鈴木杏樹が語るKAKKOのすべて
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鈴木杏樹
昨年8月放送の「おげんさんといっしょ」(NHK総合)に登場し、今再び注目されているKAKKOをご存知だろうか。
KAKKOは鈴木杏樹が女優デビュー前の1990年にイギリスで音楽活動をしていた際のアーティスト名。鈴木は17歳のときに単身移り住んだロンドンで念願のデビューを果たしたが、帰国後は歌手・KAKKOではなくタレント・俳優の道を選んだ。芸能界での活躍はご存じの通りだが、その裏で彼女の音楽活動に熱烈なラブコールを送り続けていた男がいた。芸人である藤井隆だ。長年にわたりKAKKOの再始動を熱烈にオファーしていた藤井の健闘が実り、2022年7月、ついにKAKKOのデビュー曲「We Should be Dancing」をデュエットカバーとして自身のレーベル・SLENDERIE RECORDよりリリースするに至った(参照:藤井隆×鈴木杏樹がKAKKO「We Should be Dancing」をカバー、アレンジはNight Tempo)。
同曲が収録されたアルバム「Music Restaurant Royal Host」の特集(参照:藤井隆「Music Restaurant Royal Host」インタビュー)では、藤井がインタビュアーの吉田豪に「豪さんが杏樹さんにインタビューしてください!」とKAKKOについての取材を熱望。この発言がきっかけとなり、KAKKOの活動を鈴木自身に語ってもらうインタビューが実現した。
これまで本人からほとんど語られることのなかったKAKKO時代の音楽活動。「杏樹さんの音楽話は触れちゃいけない」「黒歴史」など、巷でまことしやかに囁かれていたウワサは本当なのか? 鈴木杏樹からKAKKOの真相が語られる。
取材・文 / 吉田豪 撮影 / 笹原清明
酒井政利に見出され、なぜかロンドンへ
──以前、藤井隆さんのアルバムのインタビューをナタリーでやらせてもらったとき、「鈴木杏樹さんの音楽活動についてだけ聞くインタビューを豪さんにやってほしいんですよ!」と託されまして。
そうなんですね。すみません、30年以上前のことを(笑)。
──今日はいろいろ聞かせていただければと思います。
よろしくお願いいたします。覚えている限りをお話しします(笑)。
──そもそも音楽活動のことだけを話すインタビューは初ですか?
日本では初めてです。
──ああ、そうか。向こうでは当時当たり前のようにされていたんですね。
逆に歌手しかやっていなかったので。でも日本では音楽やKAKKOの活動についてそれだけを詳しく語ることはなかったかな。
──女優・鈴木杏樹として有名になった結果、ある時期からKAKKO時代に触れちゃいけないのかという誤解が広まって。
いやいや、そんなことは全然ないですよ。とてもプラウドなことだし、なかなかできることではない経験なので。
──20年ぐらい前に高田純次さんのインタビューをしたとき「噂のCMガール」の話になって、「杏樹さんの音楽話は触れちゃいけないみたい」というようなことをおっしゃっていたんですよ。
やだ! なんでそんなこと言うの(笑)。まったくそんなことないです。触れていただいて大丈夫です。
──了解です! もともと音楽をやりたかったわけですよね。
そうですね。小学校3、4年生ぐらいのときにちょうど「ザ・ベストテン」や「夜のヒットスタジオ」できらびやかなアイドルを観ていたので、最初は憧れからスタートしました。中学でインターナショナルスクールに入学するんですけど、その頃に先輩方から洋楽のカセットテープをもらって聴くようになって。クリストファー・クロスとか映画「フラッシュダンス」のサウンドトラックとか……。
──「ベストヒットUSA」の時代ですね。それで洋楽っぽいことをやりたくなったんですか?
