスにいた頃には象ちゃんと同じようにいろんな人と会って、カフェに溜まって……みたいな感じだったと思うよ。しかも留学した当時は21歳だったんだよね。象ちゃんもヴィレッジにいたのはそのくらいの年齢でしょう?

川添: 20歳から24歳まで。ほとんど親父と同じだね。

村井:ということは24歳までの間にジェームス・ジョイスの劇でヨーロッパツアーに行ったということだよね。

川添:そうそう。ミュージカル『​6​人を乗せた馬車』のミュージシャンとしてヨーロッパに行って、公演が終わってもヨーロッパに残った。その間にスペインへ行って、フラメンコを勉強したんだよ。正確にいうとね、まず『6人を乗せた馬車』の公演でスポレト舞台芸術祭に行ったでしょう。次にアイルランドのダブリンで舞台芸術祭があるんだけど、それまでに7カ月くらい間が空くことになったわけ。

村井:ああ、スペインにはその間に行ったのか。

川添:うん。伊藤貞司​とか、カンパニーの連中はいったんアメリカに帰っちゃったんだけど、俺はその間にスペインに足を運んだわけ。フラメンコをやりたかったからね。

村井:​1962​、​3​年の話かな。

川添:​1962​年。

村井:​まだフランコ独裁の時代だよね。

川添:真っ最中だよ。物騒なんだよね。空港にいると自動小銃を持った兵隊がうろうろしているんだ。税関で「おまえ、何しに来たんだ」って聞かれたから「フラメンコを勉強しにきた」と答えたら「嘘をつけ。中国人がなぜフラメンコなんだ」って言うんだ。それで「俺は日本人だ。いいから聴け」と言ってギターを取り出して弾いたら、やつら目を丸くしちゃってさ(笑)。俺はその足でマドリードの安宿に泊まって「フラメンコギターを弾きたい」と宿のおばちゃんに相談したんだ。フラメンコをやるナイトクラブがあるっていうから「その中で一番良い店を教えてくれ」って頼んだ。教えられたのがコラル・デ・ラ・モレリアっていう……。

村井:行った、行った。​そこ僕も行ったよ。10​年ちょっと前かな。うちの奥さんと一緒にマドリードを初めて旅したんだ。象ちゃんに電話したら、そこを教えてくれたんだよ。

川添:そうだっけ。良かっただろ?

村井:もう最高だったよ。ところでさ、フラメンコってどういうものなのか、よく知らない人にも分かるように解説してくれる?

川添:​オーケー。フラメンコっていうのは、スペインのいわゆる「ジプシー音楽」なんだよ。ロマの人たちの音楽と言った方がいいかな。ロマは流浪の民でね。インドで発祥して、まずアラビアに行き着くわけ。そこでアラブ文化を身につけて、スペインに渡る。スペインに定住したやつもたくさんいるんだけど、それ以外はヨーロッパ中に散っていくわけね。だから「スパニッシュ・ジプシー」とか「ハンガリアン・ジプシー」とか、いろいろあって、それぞれの国の言語を話し、独自の音楽を作るんだよね。スペインのロマの人たちはギターで音楽を作ったわけ。ハンガリーはバイオリンだな。

村井:象ちゃんはロマの人たちと一緒に何カ月か暮らしていたわけでしょう?

川添:うん。さっきの話に戻ると、夜の8時ごろコラル・デ・ラ・モレリアを訪ねていったんだけど、誰もいないんだ。スペインでは始まるのが午前零時だからね。

村井:そうだね。

川添:俺はギターを持って楽屋あたりをぶらぶらしていたんだけど、そのうちに踊り子やギタリストたちが次々と入ってきたんだ。ギタリストの1人が「なぜ中国人がここにいるんだ」って言うから、税関の時と同じようなやり取りをして、またギターを弾いたんだ。みんな目が点になっちゃってさ。

村井:そりゃそうだ。サビーカス直伝のギターだもん。

川添:そうそう(笑)。それでみんな集まってきてジャムセッションになっちゃったわけよ。仲良くなって、毎晩そこに通うようになったんだ。ある日、ギタリストの1人がいなくなってしまって、代わりにおまえが弾けよという話になった。それで俺はコラル・デ・ラ・モレリアのステージで3カ月ぐらい弾いていたんだよ。

村井:すごいねえ。象ちゃんは日本に帰ってきてエル・フラメンコ舞踊団を結成するんだよね。僕はまだ大学生だったけど、その手伝いをさせてもらった。踊りは長嶺ヤス子さんがいるし、ギターは象ちゃんがいるけど、歌う人は当時いなかったんだよね、日本に。

川添:そう、それでラファエル・オルテガを呼んできちゃった。

村井:そうだったね。その時の出し物で覚えているのは、詩人のガルシア・ロルカの詩で……。

川添:『午後の5時に』だね。あれはロルカが友人の闘牛士を追悼するために書いた詩なんですよ。その友人はすでに闘牛から引退していたんだけど、急きょ代役として引っ張り出され、深手を負って死んでしまうんだ。

村井:友を哀悼する詩なんだね。そういえば、みんなが「タンタン」と呼んでいた象ちゃんの義母の梶子さんはイタリア語の詩がすごく好きだったんだって?

