村井邦彦×松任谷由実「メイキング・オブ・モンパルナス1934」対談
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リアルサウンド新連載『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』の執筆のために、著者の村井邦彦と吉田俊宏は現在、様々な関係者に話を聞いている。その取材の内容を対談企画として記事化したのが、この「メイキング・オブ・モンパルナス1934」だ。
第一回の細野晴臣、第二回の川添象郎に続き、第三回のゲストには村井邦彦が世に送り出したシンガーソングライターの松任谷由実(当時、荒井由実)が登場。今回の対談では、2020年12月1日に発売された松任谷由実の新アルバム『深海の街』に触れつつ、ふたりが出会った頃の日々を振り返りながら、キャンティの創設者である川添浩史の妻、川添梶子とのエピソードやその人柄について語り合った。(編集部)
※メイン写真:1976年、村井邦彦と松任谷由実の記者会見の模様
1920年に思いを馳せて
村井:あっ、ユーミンがマスクしてる。ロサンゼルスまで飛沫は届かないと思うよ。
ユーミン:ふふふ。別にしなくても大丈夫ですけどね。そちらの感染状況はどうですか。
村井:カリフォルニア州はひどくてね。累積感染者数は200万人に迫る勢いだし、死者は2万人を超えているんだよ。だから外出禁止、レストランも出前以外は全部だめ、学校も休み。床屋にも行けないんだ。
ユーミン:そんなにひどいんですか。
村井:うん。先日、ユーミンのニューアルバム『深海の街』のDVD付きバージョンを取り寄せて聴かせてもらいましたよ。
ユーミン:本当に? ありがとうございます。
村井:「知らないどうし」のミュージックビデオは面白かったな。監督はマンタ(松任谷正隆)だよね。彼は初監督なの?
ユーミン:そうなんです。
村井:才能あるよ、彼。
ユーミン:そうですか! ずっと街の中を走っている主役の男性がいるでしょう。玉塚元一さんっていって、有名な経営者なんですよ。ユニクロ(ファーストリテイリング)の社長をやって、その後にローソンの社長になったりして。
村井:俳優かなと思っていたけど、経営者なんだ。味のある人だね。
ユーミン:本物の俳優だとアメコミ(アメリカンコミック)の感じが出ないからって、松任谷(正隆)が口説き落としてやってもらったみたいです。
村井:『深海の街』を手にした時、まず目に留まったのは冒頭の「1920」だね。お母さまが生まれた1920年を意味しているんですって?
ユーミン:今年(2020年)で100歳になったんです。
村井:すごいね。100年前にもスペイン風邪が世界的に流行ったんだよね。
ユーミン:そうですね。スペイン風邪が流行し、ベルギーでアントワープ・オリンピックが開かれた。第一次世界大戦の直後で、ドイツやオーストリア、ハンガリー、トルコといった敗戦国は出られないから、閑散としていたらしいですよ。当時の二大人気スポーツは自転車、テニスだそうです。よく「狂騒の20年代」といわれますが、その時代にテニスコートって、何だか似合いますよね……って私が勝手に思っているんですけど。
村井:ああ、そうだね。テニスの黄金時代は20年代だもんね。
ユーミン:スポーツファッションの発祥が1920年代らしいです。フランスのテニス選手だったルネ・ラコステが、ポロ選手の着ていた服、いわゆるポロシャツですね、あれをテニスコートで着るようになったのが20年代で……。
村井:ああ、そうか、それでラコステ・ブランドが始まるんだね。そうだ、忘れないうちにお礼を言っておかなくちゃ。2015年のアルファミュージックライブではすごくお世話になったね。
ユーミン:とんでもない。
村井:ユーミンの発案でオーチャードホールのステージの床に紫色のじゅうたんを敷き詰めてね。
ユーミン:そうでしたっけ?
