Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
ぴあ 総合TOP > 南佳孝インタビュー/豪華ゲストを迎えて50周年記念ライブを開催「まあ賑やかな感じになるんじゃないでしょうか」

南佳孝インタビュー/豪華ゲストを迎えて50周年記念ライブを開催「まあ賑やかな感じになるんじゃないでしょうか」

音楽

インタビュー

ぴあ

南佳孝 Photo:吉田圭子

続きを読む

フォトギャラリー(8件)

すべて見る

9月24日(日) に東京国際フォーラム ホールCで『南佳孝フェス』と題して、自身の50周年を記念したライブを行うシンガーソングライターの南佳孝。シティポップの源流にいる重要人物として近年その存在や楽曲に注目が集まる。今回のインタビューでは、彼のデビュー作となった『摩天楼のヒロイン』(73年)を起点に多くの楽曲を共にした作詞家・松本隆のことを中心に、自身の音楽履歴も含め語ってもらった貴重なインタビューとなった。

自分でいいと思った音楽は歌の上手い人を選んできたっていう自負がありますね

――コロナの期間はどのように過ごされていたんですか?

外に出られなかったんでね、何かやれってことだと思ったんですよ。だからそれをきっかけにやり始めたことがいくつかあって、やってみて正解でしたね。

――それが絵を描いたりということだったんですか?

そういうことです。

――興味自体は前からあったということですか?

そうですね。油絵の描き方を知らなくて、何年か前にカルチャースクールに通ったこともあったんですよ。そしたら油絵の描き方っていうのがまとめてある紙があって、これだけもらえればいいやって思ったんだけど(笑)。でもね、スクールに通っている人たちと一緒にやるのは面白かったですね。なかにはものすごく上手い人もいましたよ。こういう人も習いに来てるんだなっていうのも驚きでしたしね。何かと発見がありましたよ。

――音楽と絵というのはまた違うもの、という感覚ですか?

でもね、ずっと油絵をやってた人間から聞いたんだけど、美大なんかに行くと絵をやりながら音楽をやってる人は多いみたいですね。だからどこか近しいものがあるのかもしれない。音楽と絵の違いで言うと、絵は最初にしっかりイメージしなければいけないっていうことかな。音楽の場合は、例えばピアノの蓋を開けて鍵盤を叩けば音が出て、そこから始めることもあるんだけど、絵はね、今日はこういう感じでやりたいなとか、ここまでやろうとかっていうふうに実際に始める前に考えた方がいいっていうのがわかったね。それと長い集中力も必要だし。音楽の場合はわりと瞬間的な集中力でやれてしまうんだけど。

――なるほど。

でも暑い時期は全然集中して描けなかったね。展覧会(『南佳孝 ラジオな日々の展覧会』9/8〜9/17@CREATIVE SPACE HAYASHI)の準備もしなければいけなかったんだけど。

――コロナの期間、音楽活動で言うと、やはり創作中心になりましたか?

ラジオ番組(『NIGHT AND DAY』FM COCOLO)で人の曲をカバーするという企画があったので、それをやっていたのと、あと曲を作るのはやり始めて60年以上経つけどそれは習慣になっているので、コロナとか関係なく今でもやってるんですよ。

――料理もそういう感じでずっと作ることが趣味なんですか?

料理はそれこそコロナがきっかけなんですよ。飲食店も閉まってるし外出るなって言うから、じゃあ自分で作るしかないのかって。それまで何もできなかったんですよ。でもやり始めたら面白くてね。一番いいのは好き嫌いがなくなりました。レバーなんかもちゃんと食べるようになったし。

――きっちりハマっちゃったんですね(笑)。

ハマるんですよ。ハマるの得意みたいで(笑)。レシピ本もいろんなのを買ったりYouTubeも見たりして、そしたら気づくんですよ、この人はちゃんとしてるな、とか、この人はちょっといい加減だなっていうことに。この人の料理はいいけど、ちょっと違う、とかね。

――リスナーとして音楽を聴くときの感覚に似てるのかもしれないですね。このボーカルはいいけど違う、みたいな。

あ、そうかもしれない(笑)。でも自分でいいと思った音楽は歌の上手い人を選んできたっていう自負がありますね。ハリー・ベラフォンテにしろナット・キング・コールにしろジョン・レノンにしろ。

最初から今までやっていることはまったく変わっていないですよ。もう好きなことしかやってない

――50周年の活動の最初にリリースされたのが、ライブアルバムの『松本隆を歌う 〜Simple Song 夏の終わりに』で、昨年9月10日に大手町三井ホールで行われたライブの模様が収録されたものです。このライブの時点でリリースまでのイメージはあったんですか?

