ももいろクローバーZの歴史を紐解く 第3回:改名~悲願の紅白出場とその後
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メジャーアイドルのなかでもトップ人気を誇りながら、その地位に甘んじることなく常に人々の好奇心を刺激し、全力でおもしろいことを追求し続けている、ももいろクローバーZ。そんなももクロのヒストリーを紐解きながら、あらためてグループの魅力を掘り当てていく、この短期連載。第3回は、波紋を呼んだ改名、念願の紅白出場などを振り返っていく(第1回~第2回はこちら)。
高城れにも不信感をいだいた、改名の真意
2011年4月10日『中野サンプラザ大会 ももクロ春の一大事~眩しさの中に君がいた~』をもって早見あかりはももクロを脱退。グループ名を「ももいろクローバーZ」へ変更することが発表された。改名は寝耳に水。しかも「Z」。『ドラゴンボール』の続編タイトルを由来とする「Z」はあまりに安直ではないか。これがモノノフたちの正直な意見だったはず。 書籍『ももクロ流 5人へ伝えたこと 5人から教わったこと』内でグループを育てたマネージャー・川上アキラと対談した高城れには、改名について「それまでのももクロが全部否定された感じがして…」、「あのときは「利用された」って思って」とショックを受けたと語る。川上曰く決して単なる思いつきではなく、「早見が抜けた感動やしんみりした雰囲気をファンに引きずってほしくない」と説明している。 小島和宏も著書『ももクロ非常識ビジネス学』で改名発表時の会場内について「空気は最悪だった」、「観客は「せっかくの感動的な卒業ライブの余韻をブチ壊しやがって!」と不快感を示した」と振り返っている。それでも「いつまでも美しい思い出に浸っている余裕などない。明日からは、もう5人での活動をスタートする。思い出はもはや邪魔になる(中略)一見、バッドエンドのように思えるが、残ったメンバーたちの「明日」をしっかりと明示しているわけで、ザワつきこそ残るものの、これはハッピーエンドだった」とし、メンバー、ファンへの手厚いフォローだと評価した。
伝説の言葉「ここが、この場所がアイドル界のど真ん中だ!」
この時期のももクロは改名だけではなく言動などすべての面で、それまで以上に波紋を広げるための試みをおこなっていた。4月11日から7日間、東京キネマ倶楽部および渋谷duo MUSIC EXCHANGEで『ももクロ試練の7番勝負』を開催。有野晋哉(よゐこ)、金子哲雄&田中秀臣、デーブ・スペクター、武藤敬司、吉田豪、水木一郎をゲストに迎えてトークバトルに挑んだ。4月17日の最終日は「VSロック」を掲げて『ザンジバルナイト in 野音2011』に参戦。早見脱退翌日から、意表をついたイベントを連発するところが、いかにもももクロらしい。
現在ではアイドルがさまざまなカルチャー界隈と絡む機会も多々あるが、当時はテレビやラジオを除けば、異種交流はまだまだ発達していなかった。フィールドの違うエンタメ性や文化性を持つ人々とのコラボは、自分たちの可能性、興味、関心を広げるという部分で効果的であり、何よりももクロを知らない層を巻き込むことができる。ももクロは結成初期から、川上の趣向もあってクリエイティビティにあふれたグループだと思っているが、これらの企画は顕著な例である。
5月20日からはライブハウスツアー『ももクロ ファンタスティックツアー2011 Zでいくって決めたんだZ!!』がスタート。7月3日のZepp Tokyoでの千秋楽は3回公演、各部わずか60分のインターバルで全65曲を歌いきった。格闘技のK-1やPRIDEのグランプリを彷彿とさせる、体力と精神力の限界に挑んだ闘いだった。
7月27日、1stアルバムであり傑作の『バトル アンド ロマンス』をリリース。天龍源一郎が率いたプロレス団体「レッスル・アンド・ロマンス」にオマージュを捧げたタイトルの同作。発売当日はメンバーが選挙カーに乗って遊説。新宿ステーションスクエアでのフリーライブ時、玉井が「ここが、この場所がアイドル界のど真ん中だ!」と伝説の言葉を放つ。WJ時代の長州力による名言を引用したこの発言は、アイドル戦国時代を大いに揺さぶった。
ドイツでのライブで確信「私たちは世界を変えられる」
