国境を越えて活躍する日本人 第6回 星まり子:トンネルの先に見えた光を目指して──ドリームワークスを経て現在はピクサーで活躍するアニメーターの半生
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星まり子(Photo by: Debby Coleman)
海外で活躍する日本人を紹介する連載「国境を越えて活躍する日本人」。第6回では、ドリームワークスのアニメーターとして「シュレック」「マダガスカル」シリーズなどを手がけ、現在はピクサー・アニメーション・スタジオで活躍する星まり子に話を聞いた。
アニメーターを目指すきっかけは新宿で偶然立ち寄ったCGグラフィックス展。それから1年半後、“トンネルの先に見えた光を目指して”アメリカへと渡ることに。このインタビューでは、慣れない地での学生生活やドリームワークスでの15年半、日本公開中であるディズニー&ピクサー新作「マイ・エレメント」の魅力を語ってもらった。なお後半では「マイ・エレメント」の一部シーンに触れているため、未見の人はご注意を。
取材・文 / 小澤康平
新宿のCGグラフィックス展で衝撃を受け、1年半後にアメリカへ
──アニメーターになる前は東京の建築事務所で働いていたと聞きました。その頃に立ち寄った新宿のCGグラフィックス展で衝撃を受けたそうですね。
はい、それがアニメーターを目指すきっかけになりました。新宿の小さな建築事務所で、レストラン、カフェ、バーなどをデザインする商店建築の仕事を主にしていたんですが、作品が自分のものにならず、流行りによって何年か経つと作り変えられてしまうことから、それが本当に自分のやりたいことなのかがわからなくなっていたんです。そんなある日、ミーティングへ行く途中に当時アルタの並びにあったドイギャラリーのCGグラフィックス展の看板が目に入り、興味本位で立ち寄ってみました。そこには全国から集められたCG画像や動画が展示されていて、それらを見た瞬間「こんな世界があるんだ!」と、今まで感じたことのない興奮を覚えたんです。特にそこで上映されていたピクサーの短編アニメーション「ティン・トイ」(1988年)には衝撃を受け、モニターの前に釘付けになってしまい、危うくミーティングに遅れるところでした(笑)。「ティン・トイ」には、そのときやっていたデザインや空間、子供の頃から大好きだったアニメーションとストーリーという自分の好きなものが全部入っていたのです。このときまで、手書きの技量がない私はアニメーションをキャリアにすることは考えもしませんでしたが、これなら私にもできるかもと。それに、CGアニメーションが持つ何かキラキラしたものに惹かれ、これは絶対挑戦してみなければと思いました。それから1年半後には仕事を辞め、アメリカに行っていました。
──それほどまでに衝撃的な出会いだったんですね。日本でアニメーターを目指すことは考えなかったんですか?
その頃の日本では、何をどこから始めたらいいのかまったくわからない状態でした。CGグラフィックスを専門的に教えている学校はまだなかったと思いますし、あったとしても、理工系のプログラマー寄りのもので、私が興味を持っていたものとは違いました。アメリカに場所を定めたのは、あの展示にあった作品の多くがカリフォルニアからのもので、アメリカがまさにその時代のCGアニメーションの先端を行っている国だったからです。特にその頃カリフォルニアのベイエリアにあるシリコンバレーでは、グラフィックやアニメーションのソフト、パソコンが次々と開発されていて、ピクサーがあったのもカリフォルニアのベイエリア。そこへ行けば、最新のツールを使って、映画作りという視点からCGアニメーションの勉強ができるのではという期待がありました。子供の頃からアメリカのアニメーションや洋画をよくテレビで観ていて、建国200周年記念で盛り上がっていたアメリカを体感したこともあり、アメリカの文化は昔から好きで憧れていました。自分の勉強したいことがちょうどそこにあったというのも、拍車がかかってしまった理由の1つだと思います。
──展示を見てから1年半後にはアメリカにいたとおっしゃっていましたが、渡米まではスムーズに進んだんですか?
