【ネタバレ】『エヴァ』は本当に終わったのか 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』徹底考察
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※本稿には、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の結末を含む内容への言及があります。
2007年からシリーズの公開が始まった、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』。その4作目にして、シリーズ最終作となったのが、タイトルを一新した『シン・エヴァンゲリオン劇場版』だ。TVアニメ版『新世紀エヴァンゲリオン』、旧劇場版を経て、再び出発した本シリーズが14年の長期に渡って公開され、前作から8年と数カ月を経て最終作が公開されたというのは、異例づくめといえる出来事だ。このような新シリーズのスケジュールは、庵野秀明監督はじめ作り手側にとっても予想していなかったはずだが、それでも成立してしまうというのは、『エヴァ』全体の熱狂的な人気があってこそだ。製作が長引き延期を重ねながらも、シリーズの興行成績は落ちるどころか、右肩上がりになっていった。
さらに、公開前に発表された「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」という、最終作となった本作の意味深なコピーが予感させたのは、新劇場版だけでなく、26年前に放送されたTVシリーズや、1997年に公開された旧劇場版も含め、シリーズ全てに決着をつけるという意気込みである。
さて、多くの期待や不安を受けながら、ついに公開されてしまった『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の内容は、一体どうだったのか。筆者が驚いたのは、「終劇」の二文字が映し出された後、観客席から大きな拍手が起こったことだった。24年ほど前、旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』で同じ文字が映し出されたときとは、まるで異なる雰囲気。そしてSNSでも、当時のインターネット掲示板の荒れた状況とは違い、ネタバレを避けつつ満足げに自分と「エヴァ」との出会いや思い出を語る観客が多い印象だ。
ここでは、そんな本作の内容と映画としての評価、なぜ、多くの観客たちが自分語りをするのか。そして、本作によって“『エヴァ』は本当に終わったのか”という疑問について、可能な限り深いところまで考えていきたい。
明らかになった新劇場版のコンセプト
まず、作品が終結を迎えたことではっきりしたのは、依然として謎に包まれていた、新劇場版シリーズ全体のコンセプトである。もともと新劇場版は、“REBUILD OF EVANGELION”という仮のタイトルがついていたように、旧シリーズの「再構築」を企図していたはずだ。そのコンセプトが最も分かりやすく反映していたのが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』であった。この作品では、TVシリーズを基に、劇場版に相応しく映像のディテールを豊かにし、ストーリーをタイトに整理した印象が強い。
その印象が異なるものとなってきたのが、設定、ストーリーともに大きな変化が見られた『:破』であり、さらに変化が飛躍的に強まった『:Q』である。この流れによって、新劇場版は「再構築」ではない全くの新作なのだというイメージが強化されたところがある。しかし、『:破』も『:Q』も、設定の変更や新しい要素が存在しながら、旧シリーズの「再構築」としての部分が、しっかりあったことは確かだったのだ。そして、本作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、同様に新しい要素が加わりながらも、基本的なストーリーの展開は旧シリーズを軸とし、当初の予定であった「再構築」という役割を、十分に果たしていることが分かる。
そう言えるのは、『:序』『:破』『:Q』それぞれに加えられた、一見とりとめのないようにも感じられた新たな要素や、TVシリーズなどから抜粋された描写には、今回の結末へと繋がる伏線がいくつも張り巡らされていたことが明確なものとなったからである。
