Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
ぴあ 総合TOP > ぴあ映画 > 映画と働く 第14回 撮影監督:芦澤明子 / 71歳、女性カメラマンの第一人者がキャリアを語る

映画と働く 第14回 撮影監督:芦澤明子 / 71歳、女性カメラマンの第一人者がキャリアを語る

映画

ニュース

ナタリー

芦澤明子

日本映画界における女性のカメラマンの第一人者として、「トウキョウソナタ」「岸辺の旅」「散歩する侵略者」といった黒沢清の一連の作品や「南極料理人」「わが母の記」「海を駆ける」「子供はわかってあげない」などの撮影を担当してきた芦澤明子。その活躍ぶりは71歳となった今もとどまることを知らず、今後も撮影を担当した新作が複数公開を控えている。

映画ナタリーでは業界で働く人々に話を聞く連載「映画と働く」で芦澤にインタビュー。映画を志すきっかけとなった作品との出会いや、撮影助手時代の印象深い教え、“女性カメラマン”として独立した直後の象徴的な初仕事などを語ってもらった。後半ではインドネシアの俊英エドウィンと組んだ8月20日公開作「復讐は私にまかせて」についてたっぷりと聞いている。

取材・文 / 奥富敏晴 題字イラスト / 徳永明子

映画の入口は「気狂いピエロ」

──今の職業を志すきっかけの1本がジャン=リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」(1965年)ですね。言わずと知れたヌーヴェルヴァーグを代表する1本です。1970年当時は多くの若者が観ていたんでしょうか?

観るまで映画にあまり興味がなかったんですけど、当時、付き合い始めた彼氏が映画狂だったもんですから。その人に連れて行っていただいて、わからないけど面白いな、と。付き合いを深めるために何回も観に行って、観に行ったわりには、そっちのほうは進展せず、映画だけが残ってしまいました(笑)。

──何回もご一緒に行かれたんですか?

いえ、一緒に行ったのは1回。その人との話題を増やすために1人で何回も行きました。今は、どうしてるんでしょうね(笑)。

──4月に2Kレストア版が公開されて初めて観たんですが「わからないけど面白い」というのはすごく実感しました。

映画の概念を変えたんですね。こういう映画だったら、私でも作れるんじゃないの?と勘違いして、映画をすごく身近に感じて。今は大間違いだってわかるんですけど、当時はそう思ってしまったんですよね。それから自分で8mm映画を作り始めました。

──当時、自主映画を作っていた森田芳光監督とも親交があったとか。

そうですね。森田くんはこの頃 「映画」(1971年)っていう映画を作ったりしていて。「ライブイン茅ヶ崎」(1978年)よりも、ずっと前の頃です。

“ナベプロ”と勘違いしてピンク映画の世界へ

──1971年に助監督として働き始めるきっかけを教えてください。

アルバイトをするなら映画関係の仕事をしたほうがいいだろうと考えて、当時の(日刊)アルバイトニュースという情報誌で「渡辺プロ 助監督募集」という求人を見つけたんです。ジュリー(沢田研二)やザ・ピーナッツのいる渡辺プロダクションかと思ってたんですけど、行ってみたらどうも小さくて怪しい。そしたら成人映画を作っていた渡辺護監督のプロダクションで(笑)。とにかく猫の手も借りたい状況だったらしく、大学に行きもせず、使いっぱしりの見習い助監督をやっていました。

※渡辺護: 1960年代から活躍したピンク映画界の第一人者。監督として200作品以上もの劇場用映画を手がけた。

──ナベプロと勘違いされていたとは(笑)。それから撮影部に移られた理由はなんだったんでしょう。

演出部って人間関係がそのまま仕事につながるんですね。それに向いてないと思ったのもありますし、ちょんぼもいっぱいありました。まだ出番が残っている俳優を先に返してしまったり(笑)。一度や二度じゃなかったので、嫌になってしまって。現場の撮影部がかっこいいと思っていて、伊東(英男)さんがたまたま渡辺さんと一緒にやってらしたもんですから、自分から希望しました。

※伊東英男:映画カメラマン。若松プロダクションによる若松孝二や足立正生の監督作の数々で撮影を担当した。大島渚の「愛のコリーダ」(1976年)を手がけたことでも知られる。

──撮影助手の時代で印象的な教えはありますか?