その頃はまだ具体的ではないんですけど、歌手になりたいという目標は持っていました。歌手になるためには歌を歌えるようにならないといけないから勉強しようと思って、中学校の帰りに音楽教室に通い始めたんです。自分が歌いたい楽曲を持っていって、それを先生のピアノ伴奏で練習していました。
──どんな曲を持っていったんですか?
REBECCAの「フレンズ」とか、あとは小泉今日子さんの「The Stardust Memory」も歌いましたね。当時マドンナとNOKKOさんがすごくカッコよくキラキラして見えて、あんな歌唱力を得られたら素敵だと思ってレッスンしていました。その音楽教室では年に1回発表会があるんですけど、レコード会社の方や事務所関係者も観にいらしたりして。
──つまり、スカウトの場にもなっていると。
そうです。そのときに声をかけてくださったのが、CBS・ソニーで山口百恵さんなどを担当されていた酒井さんという方で。
──え、酒井政利さんにスカウトされたんですか?
そうです。家まで来てくださって。
──そうだったんですか!
はい。私は百恵さんも松田聖子さんも大好きで憧れもありましたので、酒井さんの下で歌手デビューできることがすごくうれしかったんです。
──酒井さんなら安心だってなりますよね。
それで私は東京に行く心持ちでいたんですけど、ちょうどそのときに日本人アーティストを海外でデビューさせようというプロジェクトがEPICソニーで持ち上がって(※CBS・ソニーレコードが誕生時の合弁相手であるCBS社傘下のCBSレコードを買収した)。私は英語が話せたので、ロンドンでデビューさせたらどうかということになったんです。
──急激に話が大きくなって。
そうなんです。でも私の母は国際線のキャビンアテンダントだったので、海外での活動に対して抵抗もなく、「大丈夫よ、できるわよ」と背中を押してくれて。「え、ロンドン? 1人で海外?」って私のほうがドキドキするぐらいだったんですけど、17歳で単身ロンドンに行くことになるんです。
──17歳でいきなりロンドン。
はい、行きましたね。当時、向こうにはMELONの佐藤チカさんとトシ(中西俊夫)さんがいて。彼らをお世話していたマネジメントの日本人男性もいて、私もそこでお世話になりました。
中西俊夫と藤原ヒロシが奏でるギコギコした音楽
──藤井フミヤさんが「知り合いの家にKAKKOが住んでいた」と話していたり、MELONと接点があったらしいという噂は聞いていたんですけど、そういうことだったんですね。
そうなんです。Cute Beat Club Band(チェッカーズの変名バンド)やTHE MODSがロンドンに来たときはそのマネジメントの男性がアテンドしていたので、皆さん家に遊びに来てくださって接点ができたんです。
──当然、当時はプラスチックスやMELONを知らないですよね?
知らなかったです。でもトシさんがギコギコ言っている音楽を家でずっとかけていたことは覚えていますね(笑)。「こんな音楽もあるんだー」と思いながら聴いていました。
──ギコギコ(笑)。たぶん相当最先端の音楽がかかっていたはずなんですよ。
藤原ヒロシくんが来てくれたときも、2人でギコギコやっていました。
──たぶん2人がハウスとかにハマっていた時期ですね。
そうですね。そのあとトシさんとチカさんが日本に帰ることになって、私はマネジメントの方と、ギタリストの鈴木賢司くん、日本から来た屋敷豪太さんたちと一軒家で暮らすんです。
──それもすごい環境ですよね。
すごく楽しかったです。夜になるといろんなミュージシャンが遊びにやって来て、豪太さんがエレクトリックドラムを叩いたり、賢司くんがギターを弾いたり、家が静かなことがなかったですね。吉川晃司さんや布袋寅泰さんともお会いしましたし、フミヤさんや高杢禎彦さんも来てくれましたよ。
──時期的には1986~87年ぐらいですか?
