小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード2 マルセイユーカンヌ 村井邦彦・吉田俊宏 作
音楽
ニュース
村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード2では、川添紫郎(浩史)が神戸から長い船旅を経て、1934年のフランス・マルセイユに降り立つ。(編集部)
エピソード2
マルセイユーカンヌ ♯1
「さあ、いよいよマルセイユだ」
川添紫郎は甲板で地中海の風に吹かれていた。
「神戸を出てちょうど30日ね」
香港をすぎたあたりで仲良くなった森田富士子が言った。彼女も一等の客だった。一等の切符を手にした若い日本人は21歳の紫郎と20歳の富士子だけで、後は初老の夫婦やヨーロッパに帰る白人ばかりだった。すっかり小麦色になった紫郎とは対照的に、彼女はほとんど日焼けしていなかった。
「富士子さん、今日はあの日と同じブラウスだね。それにしても驚いたな、君の勇気には」
「ふふ、服装まで覚えているのね」
「忘れるわけないさ。あの日はその長い髪を女剣士みたいに後ろで結んでいたよね」
遠くから汽笛が聞こえる。カモメが騒いで、紫郎の声も大きくなった。
「気合を入れるときに結ぶのよ」
「あのときの君はまるでジャンヌ・ダルクだったな」
2人の乗ったフランス船には恐るべき階級制度が存在していた。一等は個室、二等は4人部屋、三等は大部屋だった。一等、二等の船室は喫水線より上にあるため丸い窓から海が見えるのだが、喫水線の下にある三等に窓はなく、しかもエンジンルームに近いから、船が走り始めるとひどい騒音と熱気に悩まされる。
二等の甲板にプールがあった。一等の客は自由に使えるが、二等の客が使える時間は限られていた。三等の客にいたってはプールへの立ち入りさえ禁じられていた。
あの日、あまりの暑さに耐えかねた三等の若い客がこっそりプールに潜入したのである。
プールサイドに寝そべっていた紫郎はその男をぼんやりと眺め、見かけない顔だなと思っていた。すると1分もしないうちに3人の船員が飛んできて、あっと言う間に上流階級への闖入者を引きずり出してしまった。
紫郎は半身を起こして身構えた。握りしめた拳に力が入る。あの夜を思い出して、怒りと恐怖が同時に襲ってきたのだ。牛込合羽坂の屋敷に特高が乗り込んできたあの夜……。
「ひどいやつらだ」
以前の紫郎なら迷わず突撃していったはずだ。どうした、紫郎。正義はどこにある。見て見ぬふりをするのか。もう一人の自分がいきり立った。紫郎は額の汗をぬぐって腰を上げた。
立ち上がった紫郎の前を大股で風のように横切り、船員たちの前に立ちはだかった背の高い女がいた。それが富士子だった。インド洋と同じ色をしたスカートに純白のブラウスが良く似合っていた。
「その人を放してあげて。代わりに私が三等に行きます。それで文句はないでしょう」
富士子は海面に砕け散る荒波のように言い放った。紫郎は北斎の「神奈川沖浪裏」を思い出した。あの背の高い女とは少しだけ言葉を交わしたことがあった。森田富士子と名乗り、パリで絵の勉強をすると言っていた。か弱いお嬢さんだろうと思ったが、とんだ勘違いだったようだ。
「ま、待ってくれ。三等には僕が行こう。僕も一等の客だ」
富士子と船員の間に割って入った紫郎が言った。
近くで見ていた赤ら顔のフランス人が「ブラボー」と叫んだのを合図に、周囲の客から拍手と歓声が巻き起こった。正義に対する喝さいではなく、退屈しのぎの野次馬だろうと紫郎は思った。
「放っといてくれ。一等の客に同情されるなんて、冗談じゃないぜ」
船員に腕をつかまれたまま男が叫んだ。彼は自ら進んで連行され、三等の甲板に放りだされた。
「あの人ね、捕まった男の人。あの後、また偶然会ったのよ。スエズ運河を通った日だったかな。三等の食堂まで下りていったら、私の目を見ずに話しかけてきたの。ありがとうって言われたわ。本当はうれしかったって」