いや、全然考えてなくて。たまたま録音してあるっていうのをあとで聞いて知ったんですよね。そのライブの手応えというか、うまく行ったなっていう感覚があったので、音が録れているならアルバムを出してもいいかなって思ったんです。

――じゃあ偶然が重なって、というところで作品になったわけですね。

そうですね。「松本、出していいか?」って聞いたら、「ああ、いいんじゃないか」って話になって。

――去年の9月はまだ声出しができない状況で、ライブ音源にはバンドの演奏とお客さんの拍手だけが聴こえるんですが、それが何と言うか、そのときのライブの雰囲気にぴったりの雰囲気で、そこもまた良い意味で偶然がもたらしたものだったのかなと思いました。

ああ、そうかもしれないですね。ドラムとベースのいない編成でしたからね。

――そういう意味で時代を反映した録音になっていますよね。

今から考えてみたらそうですね。

――そもそもの質問ですが、松本隆さんの作詞したご自身の曲を歌う、というコンセプトはどういうきっかけで生まれたものなんですか?

松本が作詞して、僕が曲を書いた「Simple Song」っていう曲があるんですけど、毎年夏の終わりに開催したライブの時にしか歌わないっていう曲なんですよ。そこに松本隆がふらっと遊びに来て、僕がいないときにうちのスタッフに「おれの曲だけ歌うライブをやってくんない」みたいなことを言ってたらしいんですよ。それが3、4年前かな。

――松本隆さんの作詞した曲を歌ってみて、改めて感じたことはありましたか?

やっぱり、彼の書く歌詞は好きですよね。最初の頃はいろんな話をしましたけど、そのうちもう何も言わなくても全部わかるっていうかね。同い年で東京生まれっていうのもあるのかもしれないですね。

――南さんの最初の作品『摩天楼のヒロイン』(73年)で一緒に制作をする前は、松本隆さんに対してはどんなイメージだったんですか?

はっぴいえんどっていうグループのことは友達が好きだったんで、レコードを借りて聴いてた記憶はあるんです。で、やっぱりフォークソングとは違ったから、いいなっていう印象はありましたね。それまで日本語でやっているグループはあんまりなかったしね。だから最初に会った時も「はっぴいえんどのドラムの松本隆だ」っていう感じでした。

――大学の後輩の方がいきなり松本さんを連れて来たんですよね?

そうなんですよ。フジテレビの「リブ・ヤング!」っていうコンテスト番組があって、後輩がフォークソングをやってて自分も応募するから南さんもどうですか?って言われて、そしたら僕の方が通っちゃって。「おまえが誘ってくれたんだし一緒にやろうか」って言ったら何故かどこかで知り合ったのか松本隆を連れて来たんですよ。どこでどうつながってたかは知らないんだけど。

――はははは。

たまたま自分のデモテープを作っている時だったので、それを松本が聴いて、「いいと思う」とかなんかそんな感じで。その時点で10曲くらいあったから、じゃあそれをもとに作ろうかっていう話だったんですけど、その後彼のうちに行った時に、まったく新しいものを作ろうっていうことになって、そこから始まったんですよ。

――南さんが既に作っていた10曲というのは、シンガーソングライターとしてデビューするためのものだったんですか?

「リブ・ヤング!」がデビューさせてくれるって言ってたんだけど、1年経っても何にもないから、自分でデモを作っていろんなレコード会社に持って行こうと思ってたんですよ。

――なるほど。実際、松本隆さんのプロデュースの元でのレコーディングはいかがでしたか? 細野晴臣さんや鈴木茂さんなど錚々たる人たちが参加されていますが。

その当時は右も左もわかってない状態で入っていったんだけど、とにかく目が真剣だったな、みんな。人を寄せつけないくらいだった。

――東京でのレコーディングだったんですか?