私のデビューが1990年だったので、87年から90年ぐらいですね。私は関西出身なのでロンドンで話すのは英語か関西弁だったんですけど、フミヤさんに「KAKKOちゃんはバタくさい顔してるし、ロンドンデビューという肩書きになるんだから、帰国までに標準語を話せるようになったほうがいいよ」とアドバイスをいただいて。そこから標準語を勉強したんです。
──実際、それが役立った?
役立ちましたね(笑)。帰国してから明石家さんまさんと所ジョージさんの番組に出していただいたとき、さんまさんに釣られてちょっと関西弁が出たことがあったんですよ。そしたら所さんに「あなたは関西弁が似合わないから、こんなおじさんに釣られないで標準語を貫けるようにしなさい」と言われて。改めて標準語を大事にしようと思ったことがあります。
──デビュー前にそうそうたる人たちと接点ができて、影響を受けたりはしたんですか?
ロンドンの家にTHE ALFEEの高見沢(俊彦)さんがいらしたとき、私の音楽環境を刷新してくれたんですよ。当時はあまりお金を持っていなかったから、日本から持参したテープレコーダーでカセットテープとラジオばかりを聴いていたんです。そしたら高見沢さんが「これからはCDの時代だから買ってあげる」と言って、大きなCDラジカセと、当時まだ出始めのCDを10~20枚くらい買ってくれて。「とりあえず僕がオススメしたいアーティストをバーッと買うから家で聴きな」って。
──いい人だなあ! どんなCDを買ってくれたんですか?
Wingsやニック・カーショウがありました。ニックの「The Riddle」という曲を聴いたときは、「木枯しに抱かれて」(歌:小泉今日子 / 作詞・作曲:高見沢俊彦)とつながって、なるほどと思ったり。
──しかし、その環境で暮らしながら音楽を聴くのがカセットとラジオのみってすごいですよね。
本当に貧しかったんですよ(笑)。とにかくボーカルトレーニングをして、ダンスを習って、夜はクラブに行って。
──その時代のロンドンのクラブカルチャーも体験しているわけですか。
行ってましたね。でも私が箱入り娘だったものだから夜に出歩いたことがなくて、最初は「え? 夜なのに出かけるんですか?」みたいな感じでした(笑)。
──夜が盛り上がるんですよ!(笑)
そんな調子だったので、マネジメントの方が「この子はしょうがねえなあ」と、日本人のお姉さんや先輩方を紹介してくれて。クラブに着て行くお洋服もケンジントンマーケットやカムデンマーケットで買って、ドクターマーチンを履いて、唇と爪を真っ赤に塗って行く、みたいな感じでしたね。
──87年から90年ぐらいにかけて、ちょうどクラブカルチャーが盛り上がっていく時期じゃないですか。
そうですね。「音楽の勉強をするにはクラブに行かなきゃダメだよ」と言われて、よく聴きに行っていました。
1年のお茶くみを経てデビュー、「やっと来たー!」
──デビューまでの期間がけっこうあったと思いますが、ずっとそういう感じで過ごしていたんですか?
最初はレッスンを受ける日々だったんですけど、途中からEPICソニーの方たちと、PWL(Pete Waterman Limited:マイク・ストック 、マット・エイトキン、ピート・ウォーターマンによるプロデューサーチーム“ストック・エイトキン・ウォーターマン”のレーベル。代表はピート・ウォーターマン)の方たちで、日本人アーティストをデビューさせるというプロジェクトが具体的に進んで、PWLに入りました。その当時、リック・アストリーがティーオペレーターからデビューしたというサクセスストーリーがあって。
──要はお茶くみというか。
そうです。彼がスタジオで下働きをしながらデビューしたという1つの成功例があったので、「あなたもいきなりデビューではなくて、ティーガールとしてスタジオで働きなさい。そのうち機が熟したらデビューしましょう」とピートに言われました。その次の日から毎日スタジオに出勤して、まずスタッフ全員の名前と、好みの紅茶の入れ方を覚えて。それとテープオペレーターのアシスタントに付きながらスタジオの中で24チャンネルのトラックの勉強をしたり、お客様のアテンドなどを主にやっていました。
──音楽制作の現場も学びながら。
そうですね。皆さんが忙しくて手が回らないようなことをお手伝いしていました。ファックスを送れない人がいれば代わりに送ってあげたり。グチャグチャで探しづらい資料があれば、全部アルファベティカルオーダーに並べ替えてあげたり。そんなことをしていたら「ジャパニーズテクノロジーだ!」と喜ばれました(笑)。和気あいあいとした現場で、仕事が終わるとみんなと一緒にパブに行ってジュースを飲んだり、ディナーに連れていってもらったりしましたね。
──お茶くみ期間はどれくらいだったんですか?