伊東さんから「どんなささいなものを撮るときでも、必ず観ている人はいるから、ちゃんとやりなさい」と教わりましたね。あとは心の中で「お金のある仕事」「お金がない仕事」ってなんとなくランクを付けてしまいそうになるじゃないですか。そういうのも絶対ダメ、と。伊東さんも挫折を重ねて来られた方だったので、そういう言い方には力がありました。

カメラマン初仕事は小学生向けの性教育映画

──カメラマンとして独立する1983年まで、助手として10年間働かれていますね。

そうですね。フィルムだと10年くらいかかるんですよ。デジタルの世界だと数年でもチャンスがあればカメラマンになっていきますけど。10年経って自分でも助手に飽きてしまって(笑)。

──今は女性の撮影監督や撮影部のスタッフが増えていると思いますが、当時は珍しいですよね。

この当時、女性の撮影部は私の周りにいなかったんですが、伊東さんが「そういうのも面白いね、来ていいよ」とおっしゃってくださって。その達観した感じがよかったんですね。今は女性もすごく増えています。女性は優秀な人が多いと言うと逆差別って言われますけど、それに近いものがありますね。

──女性の撮影部が珍しかったとは言え、助手として働くうえでは「男も女も関係ない」「性別にかかわらず平等に扱う」という場合が多いと思います。

そうですね。それは今も変わらないと思います。

──逆に芦澤さんがカメラマンになったとたん、“女性ならでは”といった視点を求められることはあったんでしょうか。

なんとなく相手は求めていたかもしれません。なんと言ってもカメラマンとしていただいた最初の仕事は、小学生の保健体育の教材で女の子の生理を解説する教育映画。発注者としてはちょうどいいと思って仕事をくれたと思うんですけど、とても象徴的でした。でも間違いなく、そういった期待には応えられていなかったですね。助手のルールの中で育つと、いつの間にか自分のやりたいことや個性を忘れかけていて、最初はもっとガチガチ。しばらくして、そういうものから解き放たれていきました。

劇映画デビューのきっかけは監督への手紙

──カメラマンとして独立されてから、最初は映画ではなくCM業界でキャリアを重ねていますね。

実は伊東さんのところにはそんなに長くいなくて、テレビCMの現場で助手をすることが多かったんです。その時代に川崎徹さんと知り合って、カメラマンになるときに使ってくれました。川崎さんの影響も大きいですね。

※川崎徹:1980年代を代表するCMディレクターの1人。「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに」のフレーズで有名なフジカラープリント「お名前篇」など、数々のヒットCMを生み出した。

川崎さんは超売れっ子だったもんですから、忙しい芸能人を数時間で撮らないといけない作品が多くて。どうしたら撮り切れるか?を考えて、時短で進めなくてはいけない現場ばっかりだったんです。川崎さんは「とっても大変なことをへろへろになりながら大変そうにやるうちはプロではない」と。今にそのまま役に立っているとは言いませんが、超忙しくなっても内心焦らずにいられるのは、川崎さんから学びました。見た目にはおどおどしてるかもしれないけど(笑)。

──その後、平山秀幸監督の「よい子と遊ぼう」(1994年)で撮影監督として劇映画デビューされています。CMのキャリアも11年ありますが、この間も映画を撮りたい思いはあったんでしょうか?

いずれは映画もやりたいなとは思っていたんですけど、ツテがなかったんです。ピンク映画とは離れてしまいましたし、ピンク映画自体も一般映画とはちょっと開きがありましたしね。でも映画館で映画は観ていました。平山監督の「ザ・中学教師」(1992年)を観て、いいなと思ったので手紙を書いたんです。

──「撮影監督をやらせてほしい」という手紙を?

はい。それで1回飲みまして。昔の新宿にシネマ・アルゴのあったあたり、今のK's cinemaのそばでしたね。そのときは「いつかね」って感じで話して、しばらく経ってからWOWOWの映画シリーズ「J・MOVIE・WARS」の中編に呼んでいただいて。それが「よい子と遊ぼう」です。とてもうれしかったですね。

普通の建物がカラフル

──これまで手がけた映画でもっとも印象深い作品はなんですか?

「復讐は私にまかせて」(2021年)は私にとって宝の1つですね。海外でアジアの人と一緒に撮れるチャンスはめったにないじゃないですか。これからも、そういうことが何回もできるわけじゃないので。

──「復讐は私にまかせて」は第74回ロカルノ国際映画祭で金豹賞(最優秀賞)を受賞しています。そもそも芦澤さんが撮影として参加することになったきっかけを教えてください。エドウィン監督とはオムニバス映画「アジア三面鏡2018:Journey」(2018年)でご一緒されていますね。