「へえ、そう。それにしても富士子さんはなぜあんな啖呵を切ったの?」
「うーん。嫌いなのよ、ああいうの。三等だけ差別して、しかも暴力的に排除するなんて。あっ。ねえ見て、マルセイユの港よ」
「うん、やっと着いたね。富士子さん、君はデュマの『モンテ・クリスト伯』を読んだことはあるかい」
「モンテ・クリスト? 『巌窟王』ね。もちろんよ」
「あそこに見えるのがイフ島だよ。主人公が無実の罪で入れられた牢獄がある」
紫郎は多くの船が行き交う先に浮かぶ白亜の要塞をにらみつけた。
「あら、ずいぶん怖い目をするのね」
「君には何もかも話してしまいたくなるね」
「ねえ、聞かせて」
「ここじゃ、まずいな」
紫郎は彼女の耳元に近づいてささやいた。長い黒髪からレモンのような香りがした。
「ずっと僕を見ている男がいる。後ろのベンチで本を読んでいるやつさ。気づいたのは3日前だけど、そういえば前から見張られていた気がするんだ。特高かもしれない。きっとそうだ。いつも薄ら笑いを浮かべているけど、目は笑っていない。あれは特高の目だ」
紫郎は声をひそめていった。
「痩せぎすの30ぐらいの男でしょ。カラスのように黒い服ばかり着ている」
「あいつ、知っているの?」
「知らないわよ。私も薄気味の悪い人だなと思っていたの」
「場所を変えよう」
紫郎は富士子を連れて二等の甲板に下りた。
「あいつ尾行してきたかな」
「大丈夫みたいよ。ねえ、話して。特高警察がどうしたの。誰か捕まったの?」
「捕まったのは僕さ」
紫郎は2年前、1932年の出来事を富士子に打ち明けた。
彼は早稲田第一高等学院の学生だった。映画や演劇に入れ込むうちに、左翼運動にかかわるようになった。仲間には後に映画監督として大成する谷口千吉や山本薩夫、フジサンケイグループのトップになる鹿内信隆らがいた。
「仲間たちが僕の家なら大丈夫だろうって言って、マルクスやレーニンの本をたくさん隠していたんだよ。床下につるしたりしてね」
「なぜシローの家なら見つからないと思ったの」
「僕はね、後藤象二郎の孫なんだ」
「後藤って、あの幕末維新の?」
「そう。まあ、訳ありでさ、いろいろあって僕は土佐藩の筆頭家老だった深尾家に引き取られて、養子として育ったんだ。深尾の親父は今や大阪商船の副社長で貴族院議員でもあるから、そんな人の邸宅なら官憲の手も及ぶまいと彼らは考えたんだな」
「でも、特高に踏み込まれたのね」
「誰かが密告したのか、そのあたりは今もって謎なんだけどね。床下から『共産党宣言』とかがわんさと出てきたから、動かぬ証拠だよ。それであのプールの男と同じように家から引きずり出されて、牛込署の留置場にぶち込まれたわけさ。こん棒で殴られて拷問されるって聞いていたから、連行されるときセーターを3枚も重ね着していったんだ」
深尾家は娘の淑子と結婚したばかりの小島威彦に相談した。小島は哲学者の西田幾多郎を慕って東京帝大から京都帝大哲学科に移り、京大大学院を出た秀才で、文部省の国民精神文化研究所哲学研究室の助手をしていた。
「威彦さんは牛込署まで飛んできてくれて、その足で正木亮という旧知の検事に会いにいったんだよ。正木さんは『モンテ・クリスト伯』の主人公を監獄送りにした検事とは正反対の素晴らしい人なんだ。『囚人もまた人間なり』が持論でね。威彦さんほどのインテリが『最も尊敬する先輩』というだけのことはあるよ。正木さんが手を回してくれて僕は不起訴になり、翌日に釈放されたんだ」
釈放の条件は「紫郎をフランスに留学させること」だった。
「あなたはラッキーな人ね。さすが後藤象二郎の孫ってところかな。ところで、大人しくフランスに旅立ったんだから、もう特高が川添紫郎をマークする必要はないんじゃないの」
「そう思っていたんだけどね。しつこいやつらだ。まだ僕を疑っているんだよ、きっと。フランスで共産党の連中と合流するんじゃないかとかさ。僕はマルキシズムより映画に興味があるんだ。本当さ。映画や演劇の方が世界を変えられるんじゃないかという気さえしているんだ」