1年以上いたんじゃないかな。そのあいだにカイリー(・ミノーグ)は何曲かリリースしているし、ソニアも先にデビューしていて、私はけっこう最後のほうかな。
──不安になったりはしなかったんですか?
しなかったですね。PWLに行く前はダンススクールとボーカルトレーニングに通う毎日で、デビューが決まるわけでもなく、どうなるんだろうと不安に思うこともありました。でもPWLに行ってからはリックが遊びに来るたびに“僕の2代目”みたいな感じで「がんばってる?」「君も必ずデビューできるから安心して前に進みなさい」と声をかけてくれたので、心配はしていなかったです。
──リック・アストリー、いい人なんですね。
リックはすごくいい人です。スノッブにならない、とても温かい人。もう何十年も前のことですけど、今会っても覚えていてくれそうな気がします。
──そしてなんとかデビューが決まって。
そうなんです。ある日スタジオに呼ばれて、ある曲を聴かされたんです。「この曲どう思う?」と聞かれたので、「いい曲ですね。誰の曲ですか?」と尋ねたら、「君の曲だよ。レコーディングするか?」と言われて。「やっと来たー!」って。
──芸名はその時点で決まっていたんですか?
何も考えていなかったんですけど、小さい頃からみんな私のことをニックネームで“カッコ”と呼んでいたので、「“KAKKO”でいいんじゃない?」と。
──そして90年にデビューシングル「We Should Be Dancing」がリリースされます。今でも大量に映像が残ってるぐらい、現地のテレビにも出ていたみたいですね。
ラジオにもテレビにもたくさん出ました。あとはピートが手がけたアーティスト全員バスに乗せて各地を回る「Hitman Roadshow」というツアーにも参加しました。1カ月以上かけてアイルランドまで旅をしたんです。
──それがカイリー・ミノーグとのツアーなんですね。
そうです。カイリーもヘイゼル・ディーンもいました。
──いきなりテレビに出て、大物たちとツアーするという世界に行ったわけですね。
行きましたね。右も左もわからないまま本当によくがんばったと自分を褒めてあげたい(笑)。
──そのときにはもうダンスもできるようになっていたんですか?
それなりに。振付のレッスンもして、ダンサーと一緒に3人でテレビにも出ていました。「Top of the Pops」(イギリスBBCで放送されていた生放送音楽番組)にも出してもらったんですよ。
──え! 出てたんですか!?
すごいでしょ? 私もビックリして。街を歩いていても「あ、KAKKOだ」と気付いてもらえるようになったんですけど、声をかけてくれた外国の人が友達なのか知らない方なのかわからなくて(笑)。
がむしゃらに音楽を染み込ませる日々
──歌手になるという夢がロンドンで叶って、どういう心境でした?
私はこのままずっとイギリスで音楽活動をやっていくのか、それとも帰国して日本デビューをするのか、おぼろげに迷っていました。一緒にツアーを回って仲よくなったアーティストからは「ずっとイギリスにいなよ」と言われたりして。そんな中で2枚のシングルを出したあと、アルバムを出すために10曲ぐらいレコーディングをしたんです。
──え! アルバムを出すはずだったんですか!?
