ももいろクローバーZの歴史を紐解く 第1回:“ライブアイドル”としての下積み時代
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ニューアルバム『田中将大』をリリースした、ももいろクローバーZ。結成から13年。メジャーアイドルのなかでもトップ人気を誇りながら、その地位に甘んじることなく、新作のタイトルが象徴するように常に人々の好奇心を刺激し、全力でおもしろいことを追求し続けている。そこで今回から6週にわたり、ももクロのヒストリーを紐解きながら、あらためてグループの魅力を掘り当てる短期連載をスタート。第1回は、結成からメジャーデビューまでの下積み時代を振り返る。
百田夏菜子、玉井詩織の崖っぷちからの生還
ももクロのマネージャーをつとめる川上アキラ。この人がいなければ、ももクロのストーリーは始まらなかった。筆者は、川上が公表しているプロフィールの内容をよく覚えている。なぜ印象深いのか、それは川上と同じ9月10日生まれだからだ。1974年生まれの川上は、ちょうど5つ歳上。1998年、筆者は大学へ入学し、川上は大学を卒業した。数字と出来事に近しいものもあり記憶に残っている。
大学卒業後に芸能事務所のスターダストプロモーションに入社した川上は、安藤政信、梅宮アンナらのマネージャーを担当し、さらに沢尻エリカを見出した。かくいう筆者は大阪の出版社在籍中の2005年初頭、映画『パッチギ!』に出演した沢尻をインタビュー。その可愛らしさに惚れ込み、撮ったばかりの彼女の写真を会社のPC画面の壁紙に設定した。
2007年に沢尻が主演映画の舞台挨拶で騒動を起こして芸能活動を一時休止。川上は、自著『ももクロ流』(2014年)などで、自分の仕事も白紙となり「暇になった」と当時を振り返っている。そんな川上に命じられたのが、スターダストプロモーション芸能3部に若手の女性レッスン生らをあつめて、アイドルグループを制作して発表会を開くこと。ここで手がけるグループが、ももクロの原型となった。2007年10月のことである。
スタダ芸能3部によるアイドルプロジェクトは、川上曰く、ももクロの初期メンバーとなる高井つき奈を中心に構成され、高城れにもメンバーとして名を連ねていたという。興味深いのは、百田夏菜子、玉井詩織のプロジェクト参加のエピソードだ。ふたりはちょうど10月に契約が切れるはずだった。スタダでは、間もなく契約が切れるタレントのプロフィールが「最後のお知らせ」として社内で回るという。
川上は『ももクロ流』で、「百田と玉井のプロフィールには「特技:ダンス」と書いてありました。今でこそ学校にもダンスの授業がありますが、当時はまだ特技に「ダンス」と書く子は多くなかったんです。そこで百田と玉井を3部に入れることにしたのです」と、ふたりを引き上げた。まさに崖っぷちから生還。スタダ3部のアイドルプロジェクトは、高城らを交えてすでにグループ作りが進行していたが、メンバーの入れ替えもあって、同年末に百田、玉井が加わった。
語り継がれている代々木公園での路上ライブ
2008年に入り、プロジェクトは本格始動。百田の母親の発案でグループ名が「ももいろクローバー」に決まり、5月17日に川崎アゼリアでおこなわれた「スターダストプロモーション芸能3部オーディション」でお披露目。当時は、伊倉愛美、高井つき奈、高城れに、玉井詩織、百田夏菜子、和川未優の6人編成。「あの空へ向かって」が披露された。
同年7月から、今も語り継がれる渋谷・代々木公園けやき通りでの路上ライブがスタート。なぜ路上だったのか。それはAKB48のような専用劇場を持てるほどの資金力が、このプロジェクトにはなかったから。川上は『ももクロ流』で「当時はいかにお金をかけないで爪痕を残すにはどうすればいいか、そればかり考えていました」と語り、ももいろクローバーZ公式記者・小島和宏は自著『ももクロ 非常識ビジネス学』(2019年)のなかで、路上ライブについて「「持たざる者」の逆転の発想」と言い表している。
同著で小島は、アイドルを売り出すノウハウを運営サイドは持ち合わせていなかったとしながら、しかし「川上アキラをはじめとして、スタッフたちは芸能界の厳しさをこれまでの現場の経験で熟知している。ならばメンバーに集客の難しさを身をもって知ってもらったほうがいい。無料のライブでアイドルがチラシを手渡ししているのに、基本、誰も興味は持ってくれないという「現実」。まだ子どもだったメンバーにとってそれは衝撃的な事実だったはずだが、それを知っているかどうかはのちのち大きな差になってくる」と記している。確かに、その後のももクロの奇想天外な売り出し方は、この下積みが効いている。自分たちのことをいかにして知ってもらうか、その意識の基盤が作られたのではないか。
路上ライブ期は、写真、動画の撮影がOK。そのときの初々しい姿は現在、検索すればいろいろ観ることができる。高城が自己紹介でタップダンスを披露したときのお客さんの静かな反応。曲中に衣装の早着替えにチャレンジしたときの雑な脱ぎ捨て方と、それを堂々とかき集める関係者の様子。国民的アニメの音楽にのせて繰り広げられる寸劇。垢抜けていない様子が生々しく記録されている。「ももクロ」と言われなければ分からないほど、まだまだつたない部分がある。