村井:そうだよ。ステージの後ろにオープンリールのテープをかたどった飾りをたくさんくっつけて。細野(晴臣)とか小坂忠とか大勢が集まってくれて、すごく楽しい同窓会ライブになったんだけど、2021年の僕の誕生日(3月4日)にDVDが出るんですよ。
ユーミン:松任谷がそのDVD用に寄稿したっていう文章をここに来る前に見せてもらいました。
村井:僕も読んだよ。何だか感動しちゃった。
ユーミン:文才のある人なんです。
村井:本当だね。ところでユーミンの曲は「1920」だけど、僕は『モンパルナス1934~キャンティ前史~』というタイトルで連載を始めたんです。
ユーミン:楽しみにしています。
村井:ありがとう。川添の象ちゃん(象郎)のお父さん、川添浩史さんの若い頃までさかのぼって、キャンティの前史を小説風に書いていきます。そのメインのストーリーとは別に、今やっているような対談を『メイキング・オブ・モンパルナス1934』として並行して載せていくつもりなんですよ。
ユーミン:「1934」は浩史さんの生まれ年ではなくて?
村井:生まれは1913年、パリに留学した年が1934年。浩史さんは早稲田高等学院に行っていたんだけど、学生運動をやって当局に捕まってしまうんです。
ユーミン:その時代の学生運動っていうと、テーマは何だろう。まだ安保の時代ではないし。
村井:その時代のインテリは全員マルキシズムにしびれるわけですよ。世の中を良くしようと思ったんじゃないの? ところが、次第にふつふつと疑念が湧き上がってくるんだね。特にソ連にスターリンみたいな独裁者が出てきて、ひどいことになってしまった。人々を幸せにするものだと思っていたのにね。川添さんの若い頃、マルキシズムにしびれて左翼運動に加わった人たちも、転向して極端な右翼になったり……。
ユーミン:転向しがちですよね。1970年代以降の「ヤンエグ(ヤング・エグゼクティブ)」と呼ばれた人たちだって「頭ヒッピー、体アイビー」みたいな感じがあったじゃないですか。
村井:あははは、うまいこと言うねえ。学生時代は左翼運動にのめりこんでいたのに、企業に入って資本主義の鬼みたいに変身するケースは多いよね。
ユーミン:そうですね。川添さんは左翼運動で日本を追い出されてパリへ行ったわけですか?
村井:うん。留学の裏にはそんな事情があったんだけど、川添さんはパリでいろんな面白い人たちに出会うんです。ル・コルビュジエの弟子になった建築家の坂倉準三さん、芸術は爆発だ!の岡本太郎さんとか、浩史さんと結婚するピアニストの原智恵子さんとか。そういう文化人の卵たちがモンパルナス界隈でわいわいやっていたわけですよ。
ユーミン:まだみんな学生ですよね?
村井:少し年上の人もいたけど、だいたい20代前半ぐらいで、うんと若かかった。そのグループにロバート・キャパという報道写真家も加わるんだけど、彼もハンガリーで左翼運動にかかわって国を追い出された経緯があって、川添さんと無二の親友になるんですよ。しかし戦争がみんなの運命を変えていくわけ。キャパはユダヤ人だから、パリにもいられなくなってアメリカに逃れる。アメリカ軍について行って戦場で撮影した中に、有名な「ノルマンディー上陸作戦」の写真があるんです。
ユーミン:川添さんは日本に戻ったんですよね。
村井:戦争が始まる少し前にね。戦争がキャパとの仲を引き裂いたともいえるね。戦後しばらくしてキャパが来日して、再会を果たすことになるんだけど。
ユーミン:原智恵子さんは?
村井:浩史さんとはパリで結婚しているから、一緒に帰国して1940年に象ちゃんを産んだわけ。原さんは一流のピアニストだから1日に6~8時間も練習するんだって。象ちゃんはお母さんが練習している間、ずっとピアノの下に潜り込んでペダルを見ていたから、孤独な子ども時代だったそうだよ(笑)。原さんはピアノ一筋で、だんだん夫婦の仲は疎遠になっていったらしいね。そんな時期に浩史さんは日本舞踊を世界に発信する「アヅマカブキ」の欧米ツアーに出て、ローマで梶子さんと出会うんだ。
ユーミン:原さんとは別れて、梶子さんと再婚する。
村井:そう。やがてキャンティが生まれ、僕も出入りするようになるんだけど、印象に残っているのは1969年に象ちゃんがブロードウェーから持ち込んだミュージカル『ヘアー』だな。
ふたりの出会い
ユーミン:TBSの裏の倉庫みたいなところで『ヘアー』のオーディションをやったでしょ?
村井:うん。僕、そこにいましたよ。
ユーミン:でしょ? そこに私も行ったんですよ。年齢が足りなかったけど。
村井:えーっ、オーディションを受けたの?
