『暗殺教室』作者・松井優征の新連載『逃げ上手の若君』 なぜマニアックな“北条時行”を主人公に?
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『魔人探偵脳噛ネウロ』や『暗殺教室』で知られる松井優征の新連載が早くも話題になっている。「週刊少年ジャンプ 2021年8号」から始まった、『逃げ上手の若君』だ。
同作の舞台はいわゆる南北朝時代、主人公は北条時行という実在の人物だが、実はこの時行、父の北条高時などと比べ、さほど有名な歴史上の人物というわけでもない。その証拠に、第1話が載った『少年ジャンプ』が発売された日には「北条時行」というワードがトレンド入りしていたが、これは要するに、同作を読んで彼の名前を検索した人がいかに多かったか、ということを物語っている。
だが、このマニアックな主人公選びは、さすがあのトリッキーな『暗殺教室』の作者によるものだというほかなく、同じ南北朝時代を舞台にした物語を描くにしても、いまさら足利高氏(尊氏)だの楠木正成だのを主人公にしてもつまらない、ということだろう。これに近い歴史物の主人公選びの例としては、岩明均の『ヒストリエ』を挙げることができるが、こちらの作品では、アレクサンドロス大王の書記官だったエウメネスの生涯が描かれている。
エウメネスは、その前半生が謎に包まれている人物だが、彼の生涯を漫画にしようと考えた際に、「資料がないから描けない」と諦めるか、「いや、むしろ自由に歴史を描ける」と発奮するかで、作家としての資質が問われることだろう。当然、岩明均は後者であり、松井優征もまた同じタイプの作家だということだ。
そう――『逃げ上手の若君』の第1話を読んでもわかるように、少年時代に足利高氏によってすべてを奪われた「敗者」であるがゆえに、北条時行の生涯は不明な点も多い。だが、それは何をどう描いてもいいということで
もあり、その空白の部分に漫画家の豊かな想像力が加わった時に、「新しい歴史」は生まれるのだ。
一方、(マイナーな人物を主人公に選んだ代わりに)物語の構造は極めて王道だといっていい。いま本稿を書いている時点では2話目までしか読んでいないので、この先どうなるかはわからないが、現段階では、ジョーゼフ・キャンベル(神話学者)が提唱している古今東西の神話の英雄譚の基本パターンを踏襲しているように見える。
具体的にいえば、それは、(1)主人公が非日常の世界へと旅立つ、(2)イニシエーションを経験する、(3)元の世界に帰還する、というものだが(有名な『指輪物語』などもこのパターンの物語である)、『逃げ上手の若君』に当てはめていえば、(1)足利高氏の謀叛による逃亡生活の始まり、(2)メンター(導き手)である信濃国の神官・諏訪頼重のもとでの成長、(3)再び北条氏の天下を取り戻せるかどうか、ということになるだろう。
いずれにせよ、今回、松井優征が描いている少年・北条時行のキャラクターは本当にすばらしい。「逃げ上手」というのは、本来は武士の生き方としても、少年漫画の主人公のあり方としてもあまり褒められたものではないだろうが、そこを逆手にとって、時行というキャラの魅力的な「武器」としているところに、この作品の新しさはある。
そう――臆病者の若君にとって「逃げる」とは「生き抜く」ことと同義であり、彼の中の怪物が目覚めた時、再び世界は震撼するだろう。
■島田一志……1969年生まれ。ライター、編集者。『九龍』元編集長。近年では小学館の『漫画家本』シリーズを企画。著書・共著に『ワルの漫画術』『漫画家、映画を語る。』『マンガの現在地!』などがある。https://twitter.com/kazzshi69