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音楽シーンを撮り続ける人々 第3回 ライブの風景を塗り替えた“写殺”青木カズロー

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CDジャケットや雑誌の表紙、屋外看板などアーティストを被写体とした写真に心を奪われた……そんな経験のある読者も多いはず。本企画ではアーティストを撮り続けるフォトグラファーに幼少期から現在に至るまでの話を伺う。第3回で取り上げるのは、自らを“写殺”と名乗るライブカメラマンの青木カズロー。ハードコアやパンクの熱量をダイレクトに表現したハイコントラストで極めて個性的な青木の作風は多くのアーティストや音楽ファンから厚い支持を集め、ライブを撮影するほかのカメラマンにも少なからぬ影響を与えている。ライブ写真の常識を塗り替えたとも言える青木の“個性”に迫る。

家業を継ぐ運命に対する怒り

カメラを始めたのは26歳で、まだ10年もやってないんです。子供の頃は生き物と女の子が大好きで(笑)、あとは映画をよく観てました。僕の叔父は映画が好きで、よく僕を映画館に連れて行ってたんです。「ゴジラ」「007」「バットマン」の新作のときは絶対に連れていかれていました。僕は1983年生まれで、翌年にやってた「ゴジラ」を観てるから……1歳のときには映画を観ていた。当然記憶には残っていないけど、あのとき観たビルを壊しながら歩く大きなゴジラのイメージだけは残っていて。映画好きになった僕は、幼稚園に入った頃にはレンタルビデオ屋で借りたアクション映画ばかり観てました。

僕は家業の跡取りで、実は今も岐阜の実家で働いているんです。でも年々実家で働いている時間が減ってきて、今月なんて3日しか実家に帰ってない(笑)。小学生の頃から「家業を継ぐ」という運命から逃れられないって思っていて、ブランコに乗りながら「もう僕の人生は決まってるんだ」と1人で泣いていました(笑)。自分が跡取りであることに対して、その頃から一貫してずっと怒ってましたね。それが自分の人生のド真ん中にずっとあった。

中学生のときは、やんちゃな奴ともオタクな奴とも女の子とも仲がいいけど誰ともつるまない一匹狼でした。その頃は、クラスにオリコンチャートを毎週チェックして有線を録音したMDを作っている友達がいて、彼に借りたMDをいつも聴いていたんだけど、そのうち洋楽を聴いてる奴がカッコよく見えてきてTHE MAD CAPSULE MARKETSのアルバムを買ったんです……洋楽だと思って(笑)。そのあと音楽に詳しい友達のお兄ちゃんがMetallicaのブラックアルバム(「Metallica」)をくれて、その1曲目の「Enter Sandman」に衝撃を受けてそこから洋楽ばかり聴くようになりました。あとシャイな野球少年がヘッドフォン付けてノトーリアス・B.I.G.の「Big Poppa」を聴いているときだけヤバい球が投げられるという設定の「陽だまりのグラウンド」って映画を観てからはヒップホップにもハマって。メタルとヒップホップはどちらも自分の中にあった“怒り”につながる音楽でしたね。

岐阜や名古屋にも当時ハードコアやパンクのシーンがあったんですけど、父親が厳しかったから、中高生の頃は地元のライブハウスに通うようなことはなくて18歳で家業の資格を取るため東京の専門学校に入学して、初めてライブハウスに行ったんです。ある日幡ヶ谷でスケボーをやってたら、コインランドリーから金髪モヒカンの人が出てきて「君たちスケボーやってんの?」と話しけられて、「やってっけどなんだよ、文句あんのかよ」みたいな(笑)。それがSubcietyというストリートファッションブランドのデザイナーの人だったんです。突然大量のTシャツを渡されて「俺、ブランドやってるから着てよ」って。名前を聞いたら「ノーマン」て言われて。普通の日本人が、カッコつけるわけでもなくサラリとノーマンを名乗っていることに、カルチャーショックを受けたんですよ。次の日ノーマンに「今日俺、恵比寿みるくでイベントやるから来いよ」と誘われて、そこでハードコアバンドのライブを初めて観ました。AGAINST ONE'S WELLとNUMBと、誰に言っても覚えていないんだけど……もしかしたら記憶違いなのかな、愚痴ってバンドがいたんですよ。シンバルをサンダーで削って火花飛ばしながらヴォーって叫んでて、最後は石膏でできた人間の顔をハンマーで叩いて終わるみたいなバンドなんですけど(笑)。ラウンジフロアではレゲエとかR&Bが流れてて、とにかくぐちゃぐちゃだけどそれがすごく居心地よくて、多いときでは週7でライブハウスやクラブに入り浸るようになりました。

