ミュージカルの話をしよう 第4回 原田優一、“肩の上から見た景色”を胸に(前編)
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原田優一
生きるための闘いから、1人の人物の生涯、燃えるような恋、時を止めてしまうほどの喪失、日常の風景まで、さまざまなストーリーをドラマチックな楽曲が押し上げ、観る者の心を劇世界へと運んでくれるミュージカル。その尽きない魅力を、作り手となるアーティストやクリエイターたちはどんなところに感じているのだろうか。
このコラムでは、毎回1人のアーティストにフィーチャーし、ミュージカルとの出会いやこれまでの転機のエピソードから、なぜミュージカルに惹かれ、関わり続けているのかを聞き、その奥深さをひもといていく。
4人目は、子役時代から舞台で活躍し、38歳にして30年近いキャリアを持つ原田優一。ミュージカル「レ・ミゼラブル」の少年ガブローシュ役で初めて帝国劇場の舞台に立って以来、出演作は枚挙にいとまがない。近年では演出も精力的に手がける原田は、現在のミュージカル界に欠かせないアーティストだ。そんな原田に、少年時代の心温まる思い出や成長してからの失敗談も交えながら、邁進してきたミュージカルの“道”を語ってもらった。
取材・文 / 中川朋子
まっすぐにミュージカル界を目指した少年時代
──原田さんは、小学3年生のときに劇団若草に入団されたことがミュージカル界に入るきっかけになったそうですね。劇団に入る以前から、音楽やお芝居とのかかわりはありましたか?
入団以前からピアノを習っていましたが、それ以外の芸事は特にやっていませんでした。両親は舞台とは関係ない仕事をしていましたし、観劇の習慣も特になかったので、6歳のときにいとこが「レ・ミゼラブル」でガブローシュを演じているのを観たのが、初めて観た本格的な舞台でしたね。それをきっかけに自分もやってみたいと思って。でも両親が共働きで、「1人で劇団のレッスンに通えるようになるまで待ちなさい」と言われて……それから9歳になるまで「やらせてくれ!」と言い続けたんです(笑)。
──1992年には、深津絵里さん主演のミュージカル「アンの青春」で初舞台を踏まれます。
僕は深津さん扮するアンの生徒役でした。「アンの青春」では、舞台で演じる楽しさを知りましたね。仕事というより遊びに近い感覚でしたが、舞台の裏側やルール、稽古や舞台での居方を幼心にも学んだ覚えがあります。
──そしてオーディションで「レ・ミゼラブル」のガブローシュ役を射止め、1994年、12歳のときに初出演を果たしました。特に思い出に残っているのはどんなことですか?
今思うと、大人キャストの方々とすごく近い距離で一緒にいられたなと思います。当時は特に、アンジョルラス役だった岡幸二郎さん、エポニーヌ役だった入絵加奈子さんがプライベートでもしょっちゅう遊んでくださいました。地方公演で、遊園地に連れて行ってくれたこともあって。自分と楽しく遊んでくれた大人たちが、いざ本番となるとビシッと役を演じる姿を見て、子供ながらに「この人たち、なんなんだろう!?」と思いましたね。
──その後も原田さんは子役として映像や舞台に出演されながら、学習院高等科に進学されました。十代の時点で、舞台や芸能以外の道は考えていらっしゃったのでしょうか。