ユーミン:受けられなかったんです。13歳だったから。
村井:じゅ、13歳?(笑)。
ユーミン:でも、のぞきには行きました。
村井:そうかあ。興味があったの?
ユーミン:グループサウンズの追っかけを少し前にしていたんです。でもグループサウンズって、結局は作られたバンドじゃないですか。ところがザ・フィンガーズとか、細野(晴臣)さんたちがやっていたザ・フローラルというバンドとかを聴くようになったら、全然違うなって思ったんです。
村井:僕はその2つのバンドはよく知っているし、両方に曲を書いているよ。フィンガーズはギタリストの成毛滋とか、ユーミンをかわいがっていたシー・ユー・チェンのいたバンドだよね。ユキヒロ(高橋幸宏)のお兄さんもいたね。フローラルは細野、小坂忠、柳田ヒロとか、とにかく異色の人材がそろっていたなあ。宇野亜喜良さん(挿絵画家、グラフィックデザイナー)がプロデューサーだったしね。
ユーミン:そうですね。グループサウンズとは全く違うと思ったんですよ。この2つのバンドの方が音楽だって思えて。それで興味があったんです。そうだ、アオイスタジオでオーディションを受けさせてもらったんですよ、村井さんに。
村井:ええーっ? 僕、それ覚えてない。やばい(笑)。
ユーミン:「君、曲を書くらしいじゃない。じゃあオーディションテープを作ろうか」ということになり。でも、インスト(器楽曲)しか書いたことがないから、キーボードの柳田ヒロさんとか、ベースの武部チー坊さん(千原秀明、後に武部秀明)とか、うまい人を呼んでもらって、短いインストのテープを作ったんですね。
村井:覚えていないなあ。
ユーミン:たぶん、これじゃ商売にならないって村井さんは感じたんだと思います。「もっと普通の曲は書けないの?」と言われた覚えがありますから。
村井:あははは。録音している時に、僕もいたんだっけ?
ユーミン:録音したテープを後で聴かれたんだと思いますね。
村井:ああ、だからスタジオの記憶がないんだな。
ユーミン:赤い鳥の潤ちゃん(新居潤子、後に山本潤子)とトシ(山本俊彦)は紹介されたんですよ。その時、アオイスタジオで。たぶん同じレーベルの先輩ということで紹介されたんじゃないかな。
村井:誰が紹介したんだろう? アルファの社員がいたのかな。
ユーミン:ポリドールの本城(和治)さんがいました。
村井:フィリップスの本城さんね。
ユーミン:あ、フィリップスだ。
村井:僕のユーミンに関する最初の記憶といえば、その本城さんが加橋かつみのソロアルバムの2枚目をレコーディングしていた時だな。1枚目はパリで録音したんだけどさ、2枚目にも僕は曲を書いているんだよ、確か。
ユーミン:そうですね。
村井:自分の作った曲のレコーディングに立ち会った時、本城さんがユーミンの作曲した曲をかけていたんだよ、調整室で。
ユーミン:フィリップスって、ビクターってことですか?
村井:そう。ビクターの一部門だった。だからスタジオはビクターのスタジオ。
ユーミン:千駄ヶ谷のビクタースタジオ。まだ新しかったですよね。
村井:できたてのホヤホヤだった。
ユーミン:村井さんに初めてお会いしたのはそこです。
村井:僕が曲を耳にした時にユーミンはスタジオのどこかにいたんだね?
ユーミン:そうです。
村井:そうかあ。僕は聴いてすぐに気に入って「うちの専属になりませんか?」って、その場で言ったってことだよね。
ユーミン:はい。その時、(川添)梶子さんもいらしたんですよ。
村井:ええーっ?
ユーミン:梶子さんが村井さんの隣に座って……。
村井:スタジオに梶子さんと僕が一緒にいたわけ?
ユーミン:そう。その時に村井さんとも、梶子さんとも初めてお会いしたんですよ。
村井: 梶子さんは広尾の一軒家に住んでいたんだけど、浩史さんが1970年1月に亡くなってから青山にアパートを借りて住むようになった。ビクタースタジオのすぐ近くだったんだよね。
ユーミン:はい。お部屋にお邪魔したこともあります。
村井:ユーミンの『MISSLIM』のジャケットはあそこで撮ったんだよね。
ユーミン:私、そのあたりの記憶が混濁しているんですよ。同じ青山でも、梶子さんは後にもっと絵画館の方面に移られますよね?