特に問題もなくスムーズに進みました。仕事が行き詰まっていたこともあり、CGアニメーションとの出会いは、突破口が見つかってトンネルの先に光が見えた感じでした。それがあまりにもうれしくて、ろくに考えもせずにアメリカ行きを決意したのが逆によかったようです。いろいろ調べていたら行く前に大変そうなことがわかってしまって、行ってなかったかもしれないですね(笑)。そのほかに、渡米前と直後にすごく助けられたのは、アメリカ人の知り合いがいたことでした。建築事務所で英語を習っていたときの先生がアメリカの方で、渡米当初滞在させていただける現地のお友達を紹介していただいたり、最初の学校を選んだり、その手続きを手伝っていただいたりもしました。今と違って、インターネットもない時代だったので、スムーズに渡米できたのは先生のおかげでした。
渡米直後、泣きながら銀行を飛び出した
──渡米後、最初は学校に通っていたんですか?
はい。日本の義務教育で受けていた英語と、少しやっていた英会話レッスンだけでは、日常会話もままならないレベルだったので、カリフォルニアにあるサンノゼ州立大学の外国人向けの英語のコースに入りました。4年制の大学に応募するためには、世界基準の英語のテストであるTOEFLで一定のスコアを満たす必要があったんです。当初は1学期で済まそうと思っていたんですが、楽しすぎて体に無理がかかっていたのに気付かず病気になっちゃったりして、すぐに計画は崩れてしまい(笑)、結局2学期間通いました。でも、4年制の大学に入る前に1年あったことで英語を勉強しながらアメリカでの生活に慣れることができたので、かえっていい準備期間になったと思います。TOEFLの点数をクリアしたあと、サンフランシスコ州立大学に入学しました。社会に出たとき、ほかのアメリカ人と少しでも近い目線でものを見たくて、どうしても4年制の大学で一般教育を受けたかったので、とてもうれしかったです。
──英語の苦労話などがあったら教えてください。
最初の頃は生活していく中でも言語の面で苦労しました。今話していて思い出した一件は、渡米して1カ月目に銀行口座を開こうとしたときのことです。アメリカ人の友達に一緒に来てもらえばよかったのに「それぐらいできるでしょ」と高を括って1人で銀行に乗り込んでしまい、痛い目に遭いました。アメリカの銀行のシステムがわからないうえに、専門用語がまったく理解できず、係のおばさんにため息はつかれるわ、呆れた顔で「Oh, my god!」なんて呟かれてしまうわで、自尊心はズタズタに。あのときは本当に悔しくて、泣きながら銀行を飛び出したのを覚えてます。今は、そんなひどい扱いをされたらすぐにその人の上司に苦情を言ってやれる英語力になっています(笑)。
大学に入学したあとも英語はどんどん大変になる一方で、毎日の勉強で遊ぶ暇なんてまったくありませんでした。特に「面白そうだなー」と軽い気持ちで受けた考古学や美術史のクラスは、またまた専門用語地獄だったり(笑)。あの2クラスの成績が足を引っ張ったGPA(成績の評価値)は、デザイン、アート、技術系の腕で勝負するクラスで挽回し、無事卒業できました。
──大学生活の中で文化の違いを感じたりはしましたか?
はい、それはすごく感じました。特にクラス内で発表したり、発言したりするときです。アメリカの学校では小さい頃から当たり前のようにプレゼンをやっているので、自然と人前で話すことに慣れている人が多いんです。最近は変わってきているかもしれませんが、私が子供の頃の日本ではそういう機会は数えるほどしかありませんでした。そもそも英語で話すこと自体が大変だったので、クラスの生徒の前でプレゼンをするのは緊張でおなかを壊しちゃうくらい苦痛で。ただ、徐々に気付いていったのは、ほかの生徒が堂々と手を挙げて質問したり発言している内容が大した内容じゃないことも多いということ。それでも先生や生徒は批判的にならないで、普通に受け入れてるんです。
──いい意味でみんな気にしてないんですね。
そうなんです(笑)。それに気が付いたら、少し気が楽になったのと同時に、そこがアメリカのいい部分だということもわかりました。どんなに自由な意見や質問も受け入れるポジティブな環境は、生徒が考えを言語化する能力を身に付けるいいトレーニングになるし、意見を出し合うことで、みんなでよりよいものを生み出す可能性が増える、ブレインストーミング的な効果があると思いました。
──サンフランシスコ州立大学を卒業したあとは、アカデミー・オブ・アート大学の大学院に入学されていますね。より専門的にCGを学ぶためでしょうか?
