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細野ゼミ 10コマ目(前編) 細野晴臣とテクノ

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「細野ゼミ」メインビジュアル

活動50周年を経た今なお、日本のみならず海外でも熱烈な支持を集め、改めてその音楽が注目されている細野晴臣。音楽ナタリーでは、彼が生み出してきた作品やリスナー遍歴を通じてそのキャリアを改めて掘り下げるべく、さまざまなジャンルについて探求する連載企画「細野ゼミ」を展開中だ。

ゼミ生として参加しているのは、氏を敬愛してやまない安部勇磨(never young beach)とハマ・オカモト(OKAMOTO'S)という同世代アーティスト2人。毎回さまざまなジャンルについてそれぞれの見解を交えながら語っている。10コマ目のテーマとしてピックアップするのは「テクノ」。Yellow Magic Orchestra(YMO)のメンバーとしてテクノを世界に普及したと言っても過言でもない細野は、このジャンルをどう捉えているのか。安部とハマの持つテクノのイメージとは? 複数回にわたる記事の前編では、それぞれの率直な意見を聞いた。

取材・文 / 加藤一陽 題字 / 細野晴臣 イラスト / 死後くん

安部&ハマのテクノのイメージは?

──今回のテーマは、テクノミュージックです。ただ、ひと口に“テクノ”と言っても広いですから、あらかじめ少し整理して進めていければと。“テクノポップ”と呼ばれているものと、ダンスミュージックとしてのテクノ。この2つを分けたうえで、数回に分けて話を進めていけたらと思います。

細野晴臣 苦手だな。でも、感想くらいは言えるよ(笑)。

安部勇磨 苦手だったんですか(笑)。

──細野さんの“テクノ期”といえばYMOですが、安部さんとハマさんはテクノというとどういったアーティストを思い浮かべますか?

安部 僕、全然知らないんですよ。勝手なイメージなんですけど、テクノってタバコがモワモワしていたり、みんなが酒を飲んだりして大声でしゃべっているクラブで鳴っているイメージ。僕はホントに家で静かにしてるタイプなんで、クラブで流れているようなテクノは通っていなくて。それこそ、細野さんをきっかけにYMOを聴いて、それからちょっと有名な人たちを聴いて、「こういうのがあるんだな」っていう感じ。ドイツの4人組の人たちとか……。

細野 Kraftwerk?

安部 そうです! Kraftwerkとかを聴いたくらいで。カッコいいけど、それ以上は手出しできていないというか、“キックがドンドン!”ってイメージです(笑)。

ハマ・オカモト 子供の頃に髪を切ってくれていた人がKraftwerkがすごく好きだったんです。で、僕が中学2、3年くらいのときにその人がKraftwerkのCDを貸してくれて。それで知ったのと、あとはジョルジオ・モロダーがプロデュースワークでポップス方面でも活躍していたじゃないですか。

──ジョルジオ・モロダーは、ディスコミュージック界隈などで活躍したプロデューサーですね。70年代から80年代にかけて、たくさんのヒット曲を世に送り出しています。

ハマ テクノミュージックの分布図の中で、「ジョルジオ・モロダーはこうだったんだ」って理解するのは全然あとになってからでしたけどね。だから本当にそのレベルで、“テクノ”というジャンルを知ったのはYMOでした。

──美容師さんから借りたKraftwerkのCD、いかがでしたか?

ハマ アートワークだったり、コンセプチュアルなところだったりがカッコいいとは思いましたけど、掘り下げることはなかったですね。同級生も誰も聴いていなかったから、仲間内で話すこともなくて。のちにYMOでテクノを知ったんですけど、同時に世の中的にはPerfumeがテクノポップを流行らせていて。ただ、YMOやKraftwerkとPerfumeがどちらも“テクノ”っていうのは、あまり自分の中でつながらなくて、「どういうことなんだろう?」とは思っていました。

──「YMOがやっていた音楽が時代を経て進化して、Perfumeのやっているような音楽になったのかな?」みたいな。

ハマ あとはDaft Punkの「Random Access Memories」で、「ジョルジオ・モロダーが参加している曲があるな」とかもありましたけど、深くは全然。だから、今回はいろいろ伺いたいですよね。細野さんたちが、どういったタイミングでテクノに触れたのかなど……いろんなところでお話ししてるのかもしれないですけど。