実はそうなんです。アルバムを出す前に湾岸戦争が起きたので、リリースはストップしてしまったんですけど、楽曲は残ってます。
──当時の日本では日本人がロンドンでデビューしたというニュースはあまり報道されていなかったんですよね。
EPICソニーはKAKKOを逆輸入したいと言ってたので、もしロンドンでヒットしたら、「あれはなんと日本人だったんです」と日本でドーンと発表する予定だったんじゃないかなと思います。
──僕は当時、KAKKOのデビュー曲「We Should be Dancing」を東京パフォーマンスドールの穴井夕子さんのソロ曲として聴いていたんですよ。穴井さんのカバーは91年3月リリースだから、デビューの翌年でしたね。
湾岸戦争で帰国したときにソニーから東京パフォーマンスドールに提供する日本語の歌詞を書いてほしいと頼まれて、大阪の実家で書いたんですよ。穴井さんが歌っている楽曲の歌詞も私が和訳して書いたんです。
──ソニーからすれば、レーベルも同じだし、東京パフォーマンスドールはユーロビート中心にやっていたからちょうどいいぞ、みたいなことだったんだろうなと思ってました。
流行っていましたしね。小室(哲哉)さんもよくロンドンに遊びに来ていましたし、情報としてPWLのやってることを勉強されていました。なので小室さんとも会食でお会いしたんですよ。
──単純にあの時代のロンドンでいろんな音楽を聴いて体験していたというだけでうらやましい思いがあります。
私も当時はがむしゃらで、とにかく音楽を体に染み込ませなきゃと思っていたから、「TIMES」という日本の「ぴあ」みたいな雑誌に掲載されている音楽ライブをAからZまで全部1枚ずつチケットを買っていたんです。知らないアーティストも含め、ありとあらゆるコンサートを観に行ったので、中にはビックリしちゃうヘヴィメタルとかもあったりして(笑)。でもそのおかげで今、「あのときのあのコンサート観たことありますよ」というお話ができたりしますし、火薬をたくさん使えたり、スピーカーがいつもより多かったりする、日本では観られないステージも勉強になりましたね。
──どんなミュージシャンを観たか覚えていますか?
私が忘れられないのはPink Floydのウェンブリー・スタジアム。それと、Aerosmithをアリーナで観たことがあったんですけど、福山(雅治)さんのコンサートに行ったときに照明が似てると思ったんですよ。その話を福山さんにしたら、実はAerosmithのコンサートを観て照明が素晴しいと思った福山さんが、同じ照明チームにお願いしていたんです!「やっぱり!」と驚いて。そういうのもいい経験ですよね。
──スタジアム規模からクラブまでいろいろ行っていたんですね。
アニタ・ベイカーのコンサートに行った翌日には、ちょうど私がアテンドしていた大野真澄(GARO)さんの宿泊ホテルでアニタ本人に会っちゃったんですよ。思わず「昨日、あなたのコンサートに行きました」と話しかけたら喜んでくれて。歌手になるための勉強中だと伝えると、「KAKKOへ がんばりなさい」と書いた写真パネルをくれて、「またどこかで会いましょう」と言ってくださいました。
KAKKOと鈴木杏樹の選択
──時期でいうとThe Stone Rosesがデビューしたり、いわゆるマッドチェスターとかアシッドハウスとかそういう文化が出てきた頃だと思うんです。そんな先鋭的な音楽体験をしてきた人が、のちに日本の“ザ・芸能界”という環境で活躍することが不思議で仕方ないです。
CBS UKとの契約がまだ残っていたので、日本でデビューしたときはまだロンドンに戻る予定だったんですよ。
──あくまでも一時帰国しただけという。