目黒のスタジオで。すごい高いところだったらしいよ、後から聞いて知ったんだけど。それなのに全然売れなかったわけでしょ(笑)。

――レゲエの要素が入っていたり、音楽的にも新しいサウンドが盛り込まれているアルバムですが、今から振り返ってわかることと、当時やっていた中でのチャレンジはまた全然違ったんでしょうね。

だって当時はレゲエのことを「レガエ」って言ってましたから。あれってきっとこういうふうに叩いてるはず、みたいな感じだったからね。そこはやっぱりみんな東京っ子だったから、新しいものが好き、カッコいいものが好きっていうことでしかなかったですね。

――ジャンルっていうことではなかったわけですよね。

そうですね、はっぴいえんどはその最初に「日本語でやるロック」っていうのはあったかもしれないですけど、僕はルーツとしてはジャズやボサノヴァだったし、そう考えると最初から今までやっていることはまったく変わっていないですよ。もう好きなことしかやってない。

(曲が生まれたときの)部屋の情景とかそのときの天気とかを全部憶えてるんですよ

――『摩天楼のヒロイン』のあと、次のアルバム『忘れられた夏』(76年)までの間に約3年間あるんですが、そこはどういう期間だったんですか?

鳴かず飛ばずです。1枚アルバムは出したけど、特に何がどうなるわけでもなく。だからバイトしてましたよ。

――あ、そうなんですか!

ちょこっとライブやったりとかしながら。で、26歳の時にソニーが声をかけてくれたんですけどね。その前に、25歳の時にアルファ・レコードと作曲家契約するんですよ。

――もしかしたら、作曲家の道もあったかもしれない。

僕は最初から曲作りの方に行きたかったんですよ、実は。歌は好きだったけど、そこまで思い入れは強くなかったですね。大学の4年間はずーっとギターばっかりやってましたよ。

――わからないものですね。ソニーで作品をリリースするようになってから松本さんとの関係はどうだったんですか?

『摩天楼のヒロイン』のあと、6年間くらいは一緒にやってないんですよ。その期間で彼も作詞家として「木綿のハンカチーフ」(太田裕美/75年)とかでヒットを出したり、ものすごく忙しくなってましたからね。それで僕は僕で、来生えつこさんと一緒にやることが増えたりして。それで、アルバム『SPEAK LOW』(79年)の時に何曲か久しぶりに松本にお願いしたのかな。

――そこから「スローなブギにしてくれ(I want you)」(81年)のビッグヒットにつながるわけですね。

そうです。その後の『SEVENTH AVENUE SOUTH』(82年)のときはレコーディングをニューヨークでやったんですけど、そこに松本も来てるんですよ。一緒に遊んでたりなんかして。それで松本に頼んだんですよ、僕が。やっぱりコンセプトアルバムっていうか、1枚を通してトータリティのあるものを作らないかって。最初は何にも決まってなかったんだけど、当時の日本、というか東京がカフェバーブームで、代官山とかそのへんに新しいカフェバーばかりができてたんですよ。そういうお店に行って遊んでいるうちに、だんだんコンセプトがまとまって来て、それが『冒険王』(84年)になったんです。その頃、植村直己さんっていう冒険家の方が亡くなったんですよ。それは大きなニュースにもなったし、何か松本の感性を刺激するものがあったんでしょうね。それと、僕らが子供の頃に読んでいた漫画雑誌で『冒険王』っていうのがあって、そういうノスタルジックなものも含んで彼はイメージしていったんだと思います。

――まさに『摩天楼のヒロイン』でやったのと同じような作り方だったんですね。

『摩天楼のヒロイン』からつながるものとしての2作目というか。

――南さんが、コンセプチュアルなものを求めた背景には、時代的なものもあったのでしょうか? つまり、あまりにも目まぐるしく忙しい日々の中で、きちんとまとまった音楽を作るというところに還りたかったというか。

そういうのはあったかもしれませんね。僕も人に頼まれて曲を作ったり、松本はそれこそ松田聖子ちゃんをはじめ、ヒット曲を何曲も手掛けている頃でしたから。

――80年代は1年に1枚アルバムをリリースするペースで、しかも楽曲提供も行っていたり、どんな毎日だったんですか?

家にいれば、昼に起きてからずーっと曲書いて、夕方ビール飲んでご飯食べて1回寝ちゃうんですよ。仮眠をとるんです。それで夜の9時くらいから朝方4時くらいまでまたやるのかな。でもね、不思議なもので、どこかに出かける15分くらい前にパッと書けたりするんですよ。それまでずーっと書けないのに。出ねえな出ねえなって。そうやって思いついた曲って、部屋の情景とかそのときの天気とかを全部憶えてるんですよ。あの時雪降ってたなとか。

僕がホストになりつつゲストの方を紹介し、まあ賑やかな感じになるんじゃないでしょうか

――南さんのメロディの源泉は先ほどもおっしゃいましたジャズやボサノヴァということなんですが、子供の頃からそういった音楽が身近にあったんですか?