「写殺」の誕生

3年で専門学校を卒業して岐阜に戻る頃には、絵に描いたように東京に染まってたんです。「こんなクソ田舎、何もねえ」って。でもある日、名古屋のSQUAREというブランドが地元のセレクトショップでも展開しているのを知って、しかもそのお店はDEVICE CHANGEのMOTOKI(G)くんがやっていたんです。MOTOKIくんに地元のハードコアシーンを教えてもらって、ライブハウスに通ううちに「自分の人生はもう決まっているから」と自分の夢に対してなんの努力もしなかったのは甘えだなと思ったんです。資格取って地元に帰って「もう後戻りはできない」と思ったときに、本当はイラストレーターやデザイナーになるのが夢だったけど、自分の中の表現欲求をはらすために「写真なら簡単でしょ」という軽い気持ちでカメラを始めました。家業のお客さんにカメラが趣味のおばあちゃんがいて、「俺も歳取ったらカメラを趣味にしようかな」と話したら「若いときにしか感じられないものがあるんだから、今すぐやったほうがいいよ」と言われて、次のボーナスでCanon 40Dを買いました。今思えばそのおばあちゃんがキーマンでしたね(笑)。

周りに写真をやってる知り合いもいないから完全に独学で、最初は鳥とかを撮ってました。子供の頃から生き物が好きだから(笑)。そのうちライブハウスで友達や先輩のバンドを撮り始めたんです。ハードコアの現場って、後ろから人がぶつかってくるわ上から人が降ってくるわ、ひどいと松明が飛んできたり、ボーカルが鉈を振り回してたり(笑)。ファインダーを覗いていると危ないから、それで覗かず撮る方法として、魚眼レンズでストロボ焚いて、フォーカスをフリーにするというやり方を編み出したんです。ただそれだと撮れはするけどライブ感のない味気ない写真になっちゃう。ある日東京のPAYBACK BOYSがツアーで岐阜に来たときに撮りに行ったら、彼らは照明を使わず真っ暗な中でライブをやっていて。どうしようかなと思ったときに……直前に読んでた「デジカメ入門」みたいな本に書いてあった「夜景での記念写真の撮り方」を思い出して(笑)、シャッター速度をめちゃ落として撮ったんです。シャッター速度を落とすとブレるんだけど、それがカッコいいなと思えた。それからはわざと光をブレさせて撮るスローシンクロでずっと撮り続けてました。

そのあと、名古屋のフリーマガジン「2YOU MAGAZINE」の柴山(順次)編集長に会う機会があったんです。柴山さんが「ハードコアじゃないバンドを撮ったものが見たい」と言って話をくれたのがSEBASTIAN Xのライブ撮影で。女の子ボーカルだしパンクでもハードコアでもないしな、ライブはどうなんだろ?と思って行ったら、めっちゃパンクでカッコよかった。それまで音源では聴いていたけど観ず嫌いが多かったなと気付いてそこからいろんなライブを撮るようになったんです。その頃はもちろんまだ完全にノーギャラでやっていました。

僕は修行僧みたいな人間なんで「1年間標準レンズしか使わない」と決めたらそれを通してみたり、あるときは1年間全部ノーギャラで自分の労力と時間を割いたらどれぐらい撮れるだろうと試してみたり。結果、年間170本200アーティスト撮ったり。“写殺”と言い出したのはその頃です。名古屋のライブハウス数件だけを年間170本も撮ってると……飽きるんですよ(笑)。「ここで撮るときはここからこう狙えばこう撮れる」という経験に引っ張られてしまう。そんなときに「俺はなんのために撮っているのか」という気持ちを思い返して、忘れないため、“写殺”という言葉が生まれて、Tシャツの背中にプリントして“写殺”を背負って撮るようになりました。

トゥーマッチな亜流が王道に

そのうち「実際にこの目で観るライブは、もっと生々しくて泥臭いよな」と思うようになって、RAWで撮った写真をレタッチして、頭の中のイメージにより近付けるようにしたんです。僕だってこれが現実だとは思っていない。でも「この場にいた人たちにはこう見えてるんじゃないか」と。もちろんやりすぎだと言われましたよ。こういうしっかりこってりとしたレタッチをやり始めたのはライブカメラマンではおそらく僕が初めてだし、長年カメラをやっている先輩たちからしたらトゥーマッチだったかもしれない。でも「いやいやいや、これぐらいに見えてるし、オレの写真の方がカッコいいっしょ」みたいな。

ストリートシーンには“スタイルウォーズ”という考え方があって。海外のグラフィティアートなんて、違法なところから始めて認知されて、認められると個展が開けるようになって、仕事につながっていくというプロセスができあがってるんですよ。そういう世界だからこそ、人と同じことをやってても勝てない。自分ならではの「これカッコいいでしょ?」を提示して、納得させていかなくちゃいけない。僕はそういう感覚だから、今も昔もほかのカメラマンにまったく興味がない。自分が本物だと思うバンドマン、アーティストにだけ認めてもらえればいい。今同じようなレタッチをしているカメラマン、正直ダサいなって思います(笑)。でも、自分がカッコいいと思うものを周りに認めさせるってのはそういうことだから。