本シリーズでは、庵野秀明監督が少年時代に地元の山口県で乗っていたと思われる「国鉄型半鋼製電車」の車内からの風景が、主人公・碇シンジの心象風景として、『:序』の段階から登場していた。そして本作では、その列車から降りることで、「エヴァンゲリオン」の全てが終結を迎えることになる。加えて、『:破』で碇シンジの目の前に突如として舞い降りた少女が、彼を“『エヴァ』という物語”から降りることを助ける存在となったのである。このように、新たな終劇のかたちが提出されたことで、これまでの描写の多くに明確な意図があったこと、そして当初の目論見が達成されたことが同時に分かるのだ。
このように考えると、『:Q』が、ほぼオリジナルストーリーとして、これまでの新劇場版から、かなり逸脱した内容と雰囲気が見られたことの方が、むしろイレギュラーな事態だったように思える。ここで変化が起きた理由は、『:破』から『:Q』の間に、東日本大震災が起きたことが挙げられるだろう。
「ヒトひとりに大げさね。もうそんなことに反応してる暇なんてないのよ、この世界には」
式波・アスカ・ラングレーが『:Q』で口に出した言葉は、現実の日本で多くの死者や困窮者を出すこととなった災害を通して、90年代の『エヴァ』が編み出した、個人の内面の問題への解答が、本当に生死にかかわる事態においては無力なのではないかという、監督の疑問や葛藤の表出であるように思える。だからこそ、『:Q』は、コンセプトがある程度固まっていたはずの新劇場版のなかで、最も監督の正直な心が反映した、スリリングな私小説でもあり、当時の気分を反映したプライベートフィルムとしての『エヴァ』らしい『エヴァ』だったといえよう。
そして本作は、そんな『:Q』で出現した問いと、『:序』『:破』で描いた終局への布石を回収し、どちらにも決着を与えるという課題を背負うことになってしまった。そう考えると、本作の上映時間が2時間35分という、劇場アニメ作品としては異例の長尺となり、製作期間が大幅に延びてしまったのも理解できる。とはいえ、それらをもっと駆け足で表現することもできたはずであり、そこであえてそうせずに、新劇場版とともに始まった自分のスタジオを抱えながら、茨の道に進んだ監督の決断には、賞賛すべき部分がある。そして、そのような作品づくりをするからこそ、『エヴァ』は、常識の枠を破ることができているのだといえる。
碇シンジは成長していたのか
さて、『:Q』の直後から開始される本作の物語では、すでに死亡していたと思われた、碇シンジの友人である鈴原トウジや相田ケンスケらが、アラサーの年代になって登場する。シンジがトリガーとなってしまった「ニアサードインパクト」から避難してきた人々が「ヴィレ」の手引きによって作り上げた「第3村」。トウジはそこで、「委員長」洞木ヒカリと結婚し、独学ながら医師として地域医療を担っていた。おそらく、かつて彼の妹の命を救ってくれた医者という職業への恩返しと憧れの感情が、トウジを献身的な人物へと成長させたはずだ。この絶望の世界で彼を勇気づけているのは、人と人との繋がり合いなのである。
“群体としての”人間の営み、集団社会のミニチュアとしての「第3村」は、『:Q』において深い傷を受けた碇シンジの心が癒される場所であり、ネルフ本部で与えられた命令だけをこなしていた「アヤナミレイ(仮称)」が、様々な学びを経験する場として設定されているとともに、シリーズ全体の中で、スイカ畑や夕焼けに照らされる水田として、かろうじて示されていた農業が、“田植え”というかたちで本格的に示される。
高畑勲や宮崎駿らは、農業や里山での生活を人間生活の根本として位置付け、『機動戦士ガンダム』の富野由悠季もまた、『∀ガンダム』において、ロボットアニメの中で農業を描く試みを行っている。この先人たちの道を庵野監督も結局歩むことになったという点は感慨深いところがある。とはいえ庵野監督は、同じく総監督作を務めたTVアニメ『ふしぎの海のナディア』(1990年〜1991年)の中でも、ジュール・ヴェルヌの小説『神秘の島』(1874年)を原案に、樋口真嗣監督の尽力のもと無人島における自給自足生活と開拓という要素を扱っている。だが、当時マネージメントの問題によって、これらのエピソードでは作画のクオリティが著しく落ちるという問題が起こった。その意味では、本作の丹念に描かれる自給自足パートは、一種のリベンジだったととらえることもできる。
このような、地に足をつけたプリミティブな人間の営みは、『エヴァ』がこれまであえて描かなかったことでもある。テクノロジーに満ちたジオフロントや要塞都市の中での生活描写は、製作された時代とリンクし、生きている実感に乏しい現実の都市生活者の世界観とシンクロしていたといえる。
