イーライ・ロス監督のパーソナリティとも合致 『ルイスと不思議の時計』のメッセージ
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児童文学『壁のなかの時計』を原作に、魔法と、愉快な魔術師の伯父さんに出会う孤独な少年の物語を描いた映画『ルイスと不思議の時計』。記録的大ヒットシリーズとなった『ハリー・ポッター』のような、少年が魔法で活躍するファンタジー作品だ。
参考:脚本・製作者が語る、原作者への愛 『ルイスと不思議の時計』大暴走した本がルイスを襲う本編映像
本作を手がけたのは、なんと『ホステル』(2005年)や『グリーン・インフェルノ』(2013年)など、皮肉なユーモアがつまったバイオレンス作品を撮ってきた、“ゴア(血みどろ)映画”監督イーライ・ロスである。彼の撮った映画を知っている者ならば、このファンタジー的な題材との組み合わせに驚くことだろう。だが、さらに意外なことに、これが奇妙にもしっかりマッチングを果たしているのだ。本国アメリカでは、批評家の反応が上々、興行収入も予想を上回る成績をあげ、成功作と呼べる作品となっている。
そんな『ルイスと不思議の時計』は、イーライ・ロス監督の特性がどう活かされ、どう作品のテーマとつながりを見せるのだろうか。ここでは、その謎と、そこから生まれる魅力について考えていきたい。
本作は、原作に描かれた時代の数年後である、冷戦のただなかでありロックンロールが現れだした1950年代を舞台とする。両親を事故で失った10歳の少年ルイス(オーウェン・ヴァカーロ)は、会ったこともない伯父のジョナサン(ジャック・ブラック)に引き取られることになる。陽気で気ままな性格の伯父さんが住んでいたのは、近所で「お化け屋敷」と呼ばれるほど、年代ものの不気味な住まいだった。
ジョナサンや、屋敷に足しげくやってくるツィマーマン夫人(ケイト・ブランシェット)の行動は、何か怪しい。ルイスがその謎を探っていくと、じつは彼らは魔法使い(魔術師、魔女)であり、ルイスが住むことになった屋敷も、魔法の力によって意志を持った魔法の屋敷だったことが判明する。魔法に強い興味を持ったルイスは彼らの指導のもと、半人前ながらもオタク的な探求心を活かして、かなりの早さで魔法を習得していく。しかしそんな日常の裏では、死んだはずのある強大な魔法使いの陰謀が進行していた…。
原作の雰囲気もそうだが、本作は不気味な屋敷や墓地、死者を甦らせる禁断の降霊術など、子ども向けながらもホラーな要素がいくつも登場する。おそらくイーライ・ロス監督が抜擢されたのは、このおどろおどろしい怖さのテイストが欲しかったためであろう。たしかに、不気味な人形が大勢で屋敷の中をうろうろしているシーンなどは、子ども向けの作品としては少しやり過ぎな感があり、夢に出てきそうな怖ろしさがあった。
スティーヴン・スピルバーグのアンブリン・エンターテインメントが本作の製作に加わっているが、ここでは、『E.T.』や『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』などスピルバーグ監督が得意とするような、もったいぶったサスペンス演出はあまり見られない。ルイスが謎を探求するエピソードや、墓地での場面などは、もっとじっくりと長い時間をかけた演出が欲しいと思ってしまうし、少年がやって来たミシガン州の町の描写が少なく、屋敷を中心として屋内シーンが多いので、その時代の雰囲気やスケール感を与えられないのは確かである。むしろその点でスピルバーグの手法を受け継いでいるのは、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』(2017年)のような作品であろう。
しかし、そんな従来の大規模作品のような演出をとらず、あえて低予算映画のように限られた場面で構成されていることが、ある種の異様さやスピード感を与えているようにも思われる。演出の食い足らなさは、反面で現代的な軽さを生み出し、スケール感の無さは少年の近視眼的世界観を強調する効果があるのではないだろうか。それが本作の大きな特徴となっているように感じられるのだ。
