村井邦彦×川添象郎「メイキング・オブ・モンパルナス1934」対談 第2弾
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リアルサウンド新連載『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』の執筆のために、著者の村井邦彦と吉田俊宏は現在、様々な関係者に話を聞いている。その取材の内容を対談企画として記事化したのが、この「メイキング・オブ・モンパルナス1934」だ。
第四回のゲストには、村井邦彦の盟友である音楽プロデューサー・川添象郎が再び登場。1960年、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにて過ごしていた日々について語った前回に続き、今回はラスベガスのディナーショーでステージ・マネージャーを務めた話など、貴重なエピソードをたっぷりと聞いた。(編集部)
※メイン写真は1960年に川添象郎がステージ・マネージャーとしてショーを行っていた、ラスベガスのザ・デューンズ
1960年、18歳でロサンゼルス/ラスベガスへ
村井:象(しょう)ちゃんとやった前回の対談が好評なんですよ。
川添:へえー、どのあたりが受けたんだろうね。
村井:象ちゃんのやってきたことそのものが面白いんだよ。若い人も興味を持ってくれたんじゃないかな。
川添:映画の『フォレスト・ガンプ』の主人公みたいに、いろんな有名人に偶然出会っているからね。でもクニの経験もすごいよ。
村井:うん。まあ、そうなのかな。偶然の出会いがいろんなことに繋がっていくから驚いちゃうよね。たまたま出会った人と何かをやってのける。そんなことがお互いに多かったよね。
川添:そうそう。いきなりカナダのモントリオールに電話してさ、歌わせた少年歌手がグランプリを獲っちゃうとかさ。
村井:ルネ・シマールね。あれは1974年の東京音楽祭世界大会だったかな。僕の作曲した「ミドリ色の屋根」を歌ってグランプリを獲ったんだ。
川添:ルネのマネージャーにギ・クルティエと、もうひとりルネ・アンジェリルという人がいたでしょう。もう亡くなっちゃったけど、アンジェリルはセリーヌ・ディオンの夫だったんだよね。
村井:5年ぐらい前に亡くなったね。前回の対談ではニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの話をしてもらったけれど、象ちゃんはその前にロサンゼルスとラスベガスに行っているんだよね。今回はそのあたりの話も聞きたいな。
川添:うん、1年ぐらいかな、ラスベガスにいたのは。スティーブ・パーカーっていう映画プロデューサーと知り合ってね、その奥さんが女優のシャーリー・マクレーンなのよ。
村井:僕は会ってないけどシャーリー・マクレーンは日本にいたんだよね? キャンティが始まった1960年より前の時代かな。
川添:キャンティが始まった頃もいたよ。
村井:へえー、あの頃も日本にいたんだ。
川添:すごくおかしな記憶があるんだ。シャーリー・マクレーンとイヴ・モンタンが共演した映画があったよね。『My Geisha』(邦題『青い目の蝶々さん』)っていう。
村井:うん、あったねえ。
川添:そのプロデューサーがスティーブ・パーカーだったわけ。スティーブがキャンティにシャーリー・マクレーンとイヴ・モンタンを連れてきていたんだよ。それで、ある日ね、シャーリーとイヴがキャンティでランチかディナーをしていたら、作家の大江健三郎さんが現れて哲学の話を始めたわけ。お世辞にも上手とはいえない英語でね。シャーリーとイヴはキョトンとしていたんだけれど、大江さんはとうとうと実存主義の話をするわけ(笑)。
村井:ありそうだね(笑)。
川添:キャンティらしい話でしょ。
村井:本当だね。後にノーベル文学賞を受賞する大作家だからね。そういえば、その前に文学賞を獲った川端康成さんもキャンティの常連だった。
川添:シャーリーは『ハリーの災難』(1955年)っていう映画でデビューしているんだ。
村井:アルフレッド・ヒッチコック監督だね。
川添:彼女はヒッチコックの映画で有名になって、後に『愛と追憶の日々』(1983年)でアカデミー賞の主演女優賞を獲ることになるんだ。ああ、それでスティーブがプロデュースして、シャーリーとイヴが共演した『My Geisha』に話を戻すとね、俺は制作部のアシスタントの、そのまたアシスタントの使い走りみたいな感じで参加させてもらったんだ。その縁でラスベガスに行くことになったの。
村井:なるほど。つまり『My Geisha』のロケは日本でやったわけ?
