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『花束みたいな恋をした』はなぜ観客の心に響くのか 菅田将暉と有村架純の役柄から紐解く

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リアルサウンド

 W主演の菅田将暉と有村架純、脚本の坂元裕二、監督の土井裕泰と、映画『花束みたいな恋をした』は、TVドラマと映画を横断する主要キャストとスタッフが集まった作品だ。そんな本作は、まさにドラマと映画の間の位置で、一つの男女の恋愛関係を描く内容となっていた。

 だが、本作でとくに異彩を放っているのは、やはり個性的な脚本だろう。SNSでは一部の観客が「死ぬ……」と感想を書くなど、阿鼻叫喚の反応が見られる部分もある。これはいったい何なのか? ここでは、本作の物語の設定や展開が意味するものに絞り、何が描かれていたのかを考察していきたい。

 東京の大学生、麦(菅田将暉)と絹(有村架純)は、ある夜に終電を逃し、明大前駅の改札で偶然に出会う。話してみると、信じられないくらいに趣味が一致していることに気づき、意気投合。大学を卒業して、最寄駅まで徒歩で30分かかる多摩川沿いの部屋で同棲を始めた二人は、少ない実入りのフリーターをしながら好きな音楽や映画に囲まれる生活を続けていく。

 天竺鼠、cero、Awesome City Club、クーリンチェ(『クーリンチェ少年殺人事件』)、舞城王太郎、今村夏子、『宝石の国』、『ゴールデンカムイ』、『菊地成孔の粋な夜電波』……。本作でとくに際立っているのは、主人公二人が愛するポップカルチャーにおける様々な固有名詞が次々に登場するところだ。これらの固有名詞の共通点は、日本のメインストリームとして売れているものやアーティストたちとは、少しズレているという点だ。そのことを最も象徴しているのは、押井守監督が特別出演するシーンだろう。押井守本人が同じ居酒屋にいるのを見つけた麦や絹は感動するが、二人と一緒に飲んでいる社会人の男女はピンときていない。女性は「最近観た映画はジブリ」だと語り、男性は『ショーシャンクの空に』(1994年)をマニアックな映画だと紹介する。

 もちろん、ジブリ映画や『ショーシャンクの空に』が好きだということに、何の問題もない。だが、これらの作品は映画ファンの間では“にわか”を表す記号として扱われてきたのも事実だ。日本の映画、アニメファンの多くは、ジブリ映画を観ているのは無論として、押井守監督の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)も当たり前のように観ている。これらの作品はいずれも有名だが、それでも日本の大多数の人々からするとピンとはこないかもしれない。ジブリ映画と押井守作品との間には、大きな溝が存在しているのである。

 その意味で麦や絹は、日本人の大多数から見れば、“マニアック”な部類の趣味を持っているといえよう。だからこそ、麦と絹はそれぞれに出会えたことを運命だと感じることになる。とはいえ、二人の知識や趣向は、あくまで広く浅く、日本の“マニアックな”ポップカルチャーの表層をなぞるような聴き方、観方、感じ方をしているような印象を受けるところもある。そのような姿勢が表面化してくるのが、二人が同棲した後の展開である。

 当初は「現状維持が目標」と言っていた麦は、周囲が就職し着実にキャリアを積んでいるという事実と、一向にステータスの上がらない自分の境遇に対し、次第に焦燥を感じ始める。彼はWEBサイトにイラストを提供するという請負の仕事をしていたが、賃金の交渉をすると「それなら“いらすとや(商用利用可のイラスト提供サイト)”を使う」と言われてしまう。つまり、クリエイティブな分野における彼の市場価値は、その程度だったということだ。

 では、押井守はどうだったのだろうか。彼は大半の日本人はピンとこない存在なのかもしれないが、同時に日本を代表する世界的な巨匠監督であり、業界では知らない者はない。押井伝説といえば、本人曰く「大学時代に映画を年間1000本観ていた」という、にわかに信じ難い話がある。これが真実だとするなら、たいていの映画評論家を凌駕する異常な生活を送っていたといえる。また、ゲームのやり込み方も有名で、ドラクエシリーズを何周もクリアしたあげく、勇者や仲間たちの装備を外して、ひたすらレベルを上げてクリアするという“縛りプレイ”を、世界的な映画監督になった後にも行っていたというのだ。このような狂気を感じさせる話を思い返すと、本作の麦がいかに“普通”であるかということに思い至るのである。

 麦や絹の普通さというのは、「じゃんけんのグー(石)がなぜパー(紙)に負けるのだろう?」という幼少期からの疑問を、おそらくは“自分の固定観念に縛られない自由な発想と感受性の豊かさを示すエピソード”であるかのように捉えているということからも分かる。この考えを共有していることで、二人は互いに相手を素晴らしい人だと思ってしまう。しかし、これはよく考えたら、相手を評価しているようでいて自分を褒め称えているようなものではないか。“非凡な自分と同じ考えをする相手こそ非凡”という思考に陥ってしまっているのである。実際、このようなじゃんけんに対する視点というのは、珍しいものでは全くない。私自身も同じことを思ったことがあるし、これまで生きてきて数人に同じような疑問をぶつけられたことがある。脚本の坂元裕二は、おそらく意図的に、このようなありふれたエピソードを用意しているのではないだろうか。