その前にプロデューサーのメイスク・タウリシアさんとは、深田晃司さんの「海を駆ける」(2018年)で知り合っていて。そのあと「アジア三面鏡」でエドウィンとご一緒してから、「今度はインドネシア映画を一緒にやらない?」と誘われたんです。外国人の私を呼ぶってことは“旅もの”とか、そういうのんびりしたものかなと思ったらアクション映画。アクションは初めてだったんですが、「それでもいい」と言っていただいて。

──エドウィン監督の中にはもう一度、芦澤さんと組みたい気持ちがあったのでしょうか。

私があとから「インドネシアの撮影監督と比べて映像は違いました?」と聞いたら、「そんなに変わらないよ」って言ってたから、どういうつもりなのかわからないけど(笑)。ただ「アジア三面鏡」のときに好みの色合いに共通点がありましたし、メイスクからわりとちゃんと働くことを聞いてたんじゃないですかね。

──採石場や遊園地などロケーションが特徴的でした。撮影監督の目から見て日本の風景との違いは感じましたか?

普通の建物がカラフルなんですよ。色合いが日本のような茶色くくすんだものではなくて、エメラルドグリーンとかが多い。照明ディレクターに対しても色合いをなるべく消さないように、この国の空気をとにかく伝えるようにしてくださいって話しました。美術監督もインドネシアの優秀な方だったので、非常にいいセットになっています。日本だとどういうセットを作るのか、一度来て仕事してほしいなと思うくらい素敵な人たちでしたね。

みんなで食べた朝ごはん

──海外の監督と組む面白さはどんなところにあるのでしょうか。

普段とは別の国のルールで働くわけじゃないですか。私たちも日本のルールのまま押し通さない。そういうところでハッとするような、違った発想で面白いなと思えて、それに乗っかっちゃえるのがいいですね。

──今回の現場でハッとした瞬間は?

具体的には朝ごはんとかも、みんなで食べるんですよ。シュート(撮影)まで1時間くらい空白の時間があって、その間にみんなでワイワイしながら、ごはん食べて「さあ撮影しよう」みたいな。日本だと特に地方ロケは「朝ごはんは各自で食べておいてください」が多い。今回どんなに忙しい日でもごはんの時間があって、そこでコミュニケーションを取りましたね。最初はびっくりして、あと1時間は寝られるのに!と思ったんですけど、そうじゃない(笑)。1時間の寝る間を惜しんでも一緒に朝ごはんを食べることに意味があって。そういう違いを感じると、あとからすごくうれしくなりますね。

──監督と意思疎通を図るときに言語の壁は障害にならなかったですか?

最初から「壁はある」と思って話していれば大丈夫ですよ。本当に単純な話は2人でできるし、ちょっと複雑になってくるとトランスレーターを交えて。通訳は4名いたんですよ。言葉と演出の両方をわかってくれる、演出部志望の女性の方もいらっしゃった。今日、撮影時の資料を持ってきたんですけど、これを日本語に翻訳してくれたのも彼女です。

──シーンごとにカメラの位置や動きが書かれていて、ものすごく細かいですね。

ですよね。ロケハンで監督と私で「このカットはこう撮る」と話していて。それは言葉の問題もあってあいまいですから、助監督で鬼軍曹のガディス・ファジリアニがちゃんと図解してくれたんですよ。すごいでしょ。

──すごいです。ここまでの資料は日本の現場でも作ることはあるんでしょうか。

ないですね。日本の現場ではありえないことをしてくれました(笑)。ただエドウィンも私も現場で絶対に資料に従うわけじゃない。これは1つの指針。現場に入ると気分は変わるので、「これはこれ」と言って怒られるんですけどね。でもこの資料があったおかげで、タイトなスケジュールの中でも撮り切れました。

──履歴書には、これからもアジアの映画人と組んでいきたいと書かれてますね。

そうですね。一枚岩になれるシチュエーションはいろんな意味で難しいですから。コロナを理由に延びてしまってますが、今はフィリピンの監督とやってます。

タイと日本を4往復、フィルム撮影の苦労

──「復讐は私にまかせて」は全編を16mmフィルムで撮影していますね。エドウィン監督がフィルムでの撮影を希望されたと伺いました。

エドウィンは大のフィルム狂なんです。自分で手現像の機械を持ってるくらい。フィルムで撮るときって3つの意思が重ならないとダメで。フィルムでやりたい監督の意思、手間がかかってもいいから「やります」と言えるプロデューサー、あとは現場の私たちの思い。どこか1つ欠けると絶対に無理なんですよ。そういう意味で一枚岩になれた作品だと思います。最初に監督から35mmと16mmはどっちがいいか聞かれて。35mmだと、きれいに映りすぎてデジタルとそんなに代わり映えしない。大変なわりに効果が薄い気がして。だから機動性もあって、予算も抑えられる16mmを薦めました。