川添:そう。箱根あたりでずっとやっていたの。
村井:彼らはかなり長い期間、日本に滞在していたってこと?
川添:そうそう。だからしょっちゅうキャンティに来ていたわけよ。
村井:僕が覚えているのはね、南麻布の東京ローンテニスクラブでジェリー伊藤さんとスティーブ・パーカーがよくテニスをしていたこと。
川添:へえ。スティーブって人は、大の日本びいきでさ、奥さんのシャーリーをハリウッドに置きっ放しにして日本で暮らしていたんだ。だから、その感じで『My Geisha』を作ったんじゃない?
村井:はあ、そういうことなんだ。スティーブってどういう人だった?
川添:かっこいい人だよ。ちなみにシャーリーの弟がね、ウォーレン・ベイティっていう俳優で。
村井:すごい才能の人だよねえ。
川添:うん。彼が主演した『俺たちに明日はない』(1968年)っていう映画が話題になったね。あの映画から「アメリカン・ニューシネマ」って言葉が生まれたんだよね?
村井:そうだね。『イージー・ライダー』(1969年)とか『明日に向って撃て!』(1969年)とか「アメリカン・ニューシネマ」の名作がしばらく続いた。それからウォーレン・ベイティでいえば、彼が自分で監督して主演した『レッズ』(1981年)っていう映画もあったね。ジョン・リードっていう共産主義にかぶれてロシア革命のすぐ後にソ連に行っちゃったジャーナリストの伝記みたいな映画でさ。あれはアカデミー賞の監督賞を獲ったよね。
川添:観た、観た。よくできた映画だった。
村井:彼の映画で覚えているのは『バグジー』(1991年)だな。
川添:ラスベガスにカジノを作ったマフィアの映画だ。
村井:すごい才能だよ、ウォーレン・ベイティは。息子(ヒロ・ムライ)が通っていた南カルフォルニア大学映画学部のパーティーで見かけたけど、すごく背の高いかっこいい男だよ。年を取ってちょっとヨタヨタしていたけど。
川添:もう随分なお年だよ。
村井:僕より7~8歳上だから80代前半かな(シャーリーは1934年、ウォーレンは1937年生まれ)。話は戻るけど、象ちゃんは最初にロサンゼルスに来たの?
川添:うん。いや、えーっとねえ、スティーブがラスベガスのザ・デューンズというホテルで「フィリピン・フェスティバル」という大きなショーをプロデュースすることになったの。舞台美術を担当していたのが中嶋八郎さんという日本人で、俺はその人のアシスタントとして連れていかれたわけさ。だから到着して2~3日はロサンゼルスにいたかな。スティーブやシャーリーと同じ飛行機に乗って空港に着いたら車が迎えにきてさ、それでシャーリーの自宅に行ったんだけど、家に着いたらキャビアが山盛りで出てきて、みんなでシャンパンを飲むんだ。俺は初めての外国だし、無理してちょっと付き合ったら酔っ払ってすぐ寝ちゃったんだよ。
村井:そうかあ。それは何年の話?
川添:1960年。
村井:じゃあ、キャンティが始まった年だ。僕が15で、象ちゃんは18くらいだね。
川添:そういうこと。それから俺は4年間、アメリカに行きっ放しだったから、その間はクニとは会ってないわけだな。
村井:そうなんだよね。僕らが会ったのは、象ちゃんがニューヨークから帰ってきた1964年くらいかな?
川添:うん、前回の対談で話題にしたオフブロードウェイのミュージカル『6人を乗せた馬車』(1964年)の舞台で日本に帰ってきたときに会ったんじゃない? 懐かしいねえ。
村井:本当だねえ、懐かしいなあ。それで象ちゃんがロサンゼルスに着いたときの話なんだけど、その頃、直行便はないよね。ハワイ経由?
