『麒麟がくる』が指し示したひとつの希望 壮絶な“死に様”を描いた/描かなかった意図
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2月23日に約4時間半にわたって「総集編」が放送されるNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。本作において最も重要だったのは、その主人公である明智十兵衛光秀(長谷川博己)の「結末」を、明確な形で描かなかったことにあるのではないだろうか。そんな気がしてならない。
戦国時代劇の醍醐味は、大掛かりな合戦シーンのみならず、戦国の英傑たちの壮絶な「死に様」にある。無論『麒麟がくる』もまた、全編を通してみれば、そんな見せ場としてのいくつもの「死に様」が、その長大な物語の随所に配置された、実に見事な構成のドラマとなっていた。具体的に言うならば、光秀の最初の主君である斎藤道三(本木雅弘)、本作においては光秀と少なからぬ交流があった室町幕府第13代将軍足利義輝(向井理)、同じく本作においては光秀とは旧知の間柄であり、よき理解者でもあった松永久秀(吉田鋼太郎)、そして物語のクライマックスを飾った「本能寺の変」における織田信長(染谷将太)――それら4人の男たちの壮絶な「死に様」である。
第1章「美濃編」
「戦国の梟雄」のひとりにも数えられる狡猾な性格とは裏腹に、「大きな国を作るのじゃ。誰も手出しのできぬ、大きな国を」という本作のテーマと直結する台詞を残すなど、物語の序盤において、光秀に大きな影響を与えてきた道三。いち早く信長の才を認め、娘・帰蝶(川口春奈)を嫁がせるも、自らの出自を疑う嫡男・高政(伊藤英明)によって斃された道三の最期は――しかも、高政との一騎討ちによって壮絶な最期を遂げる道三の姿は、本木雅弘の鬼気迫る熱演も相まって、間違いなく『麒麟がくる』序盤の大きな見せ場のひとつとなっていた。そして、最後まで道三に仕えていた光秀は、「敗残者」として流浪の道を歩み始めることになるのだった。
第2章「上洛編」
かくして美濃の隣国である越前に逃れ、朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)のもとに身を寄せるようになってから数年後、光秀のもとに衝撃的な一報がもたらされる。かつて京で知己を得た将軍・足利義輝が、三好長慶(山路和弘)の勢力に討たれたというのだ。その直前に、将軍の奉公衆であり、のちに光秀の盟友となる細川藤孝(眞島秀和)の導きによって義輝のもとを訪れ、「桶狭間の戦い」を経て勢いに乗る信長を口説き落とし上洛させることを、光秀自身が約束していたにもかかわらずである。そんな義輝の死もまた、実に壮絶なものだった。「剣豪将軍」の異名を持つ剣の達人でありながら、三好の雑兵たちに囲まれ槍衾によって無念の死を遂げる義輝。その変事は、戦国の世における「武力」の必要性を、光秀に改めて痛感させたことだろう。そして光秀は、義輝の弟である義昭(滝藤賢一)を奉じて、「天下布武」を掲げる信長と共に、晴れて上洛を果たすのだった。
第3章「新幕府編」
しかし、新将軍・義昭と信長の蜜月関係は、ほどなくして崩れ去る。やがて、藤孝ともども義昭に見切りをつけ、信長の家臣となることを選んだ光秀だが、朝倉浅井連合軍との戦い、比叡山の焼き討ち、義昭の追放、そして義昭側についた藤孝の実兄・三淵藤英(谷原章介)の切腹など、太平の世を築くどころか戦乱の世は続き、それにつれて主君・信長の苛烈さもまた、次第にエスカレートしてゆくのだった。
そんな主君の様子を憂慮する光秀のもとに、松永久秀に関する知らせが届けられる。道三の命を受け、鉄砲を入手するため光秀が堺を訪れた頃からの友人であり、その後は三好長慶と袂を分かち、光秀と同じく信長に臣従するようになった久秀が、突如信長軍から離脱したというのだ。調整役として久秀と密会する光秀だが、その意志は固く、挙句の果てには、久秀所有の大名物・平蜘蛛の茶釜を託されることになってしまう。主君である信長が、何よりも所望している平蜘蛛を。そして、光秀を含む信長軍が取り囲む中、城に自ら火を放ち、久秀もまた、壮絶な最期を遂げるのだった。