「あら、ずいぶん理想主義なのね」
「理想がなくちゃ、現実は変わらないさ。このままカンヌに行く予定だったんだけど、特高さんなら先刻ご承知だろうな。よし、予定変更だ。富士子さん、一緒にパリへ行っていいかな? 道中で僕の考えを話すよ」
紫郎がそう言った瞬間、船が大きく揺れた。どうやら着岸したようだ。富士子は目を見開いて、困った顔をして首を振っている。エンジンが止まった。
「富士子さん、僕と一緒では嫌かい? あの特高のカラスはきっと先回りしてカンヌ行きの汽車に乗るはずだ」
マルセイユの空は地中海と同じくらい青く、雲はひとつもなかった。しかし、紫郎の心には濃い霧がかかっていた。石灰質の白い丘の上にそびえ立つノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂の鐘楼が青空に浮かんで見える。しかし観光している暇はない。一刻も早くカラスの尾行から逃れなければ。
エピソード2
マルセイユーカンヌ ♯2
紫郎はマルセイユ・サン・シャルル駅の柱の陰で手洗いに行った富士子を待っていた。駅の外からアコーディオンの調べが聞こえてきて、耳なじみのある曲だと紫郎は思った。「サ・セ・パリ」だ。パリ行きの汽車の出発時刻が迫っているのに、富士子はまだ戻ってこない。もう10分以上も待っている。
「遅いな、富士子さん……」
と、その瞬間、紫郎は息をのんだ。改札の向こうに、小走りする富士子の後ろ姿がちらりと見えた。長い髪を後ろで結んでいる。その後を特高カラスがひたひたと追っていた。
「ふ、富士子さん!」
走り出そうとした紫郎を「パルドン、ムッシュー」と駅員が呼び止めた。
「悪い、急いでいるんだ」
駅員は強引に紫郎を押しとどめ、紙きれを手渡した。日本語の走り書きがある。
「ごめんなさい。追われているのは私です。説明している時間はありません。あなたはカンヌへ行って。どうかお気をつけて。フジコ」
紫郎は紙きれと動き出す汽車を交互に見ながら、しばらく息をするのも忘れていた。
ジェノヴァ行きの列車がマルセイユを出発した。空いている席にどっかりと腰を下ろして、紫郎は大きくため息をついた。自分はすべてを打ち明けたのに、富士子はなぜ話してくれなかったのか。あのカラスのターゲットは自分ではなく、富士子だった。もう追ってはこない。紫郎はどこか安堵している自分に腹が立った。
紫郎を乗せた汽車は海岸沿いを東に向かってゆったりと走っている。延々と続く海岸にはゴツゴツした岩が露出して、穏やかな地中海の波に洗われていた。初夏の強い日差しを受けた波がキラキラと輝いている。
内陸に入ると小さな谷や丘の斜面のいたるところにツル薔薇の森が見えた。ツル薔薇は生垣や壁をはい上がり、屋根や樹木に広がって赤や白の花を咲かせている。バラの周りにはオレンジやレモンの木々が立ち並び、白い花を咲かせていた。早くも金色に輝く実をたわわにつけている木も見える。
紫郎は中学の頃に読んだモーパッサンの短編小説『ロンドリ姉妹』を思い出した。主人公は紫郎と同じようにマルセイユからジェノヴァ行きの汽車に乗ってコート・ダジュールの海岸線を走るのだ。モーパッサンはこう書いている。(※)
「まさに薔薇の楽園であり、オレンジやレモンの花咲く森だ」
「ここは香りの王国でもあり、花々の祖国でもある」
紫郎は愛読した本に描かれていた情景が、こうして実際に存在していることに胸を打たれた。今までこんなに豊かな自然は見たことがなかった。
「ああ、なんて美しいんだ」
紫郎は思わず小さくうなった。
汽車はいくつもの丘を上ったり下ったりして、海沿いの崖の上に出た。窓を少し開けると紺碧の海から潮の香りが入ってきた。日本でも経験のある匂いだが、時折、レモンの花の強烈な悩ましい甘い香りが混じって漂ってくる。