村井:いや、僕の記憶ではビクタースタジオの近くから動いていないと思うよ。
ユーミン:本当に?
村井:当時、絵画館の正面の青山通り沿いにイヴ・サン=ローランのリヴ・ゴーシュというプレタポルテの店ができたんだけど、梶子さんはサン=ローランの日本の代表でもあったから、よくその店にいたんだよ。ユーミンの記憶にあるのは、そこじゃないかな。
ユーミン:じゃあ『MISSLIM』のジャケットを撮ったのは、アパルトマンの方ですね。千駄ヶ谷駅とベルコモンズのあった交差点の間の。
村井:そう。ベルコモンズの交差点からビクタースタジオの方に下りてきて、少し右に入ったあたりだね。そのジャケットに古いピアノが写っているでしょ。あれは花田美奈子さんという梶子さんの大親友の持っていたピアノなんだよね。紙のロールが入っている。
ユーミン:自動ピアノでしたね。
村井:そう、自動ピアノ。花田さんが転居する時、引っ越し先にピアノを置くスペースがなかったらしくて、梶子さんが引き取ったんだ。
ユーミン:その撮影のスタイリングは梶子さんがしてくださったんです。それこそリヴ・ゴーシュでした。
村井:ああ、やっぱり衣装はサン=ローランなんだ。
ユーミン:ただ、モノクロの写真ですからね。黒のイブニングドレスみたいに見えるんですけど、実はカットソーなんです。スカートはサテンのマキシスカート。その姿でピアノを弾いていると、イブニングドレスみたいに見えるんですよ。
村井:いい衣装だよね。
ユーミン:そうですね。後に「おしゃれなんだ」って思いました。残しておけばよかったんだけど、もう入らない。細くて。
村井:あははは。
ユーミン:当時はすごく細かったから。でも、それでもアーカイブとして取っておけばよかったなって、本当に後悔しているんです。
村井:今、1970年代くらいのサン=ローランの骨董ものはあちこちでかなり高く取引されているから、探せばあるんじゃないの?
ユーミン:案外、パリよりロサンゼルスにあったりするかもしれませんね。ハリウッド映画のプロのスタイリストだけが行くようなヴィンテージショップがメルローズアベニューとかにありますから。
村井:ユーミンにそういう店に連れていってもらったことがあるよね。
ユーミン:そうでしたね。
川添梶子にかけられた言葉
村井:『MISSLIM』の撮影の時は、梶子さんといろんな話をしたの?
ユーミン:割と可愛がってもらって「うち、来なさいよ」とか言っていただいていたのでね。ただ、訪ねていっても「そこらで遊んでなさいよ」みたいな感じでしたけど。
村井:ユーミンのこと、好きだったからじゃないの?
ユーミン:あのね、なんか期待してくださっていた。
村井:才能を見抜いていたんだろうね。
ユーミン:そうですかね。そのピアノのあるアパルトマンまで訪ねて行った時、ちょうどテレビがついていて、当時抜群に人気のあった女性のアイドル歌手が出てきたんですよ。私が「わあ、すごーい」みたいなことを言ったら、梶子さんは「あなたはこんなもんじゃないわよ」って(笑)。あれはすごく励みになっています。
村井:やっぱり期待されていたんだ。
ユーミン:そうかも。
村井:梶子さんは18歳か19歳くらいで二科展に彫刻で入選して、彫刻を学ぶためにイタリアに留学しちゃうんだ。あれはすごいよ。戦後すぐの1947年ぐらいだから、まだ占領下にあって日本国のパスポートがないわけよ。進駐軍のヘッドクウォーター(総司令部、GHQ)から「Occupied Japan(占領下の日本)」のパスポートをもらわなくちゃいけない。
ユーミン:進駐軍と交渉するなんて大変ですよね。
村井:梶子さんは聖心女子学院を出て、英語が得意だったから、進駐軍専用劇場のアーニー・パイル(現在の東京宝塚劇場)に就職してアメリカ軍の将校の秘書になったらしいね。それで伝手があったんだろうな。イタリアで彫刻家のエミリオ・グレコに師事する。だから基本的には彫刻家だよね。衣類なんかは立体的なものじゃない?