だがそれよりも、もっと重要だと思われるのは、ここで描かれるテーマについてである。ルイス少年は、TVドラマの主人公の不屈の男ぶりに憧れ、彼と同じようにゴーグルをいつも身につけているが、転校した学校では、そんな変わった個性や、運動が苦手なことから仲間外れにされる孤独な境遇にあった。そんなルイスにも気さくに話しかけてくれるのは、タービーという同級生だった。だが彼は学内の選挙に勝つため、孤独な存在であるルイスに優しくしていたことが次第に分かってくる。
「学校に馴染みたかったら、そのゴーグルは付けない方がいい」というタービーのアドバイスが象徴しているように、彼の行動の多くは、自分の学校の中の立場を良くするなど、言い換えれば「社会的地位」を得ることを目的としたものだ。しかし、これは責められるべき姿勢というほどではないだろう。なぜなら、社会のなかの多くの人間がそれを目的として生きているからである。だから、個性を殺した方が都合が良いと判断すれば、大多数の行動に従って集団に順応しようとしてしまう。
しかし社会のなかには、そのような生き方を選ばず、ときに「変わり者」だと後ろ指を指されたり、肩身が狭い思いをしたとしても、自分が興味を持つ世界を追求したいと考え行動する人たちもいる。それを体現しているのがジョナサン伯父さんなのだ。同じくジャック・ブラックが演じた『スクール・オブ・ロック』の破壊的教師の役がそうであったように、ジョナサンは「この屋敷では、いつ寝て起きようが自由だ」と言ったり、「ご飯の前にクッキー食べる方が美味しいだろ」と、既存の常識や制約にとらわれず、自分の気持ちのままに行動する生き方があるのだということをルイスに教える。
だが、その生き方には負の側面も大きい。若い頃のジョナサンは、自分の心のままに魔法を研究することを選んだのはいいものの、父親(ルイスの祖父)からそれを強く反対されたことで家出をして、それ以来、家族に顔を合わせず、葬式にも顔を出さなかったのだ。常識という制約のある社会で、自分の我を通し自由に生きるということは、孤独を背負うということでもある。その境遇は、ルイス自身も学校生活という集団行動のなかで味わうことになる。
しかし、そういう生き方にも希望はある。ジョナサン伯父さんとルイスのように、ツィマーマン夫人や、ルイスと同じく変わった感覚を持つ同級生のように、考えの近い者や、同じ情報を共有する者、共感し合える者同士が連帯することで、自分の個性を発揮したまま孤独に対抗することができるのである。
原作と同じように、本作も、孤独な思いをしているかもしれない読者や観客に、この物語を伝えることで、優しくこう呼びかけている。「いまは寂しいかもしれないけれど、君のことを分かってくれる人は、きっと現れる。だから自分らしさを捨ててまで、周囲のみんなと合わせる必要はない。そして、自分の個性を伸ばすことで、自分らしい幸せを見つけてほしい」と。また、幸いにして多くの友達に恵まれている人にも、孤独な思いをしている人の気持ちを理解させようとしている。
このメッセージは、世間から眉をひそめられることも多いだろう「ゴア映画」を、それでも撮り続けてきた、イーライ・ロス監督のパーソナリティとも合致する。変わった感性を持ったルイスが、ついに自分を完全に解放して魔法を使う瞬間は、最も熱量が上がる本作のクライマックスであり、その姿は滑稽で笑えるが、同時に深い感動をも与えられる。このように世間から異端視されはじき出されるような者たちが、その個性を活かして大活躍するというカタルシスを、監督がしっかりと表現できているのは、原作者や変わり者たちと同じ想いを、やはり根底に抱いているからなのではないだろうか。
ただ、指摘しておかなければならないのは、原作のルイスが太めの体型であるという設定が、映画には引き継がれなかったことだ。これは興行的な事情が関係しているだろうことは言うまでもないが、作品のテーマを考えると残念なポイントである。『デッドプール2』(2018年)では、ふくよかな体型の少年が、主役に準ずる扱いで魅力的に描かれていたことを考えると、本作もそのようにできないことはなかったのではないかと思える。このような問題は本作だけでなく、多様性を目指すハリウッド全体の問題であろうし、日本も含めた創作物全体の課題であるように思える。(小野寺系)