そうです。州立大学でもCGのクラスは取りましたが、入門級のクラスしかなく、自分の技能が目指していた仕事に就くようなレベルには達していなかったんです。資金がある私立のアカデミーは州立大とは大きく違い、最先端のパソコン機材やソフトがふんだんにあり、専門のクラスやサポートも充実していたので、やっとここでCGアニメーションの勉強に専念することができたのです。ピクサーのアニメーターが教えるクラスが取れたり、自分の目標に近付いているのが感じられました。卒業制作の短編CGアニメーション「Hello, Dolly!(原題)」がSIGGRAPHという毎年行われるCGのカンファレンスで入選したのをきっかけに、今まで応募していたけど返事がなかったPDI / ドリームワークス(※)から数時間で連絡が来て、即面接、合格と、トントン拍子にことが進み、入社することができました。
※PDI=パシフィック・データ・イメージズは1980年創業のCGアニメーション制作会社。2000年にドリームワークスに完全売却されPDI / ドリームワークスとなった。
ドリームワークスを選んだ理由は「近かったから」
──最初にドリームワークスを選んだ理由はなんだったんですか?
PDI / ドリームワークスが住んでた場所から近かったからというのが、直接の理由でした。
──「SLAM DUNK」の流川みたいですね(笑)。
(笑)。もちろん当時公開された「シュレック」(2001年)がすごく面白かったからというのもあります。一般道で片道15分だったので、朝から夜中まで仕事場にいても、それほど苦になりませんでした。当時のピクサーは、今の場所よりもさらに遠くにあって、通勤圏ギリギリの距離。今現在の場所ですら、片道60kmくらいの距離を高速道路を使って45分から1時間掛けて通っています。今考えると、ピクサーは距離も遠かったし、憧れが強すぎて、あんなにすごい会社には入れる訳がないって、思い込んでいたのかもしれません。
──ドリームワークスには2001年から2016年まで、約15年半在籍されています。どんな思い出がありますか?
ほとんどが楽しい思い出ばかりです。私が入社した直後、「シュレック」が2002年の第74回アカデミー賞で長編アニメーション賞を受賞しました。私はまだ何も始めていないのに社内の受賞パーティに参加したり、まったく関係のないオスカー像を持って写真を撮ってもらったりと、会社全体がお祝いムードの絶好調の中で始まったキャリアでした。CGアニメーション業界もどんどん新しいものが出てきて盛り上がっていた時代だったと思います。私が入社した当時のPDIは、ドリームワークスという大きな会社に買収されたばかりだったので、小さな会社として始まった頃の和気あいあいとした感じがまだ残っていました。毎週金曜のお昼には、駐車場にBBQコンロを出して、PDIの所長さんや古株の人たちが交代で焼いてくれたハンバーガーを家族も参加でいただいたり、仕事の初日に廊下でバッタリ会った偉いプロデューサーさんがもう私の名前を覚えていてくれたり。「アメリカの会社ってこんな感じなんだ!」とワクワクする毎日でした。
そんな楽しかった思い出も永遠には続かず、ドリームワークスがコムキャスト / ユニバーサルに買収されて、PDI / ドリームワークスだったベイエリアの支部(当時約600人勤務)が閉鎖されてしまいました。この業界ではよくあることなのですが、私にとっては初めての経験だったので、家族のように一緒に作品を作ってきた人たちと別れるのは、とてもつらいことでした。
──アニメーターとしての仕事はいかがでしたか?