まず考えませんでしたね。実は音楽高校の声楽科の受験を考えていたので、中学1年の後半から3年の前半まで音楽高校受験用の塾に通って、ピアノや声楽、楽典を習いました。でも劇団の先生やマネージャーさんから「音楽はほかのことと並行して学ぶこともできる。俳優をやりたいなら、まずは普通科に行ってみたら?」と勧められて。それで芸能活動が認められている自由な普通科高校を調べて、学習院を受験したんです。高校1年の夏休みには1カ月弱、ニューヨークに行きました。知り合いのお宅に泊めてもらって、ダンススタジオに行ったり、舞台を観たりして過ごしたんです。そのときにブロードウェイで観たミュージカルにガツン!とやられて……「ジキル&ハイド」や「フットルース」、それから「RENT」も観劇しました。あの経験は「ミュージカルを続けていきたい」と思った理由の1つです。
──高校卒業後も、音楽や演劇の学校ではなくそのまま、学習院大学文学部哲学科に進まれたのですね。
音楽関係の大学を選ぶか、シアタークラスがあるアメリカの大学にするか、それともエスカレーター式に学習院大学に行くか迷い、高校の担任の先生に相談しました。「ミュージカルをやっていきたい」と言ったら、「音楽や舞台関係と並行して、大学でそれ以外の勉強もやればいいじゃない」と、中学生のときに劇団の先生やマネージャーに言われたのとまったく同じアドバイスをもらって。それで文学部の哲学科を選び、東洋美術を専攻しました。
──東洋美術ですか! ちょっと意外です。
哲学科には哲学コースと美術コースがあり、美術コース内でさらに西洋美術と東洋美術に分かれていました。僕はアジアの舞踊について卒業論文を書こうと思って、東洋美術を専攻して。インドの踊りとインドネシアの踊りには、「神が降ってくる」「神の方に近付いていく」という違いがある……といったことを研究しました。学科名は哲学科だけど内容は芸術寄りだったので、ミュージカルをやるという自分のテーマからさほど離れた感じはしなかったかな。でも在学中にジョン・ケアードさんの「ベガーズ・オペラ」と出会い、忙しくてだんだん大学に通えなくなり……それで親に「大学で学びたいことはやりきったから、辞めてもいいかな」と相談し、中退を決めました。
──大学をお辞めになったきっかけは「ベガーズ・オペラ」との出会いだったんですね。
はい、やはり「ベガーズ・オペラ」は大きかったです。本稽古前にジョンさんのワークショップが2週間ほどあり、キャスト全員が毎日休みなく、朝から夕方まで取り組みました。身体作りや演技のワークショップを受けたり、作品の背景を勉強したりするのが本当に楽しくて……それで「ああ、こういうことにすごく興味ある」と思ったのが、舞台に本格的にシフトするきっかけだったかもしれません。
──勉強というと、講義を受けるような?
そうです。ロンドンの文化を学んで、出演者1人ひとりが興味を持ったトピックを深掘りして、プレゼンテーションしました。僕は当時のロンドンの子供の犯罪を扱ったんです。人が集まる場所にはスリが多かったとか、子供たちに与えられた処罰とか、犯罪に手を染めてしまった子供の割合について調べて発表しました。大学のゼミのようで、面白かったですね。
自分にとってのアンジョルラスは、岡さんしかいなかった
──「ベガーズ・オペラ」でジョンさんとのつながりが生まれ、2007年と2009年に「レ・ミゼラブル」でアンジョルラス役を、2011年にはマリウス役を務められました。ガブローシュ時代から「大人になったらまた『レ・ミゼラブル』に出たい」という思いはありましたか?