そこでは、自宅の風呂に入浴することが、最も手軽に、世界の中で自分の存在を感じることのできる行為であった。身体全体に触れる湯が、自分自身に、自分の身体のかたちを意識させ、世界と自分との境界線を示すものとなっていたからだ。本作では、複数の他人と共同浴場で湯を共有することで、自分のかたち、他人のかたち、そして他者と繋がるということを体験するアヤナミレイ(仮称)の姿が描かれる。ときに離れ、ときに近づき、束の間のふれ合いに身体と精神を浸す。1000人ほどが共同生活を送る、この人間社会のミニチュアの中で起きるシンジの心境の変化が、本作のテーマと、新劇場版シリーズのテーマを明らかにすることにもなっているのだ。
「今の自分が絶対じゃないわ。後で間違いに気づき、後悔する。私はその繰り返しだった……。 ぬか喜びと自己嫌悪を重ねるだけ。でも、そのたびに前に進めた気がする」
旧劇場版で葛城ミサトがシンジに吐露した想いは、真希波・マリ・イラストリアスが初登場時に口ずさんでいた、「三百六十五歩のマーチ」の歌詞において、新劇場版でも象徴的にリフレインされている。それが示すのは、『エヴァ』という物語が、傷つきながら、そして汗やべそをかき、ときに後戻りしながらも、碇シンジが少しずつ成長していく姿を追っていくものであるという基本路線だ。
『:破』のクライマックスでは、旧劇場版の後ろ向きな態度を見せるシンジと比べて「成長した」と評価するファンが少なくなかった。たしかに、使徒に取り込まれ絶望の中にいた綾波レイを、物語の流れを無理やり突き破るようなかたちで救出したシンジの前進は、赤城リツコ博士の解説の中で「相補性」と表現したように、人と人が結びつくことで新たな奇跡が生まれるという、作品世界の中における人類の新しい可能性を示した。しかし、シンジはレイを使徒の中から救出するときに、こう言っている。
「僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい!」
レイの救出劇は、一見すると一人の少女のための献身的な行為のように思える。たしかに、そういう部分もあるのだろう。だが、シンジが自分や世界がどうなっても構わないという心境に至ったのは、前回エヴァに乗ったとき、アスカを助けられなかったことで罪悪感を背負ってしまったからだ。自分の運命と、大勢の他人が生きる世界を差し出してまで、シンジは自分の気持ちを救うという決断をしてしまったのだ。それはやはり成長の表現ではあり得ない。
そんなシンジは『:Q』において、自分がさらに引き起こしてしまった、人類の大量死につながる絶滅行動の儀式「ニアサードインパクト」のトリガーになったことを、様々な人々から糾弾されることになる。もちろん、「ニアサー」の責任の全てがシンジにあるわけではないし、ここまで大きな事態になってしまうとは、シンジ自身も思っていなかっただろう。だが弁解を重ねるシンジに、渚カヲルが指摘するように、「ニアサー」当時のシンジの理解不足など、犠牲者の遺族たちにとっては、たいして意味のないものだ。
『:破』のときとは比べ物にならない、人類に対する反逆者としての大きな罪悪感が、絶え間なくシンジの精神を責め続ける。パニックに陥ったシンジは、カヲルの与えた希望の選択肢にすがることしかできなくなってしまう。功を急ぐその姿は、あたかもカルト信者のようだった。カヲルは、シンジとともに新たな儀式へと向かうものの、独自の人類補完計画を進める碇ゲンドウの真の狙いに自分たちが利用されていることに気づき、シンジを制止しようとする。だが、視野が狭まり、一刻も早く重荷を捨て去りたいと願うシンジの暴走は止まらない。その代償として、シンジは新たにフォースインパクトを起こしかけ、それを瀬戸際で防いでくれたカヲルを、目の前で失ってしまう。
「ほんとに他人を好きになったことないのよ! 自分しかここにいないのよ!」
旧劇場版でアスカが指摘していたように、本シリーズで碇シンジが失敗を繰り返してきた原因は、彼が結局、自分のことしか考えていなかったということに尽きるだろう。それは、本作でゲンドウが起こそうとして、ヴィレの面々から総スカンを食った「アディショナルインパクト」における、自分勝手な迷惑さとも重なることになる。
「人の言うことには、大人しく従う。それが、あの子の処世術じゃないの?」