川添:うん、ハワイ経由でロサンゼルスに着いたと思うな。結構、長かった記憶がある。着いたときはヘロヘロだったもん。
村井:それでシャーリー・マクレーンの家に行ったらキャビアがあって、シャンパンがあった、と。その家がどの辺りにあったか覚えている?
川添:ビバリーヒルズのどこかだよ。
村井:そうか、じゃあ今の僕の家からそんなに遠くはないな。
川添:そうだよね。
村井:それから2~3日たって、すぐにラスベガスに飛んでいったわけだ。
川添:そうそう。中嶋八郎さんも一緒に行ったんだ。ちなみに中嶋さんは松竹系の歌舞伎の舞台装置で有名な人だよ。
村井:えーっ、そうなの?
川添:うん。みんな「はっちゃん」って呼んでいたけどさ、俺はその「はっちゃん」のアシスタントをやっていたわけ。といっても、右も左も分からないし、中嶋さんは英語がちんぷんかんぷんだったから、俺が急きょ覚えてね、ずっと通訳していたわけよ。
村井:ははは、すごいね。
川添:後は毎日毎日、中嶋さんと大工仕事。要するに舞台装置だからね。でも向こうはユニオン、組合があって……。
村井:うるさいだろう?
川添:そうなんだよ。みんな終業時刻が来るとパッといなくなっちゃうわけよ。本番まであまり時間がないから、中嶋さんは「あいつら、役に立たねえな」とか文句を言っていたな。俺は中嶋さんの手伝いで、ずっと大工仕事をしていたわけさ。
ラスベガスのディナーショーでステージ・マネージャーに
村井:そのフィリピン・フェスティバルっていうのは出演者が80人くらいのビッグショーだよね。
川添:そう、すごいスペクタクルなんだ。だから舞台で滝は流れるわ、花火は上がるわ。
村井:リド(パリのキャバレー)のショーみたいな感じ?
川添:まさにあんな感じだね。ショーの分類でいうと、いわゆるスペクタクルレビューだろうな。20~30人くらいの生のオーケストラが入って、ストリングスも入っていて……。
村井:観客はどれくらい入るの?
川添:500人は軽くいけるだろうな。要するにラスベガスのディナーショーだよ。一晩に2回やった記憶もあるな。
村井:フィリピン・フェスティバルの公演時間はどれくらい?
川添:2時間半くらいかな。内容はフィリピンの歌を中心に、いろいろ組み上げて。まあ、アメリカ人があんまり分からないだろうっていう選曲をしたんだと思うんだけど、メキシコの歌が入ってきたり、スペイン語の歌が入ってきたりしていたな。
村井:あのころ「ダヒル・サヨ」っていうフィリピンの歌が日本でもはやったよね。
川添:そんなのも入っているし、そうかと思えばメキシコの歌なんかも入っていたりするの。フィリピンはスペインに占領された時代が長かったからね。
村井:そうだよ。スペインが持っていたのをアメリカがとっちゃったんだ。
川添:そうそう。フィリピンの人たちにとっては迷惑な話だよね。
村井:フィリピンの歌手は当然、出てくるんだよね?
川添:いっぱい出てくる。でも、アメリカ人は一切出てこない。日本人は出ていたな。日本人のストリッパーが日劇から駆り出されて8人くらい出ていたの。当時のラスベガスのショーだからセミヌードがないとお客さんが納得しないじゃない? ところがフィリピンはキリスト教、特に厳格なカトリックの国だから、フィリピンの人はセミヌードにはなれないんだ。それで代わりに日本からダンサーを8人ほど連れていったわけよ。俺は日本人で、通訳もできるから、ちょうどいいってことでさ。ストリッパーのお姉さんたちにはかわいがってもらったよ。みんなすごく気のいい人たちだった。
村井:あははは、象ちゃんらしいねえ。そのショーのプロデューサーがスティーブ・パーカーだったわけだね。ほかに演出家とか音楽監督とか照明とかはいたの?