──劇場で観ると、16mmフィルムの粒子の粗い風合いがひと目でわかりました。

でも16mmがどう映るかって最初はわからないじゃない。それを早く知らせてあげたほうがいいなと思って、2019年初頭に「緑が多いところではこんなふうに映ります」というパッケージを作って、送ったんですよ。それを監督がすごく気に入って、秋のロケハンに進んだわけです。予算の折り合いはついたけど、手運びしないといけない手間があって……。特に海外だと、みんな「嘘だろ」と驚いてましたね(笑)。

──それは日本からフィルムを持っていく手間ですか?

フィルムは日本コダックの経由で持ってきてもらうんですけど、撮影したものを日本にどうやって持ち帰るか?ですよね。あんまりほったらかしにしておくと、一度露光したフィルムはどんどん劣化してしまうので最悪でも10日に一度は日本の現像所まで運ばないといけなくて。安全に移すには手持ちが一番いいんですよ。プロデューサークラスの責任持てる方が計4回、(ロケ地の)レンバンから、五反田のIMAGICAまで運んだんです。超アナログですよね(笑)。

──タイと日本を4往復も!

幸い羽田と五反田が近いので、現像所にフィルムを渡して、その日のうちにタイに戻ってくるのを4回も。その手間たるや本当に大変。でも撮影の後半には慣れちゃってるから「今度東京に行ったら〇〇買ってきて」とか、お願いするようになってしまったんですけどね(笑)。

──日本の商業映画でフィルムで撮影することって最近はあるんでしょうか?

映画は最近だと「峠 最後のサムライ」(2020年)がそうですね。私は映画の一部をフィルムで撮ることはありましたけど、全編は35mmの「WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~」(2014年)以来。最近は配信オリジナルの作品がフィルムで撮られたりしていて、ちょっとだけ復活気味ではあるんですけどね。

相棒はなんでもメモするノート

──今回、芦澤さんが日常的に使っている相棒のような道具をお持ちいただきました。ノートのようですが、撮影に関することをメモされている?

いえ、日々忘れちゃうことも多いので、撮影に関係なくても気付いたことがあったらなんでも書いていて。最近、シテイタイケツっていう2歳の競馬馬が後ろからものすごいスピードで追い抜いて1位になったんです。これは将来、絶対注目されるだろうなと思って「シテイタイケツ」って書いてます(笑)。

──競馬は、お好きなんですか?

特別好きじゃないんですけど、興味があるものは書いてます(笑)。翻訳は「DeepLがいい」とか。あとは読もうと思った本の題名「映画を早送りで観る人たち」を書いてますね。メモだけして放っておきがちなので、休みのときに整理して読み返して「この本は買おうかな」とか、そういうふうに使ってます。もう20年くらい。ノートは分厚いファイルになってますね。

──「復讐は私にまかせて」に関することは何か書いていますか?

現場で注意することとか、移動車のこととか、いろいろ書いていて。取材があるので、昨日今日は予習的に映画のことを書いていました。映画も好きですけど、映画じゃない雑学的なことも大好きなので続けられてますね。

芦澤明子(あしざわあきこ)

1951年1月16日生まれ、東京都出身。青山学院大学在学中にジャン=リュック・ゴダール「気狂いピエロ」に魅了されて映画の世界を志す。自主映画の制作、ピンク映画の助監督を経て、1973年から若松プロの撮影で知られる伊東英男に師事。1983年にカメラマンとして独立し、テレビコマーシャルを中心に手がける。平山秀幸による1994年の中編「よい子と遊ぼう」をきっかけに再び映画の世界へ。「トウキョウソナタ」「岸辺の旅」「散歩する侵略者」といった黒沢清の一連の作品のほか、「南極料理人」「羊の木」「海を駆ける」「影裏」「子供はわかってあげない」などの撮影を担当。「わが母の記」では日本アカデミー賞の優秀撮影賞を受賞した。8月20日に封切られる「復讐は私にまかせて」の監督エドウィンとは、オムニバス映画「アジア三面鏡2018:Journey」の1編「第三の変数」に続く2回目のタッグ。今後も撮影を担当した新作が複数公開を控えている。

(c)2021 PALARI FILMS. PHOENIX FILMS. NATASHA SIDHARTA. KANINGA PICTURES. MATCH FACTORY PRODUCTIONS GMBH. BOMBERO INTERNATIONAL GMBH. ALL RIGHTS RESERVED