リツコがTV版や新劇場版で冷徹に指摘しているように、シンジは誰かの言うままにエヴァに乗った。それは、結局は自分のためであり、父親やミサトなど、自分が他の人からどう見えるかを意識した行為だったといえよう。だからこそ、自分のエゴによって、エヴァパイロットであることを、あっさりと何度も拒否することができたのだ。
世界のかたちと幸せのかたち
TV版や旧劇場版では、カヲルやアスカを助けられなかった罪悪感に苛まれるシンジの“デストルドー(死への衝動)”が利用され、人類補完の儀式が始まった。だが内面世界のなかで、シンジは自分を取り戻し、計画を未然に止めるという結末を迎える。それに比べて本作が特徴的なのは、すでにシンジは第3村において、この葛藤から脱出することができているという点である。ここで、彼の心に何が起こったのだろうか。
最も大きかったのは、ともに村での生活を経験したアヤナミレイ(仮称)とのコミュニケーションである。彼女は自分の植えた稲を刈り取ることもできない、短い数日間の中で、第一次産業に従事したり、子どもと触れ合ったり、他人と語りものを食べるという、人間生活の基本となる体験を通して、“人生”を過ごすことになる。ほぼ全ての人間は、歴史の途中に生まれ、歴史の途中に死んでいく。それぞれに残された時間の差こそあれ、この前提は変わらない。
そんな人生の中で、彼女は「好き」という感情をシンジに伝えることになる。好意を伝えることや、手を繋ぐこと。それは、シンジが渚カヲルに与えられた、孤独な人生を照らす光のように感じた、束の間の喜びでもある。だが生きている限り、その感情をまた誰かから与えられることもある。そして、トウジやケンスケ、アスカが優しくしてくれたように、シンジもまた、表面的な演技などではなく、誰かに好意を伝え、手を繋ぎ、優しさを与えることで、他者と生きることの意義を学んでいくのである。
この後、ミサトと最後に束の間の時を過ごすシンジは、ミサトの息子と村で出会ったことを伝え、「僕は好きだよ」と声をかける。何よりも息子の未来のために、自分の命を賭して最後の戦いに臨もうとするミサトにとって、その言葉は最も嬉しく心に響いたのではないだろうか。良くも悪くも、言葉はときに個人の中の世界に影響を与え、変えてしまうことがある。シンジが渚カヲルやアヤナミレイ(仮称)に出会い、世界のかたちを変化させたように。だからこそ、シンジはミサトの身になって考えることで、自分の願望や体裁とは関係なく、ミサトの心を晴れやかにする言葉が出てきたのではないか。
「何かいいことあるかもと思って、ここに来たんだ。嫌な思いをするためじゃない」
自分の幸せだけを求めて、シンジはエヴァに乗っていた。ミサトやゲンドウからの評価や他人の言葉を求めるのも、自分の価値を実感するための行為に過ぎなかった。どこまでいっても自分、自分、自分……。そんな人間だったシンジは、他人を幸せにすることにも意味があるということを、第3村での共同生活から学んだように見える。自分と他人が生きる世界の幸せは、「相補性」によって支えられている。
それはまた、全ての人々の欠けた心の補完を人為的なインパクトによって達成しようとする、「人類補完計画」にもリンクする考え方でもある。しかし、その方法やタイミングを勝手に決め、強制的に個人の意志を奪ってしまうのが、補完計画の独善的な部分だった。アヤナミレイ(仮称)が“人間”として、様々な経験や思いやりの気持ちを学ぶことで自分の幸せを見つけたように、人間には試行錯誤しながら自分の幸せのかたちを探す権利がある。
すでに第3村で幸せのかたちと世界のかたちをつかんでいるシンジは、その時点ですでに父・ゲンドウを乗り越えている。よって、虚構と現実が混じり合うという「ゴルゴダオブジェクト」が生み出した世界の中においても、シンジはゲンドウの心を救うことで、父の目論見を断念させることに成功するのである。
この父と息子の対話・対決シーンは、半ばギャグとして表現されているところがある。彼らが対峙する記憶のフィールドは、撮影所のセットや特撮のジオラマとして描かれる。初号機が倒れ込んでセットのハリボテを突き破ってしまう描写は、押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル ドリーマー』(1984年)においても使用された演出であり、エヴァ同士の室内での戦いは、実相寺昭雄監督が『ウルトラセブン』のエピソードの中で描いた、地球を支配しようとするメトロン星人と、地球を救おうとするモロボシ・ダンが、アパートの一室でちゃぶ台を囲んで議論した、前衛的かつユーモア漂う演出のパロディだと思える。