川添:演出家はまた別にいたよ。スティーブはプロデューサーだから、そういうスタッフも全部彼がキャスティングしていたんだ。だから最も偉いのはスティーブなんだけど、演出家とか舞台監督や衣装は、別のアメリカ人だったな。あんまりよく覚えていないけど、ラスベガスに到着して、1カ月ぐらいでオープンしたんだ。出演者はラスベガスに来る前にフィリピンでさんざんリハーサルしてきた感じだった。歌い手もダンサーたちもみんな達者だったし、アメリカ人にとってはエキゾチックで楽しいショーだったんじゃないかな。それが相当にヒットして、当初は2~3カ月の予定だったのが、1年くらいやっていたんだよ。
村井:象ちゃんもその1年、ずっとそこに張り付いていたわけ?
川添:そうだよ。最初は舞台監督の助手の助手から始まって、次は助手に格上げになって、最後には舞台監督と同じポジションになっちゃってさ。それで舞台監督のユニオンのライセンスを取って、アメリカで舞台監督としていつでも仕事できるようになったのよ。
村井:ええーっ、それはたいしたもんだねえ。
川添:えへへ。日本人では初めてじゃないの?
村井:それは初めてだろうねえ。ラスベガスに限らず、アメリカのそういうレビューで、ちゃんと舞台監督を務めた日本人は象ちゃんが初代なんじゃないかな。
川添:たぶん、そうだろうね。ステージ・マネージャーっていう肩書でさ、これがすごく偉いんだ(笑)。ユニオンの規定があってね、ステージ・マネージャーがキューを出さないと一切動かないの。
村井:現場の親分だ。
川添:うん、まさに親分だね。例えば主演の人間でも45分前までにはステージに入っていなきゃいけないという規定があったけど、仮に遅刻したとするじゃない? するとステージ・マネージャーの一存で「今日はお前、出なくていい」とか「1週間、クビ」とか言えるの。代役は必ずいるからね。主役をスパッと交代させてしまえるくらいの権限があるわけよ。その代わりステージ・マネージャーがきっかけを出さないとステージが一切動かない。だから5秒前くらいに「5 seconds」とかいって、インカムで指令を出すわけよ。後は舞台の袖からずっと観ているんだ。今みたいに舞台を映すモニター画面があるような時代じゃないから、直接観てキューを出すんだよ。
村井:へえー、面白いねえ。
川添:そうすると滝が流れたり、舞台転換されたり、花火が上がったりするわけ。だから、すごく緊張感のある商売だよ。
村井:そりゃそうだ、指揮者と一緒だもんね。全部覚えていないといけない。
川添:そうそう。俺の記憶ではキューを出すポイントが500前後はあったね。それを俺は20歳で動かしていたわけよ。すごいもんだと思わない?
村井:たいしたもんだねえ。
川添:思い返すとゾッとするよ、よくやったよねえ(笑)。そうそう、俺が真剣にキューを出そうとしていると、日本人のストリッパーのお姉さんがからかって、いろんなところを触ってくるんだよ。「おい、よせよせ」みたいな感じで(笑)。懐かしい青春の思い出だね。
村井:はっはっは。それで、象ちゃんはどこで寝泊まりしていたの? そのザ・デューンズというホテル?
川添:いやいや、アシスタント・ステージ・マネージャーのアメリカ人の青年がいてさ、そいつと一緒に、近くに家を借りていたんだよ。食事はその青年の奥さんが作ってくれたりしたから、あんまり自分で作った記憶はないね。まあ、若いから何を食ってもうまいんだよ。
村井:1960年のラスベガスはどんな街だったの。まだ西部の砂漠に忽然と現れる、みたいな感じだったんじゃない?
川添:そうそう、まさにそう。メインストリートに主要なホテルが7つくらいあるだけだった。俺が仕事をしていたデューンズとか、スターダストとか、サンズとか。サンズはフランク・シナトラなんかが歌ったホテルだね。ほかにトロピカーナってホテルがあったかな。
村井:リビエラはあった?
川添:あった、あった。できたばかりだったよ。
村井:有名なギャングのバグジー(ベンジャミン・シーゲル)がつくったのはどれだっけ?