小さなつまずきはあちこちにあったとはいえ、わりと順調にスタートできたと思います。PDI / ドリームワークスで最初に配属された部署は、CMと実写映画のエフェクトのチームでした。まるで会社の中にある小さな会社のように、数本のプロジェクトを6人のアニメーターで並行してこなしていました。当時、映画部門側の完成パーティは約1年半に1度。私の部署は、3カ月ほどのスパンでプロジェクトが1本終わるごとに打ち上げパーティがあって、“Work hard, play hard(仕事も遊びもとことんやる)”を地で行くチームでした。短期間でいろいろなキャラクターやスタイルのアニメーションを作れたことは、とてもいい勉強にもなりました。映画部門の厳しさがわかってきたのは、入社1年目に手がけた、米ユニバーサル・スタジオにあったアトラクション用の「シュレック 4-D」の制作中です。どうやってもうまくいかないショットがあったとき、映画部門のベテランのアニメーターにアドバイスをもらおうと見てもらったら、初めに「クソだね」と一言。それがわかってるから聞いてるのに!と内心悔しいやら、悲しいやらで、彼がデスクから立ち去ったあと、思わず涙が出ましたが、めげずにそのショットの手直しを続けて、やっと満足できるレベルまで持って行くことができました。のちにその人は誰にでも歯に衣着せぬ物言いをすることで有名だと知ったので、まったく恨んではいません(笑)。逆に彼のおかげで、がんばってこられたのかもしれません。
その後の映画部門では、「シュレック」の2、3や「マダガスカル」の1~3などに参加させていただきました。「シュレック2」(2004年)は私の初映画作品だったこともあり、今まで手がけた映画の中で一番心に残っている作品です。制作中も新しい絵コンテがアニメーターに送られてくるたびにみんなで大笑いしてしまっていたぐらい面白い作品だったので、動きを付けていても楽しかったし、完成作品も好評で、記録的な興行収入を打ち出せたのもとてもうれしかったです。
あれからもう何年にもなりますが、実を言うとアニメーションの仕事は、若い頃がむしゃらに楽しいの一辺倒でやっていたときと違って、今は精神的に大変になってきている感じがします。長年やってきたからこそなのか、常に実際の自分の技量と理想のレベルにギャップを感じてしまうのです。特にピクサーのようなCGアニメーション業界のトップの会社にいたら、周りは世界レベルのアニメーターばかりで、そう感じるのも無理はないのかもしれません。でも考えてみたら、そんな環境で自分のスキルを磨き続けられるのは、本当にラッキーなことなので、その気持ちをポジティブな方向に持っていって、鍛錬し続けるように自分に言い聞かせています。
ピクサーの方針は100年後に観ても楽しめるものを作ること
──ドリームワークス退社後は、VRコンテンツを制作するペンローズ・スタジオなどを経て、2021年にピクサーに入社されています。働いている人の印象や職場環境はいかがですか?