紫郎は富士子の長い髪を思い出した。彼女は髪を後ろに結んでパリ行きの列車に駆け込んだ。「気合を入れるときに結ぶ」と言っていたから、決意の末の行動だったに違いない。
「やあ、どうも」
紫郎の向かいに若い男が座って、にこりと笑った。プール事件の男だった。
「き、君はあのときの」
「なんだよ、幽霊を見たような顔をして」
プールでは紫郎より年下に見えたが、少し年上かもしれない。男は村上明と名乗り、明治大学を休学してイタリアで彫刻を勉強するのだと言った。
「あの背の高い美人と一緒じゃなかったのか」
「ああ、船で知り合って、ちょっと仲良くなっただけさ。そういえば、あの後、君からお礼を言われたって聞いたけど」
「えっ、お礼だって? 俺が? まさか、冗談だろ。君はあの女のことをどのくらい知っているんだ」
「パリに行って絵の勉強をするって聞いたけど……」
「俺はあの女を東京で見たことがあるんだ。明治の1年先輩に林田っていう官憲にマークされているマルキストがいるんだけど、彼と一緒に活動していた妹だ。間違いない」
紫郎は耳を疑って、しばらく沈黙した。
「なんだよ、何も聞いていなかったのか。まあ、話すわけがないか」
「彼女は森田って名乗ったんだが」
「そいつはいいや。林田のはずだ。木を1本植えたんだよ。君に気があるって意味かもな」
村上はクスクス笑って、話を続けた。
「あの女はちょくちょく三等の食堂に現れていたんだ。一等の食事は肩が凝るって誰かに話しているのが聞こえたから、それは本当だろう。一等は昼も夜もコース料理なんだろう? ボルドーのワインが1人に1本付くと聞いたぞ。ブルジョワだな。まあ、とにかくあの女は長身の美人だから目立つのさ。何度か見かけて、やっぱりあの林田の妹だって確信したよ。ヨーロッパ人みたいな大きな目が兄貴にそっくりなんだ。それで問題はそこからさ。遠くからじっと彼女を見ている男がいたんだよ。あの女が来るたびに、毎回、姿を現すんだぜ。怪しいだろう? にやけた妙な野郎だった」
「痩せぎすの30ぐらいの男じゃないか?」
「そうそう。なんだ、君は知っていたのか」
「いや、確信は持てなかったんだけど」
「俺は彼女に言ってやったんだよ。妙な男に尾けられているようだから、気をつけろってね。あの女は笑って相手にしなかったけど、どこか心当たりがありそうな顔をしていたな。林田の兄貴の方は特高に捕まったって噂に聞いた。あの痩せぎす野郎も特高だな。海外に逃げた妹を追ってきたんだ」
紫郎は髪をかきむしり、拳で自分の膝をゴンゴンとたたいた。思い出したように顔を上げ、村上の身なりを上から下までまじまじと眺めた。
「おいおい、なんだよ、男に見つめられてもうれしくはないぜ」
この男も特高ではないかと紫郎は疑ったが、確かめる方法はなかった。
「おい、川添君と言ったな。俺は第六感には自信があるんだけどさ、君も見張られているんじゃないか?」
村上の言葉が紫郎の急所にぐさりと刺さった。列車は何度かトンネルを抜け、いくつもの岬を越えながら、相変わらず美しい海岸沿いを走っていた。
「み、見張られているって?」
「ああ、そうさ。あとでゆっくり後ろを見てみろ。向こうの車両に高そうな背広を着て紺のネクタイを締めた40ぐらいの東洋人が座っている。いや35ぐらいかな。恐らく日本人だ。俺が君の前に座ったとき、一瞬だが驚いたような顔をした。ずっとこっちの様子をうかがっている気がする。フランスの新聞を広げているが、さっきからページをめくった形跡がない」
紫郎は村上の注意力と観察力に感心した。
「あの船の客だったのか」
「いや、見かけなかったな。マルセイユで待ち構えていたんじゃないか」
「まさか」
「そもそも君は官憲にマークされる覚えがあるのか?」
「い、いやあ、どうかなあ」
村上を完全に信用したわけではなかった。警戒するに越したことはない。
「まあ、いいさ。君は一等に乗るくらいだから、金持ちのボンボンなんだな。三等の船室はひどいもんだぜ。一等と三等じゃあ、扱いが全く違うからなあ。階級社会の縮図だよ、あの船は」