そうです。ロンドンに戻ってアルバムを出す予定だったんですけど、湾岸戦争がなかなか収束しなくて……関西の家でじっとしていてもだんだん不安になってくるので、事務所の社長に「なんでもいいから日本で仕事をさせてください」と頼みました。ただ、音楽の契約は残っていたので、音楽以外のお仕事ということで、資生堂さんのCMや、「オールナイトフジ」の後番組「ヤマタノオロチ」(フジテレビの深夜バラエティ番組)にアシスタントで出演させていただいたりしました。
──契約的に問題がない仕事をとりあえずやってみたんですね。歌はCMでちょっと歌うぐらいで。
そうなんです。資生堂「セレンシュア」のCMソングは高橋幸宏さんのお兄さん(音楽プロデューサーの高橋信之)が作ってくださったんですよ。そしてKAKKOとは別の芸名の鈴木杏樹として仕事を始めたあるとき、「十年愛」というドラマの出演オファーがきたんです。演技は未経験だったんですけど、共演した田中美佐子さんからお芝居の奥深さを教わりながら、必死でついていきました。ありがたいことに鈴木杏樹のことをだんだん世間に知られるようになった頃、湾岸戦争が落ち着いたんです。
──アルバムをどうするんですか、と。
ちょうどUKの契約が切れるタイミングで。再契約をするか、それとも日本のEPICで鈴木杏樹として音楽をやりますか?という話もあったんです。
──それもいいじゃないですか。
そのときは演技をがんばりたいと思い始めた頃だったので……それまで音楽には24時間365日と言っていいほど自分のすべてを費やしてきたわけです。それを8割くらいお芝居に集中してる私が、残り2割のパワーで音楽ができるのかというと、もうできないと思ってしまって。
──本気でやっていたからこそ、申し訳なくなっちゃったんですね。
はい。あれだけがんばって音楽をやっていたのに、鈴木杏樹が売れたからといって、適当に音楽やってますみたいになるのは嫌だったんです。やるならKAKKOでやってきたようにちゃんとやりたくて。なので、EPICソニーや事務所の社長に「今はお芝居に集中して、女優として演技ができるようにならせてください」と正直な気持ちを伝えました。そのあとで、自分がしっかりと音楽と向き合えるようになったときに機会をいただけるようであればまたやらせてくださいと話をして、一旦音楽から離れたんです。
──そしたら、その“一旦”が30年も続いてしまったと。
そうなんです(笑)。私が音楽をやっていたことは裏では皆さんご存じなので、「MUSIC FAIR」(フジテレビ系で放送中の音楽番組。鈴木は1995年から2016年まで総合司会を担当)の司会をさせていただいたりして。
──田島貴男(Original Love)さんと出演されていた「モグラネグラ」(1992年から94年までテレビ東京で放送された音楽番組。鈴木慶一や電気グルーヴが曜日パーソナリティとして出演していた)もありましたね。
そうです。「音楽同志」というNHKの番組もありました。とにかく音楽をやっていたということで音楽つながりの番組にたくさん出していただいて。でも徐々に役者業のほうが大きくなっていったんでしょうね。音楽活動について聞かれれば答えるけど、自分からあえて「実は私、歌手だったんですけど」とはなかなか……(笑)。
藤井隆とミッツ・マングローブの本気
──歌手時代のことを聞いてくるのは藤井隆さんとミッツ・マングローブさんぐらいだった。
そうなんです! 藤井さんに初めてお会いしたときに、「僕、KAKKOが大好きで。『We Should be Dancing』最高ですよね!」と言われて、「えーっ!?」と驚きました。最初は共演するから社交辞令的に誉めてくださってるのかなと思って、こちらも軽く「あ、ありがとうございます」という感じで返したんです。でも、藤井さんもミッツさんもそうじゃなかった(笑)。