ピクサーに入ってまず気が付いたのは、会社全体にポジティブな雰囲気が満ちあふれていることです。この会社のスタッフは、どのポジションの人でも才能があってものすごい人たちばかり。中にはこの道30年以上の、CG業界を立ち上げたと言っても過言でないような人たちもいます。それなのに誰も偉ぶるところがなく、親切でオープンで、お互いに助け合ってみんなで会社全体を盛り上げていこうとしているエネルギーが1人ひとりから伝わってくるのです。キャンパスもとてもきれいで、建物の中は明るくて開放的。デザインの監修をしたスティーブ・ジョブズのこだわりがあちこちに見えるんですよ。ジムやプール、バスケットボールとビーチバレーのコート、ヤシの木の下でBBQができるところもあったりして、スタッフが息抜きできる施設も充分に設けてくれています。福利厚生も充実していて、会社側がスタッフのケアと仕事をしやすい環境作りをがんばってくれているなと思いました。
コロナ禍で立ち上がったリモートのシステムは、今でもハイブリッドという形で残されていて、最低でも週3~4日の会社出勤であとは在宅と、家族がいる人たちでもフレキシブルな時間帯で仕事ができるようになっています。昔のように徹夜や週末の休みがまったくない状態が何カ月も続いたりということはなく、いろいろな面で仕事と生活のバランスが取りやすいよう、配慮してくれています。私が働き始めた少し前から重要視され始めていた多様性や包摂性の件もあって、ピクサーではそれ以前にも増して、性別、人種、国籍、年齢などの幅を広げて雇用しています。今まで私がいたどの会社よりも女性のアニメーターが多く、スーパーバイザーやリード、アニメーションの部署のリーダーにも女性が多くいるのもこの会社の特徴です。
──本当にいい会社であることが伝わってきますし、ジムやプールはうらやましいです(笑)。ピクサーの作品を観たときに「こういう人たちが作っていそうだな」と浮かぶイメージとずれがないようにも感じます。
あ、その感想は初めていただきました。言われてみればそうだと思います。優しい人たちや、意識を高く持っている人たちが多いから、メッセージ色がある心温まる作品が多いのかもしれません。確かに言えることは、ピクサーのスタッフは純粋に映画作りが好きな人ばかりで、観客の心を動かすような作品を作りたいという素直な熱意が1本1本の作品に表れているということです。
──星さんは8月4日に日本公開された「マイ・エレメント」でもアニメーターを務めていますが、どのシーンを担当されたんでしょうか?
主人公である火のエレメントのエンバーがお父さんのお店のセール日を初めて任されたときに、自分勝手なお客さんたちに翻弄されてしまうシーンや、お父さんがエンバーにお店を受け渡すセレモニーの場面を手がけました。火でできたキャラクターに動きを付けるうえで面白かったことは、今までアニメーションで学んできたことから頭を切り替えなければならないところでした。個体であり重さがある人間のキャラクターに動きを付けるときと違って、火のキャラクターはろうそくの火のように重さがありません。自身の動作や周りの空気の動きによって形が変わったり、体の一部が一瞬消えたり、自分の意志で手足を伸ばしたりもでき、ときには感情によって炎の勢いや温度(色)まで変わるのです。
火や水、風といった固体ではないキャラクターが主役になるのはピクサーでは初めてで、開発の段階から各部署が総出で、各エレメントの特性をキャラクターに盛り込んだアイデアをどうやって技術的に表現できるかを試行錯誤していました。ストーリーの奥深さもさることながら、このピクサーの技術の進歩も見どころと言えるでしょう。とりわけ、そのエレメントのエフェクトや全体のデザインの色彩や光の表し方も今まで以上にきれいなので、ぜひ大画面で観ていただきたいです。さらに世界観が堪能できる3Dで観るのが私のお勧めです。
──これはほかのピクサー作品にも言えることですが、今回もメッセージ性とエンタテインメント性のバランスが絶妙でした。
それがわかっていただけてうれしいです。「マイ・エレメント」はラブストーリーが軸になっていますが、家族のあり方や差別問題、経済格差などの深い問題にも触れていて、観る人によって違った共感ができる部分をいろいろ持ち合わせている映画だと思います。
ピーター・ソーン監督は、韓国系移民の息子としてニューヨークのブロンクスで育った実体験をもとにこの映画のオリジナルのストーリーを書きました。主人公のエンバーのように、大人になってやっと理解ができるようになったご両親の苦労に、感謝の念を込めて制作していた映画だったそうです。これは制作後に聞いた話ですが、残念ながらそのご両親はこの映画の制作中に亡くなってしまい、完成した映画を観ることができませんでした。そういうこともあり、この映画は彼にとって特別に思い入れのある作品になったそうです。制作は全行程で約7年、そのうち4年はストーリーという、ほかのピクサー作品の倍近い時間をストーリーに掛けて制作されました。「100年後にも楽しんで観てもらえる作品を作る」というピクサーの社訓に当てはまる、時代に左右されない題材で、どこの国の誰が観ても理解・共感できる要素が入った作品になったと思います。
──では最後に、将来アメリカでアニメーターとして働きたいと思ったらどうすればいいと思いますか?