「僕もそう思ったよ。船内の階級だけじゃない。あんたも見ただろう。上海、香港、サイゴン、ボンベイ。どこも西洋の植民地になって、アジア人がこき使われている。白人の天下じゃないか」
紫郎は背広の男の視線を背中に感じながら、声を低くして言った。
「ああ、そうだな。しかし、今では我らが大日本帝国も西洋と同じことをやっているじゃないか。アジアを植民地にして……」
村上が急に口をつぐんだ。紫郎は目で「どうした?」と訊いた。
「背広野郎がにらみやがった。バチンと目が合った。あの眼光、ただ者じゃないぞ」
村上が下を向いて靴ひもを直すふりをしながら小声で言った。列車が速度を緩めている。フレジュス駅に到着したのだ。確かここには古代ローマ時代の闘技場があったはずだ。
「ちょっと試してみるか」
紫郎がそう言うと、村上は低い声で何をするつもりだと訊いた。
「心配するな。君に迷惑はかけない」
短い停車時間が終わる頃、紫郎はリュックを背負って窓からひらりと外に飛び出し、改札に向かって歩き始めた。もう列車は動き始めている。10秒ほど遅れてネクタイの男が列車から飛び出してきた。
「驚いたな。本当に出てきた。よし、見ていろ」
紫郎はさっと身をひるがえし、猛然と汽車を追い始めた。後ろを見るとネクタイ男も必死に走っている。
「韋駄天シローをなめるなよ」
早稲田高等学院時代は100メートルを11秒台で走った。サッカーでは5人抜きでゴールを奪い、野球で塁に出れば二盗、三盗は当たり前で、本盗を決めたこともある。汽車がホームを離れる寸前、紫郎の指がギリギリのタイミングで最後尾の車両の手すりにかかった。
けたたましい蒸気の音と高級背広の男を残し、紫郎を乗せたジェノヴァ行きの列車は颯爽と走り去った。
エピソード2
マルセイユーカンヌ ♯3
「おいおい、ずいぶん無茶をするんだな」
息を切らしながら席に戻ってきた紫郎に向かって、村上があきれたように言った。窓から身を乗り出して一部始終を見ていたという。
「あの男、本当に僕をマークしていたんだな。ありがとう。君が教えてくれなければ、どうなっていたか分からない」
「川添君、いったい君は何をやらかしたんだ。特高に追われるなんて……。あいつは特高にしては背広の質が良すぎる気もするが。おい、君は本当に留学生なのか?」
「もちろんだ。映画の勉強に来たんだ」
紫郎はそれ以上は答えず、フレジュスから隣の席に乗ってきた老人と女の子に話しかけた。
「ボンジュール、ムッシュー。お孫さんですか」
「ああ、ジュリエットっていうんだ。あんた方は中国人かね?」
「いえ、日本人です」
「おお、ジャポネ。私はヒロシゲの浮世絵を1枚持っているよ。昔、ロシアに勝ったときは驚いたが、国際連盟から脱退するなんて、どうなっているんだい、あんた方の国は。さっぱり分からんよ」
南仏なまりの田舎の老人だからと高をくくっていたわけでもないが、ちゃんと新聞を読んでいる紳士らしい。村上が横で耳をそばだてているから、左翼運動をやって祖国を追い出されてきましたとは言えなかった。
「ジュリエットちゃん、年はいくつだい?」
紫郎は話題を変えて女の子に言った。彼女は3本の指を立てて「3つ」と答え、お菓子を2つ差し出した。
「えっ、僕たちにくれるの? メルシー」
カリカリと噛みくだくと、口中にアーモンドの香りが広がった。
「セ・ボン。これは何というお菓子ですか」
「クロッカンっていうんだ。南仏の名物さ」
老人が答えた。
「どこまで行くんだい?」
「僕はカンヌ、彼はジェノヴァまで行くんです」
老人はジェノヴァと聞いて急に下を向き、何やらブツブツとつぶやいて舌打ちをした。ムッソリーニという単語だけ聞き取れた。
「ああ、すまない。独り言だ。カンヌはもうすぐだよ。ほら、今日の海は格別に青いぞ。海に寝そべっているような格好の島が2つあるだろう。サント=マルグリット島とサン=トノラ島だ。サン=トノラのワインはうまいぞ。ああ、日本人はワインを飲むのかね? ブドウの酒だよ」