細野 いやいや、意外に話したことないんだよ(笑)。まずYMOの「テクノポリス」って、音楽性がテクノだから付けたわけじゃないんだ。“東京=テクノポリス”ってイメージで、東京の宣伝をしようと思ってタイトルにしたものだったの。「テクノポリス」を出した頃(1979年)は、世界的にも“テクノポップ”っていう言葉はなかったと思う。“テクノポップ”って言葉を言い出したのは、阿木譲という評論家なんだ。KraftwerkやYMOを聴いて、「これはテクノポップだ」って。正確な情報じゃないかもしれないけど。

Kraftwerkと細野晴臣

──先ほど安部さん、ハマさんのお二人に共通するテクノのイメージとして、Kraftwerkの名前が挙がりましたね。細野さんはKraftwerkをどう見ていましたか。

細野 最初は横尾忠則さんに「Autobahn」(1974年)っていうアルバムを教えてもらったんだよね。当時ドイツには、ジャーマンプログレッシブとか、クラウトロックとか、そういうジャンル名で呼ばれていたアーティストがいっぱいいたんだよ。僕はそういったものにあまり馴染みがなかったんだけど、Kraftwerkにはいっぺんに取り憑かれて。それからずっと聴いてたよ。

──クラウトロックは、70年代頃までのドイツの前衛的なアーティストたちを総称するもので、Kraftwerkはそのうちの1組として知られています。

安部 横尾さんから教えてもらうっていうのもすごいですね。

細野 横尾さんはその当時、ブライアン・イーノとか、ああいう音楽を集めていたんだよね。それで80年代の初期あたりは、僕にとってKraftwerkが一番大事なグループだった。あとは、さっき話に出たジョルジオ・モロダーがドナ・サマーの曲をプロデュースしていてね。それがクラブミュージックというかダンスミュージックというか、そういうものだったんだよ。その音がすごく新鮮で。Kraftwerkみたいなサウンドだけど、全然ポップなんだ。レコードを買い漁っていたよ。

ハマ Red Hot Chili Peppersのライブの話なんですけど、彼らってセットリストの間に、好きな曲を1節だけカバーしたりする時間があるんです。そこでフリー(B)が、ドナ・サマーの「I Feel Love」を人力でずーっと弾いている映像があって。僕、ドナ・サマーをそれで知ったんですよ。

細野 あれを生でやるのは大変だね(笑)。

ハマ 「バカだなあ」って思いながら観てたんですけど、いかにもフリーのやりそうなことっていうか(笑)。しかし、ドナ・サマーのああいう感じ、当時もインパクトがあったんですね。

細野 あった。だから、Kraftwerkはドイツだし、ジョルジオ・モロダーはイタリアでしょ。70年代から80年代初期にかけてのテクノというとホントにその2つくらいが目立ってて、そこにYMOが参加したみたいな感じだったね。そう考えると、全然アメリカ、イギリスじゃなかったんだよ。

──細野さんはKraftwerkのどのあたりに魅力を感じていたのですか?

細野 当時のドイツの音楽って、暗いものが多かったんだよね。のちのアンビエントにつながってく要素もあったと思うけど。でも、Kraftwerkは明るいんだよ。“ユートピア的思考”っていうかね。しかも、彼らは「自分たちの音楽はブギだ」って言ってるんだ(笑)。

ハマ ポップっていうか……そこも細野さんの感覚につながりますね。細野さんもブギをやられていますし。

細野 YMOはコンピュータを使って曲を作っていたでしょ。だからKraftwerkもそういうシステムで作っていると思っていたんだけど、実はそうじゃなかった。シーケンサーでもっとシンプルに作っていたんだ。そのシンプルさには敵わなかったね。「Kraftwerkがやってることはこっちではできない」と思って、YMOはぐしゃぐしゃになって、ああいうサウンドになった(笑)。

──ぐしゃぐしゃ(笑)。

細野 まあ、“東京”っぽくなったんだよね。向こうは重厚で、ドイツの文化を引きずっていて、鉄壁のコンセプト。構成主義っていうかね。たどっていくとロシアンアバンギャルドとか、そういったカルチャーまでを引っ張ってきている。ジャケットもいい。「The Man-Machine」(1978年)ってアルバムなんて、構成主義っぽいというか、アールデコに近い。聴いたとたんに、3人で集まって雑談をしたよ。「ああいうふうにはできないよな。文化が違う」「それならこっちは“畳と障子”でいこう」って(笑)。

ハマ 「自分たちがやるなら、Kraftwerkのこの感じはこういうふうに引用できるよね」みたいなアイデアもあったんですか?