挑発だけではなく、持ち味の遊び心もちゃんと並行した。8月には横浜、大阪で『ボイン会』なる怪しげなエーミングの公演を打ち出し、「何が起きるのか」とドキドキさせた。その中身は、『NHK紅白歌合戦』(NHK総合)出場をファンに誓うため、メンバーが指に朱肉をつけて色紙に拇印を押し、それをファンに直接手渡すものだった(もちろん筆者も大阪公演で拇印色紙をゲットした)。
8月20日のよみうりランドオープンシアターEASTでの『サマーダイブ2011 極楽門からこんにちは』では6000人を動員。9月9日『文化庁メディア芸術祭 ドルトムント展2011』プレオープンイベント出演のため、ドイツのドルトムントへ渡った。ライブ翌日、ドイツのDOMMUNEスタジオから配信されたインタビューでは、高城が「言葉が通じなくても一緒に盛り上がれたということは、私たちが世界を変えられるということ。これからもっともっと世界を変えていきたい」と意気込んだ。2008年に路上ライブからスタートし、地下から這い上がった彼女たち。そのまなざしは「世界をどのように照らすか」に向いていた。
2011年のももクロの畳み掛けるような動きは圧巻だった。毎日のように彼女たちの新しいニュースを追っている感覚があった。早見の脱退ショックをマイナス要素に思わせず、快進撃を続けた。同年末『ももいろクリスマス2011』で、さいたまスーパーアリーナへたどり着く。
ドランクドラゴン・塚地らも、ももクロの熱狂
2012年は筆者が仕事として、ももクロともっとも接点を持った年である。2月公開の映画『NINIFUNI』の関西地方のプロモーションを担当したのだ。『NINIFUNI』は、『ディストラクション・ベイビーズ』(2016年)や『宮本から君へ』(2019年)で知られ、いまもっとも日本で刺激的な映画を撮る真利子哲也監督の作品。
ももクロは本人役で出演した。誰もいない砂浜に車を停めて練炭自殺を図る青年(宮崎将)。車窓の向こう側では、ミュージックビデオの撮影のために砂浜へやって来た、6人体制時のももクロの姿。元気一杯に踊ってハシャぐ彼女たちと自殺を図る青年の対比。圧倒的な生と死を画面内におさめる凄まじい内容だった。さらに不気味に鳴り響く、津波の音。この映画は東日本大震災前に撮影されたが、どうしてもあの出来事が結びついてしまう。わずか42分の映画。作品に渦巻く気配に言葉を失う。
この映画の宣伝のため、私はももクロの来阪ライブでチラシ配りをおこなった。ただ、これまた単なるライブではなかった。2月18日、メンバーやスタッフらがTwitterとブログを使って13時、14時の2度にわたり「たこ焼き最高、食べに行っちゃう?」など大阪でのサプライズライブをにおわせた。15時になると三角公園前にある街頭ビジョンが開いてメンバーが登場し、ライブをおこなった。モノノフたちは場所を事前に突き止めて集結。私はキングレコードのスタッフから情報を事前提供してもらい、同所で映画のチラシを配りまくった。ももクロの結成時のような路上戦を自らに課した(ちなみに大阪公開時の舞台挨拶では真利子監督、高城とトークもおこなった)。
もうひとつ印象的なのが、10月公開『くろねこルーシー』という映画の関西宣伝をつとめたとき。主演・塚地武雅(ドランクドラゴン)がPRで来阪。そのときの彼の装着品の配色が、ももクロのメンバーカラーだった。それに気づいて指摘したときの「そうなんです!」という塚地特有の人の良さそうな笑顔が忘れられない。塚地は2012年開催『ももクロ夏のバカ騒ぎ Summer Dive 2012 Tour -開幕戦- 6.17 NHKホール大会』に客として訪れ、ライブ映像に偶然映りこんだことがネットでも話題に。塚地はももクロ大好き芸人筆頭。芸能界でもももクロ熱が広がっていた。
2012年3月にレギュラー番組『青山ワンセグ開発』(NHK Eテレ)、4月にラジオの初冠番組『ももクロくらぶxoxo』(ニッポン放送)がスタート。4月21日、22日『ももクロ春の一大事2012 ~横浜アリーナ まさかの2DAYS~』で計2万5千人を集めて大成功させた。特に2日目、ステージ位置を会場のセンターに設置して360度客席が囲むなかで繰り広げたパフォーマンスは、メンバーの身体性を存分に堪能できるすばらしい内容だった。 8月5日、西武ドームでの『ももクロ夏のバカ騒ぎ』ツアーの千秋楽はなんと3万人以上を動員。同月『SUMMER SONIC 2012』に出演。10月5日に女性限定ライブ、11月5日に男性限定ライブで日本武道館での公演を実現。人気音楽番組『MUSIC STATION』(テレビ朝日系)にも初出演を果たした。規模が明らかに破格になった。
