“ちょっとだけ普通じゃない”高橋一生が教える生き方 『僕らは奇跡でできている』が放つメッセージ
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正直に言おう。最初は半信半疑だった。けれども、そこに何かがあるような気がして、毎週観続けていたら次第にハマってしまい、いまや毎回不意打ち的に訪れるカタルシスにハッと胸を締め付けられ、こともあろうか少し涙したりしているのだ。そう、高橋一生主演のドラマ『僕らは奇跡でできている』(カンテレ・フジテレビ系)のことである。このドラマは、今クールの数あるドラマのなかでも、いちばん驚かされた一本だった。そして、そのタイトルから想起されるように、やはり本作は同じ脚本家・橋部敦子の“僕シリーズ3部作”(『僕の生きる道』(2003年)、『僕と彼女と彼女の生きる道』(2004年)、『僕の歩く道』(2006年)と続いた草なぎ剛主演の一連の作品)の流れを汲む作品なのだと、改めて確信するに至ったのだった。
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「生き物の“フシギ”に夢中で“フシギ”な大学講師が、周囲の人々の“フツウ”をざわつかせる!?」という触れ込みの通り、このドラマは、動物行動学を教える大学講師、相河一輝(高橋一生)と、彼を取り巻く人々の群像劇とも言えるような物語だ。生き物の研究に夢中で、それ以外のことには無頓着な一輝は、他人の話を上の空で聞いていることも多く、空気を読まずに率直な疑問を口にし、相手の機嫌を損ねることも多い。一輝を大学に呼んでくれた彼の恩師でありよき理解者でもある鮫島教授(小林薫)を除けば、同僚からも生徒からも、そして偶然知り合った歯科医の女性、水本育実(榮倉奈々)からも、どこか“扱いづらい存在”として思われている。
普通の人とは違う、ちょっと“変わった存在”である主人公が、その言動によって周囲の人々の心に緩やかな変化を与えてゆく……というのは、大まかに言うと“僕シリーズ3部作”と共通している。しかし、“僕シリーズ3部作”の主人公がそれぞれ、余命一年と診断された主人公(テーマは“愛と死”)、妻に離婚を言い渡されシングルファザーとなった主人公(テーマは“絆”)、動物園で働く発達障害者(自閉症)の主人公(テーマは“純粋”)であったのと比べると、本作の主人公・一輝は、そこまで“ドラマチックな”人物ではない。確かにちょっと変わってはいるけれど、「自分のまわりにも、こういう人はいるかもしれない」と思わせるギリギリのラインで踏み止まっているように思えた。
よって、その序盤、物語の進展は、どこか掴みどころがなく、その先行きもまったく不明だった。歯医者で出会った少年と意気投合し、「ウサギとカメ」の新解釈を考える第1話、学生たちを連れて、森にフィールドワークに出掛ける第2話、サル山のボス交代の様子を眺めに、少年と動物園に行く第3話、突然授業を休講して、群馬でコンニャク芋を観察する第4話、育実が企画した子ども向けの歯磨きイベントに参加する第5話……いずれも、生き物の“フシギ”にまつわる話ではあるけれど、そういった生き物に関する“蘊蓄”を披露することが、このドラマの目的なのだろうか? そう思った視聴者は、少なくなかったのではないだろうか。もしくは、視聴を止めてしまった人々も。結論から言うと、それは実に惜しいことをした。なぜなら、このドラマのテーマは、そこではなかったのだから。一輝の言葉を借りるならば、「奥に隠れた見えない物をしっかり見れば、その素晴らしさを感じることができるんです」(第4話)。まさに、その通りだった。
もちろん、思い立ったらすぐに行動に移し、思ったことを思ったままにしか口にできない一輝の言動は、周囲の人々に波風を……ときには衝突を生み出してゆく。「常識では考えられない」、「普通じゃない」、「どうかしている」。そう言われるたびに、一輝は口を開けて呆然としたり、少しションボリしたり、ときには大いに悩んだりはするものの、そこから導かれた疑問をそのまま口にして、さらに相手を戸惑わせたりもするのだった。けれども、そんな“変わっている”けど“変わらない”一輝の言動は、周囲の人々の心を徐々にではあるけど、ジワジワと変化させてゆくのだった。