ユーミン:そうですね。
村井:仲間の結婚式の衣装とかから始めて、ザ・タイガースのステージ衣装とかを手がけるようになったんだよね。
ユーミン:キャンティの1階で梶子さんがやっていたブティックのベビードールにもちょろちょろ遊びに行きました。竹ちゃん(竹山公士)がいて。
村井:竹ちゃんかあ、懐かしいな。ベビードールで梶子さんの助手としてデザインを担当していた竹山公士さんね。
ユーミン:そうそう。今でいうセレクトショップだったじゃないですか。
村井:うん。
ユーミン:あの店でちょろちょろしていると、梶子さんから「あなた、そんな安っぽいものを着ないで、10回我慢していい物を着なさい」と言われたことがあります。
村井:それ僕も言われたよ。当時流行っていたブランドの安いジャケットを着ていたら「ふん」って言われてさ(笑)。「こんなもの、着るんじゃないの」って叱られて、参ったなあって思ってさ(笑)。みんなに言っていたんだね、そんなふうに。
ユーミン:そうですね。
村井:自分の周りにいる人たちが綺麗な格好をしているのが好きなんだよ。そういえばユーミンもアートスクールだよね?
ユーミン:はい。多摩美(術大学)というところで……。
村井:結構、まじめにやっていたの?
ユーミン:まじめにやっていたんですよ、2年くらいは。受験のために。日本画なので準備はとても必要だったんですね。
村井:えーっ、日本画なの?
ユーミン:はい。大学に入ってからはほとんどまじめにやらなかったけど。
村井:『ひこうき雲』のアルバムに何か描いていたよね。
ユーミン:ブックレットに描きました。
村井:上手いなって思ったけど。
ユーミン:実は鉛筆なんだけど、エッチングみたいな仕上がりにしてもらったんです。地が黒い紙だったので。
村井:ああ、覚えてる。
ユーミン:宮崎駿監督の『風立ちぬ』というアニメーション映画がありますが、私がそのヒロインのモデルになったという説があるんです。ヒロインは麦わら帽子をかぶっているんですけど、『ひこうき雲』のブックレットに載せた写真の私も麦わら帽子でしょう。あれは花田さんのお宅で撮影したんですよ。村井さんは現場にいらっしゃらなかったと思うけど。
村井:軽井沢の?
ユーミン:そう。
村井:あの写真のユーミンが『風立ちぬ』のヒロインのモデルになったの?
ユーミン:そういう説がある。でも、自分でも整合性があるなと思うのは、その当時の私よりちょっと年上の男性方は病弱な少女が好きですよね。
村井:あははは。
ユーミン:高原のサナトリウムにいるような。
村井:そういう人もいるよね。堀辰雄なんかもそういうのが好きだったんだろうね。
ユーミン:宮崎監督たちもきっと好きなんですよ。私自身は全然そうじゃないんだけど。そういえば軽井沢で撮るって、村井さんのアイデアだったんじゃないですか?
村井:そうだよ。僕のアイデアで、僕の最初の奥さんが衣装を見立てた。
ユーミン:そうでしたね。でも、そういう虚像を作ったんですよ(笑)。
村井:ははは。ところで宮崎監督が種明かししたわけ? あなたがモデルなんだよって。
ユーミン:いろいろな状況証拠を照らし合わせると、どうやら誤解されているようですね。私自身の作られたイメージ、「ひこうき雲」のイメージが強くて。確かに作っている曲は、雲だの、雨だの、霧だのって、ファジーな、眠たいような、少しダークな曲だったじゃないですか。内省的というか。
村井:そうだね。僕は映画も見ましたけど、あれは1940年代の戦時中の話で、ユーミンの「ひこうき雲」は1970年代の曲なんだけど、ぴったり合っているんだよね。
ユーミン:本当にそうですねえ。寄せてくださったところもあります。
村井:向こうの方が?