細野 もちろん。それは影響っていうやつで、YMOにもいろんな影響が反映されているよね。ただ、YMOの1枚目に関してはそういうものをあんまり聴かずに作っていたので、最初のアイデアはどっちかと言うと冨田勲さんの影響が強かった。Kraftwerkからの影響はそのあとだね。

YMO構想の始まりは?

ハマ YMOの音楽的な構想のとっかかりは冨田さんだったんですか?

細野 冨田さんはドビュッシーを全部打ち込みでやったんだ。「そんなことできるんだ」って驚いたよ(細野注:それ以前にはシンセサイザーで作られたウェンディ・カルロスによる「Switched on Bach」があるが、抑揚がなく「普通の音楽」だった……)。それでYMOの最初のアイデアは「Firecracker」を絶対コンピュータでやろうって……当時はマイコンって言ってた。マイクロコンピュータ。YMOを始める前、Rolandが音楽専用のマイコンを出していたんだよ。あれが何台売れたのかは知らないけど(笑)、とにかく冨田さんはそれを使ってたな。それをマニピュレートしてたのが松武秀樹さん。で、その直前まで僕は生バンドでエキゾチックサウンドをやっていて、マーティン・デニーの「Firecracker」が大好きだったでしょ。1回、YMOの3人で生演奏してみたんだよ。だけど、全然面白くないなと思って(笑)。それで、コンピュータで置き換えることに興味を持ったんだ。

ハマ 「音質がどう」「システムがどう」とかいう以前に、単純に「どうなるんだろう?」っていうワクワクが強かったのかもしれませんね。でも細野さん自身がおっしゃる通り、直前まではめちゃめちゃ人力で演奏していたわけじゃないですか。演奏する魅力を共有できる方たちとやっていながら、突然脈略のないものに突入していくという。

細野 それまでベースを弾いていたミュージシャンが、「弾かなくてもできるんだ」って。当時のあの変化は、いろいろと根本を覆してきた。アイデンティティの危機だよ。でも作っているのは“脳内の音楽”だから、自分で弾かなくても快感は続いているわけだ。頭で考えたフレーズを、打ち込んでもらっていくでしょ。それを聴いたら、説明できないけど、均等なリズムにすごく快感を覚えた。それまで一緒にやっていたミュージシャンは離れていったよね。皆クリックに合わせるのを嫌がって(笑)。で、それを喜んでやったのが高橋幸宏だった(笑)。

安部 あははは。

ハマ まあ、そういうのを一緒に面白がれたのが、あの2人(高橋幸宏、坂本龍一)なわけですもんね(笑)。

細野 でも、クリックに対してタイミングをずらさずにドラムを叩くためには、力を使わなきゃならない。だから練習をするわけなんだよ。ボタンを押すと「1、2、3……」って秒数が出るタイマーみたいなのがあって、「これを1秒で止めるにはどうしたらいいか」とか言いながら(笑)。当時は映画「スター・ウォーズ」が大流行していたから、「フォース(「スター・ウォーズ」シリーズに登場する超常的な能力)が大事だ」って話になったよ(笑)。まあ、負けず嫌いで戦ってたんだよね、ビートと。

安部 「ビートと戦っていた」(笑)。

細野 コンピュータに負けないビート感覚。“絶対ビート感”っていう(笑)。Kraftwerkもモロダーも、生ドラムは使ってなかったと思うんだよね。それを生でやったのがYMO。

ハマ 細野さんもシンセベースを弾くようになっていきますよね。

細野 そう。要するに、パソコンのリズムと対等になれたってことだよね。

安部 すごい(笑)。

ハマ はあ……すごいよなあ。幸宏さんがドラムを叩くだけならまだ理解できるけど、YMOはコンピュータに生演奏の揺れを付け加えていく。それは誰もやってない発明だったんじゃないかって思う。

