ユー・ウェイチェン登壇、エドワード・ヤンの映画界デビュー作「1905年の冬」日本初上映
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「1905年の冬」場面写真
香港映画「1905年の冬(デジタルリマスター版)」(原題「一九零五的冬天」)が昨日3月2日に第19回大阪アジアン映画祭内で日本初上映され、大阪のシネ・リーブル梅田で行われたトークイベントに監督のユー・ウェイチェン(余為政)、評論家で映画監督でもあるラウ・シンホン(劉成漢)が登壇した。
共同脚本を手がけたエドワード・ヤンにとって映画界デビューを果たした記念碑的な作品である本作。日露戦争の時代に、中国から日本に留学してきた青年・李維儂の人生が、革命家の友人や恋仲になった日本人女性らとの関わりの中で揺らいでいくさまが描かれる。白磁陶芸家としても知られるハインリック・ワン(王俠軍)が西洋絵画と音楽を学ぶために日本にやってきた李維儂を演じ、彼の友人・趙年にツイ・ハーク(徐克)が扮した。
実在の人物・李叔同(弘一)がモデルとなっている本作。ユー・ウェイチェンは「彼の伝記本を読んで、映画化したいと思ったんです。私もエドワード・ヤンさんも留学経験があります。だから海外にいる中国人留学生の気持ちがとてもわかるんです」と述べる。そして、日本で全体の70%程度を撮影したことに触れ「最後のシーンはクランクインの日に、日本の飛騨高山で撮影しました。なぜあのシーンを撮りたかったのか? この作品で描きたかったテーマは“人生というのはときに幻滅するもの”ということです。この物語の5年後に辛亥革命が起きます。しかし主人公たちは5年後の中国を予見できなかった。そういったことを意識してああいうエンディングにしました。大きな時代がこれからやってくるけれど、人間の力は限られていて、未来を予見することはできなかったんです」と語る。
ラウ・シンホンは「この映画は1980年代に作られた作品。当時の香港映画、台湾映画、中国映画を見ても、異質な存在だと言って過言ではないと思います。真面目でシリアスな態度で歴史問題を扱っている。撮影の手法もいわゆるアートムービーのようなもの。今観ても新鮮に感じます。とても大切で重要な作品です」と言及する。これを受けたユー・ウェイチェンは「僕からするとアートムービーとは言えないんですが、ただおっしゃる通り、真面目に制作した作品です」と同意した。
イベント中盤には、観客から劇中のいくつかのシーンでエドワード・ヤンの監督作を感じさせる場面があったという感想が飛ぶ場面も。ユー・ウェイチェンは「あのシーンは僕が書いたんです。エドワード・ヤンさんはずっと僕をまねしているんですよ(笑)」と冗談を飛ばし、「基本的に脚本は私が書いたんですが、彼がいろいろとアイデアを出してくれました」と紹介する。ツイ・ハークが演じた革命家・趙年のキャラクター設定はエドワード・ヤンのアイデアだったそうで「テロリストというと言い過ぎかもしれませんが、そのような人物を登場させたほうがいいという話になったんです。実際に登場させたら、ほかの人の芝居をみんな食ってしまいました」と語った。
また、ユー・ウェイチェンが「エドワード・ヤンさんは、この映画に関わる前はあまり日本映画は観ていなかったんです。この作品がきっかけとなって、その後たくさんの日本映画を観るようになりました」と振り返ると、司会から「この作品が、台湾ニューウェーブに直接影響を及ぼしているということですよね?」と質問が。ユー・ウェイチェンは「残念なことに台湾ニューウェーブのほとんどの監督が、この映画を観たことがないと思います。むしろ香港の監督たちがよく観ている」と述べ、「エドワード・ヤンさんがこの映画に携わったあと、私が彼を台湾映画界に紹介したんです。そしてまず台湾でテレビ映画を作った。それがおそらく台湾ニューウェーブの始まりだったと思います」と述懐する。「ただ残念ながら、当時私はアニメ制作に没頭していて、映画制作には関わっていなかったんです」「私の得意分野はアニメと映画です。2つの専門分野を持つことによって悩みも増えました。映画は愛人でアニメは妻。日常生活には妻が必要です」と言って、会場を笑わせた。
最後にユー・ウェイチェンは「時間が経つのは早く、あっという間に40年が経ちました。今日このように皆さんの前でいろいろな話ができて感無量です」と伝えた。
第19回大阪アジアン映画祭は大阪・ABCホール、シネ・リーブル梅田、T・ジョイ梅田、大阪中之島美術館にて3月10日まで開催される。
第19回大阪アジアン映画祭
2024年3月1日(金)~10日(日)大阪府 ABCホール、シネ・リーブル梅田、T・ジョイ梅田、大阪中之島美術館