ユーミン:うん。『風立ちぬ』は堀越二郎さんっていう零戦を設計した人の物語ですよね。そこに堀辰雄の『風立ちぬ』も取り入れられている。
村井:うん、うん。
ユーミン:堀越さんのお孫さんにお会いしましたけど、かくしゃくとされていて、この方のお祖父さまだから、本当に当時のエリートだったんだろうなと思いました。あの時代に航空力学とかやっちゃうんだから。
村井:実はね、僕の父も飛行機の設計をやっていたんですよ。
ユーミン:ええっ? そうなんですか。
村井:日大の工学部でね。当時、航空学科って日大と帝大ぐらいしかなかったのかな。それから海軍機関学校に行って技術将校になった。
ユーミン:当然、太平洋戦争にもかかわっていらっしゃる?
村井:うん。でも、設計だから前線には出ないんだけど。自分でも飛行機に乗ったしね。
ユーミン:そういえば、村井さんご自身が花田さんの別荘に住んでらした時期がありますよね。
村井:うん。15年くらい、軽井沢に住んでいました。
ユーミン:何度か遊びに行ったことありますよ。
村井:そうだっけ。ああ、思い出した。一緒に碓氷峠のてっぺんまで行ったね。テニスもやったかな。
ユーミン:私はできないんですけど、松任谷がやりましたね、テニスは。
村井:そうか、テニスはマンタとやったんだ。いろいろなことがあったよね。
ユーミン:1980年代前半の軽井沢ですよ。
村井:懐かしいねえ。梶子さんのことで、もっと思い出すことはある?
ユーミン:やっぱりベビードールだな。女性がマニッシュな(紳士風の)スーツを着ることが格好いいというのはその時に学びました。
村井:ユーミンが着ると、背が高いから格好いいんだ。脚が長いし。
ユーミン:そうですか? 竹ちゃんに作ってもらいました。チョークストライプのスーツ。
村井:ユーミンがチョークストライプを着ると、ますますスラッとして格好いいよね。
ユーミン:ありがたいことです。村井さん、テーラーとパーラーって人たちがいたでしょ。覚えていないですか(笑)。
村井:えーと、誰だっけ?
ユーミン:ご兄弟なんですよ。弟さんが喫茶店をされていて、お兄さんが村井さんのスーツを仕立てていた。
村井:ああ、テーラーってあだ名の。いた、いた、思い出した(笑)。
ユーミン:洋服屋と喫茶店の兄弟だからテーラー、パーラー。
村井:テーラーは腕が良かったんですよ。テーラーでは作らなかったの?
ユーミン:テーラーでは作らない。竹ちゃん(笑)。ちょっと訛っていていい人でした。そうだ、梶子さんから衝撃を受けたことがあるんですよ。
村井:何だろう。
ユーミン:ピアノのあるアパルトマンに遊びに行っていた時代ですけど、ある日、梶子さんに電話がかかってきて、どうやら相手は映画関係者らしいんです。梶子さんがすぐ誰かに電話をして「あなた、出ない?」とか「こういう映画があるんだけど、アフリカ行かない?」なんて話しているわけ。ほんの10分か15分でショーケン(萩原健一)がやってきた(笑)。
村井:そのアパートに?
ユーミン:そうそう。後に『アフリカの光』という映画になったんです。「映画って、こういうところで、こんなふうに決まっちゃうんだ。格好いいー」って思いました(笑)。
村井:あははは。でも、そういうものだと思わない?
ユーミン:うん、そうですよね。今なら分かるんだけど。
村井:当時はびっくりしたんだ(笑)。
ユーミン:びっくりしました。全身が好奇心みたいだったから、面白かったですね。
『深海の街』ジャケットに込められた意味
村井:2021年はツアーがたくさんあるんですって?
ユーミン:9月から予定しています。ツアーができる世の中になっていたらいいなと思います。
村井:なっていたらいいね。何がキーになるんだろう? ワクチンかなあ。
ユーミン:何でしょうね。ワクチンができても、もう戻らないものってあるじゃないですか。でも、ワクチンは大きいんじゃないですかね。
村井:新作の『深海の街』でもう1つ印象的だったのはアルバムジャケットだな。潜水服を着て抱き合っているじゃない? あれはコロナの時代を表しているよね。
ユーミン:そうですね。まさに時代を表したジャケットだと思います。
村井:本当はスキンシップしたいのに、分厚い潜水服を着ていて、それでも抱き合いたいみたいなね。
ユーミン:その通り、それでもつながりたいっていう意味です。「愛しか残らない」というキャッチコピーがついています。
村井:なるほどね。
ユーミン:12月1日に発売だったんだけど、40年前の1980年12月1日に『SURF&SNOW』っていうアルバムを出しているんですね。リゾートアルバムで男の子と女の子がキスしているイラストがジャケットに描かれていたんです。40年後の『深海の街』では潜水服を着て抱き合っている。
村井:そういうのは全部ユーミンが考えるの?