細野 まあステージでも、クリックを聴きながらパソコンと共演しているわけだけどね。クリックの音がすんげえデカくて、耳がイカれちゃうんだけど(笑)。クリックは、RolandのMC-8っていうマイコンから出していたの。MC-8の1つのチャンネルに“キッ・コ・コ・コ”っていうカウントだけ入れておいて、それをイヤフォンで聴いて。

安部 しかし、実際に演奏するのがすごいですよね。めちゃめちゃ体育会系。「やるしかねえんだから!」みたいな感じ(笑)。

細野 曲を作っているとき、ステージのことは考えてなかったんだよ。

ハマ いざライブになったら、「クリック聞こえねえ」「音量を大きくするしかないか」みたいなこともいっぱいあっただろうし。

細野 MC-8が熱に弱いから、途中でクリックが止まっちゃったりしたよ。そうなると、メンバーの生演奏力が問われてくる。でも、止まってからの演奏のほうが評判がよかったりする(笑)。

ハマ 「あれ? 2番から急に調子が……」(笑)。

──「ロックバンドみたいになってる」。

細野 そうそう。ヤケでやってるから、演奏もすごいんだよね(笑)。クリックが止まっちゃうって当時は大変なことだった。ヤケになって、こっちは大失敗だと思ってやってる。見てる人からはわからないんだけどね。

安部 そういう緊張感があるから、ライブも面白くなるんだろうね。

細野 まあ、ライブは評判がよかったね。

テクノがもたらした機材&楽器の進化

──音楽ジャンルの中でも、とりわけテクノは機材や楽器の進化と密接に関わっているように思います。YMOも、パソコンでの打ち込みもそうですが、多くのシンセサイザーやリズムマシンを駆使していて、それが“テクノポップサウンド”となっていきます。

細野 でも、最初はそれほど興味はなかったんだよ。MOOGシンセだって、誰かが紹介するためにスタジオに持ち込んできて、それを試しに使ってみたくらいで。MOOGって、単音しか出せないし、大した使い方をしているわけじゃなかった。パソコンを使うことにすごく並々ならぬ好奇心が出てきたのは、「Firecracker」をそれでやろうと思ってからだね。

──そうだったんですね。

細野 それで初めのうちは、とにかく“MIDIを介した同期”がテーマだったんだ。KORGに好きなシンセがあったけれど、それはMIDIが使えなかったりして。そんな中で一番使いやすかったのはProphet-5(Sequential Circuitsのアナログシンセ)で、音も面白かったから制作の中心にあったな。

──細野さんが所有されているProphet-5は「細野観光 1969-2019」でも展示されておりました。

細野 あとは松武さんが持ってきたARPやMOOGのシンセが大事で、“タンス”を積み重ねたような存在感はYMOのシンボルだった。でも、それらは松武さんの大事な私物だし、触れることはなかったな。ヤオヤ(TR-808)は好きなリズムマシンで、最初から使ってたね。あの音はほかになかった。とにかく当時は1年ごとに新しい機材が出てきたんだ。

安部 ヤオヤって今は当たり前だけど、そもそも作った人がいたのがすごいよね。“ポン・ポン・ピン……”って(笑)。なんでああいう音がひらめいたんだろう。

ハマ あれ以外ないというのもすごいし。

細野 ヤオヤの音って和太鼓に聞こえるんだよ。あるときお化けが出たことがある。おばあちゃんの霊が「お祭りだわ!」って。

──お盆だと思っちゃうんでしょうか(笑)。

安部 なるほど(笑)。

細野 それが909(TR-909。TR-808の後継機)になると、そうじゃないんだよね。モダンになって。あとはDX7(YAMAHAのデジタルシンセ)とLinnDrum(LinnElectronicsのドラムマシン)が出てきて、ある時期よく使った機材だけど飽きるのも早かった。

ハマ LinnDrumは時代を象徴する楽器の1つですけど、すごく短命だったみたいですね。やっぱり「飽きちゃった」っていうのに尽きるのかな。

細野 サンプリングできなかったからね。それに代わって出てきたAKAIのサンプラーが使いやすかった。サンプラーってYMOの初期にはなかったんだけど、仲間内に発明家がいて、2秒くらいサンプリングできる機械を作ってきたんだよ。

安部 「ないから作っちゃおうよ」みたいなノリ(笑)。

──2秒って、何をサンプリングするんですか?