そうです。ナット・キング・コール、フランク・シナトラ、ジュリー・ロンドンとかね。

――そういったアーティストに影響を受けながら、南さんのメロディには独特の空気感が含まれていますよね。

このあいだラジオのゲストに松任谷正隆くんがゲストに来てくれて、お互いに質問をし合うっていうことをやったんだけど、その中でマンちゃんが、「好きな映画3本は?」って聞いてきて。僕はこう答えた。まず『ウエスト・サイド・ストーリー』、中学1年生くらいの時に渋谷にパンテオンって映画館があったんだけど、そこに十何回観に行った。それとアメリカン・ニューシネマの『イージー・ライダー』。あとは『男と女』って映画があるんだけど、その3本。そしたらマンちゃんが、「その3本の共通項は“セクシー”だな」って。「それで佳孝の音楽がわかった気がする」って。彼すごいなって思ってね。

――ああ、確かに。南さんのメロディに含まれている共通の空気感も“セクシー”さというものなのかもしれないと、今言われて納得しました。

自分では全然わからないんだけどね。

――だから松本隆さんもそういうものを感じ取っているからこそ、南さんに提供する歌詞は男女の物語が多いのかもしれませんね。

そうですね。そういうことなのかもしれませんね。

――杉山清貴さんとはアルバムを一緒に制作されたりしていますが、彼との出会いは何がきっかけだったんですか?

10歳年下で、デビューもちょうど僕の10年後で、だからってわけでもないんだろうけど、ちゃんと先輩として立ててくれたりね、彼は人間が本当にいいんですよ。屈託がない。95年とかそれくらいだったと思うけど、誰かのコンサートに集まった時に最後に1曲みんなで歌おうかって言ってザ・ビートルズの曲を歌ったのが最初のきっかけだったと思う。彼も僕も海の方に住んでいるので、それで一緒に遊んだりするようになりましたね。そのうち、彼はコーラスが上手いから、教えてって言って一緒に音楽をやるようになり、ザ・ビートルズ・バンドを作ろうぜってやってるうちにアルバムを1枚出し、2枚出しという感じで。

――2枚目の『愛を歌おう』ではオリジナル曲も増えていますよね。

そうですね。でもほんと勉強になってる。声も全然違うんだけど、ハモるとだんだん似てくるんだよね。それも不思議なんだよな(笑)。歌の上手い女性がいたらもうひとりくらい入れてもいいね、なんて言ってるんですけどね。

――さて、9月24日(日) に東京国際フォーラム ホールCで、50th Anniversary Live『南佳孝フェス』を行います。これは松本隆さん(トークゲスト)や杉山清貴さんなど、親交の深い豪華ゲストを迎えてのライブとなるわけですが、一連の50周年の活動のフィナーレ的な位置づけのものになるのでしょうか?

このあいだ言われたのは、ここが50周年の最初の日と考えてもいいんじゃないのって(笑)。だから来年の9月21日まで50周年という。まあそれは冗談としても、このライブでひとつまとめて、という感じはありますね。僕がホストになりつつゲストの方を紹介し、1曲ずつ一緒に歌いながら、松本隆とは話をし、まあ賑やかな感じになるんじゃないでしょうか。

――楽しみにしています。

ありがとうございます。

Text:谷岡正浩 Photo:吉田圭子

<ライブ情報>
50th Anniversary Live『南佳孝フェス』

日時:2023年9月24日(日) 開場16:30/開演17:00
会場:東京国際フォーラム ホールC

出演:南佳孝(Vo&Gt)/岡沢章(Ba) /住友紀人(Key&Sax/松本圭司(Pf) /島村英二(Ds) ゲスト:太田裕美/尾崎亜美/杉山清貴/松本隆(トークゲスト)/小原礼/鈴木茂ほか

料金: S席8,800円、A席7,700円、高校生以下5,500円(全席指定、税込)
チケット発売中:
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventCd=2321244

そのほかのライブ情報はこちら:
https://minamiyoshitaka.com/live_info/

南佳孝 公式サイト:
https://minamiyoshitaka.com/

フォトギャラリー(8件)

すべて見る