ユーミン:主に松任谷ですね。
村井:なかなかのアイデアマンだねえ。
ユーミン:全部プロデュースされています。天才だなと思います。
村井:天才だねえ。映画監督になるといいね。
ユーミン:好きみたいですけどね。最近、すごくカメラにはまっていて。
村井:スチール?
ユーミン:スチール。内輪のコンテストみたいなので、よく優勝していますよ。
村井:それは楽しみだね。
ユーミン:村井さんのご子息(ヒロ・ムライ、ゴールデングローブ賞とグラミー賞を受賞)のようにムービーの方に行くにはどういう手順を踏むんですか。手順も何もなく?
村井:ヒロは子どもの頃から絵が好きで、年がら年中、描いていた。中学になったらビデオカメラをいじり出して、そこから自分でずっと作っていたんだよね。忍者の映画とか(笑)。
ユーミン:ロサンゼルス育ちの日本人だからニンジャという発想になるのかな?
村井:それもあるけど、アニメの『忍者タートルズ』(ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ)とか、こっちで流行っていた番組があったしね。ヒロの映像で印象に残っているのが、まだ高校1~2年の時の作品かな、彼の友達が必死に走っているわけ。ひたすら走るだけの映像で、何だか怖いんだよ。
ユーミン:どうなっちゃうんだろう。
村井:最後はトイレに飛び込むの。おなか壊したって(笑)。そんな映像を作っていた。だから手順じゃないんだろうね。だって、マンタの「知らないどうし」の映像を見て、例えば僕がいいなと思ったりすると、それが伝わって「今度こういう仕事やらない?」って、誰かから声がかかるかもしれないじゃない。
ユーミン:よく言っておきます。喜ぶと思います。いや、喜ばないかも。当たり前だと思っているから(笑)。
村井:そういえば、スピードに行ったってアルファミュージックライブで話していたじゃない? スピードって、今の若い人は分からないかな。六本木のロアビルの向かいにあった最初期のディスコティークなんだけどね。
ユーミン:行きましたね。
村井:柳田ヒロが中国風の刺繡のついた靴を履いていたって。
ユーミン:そうですね。忠(小坂忠)さんと、ヒロさんと、細野さんと、ドラムは松本隆さんかなあ。ザ・フローラルと後身のエイプリルフールのメンバーが私の中でごっちゃになっていますけど。とにかく私はシー・ユー(・チェン)にくっついて、あっちこっちに行っていました。
村井:スピードには福沢幸雄(福沢諭吉のひ孫、カーレーサー)なんかもよく行っていたのに、どうして僕はあんまり行かなかったんだろう。忙しかったのかな。
ユーミン:村井さんはああいうところで踊るタイプの人じゃないですよね。
村井:まあ、そうかな(笑)。だから行かなかったのかも。大きいな店じゃなかったよね? 何人くらい入れたんだろう?
ユーミン:50人でギューギューじゃないですか。
村井:シー・ユー・チェンに連れられて、ユーミンも踊っていたの?
ユーミン:踊るというか、見ていましたね。観察していた。カルチャーショックだったんですよ。よく「ユーミンは子どもの頃から足繁くキャンティに通っていた」みたいなストーリーにされちゃうんですけど、そんなに行けるほどお金があるわけないんです。キャンティの裏にスペイン村ってあったのを覚えていませんか?
村井:ああ、作曲家の浜口庫之助さんが住んでいた。福沢幸雄もいたね。
ユーミン:そうです。ミュージカル「ヘアー」の連中がコミューンみたいにして暮らしていたんです。私はそこに入り浸っていました。
村井:そうなんだ。ああ、そろそろ話し始めてから1時間近くになるね。またこういう対談の機会を持ちたいと思うんだけど、今日はこのあたりにしておきましょう。忙しいところありがとう。体に気をつけて、ますますのご活躍を。
ユーミン:こちらこそ、ありがとうございます。村井さんもどうぞお気をつけて。