ちなみに『ウルトラマンA』では、キリストが磔刑に遭ったという「ゴルゴダの丘」を模した、「マイナス宇宙」に存在する「ゴルゴダ星」という場所で十字架にかけられるウルトラ兄弟たちの受難を描いている。これをパロディ化したものが、本作や新劇場版全体の設定の基になっていることは明白であろう。名作SFアニメーションを想起させる「ヤマト作戦」、「裏コード999」というワード、さらに本作の劇中では、宇宙防衛艦・轟天号が活躍する特撮SF映画『惑星大戦争』(1977年)の劇伴や、日本を代表するSF作家・小松左京が総監督を務めた『さよならジュピター』の主題歌を使用しているなど、SFアニメ、特撮オタクとして、本作ではこれまで以上に庵野監督が、やりたい放題の限りを尽くしている。
ことここに至って、もはや『エヴァ』の設定や、散りばめられた謎のキーワードから、物語上の様々な仮説を立てること自体が、もはや陳腐化してしまったといえる。これは監督自身が本シリーズ全体で狙っていた試みでもあったのだろう。旧シリーズが話題になっていた当時、『エヴァ』の謎を追った書籍はブームに乗っていくつも出版されたが、衒学的な要素を追求した先に『エヴァ』の本質は存在しないということを作家自身が述べている、一種のネタバラしにも思えるのである。
とはいえ、「ゴルゴダオブジェクト」と「マイナス宇宙」には、テーマに関係する興味深い点も存在する。それが、この仕組みが到達させる「エヴァンゲリオンイマジナリー」というものである。虚構の中のエヴァ、それぞれの人々の記憶の中のエヴァが、そこにいたのだ。ゲンドウの思うエヴァ、シンジの思うエヴァ、庵野監督の思う『エヴァ』、観客一人ひとりの中に存在する『エヴァ』が、そこでは変幻自在のかたちで存在している。
そんな不思議な世界の中において、シンジは新しい槍を手にする。希望の船・ヴンダーのクルーたちの頑張りや、ミサトの体を張った突入、マリの奮闘によって、シンジの手に託された槍は、人の意志が込められている「ヴィレの槍」だという。この描写は、庵野監督が新劇場版をこれまで手がけてきたスタッフ、キャストたち全員への感謝を示しているように感じられる。劇場アニメーションは、一人だけの努力では作ることができない。庵野監督がもう一度『エヴァ』の終局を表現するために、多くの人々が背後で尽力を重ねたことが、このシーンで描かれているのだ。だが、作品が大勢の頑張りによってかたちになっているのは、他の映画やアニメーション作品でも同じことだ。ここで感傷に溺れているような描写があることで『エヴァ』がやはり監督個人のプライベートフィルムであったということが思い出されるのである。
本作のシンジと庵野監督は、他者への思いやりを持つことで、ゲンドウも含めた登場人物たちそれぞれの“心の補完”を手助けする。個人としての心の充足によって、ヒトたちは再び自分の体を取り戻していく。そしてシンジは、新劇場版でゲンドウが狙った「絶望のリセット」ではなく、ヴィレが目指し、旧シリーズでシンジが選び取った「希望のコンティニュー」でもない、第3の槍を使う。世界の改変による再出発「NEON GENESIS」、つまり新たな世紀創生の儀式に挑む。
神話と福音に導かれた主人公
シンジが虚構と現実が混ざり合う場所で、人々の想いを乗せて槍を突き立てる。初号機をはじめ、残存する全てのエヴァが、次々にその槍に刺し貫かれていく。碇シンジの持つ、「無限大のシンクロ率」によって、われわれ観客一人ひとりに見えている全ての虚構の中の『エヴァ』もまた、そこで刺し貫かれているのだろう。シンジが望んだのは、「エヴァのいない世界」だ。『エヴァ』の世界の現実に存在していたエヴァも、われわれの心の中に存在するエヴァも、その全てをシンジは葬り去ろうとする。
ここで気づかされるのは、本作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』とは、“観客参加型の映画”だったということだ。われわれ観客が、本作を観て自分の話をしてしまう理由とは、自分の心の中のエヴァが本作に出演していたからであろう。そして、観客は自分の『エヴァ』と決別し、弔いをすることになるのだ。本作の核となる部分とは、まさにこの入れ子構造のユニーク試みなのである。
このシーンで流れているのが、映画『さよならジュピター』の主題歌だ。この作品のクライマックスでは、三浦友和演じる主人公が、人類の繁栄のために木星へと突っ込んでいくストーリーが展開する。シンジもまたマイナス宇宙のなかで、本作の登場人物たちやスタッフたち、観客のために、救世主として虚構の狭間へと溶けて消え去ろうとする。これが、自分の心を優先して多くの人々を死なせてしまった、碇シンジの贖罪のかたちである。