──本気だったんですよね。
そうなんです。
──ミッツさんなんて当時イギリスでレコードを買っていたぐらいKAKKOがお好きだったと聞きました。
ラジオでご一緒したときには、12inchから7 inchから、CD、カセットテープまでたくさん持ってきてくださって。それもちゃんと保存状態がいいんですよ。「サインして!」と言われたので、何十年かぶりにKAKKOのサインをしましたね。
──藤井さんもカイリーとか大好きな人ですからね。
藤井さんはレコードレーベルを立ち上げる前からイベントでDJとかなさってて、そのときに私の曲もかけてくださっていたんですよ。あるときレギュラー番組で毎週お会いするようになって連絡先を交換したときに、藤井さんが「いつか絶対にKAKKOやりましょう!」と言ってくださって。もう何十年も前の話ですけど。
──そんな長いフリがあったんですね。
たぶん20年くらい前から言ってくださっていて。でも当時は女優業でいっぱいいっぱいの頃で、まだ舞台経験もなく人前で何かすることに恥ずかしさがあったんです。藤井さんの「やりましょう!」という熱量に対して、「いいですね、やりましょう!」と同じ熱量では返せなかった。「そうですね、機会があれば」と、ちょっと一歩退いた感じで。でも藤井さんがその情熱の炎を消さないで温めてくださってる間に、私もいろいろ経験を積んで、舞台もやるようになり、発声もよくなって、人前で演じることに対しても心臓に毛が生えて(笑)、私は私で自分なりに成長したんです。
──当時より歌えるんじゃないか、ぐらいに。
そうなんです(笑)。度胸が据わって、「Top of the Pops」のときより今のほうが堂々としていられるんですよね。そんなときに藤井さんが具体的に「『We Should be Dancing』やりませんか?」と言ってくれて、機が熟したから私もやりたいと思えたんです。
──デュエットでこの選曲って度肝を抜かれましたよ!
ね、ホントに(笑)。藤井さんはいろんなアーティストのプロデュースをされていますけど、KAKKOをどうプロデュースしてくれるのか、最初はイメージが湧かなかったんです。そんな中で藤井さんに「『We Should be Dancing』の歌詞を新たな気持ちで僕たちのために書いてくれませんか?」と言われて。なので、以前穴井さんに書いた歌詞はまったく読み返さず、英詞の内容に沿って日本語を選んでいきました。
──そこにNight Tempoさんも絡んで。
それは藤井さんが「アレンジはNight Tempoさんがいいと思うんですけど、どう思います?」と提案してくださったんです。そこからどんなふうになるのかワクワクでした。
KAKKO初めてマイクを持つの巻
──まさかテレビで歌うまでになるとは。
「おげんさんといっしょ」は藤井さんのおかげで出していただくことになって。あの放送を観て世間の方が「KAKKOやってたの?」と知ってくださったので、やっぱりテレビの力は大きいなと思いました。ラジオでは何回か、ミッツさんとのやり取りで楽曲をかけたりしていましたけど、ほとんどの方が知らないことだったので、黒歴史とか言われちゃうし(笑)。全然黒じゃないから!
──藤井さんのコンサートでの歌いっぷりも見事でした(参照:藤井隆ニューアルバムツアーでクルーから料理長に!KAKKO、堀込泰行、パ音、ケンモチも集合)。
ありがとうございます(笑)。本当に楽しかったです。でもほかのゲストの方が堀込(泰行)さんとか、もう本格的じゃないですか。リハーサルのときから「私ここにいていいの?」と思っていました。
──素朴な疑問なんですけど、KAKKOは当時、生歌ではなかったんですか?