ちなみにこういった映像を観てあらためて思うのは、私たちマスコミは誰かの「好き」に乗っかって仕事をしているのだということ。メディアが何かの第一発見者になることはほとんどありえない。アイドルの世界で言えば、その資質を最初に目撃するのはヲタクだし、広めるきっかけを作るのもまたヲタク。「モノノフ」という呼称もできていなかった、この時代。何者でもないグループの路上ライブを撮り続けたファンには、本当にリスペクトの気持ちしかない。まさしく日本アイドル史に残る重要資料である。
「地下アイドル」という言葉が生まれた時期
そしてこのあたりから、アイドルシーンに興味深い傾向が生まれていた。2005年にAKB48が誕生。秋元康がプロデュースということもあって、メディアでも取り上げられていた。ただ、AKB48が軸に置いていたのはライブだ。専用劇場を持ち、そこで連日、お客が多かろうが少なかろうが公演を敢行。「現場」を活動の主戦とした。
それまでアイドルといえば、モーニング娘。を筆頭に、テレビなどメディアを使って人気と知名度を上げ、CDやDVDのセールスにつなげ、コンサートへとお客を導く流れが一般的。アイドルはテレビの向こう側の存在だった。だからこそAKB48の「現場主義」は斬新に映った。AKB48が掲げた「会いに行けるアイドル」という現象により、ライブハウスというお客の手が届くところまでアイドルがおりてきた。この頃から「地下アイドル」という言葉を耳にするようになり、ご当地アイドルも増えていったイメージだ。
モーニング娘。のブレイクによって2000年代からのアイドルシーンのトップがはっきりし、そのあとAKB48の出現をきっかけに地上、地下のラインが引かれ始めた。ももクロは、スタダ所属とはいえライブアイドル=地下アイドルに分類されていた。
ももクロが主戦場としていた代々木での路上ライブは、都条例改正で続行できなくなり、飯田橋ラムラへ会場を移す。また、2008年末から2009年にかけてメンバーの脱退・加入が相次ぎ、高井らが抜けた。佐々木彩夏、早見あかりがももクロに加わったのは2008年11月だ。飯田橋ラムラでの公演は2009年1月まで。入場者が入りきれなくなって、以降は秋葉原・石丸電気が中心となる。活動範囲があきらかに広がった。
筆者がももクロを認識し始めたのもこの頃だ。2008年12月に中島愛のクリスマスイベントに、オープニングアクトとして出演。人気アニメ『マクロスF』のランカ・リー役で声優デビューし、楽曲も大ヒットするなど注目されていた、“まめぐ”こと中島愛。今ほど即興性がなかったネットの情報で“まめぐ”のイベントの様子を見て、ももクロの存在を知った。
ヘンテコな企画、人気サイトとのコラボ
2009年になってすぐ、川上のもとにインディーズでのCDデビューの話が舞い込んできたという。そのインディーズレーベルの親会社がヤマダ電気ということもあって決まったのが、「ももいろクローバーJAPANツアー2009 ももいろTyphooooon!」である。全国24か所、計104公演。そのときのメンバーは高城、百田、玉井、佐々木、早見。ワゴン車1台に乗り込んで、全国一律1000円だった当時の高速道路のETC料金をフル活用して全国を回ったのはよく知られた話。
7月には有安杏果が加入して6人組となり、8月にインディーズデビューシングル『ももいろパンチ』をリリース。この頃にははっきりももクロのことを認識し、CDも買って聴くようになった。さらに興味をかきたてられたのは9月の公演『ももいろクローバー CHAMPION CARNIVAL AKBA 5DAYS』。「メンバーと糸電話で話せる」とか、「ファンがメンバーに向けてラブレターを書く」など、よく分からないけど、でも「ももいろクローバーという、おもしろいアイドルがいる」と、ついつい話のネタにしたくなるような企画をおこなった。筆者的には熱心にチェックしていたウェブサイト「美人時計」とのコラボレーションもあり、俄然興味を持った。
プロジェクト発足当初は「お試し企画」ということで予算が不足していた、スタダ3部のアイドル企画。それでもやっぱり、大手の芸能事務所である。少しでも手がかりをつかめれば、広げ方は抜群にうまい。変な企画でも堂々とやり切り、さらにいろんな企業やクリエイターを巻き込む人脈も備わっている。川上も一流タレントのマネージャーとしての現場経験がある。持っている武器がすごい分、必要だったのはやはり、アイドル本人たちの下積みから芽生える意識。高いステージを用意されず、真っ平らでお客と同じ目線から始まったストーリー。そこでグループの地力が磨かれた。
オリコンチャートにもランクインし、メディアでも取り上げられるようになったももクロは、メジャーの舞台へ駆け上がっていく。
※記事掲載時、一部内容に誤りがございました。訂正してお詫び申し上げます。
■田辺ユウキ
大阪を拠点に、情報誌&サイト編集者を経て2010年にライターとして独立。映画・映像評論を中心にテレビ、アイドル、書籍、スポーツなど地上から地下まで広く考察。バンタン大阪校の映像論講師も担当。Twitter(@tanabe_yuuki)