学生として始める場合は現地で英語とアニメーションを勉強して、そこから就職活動をするのが一番スムーズにいく方法だとは思いますが、お金と時間が掛かります。私が渡米した時代と違って、今は日本にもCGアニメーションの学校が何校もあるし、パソコンやソフトが自分で買える時代になって、インターネットでCGや英語の勉強ができるようになりました。国内でできるだけのことをしてから現地へ赴くと、だいぶ節約できると思います。
すでに日本でアニメーターとしてのキャリアがある方は、行きたい会社のやっていることと応募するポジションに見合ったデモリール(動画の作品集)を作ることが重要です。もちろんそれと同時に英会話スキルも磨かなければいけません。初めの面接は電話かオンラインなので、すぐに会話力が試されます。入社後、アニメーターの仕事は、監督の意図を理解してアニメーション上でそれを表現すること。デイリーズ(毎日の批評会)で監督やスーパーバイザーが言っていることをしっかり理解して、意見の交換もできなければいけません。それに、アメリカではコミュニケーションに重きを置く傾向があって、発言しないと何も考えていないのではないかと誤解されてしまう可能性もあるのです。
英語がある程度できている状態で、アニメーションの基礎ができあがっているか、すでにキャリアがあるのであれば、働きたいと思っている会社の人が教えているオンラインのアニメーションのクラスを受講するのをお勧めします。日本でも現地でも受講できて、正規の大学や専門学校に行くより短期間で済むし、英語で行われる授業からは、アニメーション業界で使う専門用語も学ぶことができます。おまけにその会社のアニメーションのスタイルも学べるし、先生からその会社の情報を教えてもらえたり、そのクラスでのできによっては、会社に推薦してもらえる可能性もあります。
あと考えておかなければいけないことは、海外で働く場合いつも問題となるビザ関係。アメリカでは近年、景気の悪化とともに労働許可証を出す会社が減ってきているので、いきなりアメリカで就職をするのは難しいかもしれません。その場合、ワーキングホリデーを活用して、カナダやオーストラリア、ニュージーランドのアニメーション会社で経験を積んでから、アメリカの会社に応募するのがいい案かなと思います。
私の場合、本当にやりたいことが今までやっていたことと違うと気が付いたとき、軌道修正して一からやり直せる状況にあったのは、本当にラッキーでした。応援、協力してくれた友達や、金銭的、精神的にサポートしてくれた家族には本当に感謝しています。いろいろ大変なこともあるかもしれませんが、一度きりの人生です。本当にやりたいことが見つかったら、がんばってみる価値はあると思います。今は昔と違って、ゴールに向かう方法はいくつもあるので、やる気と根気さえあれば、なんとか道は開けてくると思います。
──今日はありがとうございました。ピクサー新作の「星つなぎのエリオ」も楽しみにしています。
こちらこそありがとうございました。今日も1日がんばっていきましょう。
星まり子 プロフィール
東京都出身のCGアニメーター。東京の建築事務所でデザイナーとして勤務後、CGアニメーションを学ぶためにアメリカへ渡った。サンフランシスコ州立大学卒業後、アカデミー・オブ・アート大学の大学院へ。そこで制作した「Hello, Dolly!(原題)」をきっかけにPDI / ドリームワークスに入社。約15年半勤務した。2021年にはピクサー・アニメーション・スタジオに入社し、「私ときどきレッサーパンダ」「バズ・ライトイヤー」「マイ・エレメント」を手がける。新作の「星つなぎのエリオ」は2024年春に日本公開。