だが、思わぬマリの出現によって、シンジは寸前で助け出される。そして、二人は再構成された世界の中で駅に降り立っていた。碇シンジは、もうエヴァを必要としていない。だからこそ、“エヴァの呪縛”から解き放たれ、歳を重ね、『エヴァ』という列車から降りることができたのだ。それを可能にしたのが、人と人との「相補性」であり、出会いの可能性だ。
マリは、新劇場版において突然現れたキャラクターである。そして、彼女がこれまでの『エヴァ』の外部にいた突発的な存在だったからこそ、シンジをこれまでとは違う世界の外に連れ出す役割を果たすことができたのだろう。そしてシンジはマリとともに、実写映像として表現された、現実の世界へと踏み出していく。列車のレールが敷かれていない、無限の選択肢があるフィールドを、自分の足と自分の意志で進んでいくのである。
旧劇場版の公開から新劇場版が製作されるまでの期間において、庵野監督に起きた大きな出来事といえば、結婚したことである。おそらく、旧劇場版を製作していたときには、考えもしなかったパートナーと、いま生活を営んでいるはずである。だとすればそれは、本シリーズで映し出された、シンジとマリの関係そのものであるといえよう。一方でシンジは、旧劇場版において大きな存在だったアスカに、本作の中で「僕も、アスカが好きだったよ」と伝えている。アスカもまた、シンジとの関係を過去の恋愛だととらえ、その頃には想像もしていなかった相手をパートナーに選んでいる。アスカを真に救う相手は、シンジではなかった。だが、それが人生の面白さであり、醍醐味であるといえる。
「生きていこうとさえ思えば、どこだって天国になるわ。だって、生きているんですもの。幸せになるチャンスは、どこにでもあるわ」
庵野監督は、旧シリーズでシンジがセカンドインパクト後の地獄のような世界に誕生したときに、母親の碇ユイから受けた“福音(Evangelion)”を、自分の人生の中で体現したといえるのではないか。『エヴァ』が庵野監督のプライベートフィルムであり、碇シンジが監督の分身であるとするなら、そして庵野監督が一つの幸せに到達したのだとするなら、そのプロセスを描いてもいいはずだ。そして、実際にそれをやったのが、新劇場版だったといえるのではないだろうか。
庵野秀明と『エヴァンゲリオン』
さて、「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」と銘打たれた本作は、本当に『エヴァ』を終わらせることができたのだろうか。結論から言えば、『エヴァ』は終わっていない。なぜなら、庵野監督は、旧劇場版が公開された当時の対談の中で、このように言っているからである。
「基本的に『エヴァ』は僕の人生をフィルムに引き写しているだけなんで、僕が生きているわけだから、物語は終わらない」
庵野監督自身が『エヴァ』をそういうものだと定義づけてしまったのだ。今後、自分の人生経験を作品に投影させれば、それはどうしても『エヴァ』になってしまうだろう。監督作である、『ラブ&ポップ』(1998年)も、『彼氏彼女の事情』(1998〜1999年)も、『式日』(2000年) も、『キューティーハニー』(2004年)も、『シン・ゴジラ』(2016年)も、その意味において『エヴァ』だった。もっと言えば、『エヴァ』以前の作品である、『ふしぎの海のナディア』も、『トップをねらえ!』(1988年〜1989年)も、『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』(1983年)ですら、『エヴァ』であったはずである。
「何を言っているのか」と思った人は、ここで挙げた作品を観て、もう一度新劇場版を観直せば、おそらくそのことが理解できるのではないか。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の中だけでも、『ふしぎの海のナディア』におけるパリでの空中戦や、『トップをねらえ!』における二人の女性キャラクターによる、夥しい数の敵を掃討する場面がリフレインされているのだ。庵野監督がこれまでの人生で体験してきたこと、表現してきたことが、いまや『エヴァ』の中に還元されている。今後一切『エヴァ』というかたちで作品が作られることがないとしても、庵野秀明が生きている限り、『エヴァ』という列車は否応なく走り続けてしまうだろう。