イギリスは基本的に全員なんですけど、半分マイクを効かせて、自分の声が半分入ってる状態で。
──いわゆる“被せ”ですね。
基本的に生バンドの演奏はせず、全部音源があって。だからフェードアウトして拍手で被って消えていくんです。基本的には被せですね。
──ダンスをがんばっていたんだなと思いながら動画を観てました。
おかしかったのが、「おげんさん」に出たときに「マイクを持ちますか? ヘッドセットにしますか?」と聞かれて、「私マイクはどうしてたっけ? 持ったことないんだけど」と気付いたんです。
──そこの記憶もない(笑)。
YouTubeで自分の映像を観たらスタンドマイクだったので、スタンドにしていただきました。藤井さんとのコンサートでは前日のリハーサルで藤井さんから「マイクを持ってみません?」と言われて。「MUSIC FAIR」では下のほうを持っていたんですけど、「歌手のときは上のほうを持ったら重くない。下を持つと不安定だから」と藤井さんに教わりました。それが初めての“KAKKOマイクを持つの巻”だったんです。
──基本はスタンドマイクで、そこでずっと踊っていたんですね。
イギリスではスタンドしか経験がなかったんです。初めてのハンドマイクは動き回れて楽しかったですよ。藤井さんと2人でステージのあちこち行って。
──ひさしぶりに歌って血が騒ぎました?
「楽しい!」って思いましたね。これを機にまた音楽ができたらいいなとすごく思いましたし、EPICさんたちに「機が熟したら」と話していたあの場面が思い浮かびました。
──個人的には屋敷豪太さんとやってほしいです。
豪太さんの還暦コンサートを観に行ったら、素晴らしい人たちと共演していて、いい音楽がたくさんあったんです。豪太さんも素敵ですし、堀込さんとご一緒した世界観もすごくいいなと思って。
──それも最高ですね!
いっぱい好きすぎて選べない(笑)。でも、チャンスがあればぜひやりたいと思っています。
──ロンドンでの経験を生かした曲も聴いてみたいと思っています。
「おげんさん」でNight Tempoさんとご一緒したときに、「英語の楽曲をまた歌ってください」と言ってくださって。「機会があったらご一緒しましょう」という話もあったんです。
“黒”歴史ではなく、黄金ですから!
──そして発売されてないアルバムがホントにもったいないですね。
ちゃんとデジタルで音源は残っているんですよ。ニッポン放送にもありますし。
──あるんだ! 版権はどうなっているんですか?
PWLにあると思います。
──なんとかリリースしてほしいですね。
私は今はピートたちとつながりがないのでわかりませんけど、藤井さんが今作のことでPWLに連絡して権利の問題をクリアしてくださったというのは聞いています。
──アルバムもサンプルぐらいまでは作っていたということなんですかね。
ちゃんとミックスダウンして残ってるんですよ。私もカセットかCDでもらったはず。
──いい話がいっぱい聞けました。
本当ですか? ありがとうございます。今思えば、当時の自分はよくがんばったと思います。今同じことを5年間やってこいと言われたらできないです。あの頃は夢と希望に満ちあふれていて、後先を考えない勢いがあったし、知らないからこそ飛び込めた。今の年齢である程度のことが予測できる状態だとあそこまでがんばれなかったと思うので、あのタイミングがすごくよかったんだと思います。
──僕は当時フジテレビで放送されていた「BEAT UK」という洋楽番組を毎週楽しみに観ていたので、音楽的にエキサイティングだった時代のイギリスでいろんな音楽を体験しているのは純粋にうらやましいです。
宝ですよね。
──黒歴史なわけがない。
とんでもないです! 私にとっては黄金ですから! あの頃があるから今の私があると思うし、自分のコアな部分だと思っています。
鈴木杏樹(スズキアンジュ)
1990年2月にイギリス・CBSレコードからリリースされたKAKKO名義のシングル「We Should be Dancing」でアーティストデビュー。ヨーロッパツアーやアルバム制作を行っていたが、湾岸戦争の勃発により帰国。1992年に女優デビューし、ドラマ「あすなろ白書」「若者のすべて」「長男の嫁」といった話題作に出演して注目を浴びる。音楽番組「MUSIC FAIR」の司会や、情報エンタテインメント番組「ZIP!」でパーソナリティを務めるなど幅広く活躍。2022年7月に藤井隆とのデュエットによるリアレンジで「We Should be Dancing」をリリースした。
※記事初出時、小見出しの一部に誤りがありました。お詫びして訂正します。