 本作で見られるのは、“自分のことを特別だと思っていた人間が、じつは凡庸な存在だった”という残酷な事実に、少しずつ気づいていくという積み重ねの物語である。そして、麦のようにクリエイターを志望する者が、生活のために会社で実務的な業務に携わり、次第に創作などから離れてしまい、“パズドラ(ゲームアプリ『パズル&ドラゴンズ』)”くらいしかやる気になれない状況に陥るというのも、非常にありふれた構図だ。それは結局、自分たちが大学時代に心の中で軽蔑していたような人物像そのものになっているということではないのか。

 麦は正社員として働き始めた当初は、余った時間で創作活動や作品鑑賞をすると言っていたが、それすらも投げ捨ててしまっている。彼にとってポップカルチャーというのは、体力を削ってまで取り組むものではなくなってしまっているのだ。彼の鏡像たる絹もまた、結婚してより生活に追われるようになれば、近い状況になるはずである。おそらく彼らは本質的に変化したわけではなく、大学時代はそういうものに割く時間的な余裕と経済的余裕があったというだけではないのか。二人の関係の破綻というのは、そのことに気づいていくという流れと連動しているはずである。

 本作のクライマックスは、二人の恋愛が決定的な終わりを迎えてしまう、ファミレスでのシーンである。主人公たちの視界に現れた、ある若手俳優たちによって演じられるポップカルチャー好きの初々しい学生のカップルは、かつての自分たちそのままの姿である。麦と絹は、互いに涙を流しながらその光景を見つめ、最後の抱擁をすることになる。

 一見、この涙は二人のノスタルジーが刺激されただけのようにも見えるが、前述してきたような段階を踏んで解釈するならば、このファミレスでの光景は、“自分たちがいかにありふれた存在だったか”ということをまざまざと見せつけられる眺めだったのではないか。麦と絹は、自分たちがポップカルチャーによって一般の人とは違う高みに到達しているという幻想の中に暮らしていた。その魔法が決定的に消え去ったのが、このファミレスでの出来事だったように思えるのである。

 川の側で慎ましい日々を送る、2010年代後半の東京の生活。それは、大ヒットして映画の題材ともなったフォークソング「神田川」で歌われた世界の現代版ともいえる。「神田川」が団塊の世代を周辺に響く代表的な歌となったのは、それが学生運動の時代に当事者だった者たちの挫折と、その後の心情を言外に救いあげるような、日本のフォークソングブームの本質をついたものだったからであろう。

 かぐや姫の南こうせつは「神田川」で、このような歌詞を書いた。

若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった
(南こうせつ「神田川」より)

 この部分には、学生運動に身を投じ青春を燃やした若者たちの情熱と、その後同棲する恋人の優しさにほだされて“普通の幸せ”に取り込まれることで、かつて批判していた社会の構造に順応していってしまう自分への葛藤が凝縮されている。“普通”とされた生き方への嫌悪と、それでも“普通”にならざるを得ない悲しみ。これこそが当時、世代共通の感覚として支持された世界観であった。

 近年もSEALDsのような学生運動は見られたものの、2010年代の学生の世代にもっと大きく共通するものといえば、経済状況の悪化による貧困を経験しているということである。この世代が感じているのは、凋落していく日本社会のなかでどうサバイブしていくかという、きわめて現実的な不安であり、殺伐とした社会に飲み込まれ生活費ばかりを追い求めるようになる自分たちへの憐憫ではないのか。

 このように本作が映し出すのは、いくつかの世代に共通する“普通”になることへの漠然とした忌避や葛藤、そして自分が非凡な存在であるという普遍的な“勘違い”を、2010年代ポップカルチャーに耽溺する20代の見る世界として表現した、きわめて“普通”の物語だと理解することができる。しかし、それを映画作品として、ここまで意識的に見せるというのは珍しいのではないか。

 そして本作は、ある世代の夢みがちな若者が、厳しい現実に接続され折り合いをつける姿を描くことで、同様に社会に取り込まれていったことで、行き場のなくなった若い時代の熱を鎮めてくれる役割を担っていると感じられるのだ。ゆえに本作は、かつてのフォークソング同様に、鎮魂の意味で、ある観客たちの心に響くはずである。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『花束みたいな恋をした』
全国公開中
出演:菅田将暉、有村架純、清原果耶、細田佳央太、韓英恵、中崎敏、小久保寿人、瀧内公美、森優作、古川琴音、篠原悠伸、八木アリサ、押井守、Awesome City Club、PORIN、佐藤寛太、岡部たかし、オダギリジョー、戸田恵子、岩松了、小林薫
脚本:坂元裕二
監督:土井裕泰
製作プロダクション:フィルムメイカーズ、リトルモア
配給:東京テアトル、リトルモア
製作:『花束みたいな恋をした』製作委員会
(c)2021『花束みたいな恋をした』製作委員会
公式サイト:hana-koi.jp