また、本作が『エヴァ』として、これまでのシリーズの中で最も優れたラストに行き着いたのか、最高の結末を表現できたかという点について、それをはっきり結論づけることに、あまり意味はないだろう。『エヴァ』が、監督のプライベートフィルムである限り、今回の終局は、あくまで現在の監督の心のありようを映し出したものに過ぎない。「いまの自分が絶対じゃない」とミサトが言ったように、今後、庵野監督の人生の中で、どんな出来事が起きるか、前言を翻すような事態に陥るのかは、まだ誰にも分からないのである。だから、旧劇場版に比べて、単純に今回の作品や作り手がはっきりと「成長した」ものだとは決めつけられない部分がある。真理に辿り着いたと思ったら、思い違いだったということは、往々にしてあることだ。
アニメーションの手法において、本作や新劇場版全体は、新しい試みを行っていたといえる。目覚ましい変化は、3DCGの本格的な導入である。アクションシーンにおいて、積極的にCGを駆使することで、カメラを縦横無尽に振り回しながら、立体的な活劇を表現することで、アニメーションを次のステージに進ませている印象がある。とはいえ、その技術もまた道半ばだ。旧劇場版における、惣流・アスカ・ラングレーが搭乗した弍号機とエヴァシリーズとの死闘以上の完成度を誇るアクションシーンを、新劇場版は未だに提出できていないのである。これは、まだ3DCGという手法を、90年代における手描きアニメーションの最前線の域に到達させるまでには使いこなせていないことを示している。
そんな本作の試みにおいて目を見張ったのは、日常シーンにおいても立体的な表現が見られた点だ。第3村で打ちひしがれたまま、食事もできないでいるシンジの口に、アスカが食料を詰め込むシーンでは、おそらくモーションキャプチャーによって、手描きのアニメーションが不得意な、カメラの動きを利用した新鮮で実験的な映像表現が完成されていた。このようなシーンがあることだけでも、アニメーション表現の観点から、新劇場版を製作した意義はあるだろう。
本作が『エヴァ』というジャンルを離れた一つの映画として、旧劇場版以上のテーマを描き、新しい演出を提出できているかという点については、否定的にならざるを得ない部分もある。本作や、これを含んだ新劇場版が到達したのは、旧シリーズを踏まえた上での“アディショナル”、追加の終局であり、新旧を同時に味わわなければ真価を発揮し得ない。旧劇場版がアヴァンギャルドな出来であったからこそ、本作は旧来の娯楽アニメの文法にのっとった、比較的分かりやすい、より説明的な表現を使用しながら、進歩的なドラマを作り上げているのだ。もし、初めから本作のような演出手法を『エヴァ』が選択していたとしたら、そもそも観客の間で“エヴァの呪縛”が発生することも、新劇場版がここまで注目されることもなかったのではないか。そもそも、最初に『エヴァ』が製作されていなければ、今回の作品の中で全てのエヴァを消し去るという必要もなかったのだ。
だが、それは庵野監督も織り込み済みなはずだ。本作のコンセプトは、あくまで“再構築”であり、『エヴァ』を使って優れた映画を作るというよりは、『エヴァ』で『エヴァ』を描くという方向性にシフトしているからである。
確実に言えるのは、シンジやアスカ、レイやカヲル、ミサトやゲンドウなどといった、『エヴァ』の主要キャラクターのポテンシャルや、それぞれの内面の問題が、本作において全て説明されたことで、これらの登場人物を再び描く必要はなくなったということだ。だから、庵野監督の次回以降の監督作品では、『エヴァ』の主要な登場人物は存在しないだろうし、「エヴァ」の名前を使うことも一切ないのかもしれない。その上で、庵野秀明は実質的な『エヴァ』といえる、人生の列車に乗り続けなければならないはずである。そして、我々もまたその旅に、束の間同行することになるのだろう。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト
■公開情報
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
全国公開中
企画・原作・脚本・総監督:庵野秀明
監督:鶴巻和哉、中山勝一、前田真宏
副監督:田部透湖、小松田大全
声の出演:緒方恵美、林原めぐみ、宮村優子、坂本真綾、三石琴乃、山口由里子、沢城みゆき
(c)カラー
公式サイト:https://www.evangelion.co.jp/final.html
公式Twitter:@evangelion_co