はい、マリウスを演じてみたかったんです。僕がガブローシュ役だったときのマリウスは、宮川浩さんと石井一孝さん。石井さんに「将来マリウスをやるのかな」と言われて「やりたいです!」と答えたことを覚えています。
──しかし実際には、大人になってから「レ・ミゼラブル」で初めて演じられたのはアンジョルラスでした。
僕の中のアンジョルラスといえば、子役時代に特にお世話になった岡さんしかいない。だから自分がやろうとは思わなかったし、演じられるとは1mmも思いませんでした。マリウスを志望してオーディションを受けたので、アンジョルラスのパートなんて一度も歌っていないんです(笑)。だけどジョン・ケアードが僕に与えてくれたのはアンジョルラス役だった。これは衝撃的でしたね。
──実際にアンジョルラス役に取り組む中で、自分が“岡アンジョルラス”に寄っているな、と思うことはあったのでしょうか。
僕は自分なりのアンジョルラス像を作ろうとしていたけど、周りから「時々、岡になるね」と言われたことはありました(笑)。当時は岡さんご本人がジャベール役で出演されていて、たまに“トントン”と僕の肩をたたいて「あそこ、こう思うんだけど……」と助言をくださることもあって。あとになって岡さんからは「なんでも聞いてくれてよかったんだよ」と言っていただきましたが、当時は「なんか悪いかな。“岡特許”だしなあ」と遠慮する気持ちがあったんですよね。今の自分だったら、「どうでした?」と遠慮なくアドバイスを求めに行くと思います(笑)。
「ミス・サイゴン」で受けた孤独の洗礼
──原田さんは「レ・ミゼラブル」以外でも、「ミス・サイゴン」や「マリー・アントワネット」などで帝国劇場に立たれてきました。帝劇での作品で、特に思い出深い出来事があれば教えてください。
「ミス・サイゴン」のクリスを初めて演じたときは、てんやわんやでした。ゲネプロ前半、「WHY GOD WHY?」というソロで歌詞がスン……と飛んでしまって(笑)。帝国劇場はとても広いので、まるで大草原か宇宙に1人ポツンと立っているような感覚になることがあるんです。オーケストラの音も自分の声の返りもあまり聞こえないから、2階席まで本当に届いているのかな?と心配になって、訳がわからなくなってしまって。
──すでにガブローシュやアンジョルラスとして帝国劇場に立たれていた原田さんにとっても、クリスはまた違ったご経験だったんですね。
アンジョルラスはみんなが「ワーッ!」と集まっているところに登場することが多かった。でもクリスは“孤独、孤独、孤独……”の人です。照明を浴びると客席も見えないので、ゲネプロで孤独を感じすぎたのか、歌詞がすっ飛んでしまった(笑)。舞台袖に引っ込むなり、プロデューサーに「大丈夫?」と聞かれて。「帝劇で1人で歌うって、こういうことなんだ」と洗礼を受けた気分でしたね。あれは忘れられない経験です。
──原田さんは日生劇場やシアタークリエなど、日比谷の劇場でのステージをたくさん経験されているイメージですが、やはり帝国劇場には違った雰囲気があるのでしょうか。
そうですね、帝国劇場に足を踏み入れるだけで背筋が伸びます。帝劇って独特の匂いがするんですよね。ロビーや楽屋の匂いをかぐと、「ああ、帝劇に来た」という気持ちになるので、やっぱり特別です。それに帝劇で出演した「レ・ミゼラブル」や「ミス・サイゴン」には、これまでに出演されてきた皆さんの思いが折り重なっています。これらは自分自身も子供時代からよく知っていて、全曲を歌える数少ないミュージカルでもあって。なじみ深いだけに、作品に対して「これはこういうものだ」という先入観もあったので、まっさらな気持ちで作品に向き合うのは大変でした。
前編では、「レ・ミゼラブル」観劇をきっかけにミュージカルの世界に飛び込んだ子供時代から、「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」など大作ミュージカルで活躍した二十代を振り返ってもらった。後編ではオリジナル作品への思いや“笑い”への情熱、数々の舞台を共に作り上げてきた演出家たちへのリスペクト、さらには30年近い芸歴の中で“忘れられない景色”などを語ってもらう。
プロフィール
1982年、埼玉県出身。9歳で劇団若草に入団し、子役としてキャリアをスタート。1994年には「レ・ミゼラブル」でガブローシュ役を演じ、その後も「ベガーズ・オペラ」「ミス・サイゴン」「ラ・カージュ・オ・フォール」などに出演。「レ・ミゼラブル」ではアンジョルラス役、マリウス役も務めた。近年の出演作に「FACTORY GIRLS ~私が描く物語~」「Fly By Night~君がいた」など。「bare -ベア-」や「明治座の変 麒麟にの・る」などでは演出も担当し、オレノグラフィティ、小柳心、鯨井康介とのオリジナル舞台制作チーム・PAT Companyの一員としても活動している。現在、東京・東急シアターオーブでミュージカル「マリー・アントワネット」に出演中。3月にライブ「『the Song of Stars』~Live entertainment from Musical~」、7月に「Being at home with Claude ~クロードと一緒に~」が控える。