紫郎が笑って「船で毎日飲んでいました」と答えると、横で村上がふてくされた顔をして肩をすくめた。三等の食堂ではワインは出ないのだった。
カンヌの街並みが見えてきた。広い入り江を囲む山々のあちこちに白亜の別荘が点々と建っている。紫郎が泊る家は古い港の近くにある豪壮なアパルトマンだと聞いていた。手配してくれたのは、父親代わりの深尾隆太郎だった。
深尾はフランスに留学する紫郎のために2通の依頼状を送っている。1通は駐フランス大使の佐藤尚武、もう1通がカンヌに暮らしている伊庭簡一宛てだった。伊庭は住友家の発展に尽くした伊庭貞剛の二男だったが、フランス女性と結婚し、カンヌに住んでいた。深尾は紫郎の留学期間を6年と定め、まず南仏カンヌで伊庭家の指導を受けてからパリに出るようにと言いつけていた。
「村上君、ありがとう。君のことは忘れないよ。イタリアでミケランジェロの神髄を感じてくるって言っていたね。僕もフランスでこの国の文化を盗んでくるつもりだ。お元気で」
「うん、君も元気で。ああ、それからあの背広野郎に気をつけることだな。さっきはうまく行ったが、あいつはただ者じゃない。しつこくカンヌまで追ってくるかもしれないぞ」
紫郎は村上と長い握手を交わし、老人と孫娘に別れを告げて列車を下りた。駅にはレモンとオレンジの花の甘い香りが漂っていた。また富士子の顔が目に浮かんできた。
アコーディオンの伴奏に乗って、歌声が聞こえる。よく知っている歌だった。紫郎が幼い頃から慕ってきた深尾家の淑子姉さんが、威彦さんと結婚する前に蓄音機でよくかけていた。パルレ・モア・ダムール。「聞かせてよ愛の言葉を」だ。初めて富士子に会ったとき、誰かに似ていると思ったのだが、あのレコードのジャケットに写っていたリュシエンヌ・ボワイエという歌手に似ているのだった。富士子は今ごろどうしているだろうか。特高の痩せぎすカラスに捕まってしまったのか……。
「やあ、あなたが川添さんですね?」
カンヌ駅の改札を出ると、彫りの深い顔立ちの若い男が陽気に話しかけてきた。年は紫郎とほとんど変わらないように見える。
「僕はマルセル。伊庭マルセルです」
「川添紫郎です。シローと呼んでください。わざわざ迎えに来てくれたんだね。ありがとう。お世話になります」
マルセルの笑顔には、南仏の太陽と同じように、裏表のない底抜けの明るさがあった。紫郎は一瞬にしてカンヌという街が好きになった。
(※)「ロンドリ姉妹」の引用は「脂肪の塊/ロンドリ姉妹~モーパッサン傑作選~」(モーパッサン著、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫)より
■村井邦彦(むらい・くにひこ)
1967年ヴィッキーの「待ちくたびれた日曜日」で作曲家デビュー。1969年音楽出版社・アルファミュージックを設立。1977年にはアルファレコードを設立し、荒井由実、YMO、赤い鳥、ガロ、サーカス、吉田美奈子など、多くのアーティストをプロデュース。「翼をください」、「虹と雪のバラード」、「エメラルドの伝説」、「白いサンゴ礁」、「夜と朝のあいだに」、「つばめが来る頃」、「スカイレストラン」ほか、数多くの作曲を手がけた。2017年に作家活動50周年を迎えた。
■吉田俊宏(よしだ・としひろ)日本経済新聞社文化部編集委員
1963年長崎市生まれ。神奈川県平塚市育ち。早稲田大学卒業。86年日本経済新聞社入社。奈良支局長、文化部紙面担当部長などを経て、2012年から現職。長年にわたって文化部でポピュラー音楽を中心に取材。インタビューした相手はブライアン・ウィルソン、スティーヴィー・ワンダー、スティング、ライオネル・リッチー、ジャクソン・ブラウン、ジャネット・ジャクソン、ジュリエット・グレコ、ミシェル・ペトルチアーニ、渡辺貞夫、阿久悠、小田和正、矢沢永吉、高橋幸宏、松任谷由実ほか多数。クイーンのファンでCDのライナーノーツも執筆。