細野 ビートだよね。ブツッて切れちゃうけど(笑)。

ハマ そのお知り合いの方は、例えばRolandとかKORGにいる人とか、そういうわけじゃなく?

細野 PA関係の人。「こんなの作ったんですよ」ってウォークマンの原型みたいなものを作ってきたりする。それがめっちゃくちゃいい音がするわけ。YMOのライブを録ってくれて、その音源をもらったりしてた。だから僕は、彼らがウォークマンを作ったとも思ってるよ。ソニーと関係ある人だと思うし。そんなことがしょっちゅう出てくるから興奮しちゃうわけだよ。あの頃は、周りにそういう人たちがいっぱいいたんだ。みんなが生き生きやってたよね(笑)。

ハマ 楽しそう。ないもの作って、「面白がってくれるだろう」って細野さんに見せに来る。

安部 みんなで遊んでたんですね。

細野 あと、同時にアーケードゲームもすごかったんだ。「風船割りゲーム」とかね。タイトーとか日本のメーカーが多かった。そんなゲームも自分にとってはテクノなんだよ。“フォース”の練習にいい(笑)。

ハマ ゲームをやられてたって話、以前もありましたよね。

細野 ピークは「スペースインベーダー」の頃だけどね。完璧にクリアしたからやらなくなった。目をつぶってもできたかもしれない。

ハマ “フォース”を習得されたわけですね。

──というところで、お時間です。次回もこの流れのまま、細野さんのYMOの話を中心に、テクノミュージックについての理解を深めていければと思います。

<中編に続く>

細野晴臣

1947年生まれ、東京出身の音楽家。エイプリル・フールのベーシストとしてデビューし、1970年に大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成する。1973年よりソロ活動を開始。同時に林立夫、松任谷正隆らとティン・パン・アレーを始動させ、荒井由実などさまざまなアーティストのプロデュースも行う。1978年に高橋幸宏、坂本龍一とYellow Magic Orchestra(YMO)を結成した一方、松田聖子、山下久美子らへの楽曲提供も数多く、プロデューサー / レーベル主宰者としても活躍する。YMO“散開”後は、ワールドミュージック、アンビエントミュージックを探求しつつ、作曲・プロデュースなど多岐にわたり活動。2018年には是枝裕和監督の映画「万引き家族」の劇伴を手がけ、同作で「第42回日本アカデミー賞」最優秀音楽賞を受賞した。2019年3月に1stソロアルバム「HOSONO HOUSE」を自ら再構築したアルバム「HOCHONO HOUSE」を発表。この年、音楽活動50周年を迎えた。2021年7月に、高橋幸宏とのエレクトロニカユニット・SKETCH SHOWのアルバム「audio sponge」「tronika」「LOOPHOLE」の12inchアナログをリリース。9月にオリジナルアルバム全3作品をまとめたコンプリートパッケージ「"audio sponge" "tronika" "LOOPHOLE"」を発表した。

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安部勇磨

1990年東京生まれ。2014年に結成されたnever young beachのボーカル&ギター。2015年5月に1stアルバム「YASHINOKI HOUSE」を発表し、7月には「FUJI ROCK FESTIVAL '15」に初出演。2016年に2ndアルバム「fam fam」をリリースし、各地のフェスやライブイベントに参加した。2017年にSPEEDSTAR RECORDSよりメジャーデビューアルバム「A GOOD TIME」を発表。日本のみならず、上海、北京、成都、深セン、杭州、台北、ソウル、バンコクなどアジア圏内でライブ活動も行い、海外での活動の場を広げている。2021年6月に自身初となるソロアルバム「Fantasia」を自主レーベル・Thaian Recordsよりリリースした。

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ハマ・オカモト

1991年東京生まれ。ロックバンドOKAMOTO'Sのベーシスト。中学生の頃にバンド活動を開始し、同級生とともにOKAMOTO'Sを結成。2010年5月に1stアルバム「10'S」を発表する。デビュー当時より国内外で精力的にライブ活動を展開しており、2021年9月29日にニューアルバム「KNO WHERE」をリリース。またベーシストとしてさまざまなミュージシャンのサポートをすることも多く、2020年5月にはムック本「BASS MAGAZINE SPECIAL FEATURE SERIES『2009-2019“ハマ・オカモト”とはなんだったのか?』」を上梓した。

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