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塚本晋也が描き続けた“暴力的な反暴力”のメッセージ 『鉄男』から『斬、』までの軌跡を辿る

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 天を仰いで吐き出される村の娘の叫びが今も耳に、はらわたの底にじんじんと響いている。なぜ人は人を斬るのか、なぜ人は殺すのか、なぜ暴力の連鎖は止まないのか――渦巻くなぜをつんざいて『斬、』終幕の絶叫は、今この問いを、この叫びを、なりふり構わず発せずにはいられない作り手、塚本晋也のまっすぐな主題と主張、前作『野火』とも結ばれた人類と世界への憂いをずしりと剛速球で投げかけてくる。そのまっすぐさ、切迫感が、何よりも塚本2018年の新作の核心として胸をえぐる。

●『野火』からの地続きである『斬、』

 平凡なサラリーマンが凶暴さへと疾走する塚本1989年の劇場映画デビュー作『鉄男』は、鉄と人の合体を差し出してSFサイバー・パンク時代と共振し、世界に飛び出す日本映画新世代の先陣を切ってみせた。

 製作・監督・脚本・撮影に加え特殊効果も美術も照明も編集も、さらには演技も一手に引き受けたインディ魂の塊に他ならないこの快作から6年、『東京フィスト』(95)を撮りあげた塚本は「戦争も学生運動も民族的葛藤とも無縁のテーマなき時代に育ったこと」を自認して、「渋谷に生まれビルの背が伸びるのを見ながら成長した」自分がやっとの思いでみつけた主題らしきものが「都市」だったと淡々と述懐してみせた。

 コンクリート・ジャングルの自然としての人体、その暴力的な艶めかしさを繊細に感覚し、過激に描写した監督は、取材の席でも崩れゆく肉体を描いた画家フランシス・ベーコンの名をさらりと口にし、「何年かしたら自然らしい自然を描きたい、例えば大岡昇平の『野火』を総天然色で映画化してみたい」「ものすごくきれいな緑と赤い実と青空、灼熱の映像の中で人間だけはぼろぼろの土色になっていくというような」と言葉を重ね、真正のジャングルの自然の滴りの中で朽ち果てる肉体もまた、とろけそうに美しかったりするのだろうと思わず期待が募ったりもしたのだった。

 ほぼ同世代と乱暴に括れば、語るべき大きな主題なき時代をやはり呼吸して成長した聞き手はその時、『野火』といえばまず浮かんでくる筈の戦争、戦場、人肉食、その悲惨といった要点をすっぱり忘れて自然と人/ヒトと、来たるべき塚本映画の美学的な側面ばかりに反応していたように思う。極言すれば恐らく往時の監督の構想もやがて撮られた『野火』を強かに裏打ちした反戦の主張といったものとは必ずしも一致していなかったのではないか。95年、『野火』の映画化を想っていた塚本と、2014年に『野火』を撮り、さらにその地続きの切迫感を芯にした『斬、』を撮りあげた彼とその映画を貫く直截的な危機感、主題と主張の広がり。変わらぬインディ魂の下、衒いなく放り出された変化に塚本という作り手の興味深さが実感される。

●初期作から描かれてきた背中合わせの死と生

 塚本映画の歩みを辿る中でとりわけ気にしてみたいのが21世紀の始めに撮られた2本だ。まずはヴェネチア映画祭コントロコレンテ部門審査員特別賞に輝いた『六月の蛇』(02)。77分の緊密な時空で都市の唯一の自然=人体という主題をまたしても究めつつ、映画は肉を通過してこそ見えてくる心を差し出し、その世界の新たな深まりを思わせる。

 梅雨の東京。電話相談室で心理カウンセラーを務めるヒロインの生活は、夫とのセックスレスの平和な日々のバランスはあられもない行為にふける彼女の写真を送りつけたストーカー(塚本)の出現で狂い始める。

 コンクリートの壁に“自然”の文字が刻まれたマンション。除菌され消臭され去勢された人工の檻(おり)ーー都市。そこで死と病と闇と向き合い性・生・静・聖へと到ること。うんざりしながら目をそらせない人という生き物を自分の裡に認め、凝視する塚本は、じんわりと都会っ子のクールを抜け出し、だからこそ次にくる変化を期待させる。そんな『六月の蛇』の後、『ヴィタール』(04)は此岸と彼岸を往還し、生命と死のありかに向けた監督の眼差しを一層、濃やかに浮上させる。