川添:フラミンゴだったかな。
村井:まだシーザーズ・パレスはなかったんだね。
川添:ないない。そうだ、ラスベガスではなんと俺、エルヴィス・プレスリーに会っているんだよ。
村井:へえー。ラスベガスでショーをやっていたの?
川添:いや、違うね。遊びに来ていたらしいよ。当時からラスベガスに興味があったんじゃないかな。スティーブ・パーカーとシャーリー・マクレーンと一緒にデューンズに行ったら、ロビーの向こうからボディーガードみたいな屈強な男を連れた爽やかな青年がやってきて、シャーリーにすごく丁寧に挨拶してくるわけ。よく見たらプレスリーなんだよ。
村井:どんな服装だった?
川添:カジュアルなジャケットを着ていたけれど、とにかく態度は丁寧だったな。「How do you do,Sir ?」みたいな感じで全部にサーをつけてさ、えらい行儀のいい青年だった。俺は「あっ、生のプレスリーだ」と思って「サインちょうだいよ」って言ったら喜んですぐにサインしてくれた。それを弟の光郎に送ったんだけど、失くしちゃったみたい。
村井:ははは。のんきないい時代だったね。象ちゃんはラスベガスに行った後、いったん日本には帰ってきたの?
川添:いや、帰ってないよ。ラスベガスのショーを1年やって、ステージ・マネージャーに昇格していたから、結構お金を貯められたんだ。それを持ってニューヨーク行くことにしたわけ。親父(川添浩史)に連絡を取って、ニューヨークに行きたいって言ったら「いいじゃないか。行け、行け、行ってこい」って言われてね。
村井:すごいねえ。自活能力があるねえ。
川添:そうでしょ。自分でも感心しちゃうけどさ、よくやったと思うよ。そういえばラスベガスが終わってから、ニューヨークに行く前、親父の知り合いの映画プロデューサーの家に1カ月ぐらい居候させてもらったんだ。ロサンゼルスのビバリーヒルズにあるユージーン・フランキーっていう人の家だった。
村井:ユージーン・フランキーって、日本によく来ていた人じゃない? 名前だけはすごく覚えているよ。
川添:いたいた、よく日本にいたよ。親父の友達で、キャンティにもしょっちゅう来ていたな。
『6人を乗せた馬車』と伊藤貞司とのジャムセッション
村井:その頃のロサンゼルスってどうだった? 僕が初めてLAに来たのは1970年で、その頃でも結構のんびりしていたんだけど、1960年といえば、もっとのんびりしていたんじゃないかな?
川添:もうなんにもない、ひどい街だなって思った(笑)。たまたま俺は親父の関係でビバリーヒルズに住まわせてもらったから、まあまあ快適に暮らせたけど、とにかく街に出たら何もないんだ。だだっ広いだけで。
村井:そう、だだっ広くてなんにもない。
川添:ワンブロックが500mくらいあるから、歩けないしさ。
村井:歩けない。歩いて移動する街じゃないよね。僕も最初は変なところだなって思ったんだけど、妙な経緯から住むことになっちゃってさ。もう30年近くになる。だから人生って分からないよね。
川添:そうだね。LAでもビバリーヒルズで暮らしている分には、少し和やかだよね。
村井:僕、ここは木が生えているから最初から好きだったの。
川添:そうそう、確かにビバリーヒルズは木が生えている。ダウンタウンは木がないね。
村井:もともと砂漠だったんだもん。ラスベガスみたいな土地に、世界中からいろんな木を持ってきて、何も考えないで無理やり植えたんだよ。だからアフリカの木もあるし、南アメリカのもあるし、中国の木もある。森林学者が来ると「ありえない!」って目を回すって。
川添:「なんでこんなのが一緒にあるんだ!」って話でしょう?