たとえば、なぜか小道を渡って向こう側に行こうとしないリスたちのために橋を架けようとする一輝に対して、一緒に森に同行した育実は、こんなふうに尋ねる。「要は、リスを渡らせたいんですよね?」。それに対して、一輝はこう答えるのだった。渡らせたいのではなく、「他に行ける方法があるよってことを見せるんです」と。そう、その道を選ぶかどうかは、リスたち次第なのだ。翻って我々は、あらかじめ決められた物事に対して何の疑問を持つことなく、それどころか、それをいつの間にか他者にも強要しているのではないか? それを選択するかどうかは、相手の自由であるにもかかわらず。無論、一輝がそこまで意図していたかどうかは定かでない。恐らく、していないだろう。彼は何かを示唆するような発言はせず、思ったままを率直に言葉にするだけなのだから。そんな一輝の言葉に何かを読み取ってしまうのは、その周囲にいる人々のほうであり……それを観ている我々視聴者のほうなのだ。
一事が万事、この調子なのである。「戦いに勝ったものが、生き残ったわけではないのです」(第1話)、「昔の僕は僕が大嫌いで、毎日泣いていました」」(第2話)、「誰でもできることは、できてもすごくないんですか?」(第7話)……ふとしたきっかけで訥々と語られる一輝の言葉は、ある種不意打ち的に、相手の心はもちろん、我々の心をもハッと深く揺り動かす。そこで誤解してはいけないのは、一輝は必ずしも“聖人君主”のような人物ではないということだ。毎回冒頭で少しだけ描かれる彼の少年時代を見てもわかるように、彼は他人とは違う自分の感性に戸惑い、悩んでいた。それこそ「毎日、泣いて」いたのだ。しかし、彼は一緒に森のなかで暮らす祖父(田中泯)の助言によって、自らの“楽しい”と“面白い”を自身のなかにある“光”として、大事に育てることを自ら選び取ったのだ。
そして、第8話で唐突に明かされた、一輝の身の回りを世話する家政婦(戸田恵子)との関係性と過去のある出来事。さらに言うならば、そんな一輝にとって大学講師という職に就くという選択は、“他者との関わり”という意味で、ひとつの“冒険”でもあったのだ。だからこそ、一輝はこれまで以上に積極的に人と関わろうとし、ときに摩擦を生もうとも、その人たちを深く知ろうと、人知れずあがいてきたのだ。そう、このドラマは、一輝に感化されていく人々の物語であると同時に、彼らと関わることによって、これまでの自分を変えようとする、一輝自身の物語でもあるのだ。
さて、前回第9話で、「僕が水本先生のことをどう思っているのかわかりました。僕は……」と、育実に対する正直な思いを唐突に“告白”しながら、その最後に「つまり僕は、水本先生のことが……面白いです」と発言し、育実を困惑させた一輝は、その後、心を開き始めていたはずの同僚・樫野木先生(要潤)に、タイミングの悪い言葉を投げ掛けたことによって、彼の逆鱗に触れてしまう。「黙れ! そりゃあさ、相河先生みたいになれたら幸せだよね……」から始まる樫野木の発言は次第にエスカレートしてゆき、挙句の果てには「迷惑なんだよ、悪影響なんだよ、ここから消えて欲しい」とまで言い放たれてしまうのだ。もちろん、これは明らかに言い過ぎだ。けれども、表情をこわばらせ、目元を潤ませた一輝は、ひと言も言い返すことなく、その場を立ち去ってしまうのだった。
その後、鮫島教授に、「樫野木先生が問題だと思ってることって、本当に相河先生なのかな?」、「樫野木先生って、たまに自分の課題をすり替えることあるじゃない?」、「今回のこともさ、相河先生のせいにしておけば、向き合わずに済むことがあるんじゃないの?」と諭される樫野木だが、彼の表情もまた、こわばったままだった。果たして最終回、2人の関係性は、どうなってしまうのか。一輝は、このまま大学を去ってしまうのだろうか。そう言えば、一輝は前回、部屋でひとり、なぜかロシア語の勉強をしていたけれど……ヤニパニマーニョ? いや、そもそも急接近したようにも見えた育実との関係性は、どうなってしまうのか。そのクライマックスに登場する、すべての人物たちの“決断”に注目したい。
(文=麦倉正樹)