第4章「本能寺編」
このように、『麒麟がくる』の物語は、太平の世に現れるという生き物「麒麟」を呼び込む者を、光秀がその半生を通して探し求めてゆく話であると同時に、さまざまな「死」によって光秀のその後の考えや行動が決定づけられていく、運命の物語であったとも言えるだろう。そして迎えた、本作のクライマックスでもある「本能寺の変」。
周知の通り光秀は、遂に自ら行動を起こすことになる。歴代の大河ドラマをはじめ、これまで幾度も描かれてきた「本能寺の変」を、『麒麟がくる』はどのように描いたのか。主君と家臣と言うよりも、一度は同じ夢を抱いた者同士、あるいは兄と弟、さらには父と子とも形容された関係性が崩れたことを知った信長が、刮目した瞳を潤ませながら高らかに言い放った「十兵衛か……であれば、是非も無し!」という言葉。その愛憎入り混じった不敵な表情と毅然とした立ち居振る舞いは、是非ともその目で確認してもらいたい。染谷将太の迫真の演技も相まって、大河ドラマ史上に残る名シーンになったと個人的には思うから。
しかしながら、そこで多くの視聴者が注目したのは、光秀のその後――「本能寺の変」から一週間を待たず、羽柴秀吉(佐々木蔵之介)と対決し、そして破れ去ることになる光秀の「結末」であった。これまで数々の「無念の死」を目の当たりにしながら、やがては自らも「修羅」となり、主君・信長に引導を渡すことになった光秀は、どのような「最期」を――もっと言うならば、どれほどまでに壮絶な「最期」を遂げるのだろうか。
冒頭に書いたように、結論から言うと、その「最期」は明確な形で描かれなかった。それは果たして、何を意味しているのだろうか。否、むしろその「結末」こそが、本作が打ち放った最後のメッセージだったのではないだろうか。
不名誉な「生」よりも名誉ある「死」を尊ぶ戦国時代劇の世界にあって、その「最期」を明確な形で描き出さないこと。それは、無意識のうちに「死」を美化し、礼賛する傾向がある歴史観(とりわけ、明治以降に作られた歴史観)に対する、ひとつの回答だったのかもしれない。それ以前に、そもそも「明智十兵衛光秀」という人物を、これまでのような「逆臣」として描くのではなく、太平の世を望んで「麒麟」を追い求める、ある種の「理想主義者」として描くことが、本作の根幹にあるテーマだったのだから。
その最後に、壮絶な「死に様」は必要ないのだろう。理想に殉じて死を選びとることは、必ずしも美しいことではないのだ。むしろ、本作が最後に打ち放ったのは、「生きろ」という切実な願いでありメッセージだったのではないだろうか。それは、奇しくもその序盤から、この「コロナ禍」と並行して走ることになり、その中で幕を閉じることになった『麒麟がくる』の物語が指し示した、ひとつの「希望」のように思えてならない。その「結末」は、きっと観る者の心の中にあるのだろう。想像の翼を広げながら、歴史の事実という点と点をつないでいくことの面白さ。そう、それこそが、戦国時代劇の真の醍醐味なのだから。
■麦倉正樹
ライター/インタビュアー/編集者。「リアルサウンド」「smart」「サイゾー」「AERA」「CINRA.NET」ほかで、映画、音楽、その他に関するインタビュー/コラム/対談記事を執筆。Twtter
■放送情報
大河ドラマ『麒麟がくる』総集編
2月23日(火・祝)放送
NHK総合
(1)13:05〜14:00 第1章「美濃編」
(2)14:00〜15:00 第2章「上洛編」
(3)15:05〜16:20 第3章「新幕府編」
(4)16:20〜17:35 第4章「本能寺編」
BS4K
(1)13:05〜14:00 第1章「美濃編」
(2)14:00〜15:00 第2章「上洛編」
(3)15:00〜16:15 第3章「新幕府編」
(4)16:15〜17:30 第4章「本能寺編」
主演:長谷川博己
作:池端俊策
語り:市川海老蔵
音楽:ジョン・グラム
制作統括:落合将、藤並英樹
プロデューサー:中野亮平
演出:大原拓、一色隆司、佐々木善春、深川貴志
写真提供=NHK
公式サイト:https://www.nhk.or.jp/kirin/
公式Twitter:@nhk_kirin