村井:そう。それでね、いま連載している『モンパルナス1934』の「エピソード2」では、川添紫郎(浩史の本名)さんがいよいよマルセイユに着くんだよね。マルセイユから汽車に乗ってカンヌに行くんだけど、その間に怪しい男に尾けられていて、それを俊足で振り切っちゃう場面が出てくるわけ。今は小説を書き進めながら紫郎さんのキャラクターを作っている段階だけど、いろんな資料を見るとね、相当に足が速かったらしいんだよ。
川添:そうだよ、足速いよ、あの人。
村井:100m走は12秒を切ったって書いてあった。
川添:かなりの俊足だね、それは。
村井:すごいんだよ。だからそんな情報を生かして、追跡してくる男を走力で振り切っちゃうとか、サスペンスの要素を入れたんだ。でも、よくわからないところもたくさんあるから、想像で「川添紫郎像」を作らなきゃいけないんだよね。
川添:それにしても、よく調べているよね。
村井:共著者の吉田俊宏さんの調査力がすごいんだよ。調べた情報は押さえながら、2人で想像力を駆使して小説として面白く読んでもらえるように工夫しているんだ。
川添:続きが楽しみだな。
村井:ありがとう。もう少し、象ちゃんの思い出話をしてほしいな。日本に帰ってきて、僕と出会うところまで話そうか。自分でお金を貯めて、ニューヨークに行って、ちゃんと自分で家賃も払っていたんだよね。
川添:あのね、うちの親父の友達で、東京オリンピックの開会式の演出をした伊藤さんって知っているでしょう?
村井:ああ、ダンサーの伊藤道郎さん。歌手で俳優だったジェリー伊藤のお父さんだよね。
川添:そうそう。道郎さんは伊藤為吉っていう有名な建築家の次男で、五男が舞台美術の超有名な重鎮だった伊藤熹朔さん、六男は千田是也さんっていう超有名な演出家で……。
村井:すごいファミリーだよね。
川添:うん。その芸術一家の四男の伊藤裕司さんがニューヨークに住んでいて、ブロードウェイの舞台の仕事をしていたわけ。俺は裕司さんのお宅に3~4カ月ぐらいかな、居候させてもらったの。そこの長男が作曲家の伊藤貞司だったんだ。
村井:ああ、そうなんだ。じゃあジェリー伊藤と伊藤貞司は従兄弟に当たるわけだね。
川添:そういうこと。
村井:貞司とハーブ・アルパート(トランペット奏者、作曲家、A&Mレコード創立者の一人)も確か親戚じゃなかったかな。
川添:ええー、それは全然知らなかったな。伊藤貞司のことはね、ニューヨークに行く前に義母のタンタン(川添梶子)から聞いていたの。アヅマカブキのニューヨーク公演かなんかの時にね、うちの親父もタンタンも伊藤裕司さんや貞司と会っているんだ。それでタンタンがニューヨークにすごく綺麗な顔をしたかっこいい音楽家がいるからぜひ会いなさいって言っていて、それが貞司だったの。
村井:うんうん。
川添:俺が伊藤家に居候して2日目くらいに貞司が現れてさ、お互いに挨拶して「君、ギターを弾くんだって? じゃあ一緒にやろうよ」ってすごく親切にしてくれたわけ。それで貞司が作曲した『6人を乗せた馬車』のミュージシャンとして雇われたわけよ。俺は伊藤家に3~4カ月いた後、グリニッジ・ヴィレッジにアパートを借りて住むようになって、フラメンコに遭遇して、一生懸命練習していたらすごく上手くなった。このあたりの経緯は、前回の対談で話したよね。それで「なかなかやるね」っていうことで雇われたんじゃないかな。
村井:貞司はどこに住んでいたの?
川添:貞司もグリニッジ・ヴィレッジのどこかに住んでいたよ。ゲイルって名前の奥さんがいたね。俺はいつも貞司の家に遊びに行って、もう1人、黒人のホセ・リッチっていう男がいて……。
村井:『6人を乗せた馬車』で演奏していた人だよね。
川添:そうそう。だから貞司とホセと俺でしょっちゅうジャムセッションをやっていたわけ。その3人で『6人を乗せた馬車』の音楽をやったんだ。
村井:チームワークはバッチリだね。
川添:そうだね。貞司にはいろんなことを教わった。リズムの取り方とかね。あの人はハイチ(カリブ海の島国)のドラムの名手だから。ハイチに暮らしていて、いろいろ宗教的なドラミングを身につけたんじゃないかな。
村井:象ちゃん、あれは覚えているかなあ。象ちゃんが帰ってきてさ、僕がアルファミュージックを始めた1969年か70年くらいに貞司が日本に来ていたんだよ。僕は筝曲家の桜井英顕と一緒に『須磨の嵐』っていうレコードを作ったんだけれど、貞司に客演してもらったんだ。ハイチのドラムをたたいてくれたの。首から吊るしてさ、左と右で大きさの違う……。
川添:覚えているよ。あれはトーキングドラムだよ。ジャングルとジャングルの間で、通信手段に使っていたらしいよ。
村井:そうなの?