“6人”でつかんだ『紅白』初出場、モノノフも感涙
そしてついに運命の知らせが届けられる。11月26日、ももいろクローバーZの『NHK紅白歌合戦』出演が発表された。12月24日、25日のさいたまスーパーアリーナでの『ももいろクリスマス2012』を終え、1日休養しただけで、27日から31日までNHKのリハーサル室で一日中練習に励んだという。
31日の『紅白』当日。ももクロが披露したのは「サラバ、愛しき悲しみたちよ」と「行くぜっ!怪盗少女」のスペシャルメドレー。黒、白の妖艶な衣装からメンバーカラーのコスチュームへ早着替えして、歌い出した「行くぜっ!怪盗少女」。曲冒頭のメンバー紹介部分で口ずさまれた〈レニ カナコ アカリ シオリ アヤカ モモカ〉の6人の名前。もう、泣くしかなかった。〈アカリ〉の名前が歌い上げられた。早見脱退後、このパートは5人バージョンになっていた。しかしメンバー本人たちのアイデアで、“6人”で『紅白』出場を迎えた。早見の本当の卒業がこの瞬間にあった。
Twitterには、“6人”のステージへの賞賛、感動の声が多数投稿された。川上は『ももクロ流』のなかで、「ステージは最高のデキだったと思います。リハでは不安だったけど、本番が一番うまくいった。ライブが終わった後、本人たちが帰ってきたときは、思うところがありましたね。泣きはしなかったけど…ちょっと泣いたかな」と振り返っている。
紅白出場翌日の2013年1月1日、ももクロは朝8時からUstreamの番組に出演。2階建のバスに乗り込んで、飯田橋ラムラ、石丸電気、明治記念会館、NHKホールなど聖地をめぐった。筆者も、あの興奮から一転、脱力気味にUstreamを鑑賞していた。元旦の朝ならではのガランとした街のムード、大勝負を終えたメンバーのゆるいやりとり。夢見心地だった。そしてバスが最後に着いた場所、それが国立競技場。同所に集まっていたモノノフの前で、ももクロは次なる目標として「国立競技場でライブがしたい」と宣言する。
物議を醸した『オズフェス』への出演
ももクロは2012年から、実力磨きに奔走していた。活動初期から口パクを良しとする方針だったが、同年8月に坂崎幸之助(THE ALFEE)主宰『フォーク村』、11月『ももいろ夜ばなし第一夜「白秋」』でアコースティック構成による歌勝負の舞台に立つなど、歌唱面に注力。2013年3月、大阪城ホールからはじまった『5TH DIMENSIONツアー』は、仮面装着のために表情でのごまかしが効かず、MCをなくすことで歌のクオリティを徹底追及。4月13日、15日の西武ドーム『ももいろクローバーZ 春の一大事 2013~星を継ぐもも~』では初の生バンド構成にも挑んだ。
歌の技術向上、バンドセットなどを経験したももクロ。だがそこで波紋を呼んだのが、オジー・オズボーンとシャロン・オズボーンが主催するロックフェス『Ozzfest Japan 2013』への出演だ。「アイドルが出るなんて」と否定的な意見が飛んだが、ももクロは本番で「いま、目の前にいる私たちがアイドルだ」とロックファンを煽った。合間のコーラの一気飲みなどはやはり疑問視された部分もあった。それでもNARASAKI、和嶋慎治(人間椅子)といった名うてがギタリストで加わったこともあり、ロックファンから一目を置かれる結果を残した。
BABYMETALが同年10月『LOUD PARK 13』に出演した際も、「アイドルがメタルフェスに出るなんて!」と物議を醸した。当時は、アイドルがロックフェスに出演するときは忌避的な反応が多く挙がった。現在は、かつてほどの逆風は吹かない。ももクロが、そういった変化の一端を担ったことは間違いない。
2013年、ももクロはグループとしてより筋肉質になっていった。そして年末、2年連続『紅白』出場を果たす。
■田辺ユウキ
大阪を拠点に、情報誌&サイト編集者を経て2010年にライターとして独立。映画・映像評論を中心にテレビ、アイドル、書籍、スポーツなど地上から地下まで広く考察。バンタン大阪校の映像論講師も担当。Twitter(@tanabe_yuuki)
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