川添:うん。そもそも『午後の5時に』をやるようになったのは、タンタンの影響なんだよ。彼女はイタリア語で詩を朗読するのが大好きだった。ロルカの『午後の5時に』の原詩はもちろんスペイン語なんだけど、ある日、彼女がこの詩のイタリア語訳を朗読していたのを俺が耳にして、長嶺ヤス子に「これやろうよ」と持ち掛けたんだ。 

村井:へえー、そうだったの。ロルカは川添さんの友達だった報道写真家のロバート・キャパがスペイン内戦の写真を撮っていた時期にフランコの軍隊に銃殺されるんだよね。​1936​年だったかな。 

川添:そうそう。 

村井:「モンパルナス1934」のために、今はそういう時代のことをいろいろと考えているんだ。 

川添:深い内容になりそうだねえ。

原智恵子と川添梶子、2人の母について

村井:ところで象ちゃんの2人のお母さんについても少し聞いておきたいな。実のお母さんは有名なピアニストの原智恵子さんだけど、象ちゃんはピアノを習わなかったの?

川添:実母は俺にピアノを弾かせたかったんだけど、本人が教えるのは面倒だったのか、弟子に教えさせたんだよ。ある日、何の気まぐれか、母がピアノを弾いてみなさいって言うんだ。俺が弾き始めると「テンポが違う」と言って弾き直させ、もう一度弾くと「また違っている」と手をたたくわけ。俺は家を飛び出しちゃってね。それっきりピアノはやめたんだ。バイオリンもやらされたけど、よく先生と一緒にパチンコ屋に行ったなあ(笑)。自分で自主的に始めたのはウクレレで、次がギターだったわけ。

村井:なるほどね。川添浩史さんの再婚相手のタンタン(梶子)についてはどうですか。キャンティの常連の多くはタンタンにあこがれていたし、僕にとっては美の女神のような存在だったな。絵画、彫刻、建築、洋服、その他のすべてにおいて、これは美しい、あれは醜いとズバリ言ってくれるんだよね。僕はかなり長くタンタンと一緒にいて、その選択を逐一聞いていたから、それが僕の美意識を形成したと思っているんだ。

川添:タンタンは彫刻の勉強をするためローマに行ってエミリオ・グレコの弟子になったわけだけど、グレコは梶子に対して師匠と弟子という関係を超えた感情を持っていたようだね。でもタンタンは同じアトリエの若いイタリア人と結婚するんだ。

村井:うまく行かなかったんだよね。

川添:うん。イタリア男が豹変して極端な亭主関白になったみたいで、タンタンは幼い娘を夫のもとに置いたまま逃げ出してきたんだ。今流にいえばDVなのかな。それでローマの日本大使館だか日本領事館だかにかくまわれていた時、川添浩史と出会ったわけ。

村井:川添さんはアヅマカブキのヨーロッパツアーの一環でローマを訪れたんだよね?

川添:そうそう。タンタンはイタリア語、英語、フランス語を流暢に話すから、親父は彼女をアヅマカブキの舞台に上げてナレーションを担当させたわけ。

村井:梶子さんは恋多き女性ではあったけれど、結局は浩史さんにぞっこんだったと僕は思っているんだけど。

川添:うん、そうだね。親父が亡くなった後、みんなで「タンタンは再婚すればいい」と無責任な提案をしていたんだけど「シロー・パパよりいい男を連れてきてくれたら考える」と笑って相手にしなかったものね。

村井:浩史さんの本名は紫郎で「シロー」と呼ぶ人もいたんだよね。「モンパルナス1934」は川添さん、つまり「シロー」という名の青年が主人公になるんだけど、最初のプロローグはタンタンに焦点を合わせて書くことになりそうだよ。

川添:1934年よりずっと後の時代、主人公の死後から始めるってことだね。

村井:そうそう。川添さんが亡くなったのが1970年で、タンタンの落ち込み方は激しかった。だから僕は少しでも気晴らしになればと思って、カンヌに連れていったんだよ。その場面から始めようと共著者の吉田俊宏さんと話しているんだ。

川添:そいつは楽しみだな。

村井:ありがとう。象ちゃん、今日はこのくらいにしておきましょう。またこういう対談をお願いしますよ。

川添:もちろん。キャパの弟のコーネル・キャパとか、女優のシャーリー・マクレーンの話とか、まだまだ話していないことがたくさんあるからね。

モンパルナス1934 キャンティ前史