 もっとも改めて振り返れば塚本の映画は案外、しぶとくその初期から背中合わせの死と生と関ってきた。『ヒルコ/妖怪ハンター』(91)は、妻に死なれた考古学者と憧れの少女を惨殺された少年とが、死を超え生還する物語だった。『鉄男ⅡBODY HAMMER』(92)にも亡き子の影があり、『東京フィスト』のふたりの男は愛する少女を暴漢の手から救えず死なせた苦い記憶を共有している。同じ『東京フィスト』には病院のベッドのシーツが取り換えられるそのあっけなさで父の死を、ぽっかりとできてしまった空白を、切りとる印象深い場面もあった。さらには愛する人の自殺で男の暴走が始まる『BULLET BALLET バレット・バレエ』(99)。死の病で結ばれた『六月の蛇』のストーカーとヒロイン。そうして『ヴィタール』もまた紛れもなく愛する者の死、その記憶を探って旅に出る人の物語、“生命の(ヴィタール)”と銘打ち背中合せの死を逞しくみつめた一作だった。

 映画は即物的な実体としての生命/死にまずは視線を注ぎ込む。死のリアルを解剖作業と共に凝視する。黄色の脂肪を掻き出し、肉を削ぎ、骨を断つ。そうやって恋人の遺体の内を探る作業に没頭する主人公は、憑かれたように人体の精巧な解剖図を描き始め、人の内側に広がる宇宙と遭遇する。描かれた現実としての死=解剖図に描けない人の思い、意識のありか。記憶、微笑み、痛みの行方。スクリーンは現実としての死をみつめる場から思いを吐露する場所へと踏み入る。

●塚本の映画の暴力的な反暴力

「『都会には自然がない』と言われますが、よく考えると、自分の肉体こそが大変な自然の本流なわけで、この映画(『ヴィタール』)では目の前に置かれた“肉体という自然”を際限なく見つめるうちに、肉体のトンネルをくぐりぬけて、巨大な自然の世界へとバーンと飛び抜けていきます。つまり、今までの閉塞感から来る、『都市と人間』に関するテーマは『ヴィタール』で終わり、もっと広い世界に旅立とうと、次に本当はやるべきと思ったのが『野火』だったんです」(「冒険監督」ばる出版)

 資金集めに手間取ったりと、結局10年を経て映画化された『野火』には、確かに都市を抜け出た巨大な自然の中の肉体、人/ヒトのテーマ、在ることを瞑想する映画としての“尻尾”のようなものも感知できなくはない。けれども、ぼろぼろに朽ちかけた人/ヒトを取り巻く緑と真紅の花と白い雲、高い空、時の流れを活写する映画が何よりそこで伝えようとしているのが戦場という地獄、その有無を言わせぬ酷さ、狂気であることは見逃せない。人をヒトに変える容赦ない戦争の現実を描く映画は実際、世の中がきな臭い方へとふっと突っ走ってしまいそうな今への危機感を背骨に直截で鋭い警告を発してみせる。目を背けたくなる殺傷の描写。募る嫌悪感。それは、この地獄をくぐり抜け帰還した人々――例えば第2次大戦後のロバート・アルトマンや小津安二郎や鈴木清順の心の奥に巣食った虚無を、戦争を知らない世代の観客にもまざまざとした痛みとして体感させる。

 そうして戦争はいやだと率直に叫びたくさせる『野火』の強かなメッセージは時代劇『斬、』へと迷いなく引き継がれる。平和ボケした幕末、形骸化した剣術でなく殺しの手段としての刀を使う必要にいきなり迫られた青年が通過する恐怖。殺しのリアル。血の生暖かさ、生臭さをぬかりなく伝える塚本の映画の暴力的な反暴力のメッセージ。

 説教臭さに堕すことなくそんな叫びを叫ぶ塚本晋也58歳の新生面に見惚れたい。(川口敦子)