人間は戦争を止めようとしないー演劇ジャーナリスト・大島幸久が観た、『ミス・サイゴン』
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『ミス・サイゴン』は、1970年代末に起きたベトナム戦争の最中、夢と欲望と愛を求めながら苦しんだ米兵とベトナム人女性を描いたスケールの大きいメガミュージカルである。日本初演から30年目の今回、コロナ禍によって2020年の全公演が中止となり、満を持しての上演だった。
※以下、『ミス・サイゴン』ラストシーンに言及しています。
主役のひとり、エンジニアと言えば市村正親の当たり役。初演からほかを寄せ付けない絶対的レジェンドだ。しかし、今公演は俳優4人の交互出演。見たのは初出演の伊礼彼方である。外見、さらに派手な衣装の印象からフランス系ベトナム人という異国風のキャラクターの役柄にハマっている。
売春宿のキャバレーを経営しながらアメリカへ渡って成り上がる野心がギラつく。女たちを客に売り込み、金儲けに腐心する冷酷さ、憎味が効いていた。「アメリカン・ドリーム」を激しく、熱く歌い、「グッドバイ、ホーチミン!」と言い放って、ストップモーションでポーズを決めた恰好良さ。ストレートプレイの『ダム・ウェイター』で悪の個性を演じて巧かったが、市村のエンジニアが愛嬌も振りまく抜群の魅力と比べ、スタイリッシュで欲望が勝つ新エンジニア像を作った。
もうひとりの主役キムは高畑充希。米兵クリスとの間に生まれた子供・タムへの母性愛を歌う「命をあげよう」が歌詞の意味を巧く伝えた。かつての許嫁トゥイを銃殺し、遺体にすがりつく場面は、自ら祖国を殺したことになる悲しい運命を感じさせて感動的だった。そして衝撃的な自殺。戦争は悲劇しか生まないのである。
サイゴン陥落、脱出を求める市民。ヘリコプターの轟音という場面はいつも恐ろしい。キムとクリスがやたらとキスをするのは閉口するが、エンジニアに「おじさんにキスを」と言われて幼くかわいいタムが頬にチュっとやって口を拭う一瞬は一服の清涼になる。
市村は今公演を「最後のつもりの集大成」だと言っている。アメリカが当時の北ベトナムに敗北した歴史的な戦争は、遠い過去になった。しかし、人間は戦争を止めようとしない。『ミス・サイゴン』はそれを問いかけている。
さて、もし市村の後継者がこの作品を演じ続けるとすれば伊礼は有力なそのひとりになるだろう。(8月2日所見)
プロフィール
大島幸久(おおしま・ゆきひさ)
東京都生まれ。団塊の世代。演劇ジャーナリスト。スポーツ報知で演劇を長く取材。現代演劇、新劇、宝塚歌劇、ミュージカル、歌舞伎、日本舞踊。何でも見ます。著書には「名優の食卓」(演劇出版社)、『歌舞伎役者 市川雷蔵 のらりくらりと生きて』(中央公論新社)など。鶴屋南北戯曲賞、芸術祭などの選考委員を歴任。「毎日が劇場通い」という。