川添:その民族が話す言語と非常によく似ていて「そっちにイノシシ逃げたぞ、捕まえろ」「分かった」みたいなやり取りをしていたわけよ。トーキングドラムはアフリカの楽器だね。
村井:僕、あれがハイチのドラムだと思っていたけど、違うんだね。
川添:これはアフリカのトーキングドラムだって、貞司は言っていたよ。
村井:じゃあ『須磨の嵐』の録音はトーキングドラムでやったんだな。ハイチのドラムはどういうものなの?
川添:ハイチにはいろんな種類のドラムがあってね、どれもすごく宗教がかっているのよ。海の神様に捧げるドラミングとか、山の神様に捧げるとかさ。
村井:へえー。形状としてはボンゴとかコンガみたいに縦に置くの?
川添:いや、いろんな形状がある。膝の上に置いて左手でこっち側、右手でこっち側をたたくとか。例えば、貞司が俺にスティックを渡して6/8のリズムを延々と刻ませるわけよ。するとそこにホセがコンガみたいな太鼓で入ってくる。しばらくすると貞司がトーキングドラムかなんかで、その半分のリズムで入ってくるんだ。3人のアンサンブルになるんだけど、すごく楽しいよ。
村井:面白そうだねえ。
川添:貞司は「象、絶対にテンポを外すな」って言うのよ。「俺たちはお前に合わせているんだから、お前が狂うと滅茶苦茶になっちゃう。だから、しっかりたたけ」って。それで集中して、しっかりたたいていたら「なんだ、お前、それじゃ死んでいるじゃないかよ」って言うの。
村井:なかなか厳しいね。
川添:「ノリが大事なんだから」って話でさ。それはそうなんだろうけど、いろんなこと言うなよって話なんだよね(笑)。
村井:じゃあ、何十分も同じフレーズをやっていたわけ?
川添:俺はずっと6/8をたたき続けて、それに乗せてジャムセッションみたいな感じでホセと貞司がいろんなことをやるの。だから乗ってくるとすごく楽しいわけ。
村井:今度会ったらやろうか、それ。
川添:ははは。
村井:面白いねえ。
川添:俺は少年時代、親父の川添浩史とあまり接触がなかったんだよね。浩史がタンタンと結婚した後、ようやく一緒に暮らすようになったんだけど、すぐにロサンゼルスとかニューヨークに行っちゃったからね。でも、親父の教育はそういう現場でいろんな人に会っているうちになんとかなるさって感じだったんじゃないかな。
村井:そうだね。象ちゃんはそれに応えていて、偉いよ、本当に。いきなりラスベガスに放り込まれて、心細くなかった?
川添:結構、楽しかったよ。それにセットを作るにしても、舞台監督をやるにしても、ちゃんと仕事だったじゃない。ただブラブラしているわけじゃないから、生活にリズムがあった。英語なんか3カ月くらいでペラペラになっちゃったから、良かったんじゃないの。
村井:若いってすごいね。
川添:うん、全くだね。クニもパリに行ってフランス語が上達したんじゃない?
村井:子供の頃にやっていたから、かなり思い出したな。
川添:語学って勉強するんじゃなくて、ノリみたいなので覚えていくのが早いよね。
村井:仕事で覚えるのが一番早いね。話さないと何も動かないから。
川添:全くそうだね。動かない。何も始まらない。
村井:うん。ああ、そろそろ時間だね。象ちゃん、今回もいろいろな話をありがとう。
川添:どういたしまして。楽しかったよ。