僕の写真が受け入れられた背景には、SNSの時代になったこともすごく大きいと思うんです。みんながライブ写真をアップする中で、普通の写真と並べたときに“浮く”ものがいいと考えたアーティストが僕の写真を気に入ってくれた。でも、マンガ家の浦沢直樹先生が「自分は亜流のマンガを描き続けてきて、それがいつしか王道になった。それはつまんないから、また亜流を描くんだ」と言っていて、それは凄くわかりますね。僕の写真も撮る瞬間や構図、レタッチが少しずつ変わっているし、後から追いかけてきている人たちに飲み込まれてしまわないよう変化し続けていたいです。それにこれから先「こんなんトゥーマッチじゃん、ダサ!」と思った若い人が、また新しいスタイルを提示してくれたら面白いなと思うんですよね。

僕らの上の世代の人たちがライブ撮影をちゃんと仕事として成立させるために努力してきてくれたおかげで、今僕たちはライブカメラマンとして仕事ができている。でも僕らの世代は、仕事だとはいえ“個”であるという部分をちゃんと見せていかなければいけないと思うんです。ライブカメラマンは道具じゃないから。今年の夏に「FIVE FINDERS PHOTO FESTIVAL」を開いたのもそういう理由で(参照:ワンオクやRADWIMPSら写真展示、ライブカメラマン5名による“写真フェス” )。それぞれカメラマンの作品には個性があって、その個性をアーティストやメディアから求められる時代を作っていかなくちゃいけない。

ライブカメラマンとして生きる

一番記憶に残っている瞬間は……難しいですよ。いい瞬間はその都度ありますからね。近年で言うと、初めてCrossfaithの海外ツアーに同行して初日のタイでのライブが始まった瞬間とか、つい数日前のSUPER BEAVERのライブもよかったしなあ。昔撮影中ボーカルにマイクスタンドでどつかれたのもいい思い出だし(笑)。一番気に入っている写真も選べないです。自分では納得できていないですもん、まだ。でも強いて言うならば、2013年ぐらいの「MAD Ollie NAGOYA」で撮ったcoldrainの写真は少し特別かも。自分自身が気に入っている写真が昔から読んでいた全国誌に大きく載って、多くの反響もいただけて。漠然とライブカメラマンとして戦っていたけど、自分が撮った写真が大きく使われてうれしいなと思ったのは、あの写真が最初だったかもしれません。

ライブカメラマンとして大事にしているのは “人間を撮っている”ということ、“今日という日がわかる1枚を撮る”ということ、あとは“緊張しないようにしよう”ということ意識することかな(笑)。緊張するとダメなんですよ、僕。最近も1つ大きな失敗がありました。今年の頭にCrossfaithのヨーロッパツアーに同行したんですけど、そのツアーに付いていったのはPAと僕だけ。海外って連れていけるスタッフが限られているのにそのうちの1人に自分を選んでもらって、絶対クオリティの低いものは撮れないって気負いがあって……ダメだったんですよ。言い訳にしかならないですけど、初日のアムスデルダムは環境としても最悪で。あせっちゃって、何もできないままライブが終わった。メンバーが楽屋で「おつかれ!」と話しているときも1人でうなだれちゃって。「ごめん、今日の写真は1枚も渡したくない」って正直にメンバーに言いました。でもタッちゃん(Tatsuya / Dr)は「僕らが初めてUKでやったときなんて、クソみたいなライブしかできなかったよ。でも次の日から『殺してやる』ぐらいの気持ちでやったよ」と声をかけてくれて。Teru(DJ)も「ツアー続くから正直に言ってくれてよかった」と励ましてくれて、次の日からは前日の事は忘れて「全員殺したる!」ぐらいのテンションで乗り切りました。

今はライブ以外のものを撮りたいという気持ちはあまりなくて、なんならもっとライブだけに絞っていきたいです。ライブカメラマンはそうそう食える仕事じゃないんで、僕も食えるようになったのはここ3、4年ぐらいですよ。お金が欲しいわけじゃないけど、自分が楽しいと思う仕事で食えないのは悲しいですし、後輩たちの為にもこの仕事を軽く見られたくないなと。だからライブカメラマンとしての仕事はこれからも続けていきますね。今月は13日連続ライブ撮影があって(笑)、1カ月で20数本ライブを撮るんですよ。これはちょっと頭がおかしくないとできない(笑)。「続けていこう」なんて思ってないけどライフワークになっているから、辞めるということはないですね。

青木カズロー

1983年生まれ。岐阜県出身、岐阜県在住。

取材・文 / 臼杵成晃(音楽ナタリー編集部) インタビュー撮影 / 保高幸子