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『HiGH&LOW』に続く熱狂の予感? 『PRINCE OF LEGEND』に込められた“王子”への批評

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リアルサウンド

 『HiGH&LOW』を生んだTEAM HI-AXが手掛ける『PRINCE OF LEGEND』(以下、略称『プリレジェ』)の放送が10月3日深夜からいよいよスタートした。

参考:『HiGH&LOW THE MOVIE 3』評論家座談会【前編】 「理想的な終わり方だった」

 ドラマの冒頭では、『北斗の拳』や『クレイジージャーニー』、『なんでも鑑定団』などでおなじみの銀河万丈がナレーションを担当し、主人公の朱雀奏(片寄涼太)や鏑木元(飯島寛騎)、久遠誠一郎(塩野瑛久)といったTEAM奏の紹介が進んでいく。『HiGH&LOW』シリーズが立木文彦のナレーションから始まるイメージと重なり、わくわくしたファンも多いのではないだろうか。

 そこに、1980年代に活躍したイギリスのバンド、G.I.オレンジの「PSYCHIC MAGIC」をカバーした片寄によるテーマ曲が流れる。ほかにもこの日は、Nenaの「ロックバルーンは99」のカバーも登場した。音楽は全てm-floが手掛けており、今後もA-haの「Take On Me」など、80年代の洋楽の甘酸っぱい部分が凝縮されたカバー曲が次々と聞けるようだ。

 さて、多くの『HiGH&LOW』ファンにとって、この『プリレジェ』は待望の作品だったはずだが、どんな心持で観ればよいのかを掴むのは、冒頭を観ただけでは判断し難かっただろう。だが、CM前と後に挟み込まれる映像を観て、筆者はなんとなく楽しみ方を理解したつもりだ。14人の王子たちが「王子、王子、王子、王子…」という女性の声のナレーションとともに、次々と現れ、壁ドンをしていくという「王子像」が示されるのだが、王子の前には壁すらないのである。明らかに昨今の「王子」に求められる意匠を過剰にデフォルメした表現であり、そこにこそ面白味があるのではないかと。

 『HiGH&LOW』のスピンオフ『HiGH&LOW THE RED RAIN』では、斎藤工演じる雨宮尊龍が「俺を壁だと思え」と言い放ち、「壁ドンを求められ続けてきた斎藤工がついに壁になった!」と話題になった。「王子」を求められる斎藤工や『プリレジェ』の14人のような存在と「壁」をどう位置づけるかーーその問いには、批評性すら感じることができるのではないか。深読みと言われるかもしれないが、これは世の中の女性たちが今、王子という存在に何を求めているのかを、王道を取り入れたり、パロディにしたり、逆張りをしたりしながら再構築して見せていくものなのかもしれない。

 これまでフィクションの中で「王子」に求められてきたことを、改めて挙げてみよう。ヒロインを守ること、運命を感じて一目ぼれすること、お金持ちであること、容姿端麗で文武両道のパーフェクト、そして女性に優しいことーーそうした属性に加えて、昨今の「王子」には、前出の「壁ドン」や「お姫様抱っこ」など定番の「型」もある。

 それらのことを『プリレジェ』はすべてちりばめながらも覆す。例えば、奏は小学生のころに亡くなった母親に「王子はいつでも気品を忘れず、レディ・ファーストを心掛け、ときには男らしく女の子を守ってあげるのよ」「王子はどんなときでも笑顔でいないと」「あなたにこの命をささげて愛し続けます」と言われて育った。いわば、王子の英才教育を受けて育ったとも言える。母が亡くなる前に奏に渡した一冊の本には、手書きで「女の子を泣かせないこと、初めてつきあう人と結婚すること、あなたのプリンセスは世界に1人だけ、その人に命をささげて、愛し守り続けること」というメッセージが書かれていた。そして、それとまったく同じ言葉を学園内で言っていたのが、本作のヒロイン・成瀬果音(白石聖)だったのである。王子が運命を感じてもなんら不思議のないシチュエーションだ。

 しかし、考えてみれば、王子に求められることは、「全方位にパーフェクトな存在であれ」というようなものである。女性であれば、見目麗しく仕事もできて周囲に対しても気遣いができて、そして将来的には、パーフェクトな母であり妻であり女であれ、と言われることに近い。これは、昨今では女性に何もかも求めすぎて「呪い」になっているのではないかとも議論されることだ。第1話の時点で、王子の「理想像」が「呪い」でもあるというメッセージを強く描くということは、今後、それを覆すのかもしれないし、逆にとことんまで受け入れて「王子」をパーフェクトに描くのかもしれない。

 と思った矢先に、第1話の終盤からすでに覆しにかかってきた。ヒロインに一目ぼれした奏は学園の生徒たちがいる前で跪き、「僕のプリンセスになってください」と告白する。これは、多くの王子ものであれば、プリンセスは喜ぶべきところだ。にもかかわらず、ヒロインは「お花畑に住んでるんですね」といい、奏のネクタイをつかみ「男の妄想、押し付けるのやめてもらえますか」と王子を突き飛ばし、「クソ王子」と言い捨て去っていく。このシーンには、王子を求めてこのドラマを観ているはずなのに、どこか胸がすく感覚も得た。これはなぜなのだろう。

 考えるに、世の女性たちは、理想の王子像を過剰に提供されることを楽しみつつも、戸惑いも覚えているからではないだろうか。なぜなら、安易に女性はこういうものを提供すれば喜ぶんだろうという甘い見積もりを示されることは、女子はピンクが好きなんだろうということで安易に商品を作られることと同じくらいバカにされていると感じるからである。どんなピンクをどのような理由で求めているのか、消費者のひとりひとりを想像していないとき、それは「ダサピンク」と言われるのだ。

 本作は、「王子」のすべてをちりばめながらも、その安易さを否定もしてくれる。しかも、14人もの王子がいることで、例えそれが分類されただけだったとしても多様であるから、安易な王子像を提供するのではないという意思も見えている。第1話の最後のヒロインの行動をみて、俄然このドラマに本気の興味が出てきた。(西森路代)